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■第一話 本当のストーカーは誰?
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「あ、廻進堂の羊羹なら、俺もよく作家先生の差し入れに使わせてもらってます。美味いんですよね~、これが。バクバクいけちゃうっていうか。羊羹は廻進堂のものしか受け取らない先生も多いんですよ。俺、頂いちゃってもいいですか?」
廻進堂と聞いて瞳をらんらんと輝かせた櫻田が、バクバクなんていう、なんともおぞましい食べ方を披露しながら竹林にすり寄る。こういうところは、日々たくさんの人と関わっている編集者ならではの対人スキルなのだろう。が、羊羹はちびちび食べるから美味しいのであって、バクバク食べたら味わいも何もないじゃないかとちひろは思う。
「もちろん、いいですよ。さ、斎藤さんもどうぞ。休憩にしましょう」
しかし、大好物を目の前にして見栄を張る度胸はちひろにはなかった。給料日はまだまだ先、先月の給料日に買った羊羹は、大切に大切に食べたが、もう食べきってしまった。タダで大好物が食べられるこの機会をどうしても逃すわけにはいかないのだ。
「……は、はい」
ちひろは心に完敗の白旗を立てながら渋々と首肯する。櫻田とお茶を飲むのは嫌だけれど、廻進堂の羊羹のため、背に腹は代えられない。それに竹林も同席するなら、電話をかけろだのなんだのと櫻田もしつこく言ってはこないだろう。
そう高を括り、客なんて来たことのない応接セットのほうへ三人で向かう。応接テーブルにはすでに三人分のお茶と栗羊羹が並べられていて、お茶からは湯気が立っていた。
竹林の隣にちひろ、向かいに櫻田、という形で座ると、櫻田はまず二切れある羊羹の一つをなんの躊躇いもなく一口で口に放り込んだ。お茶に口を付けようとしていたちひろが思わず「ああっ」とソファーから身を乗り出すくらい、本当に素早い一口だった。
「……なんだよ?」
「い、いえ」
「斎藤さんはこの羊羹が大好きなんですよ。入社したての頃でしょうか、初めてこれを食べた斎藤さんの美味しさにとろけきった顔が印象的で。普段は無口ですけど、そういう人だからこその裏表のない本当の表情というのは、強烈なインパクトを放つんですよねぇ」
「へぇ~」
口をもぐもぐさせながらちひろに怪訝な表情を向けた櫻田に、部長が説明する。
そんなに顔に出ていたとは夢にも思わなかった。というか恥ずかしいからやめてくれ。
「たぶん斎藤さんは、一口でパクリといってしまったあなたの食べ方に、思わず声が出てしまったんだと思いますよ。ほいほい買える値段じゃありませんしね」
「ほぉ~。そうなんですかぁ~」
しかし竹林は、ちひろの知る限り初めての客人に年甲斐もなくはしゃいでいるのか、なかなか口が止まらない。余計なことを言うなと思う。黙ってお茶でも飲んでいろ。
けれどちひろは、そこで元来竹林はおしゃべりな人なのかもしれないと初めて気づく。
普段の校閲部は、ヘッドフォンだったり耳栓だったりを付け、外の音をシャットアウトして黙々と活字を追っている、ものすごく静かな部署だ。ここの変人たちの性格も、ちひろと似たり寄ったり――つまり煩わしい人間関係を嫌う人が多い。
でも竹林は、そんな変人たちの集まりの中でも、それなりに世間話をしたり、お茶を飲んだり、ずっとしたかったのかもしれない。ちひろは活字さえあれば生きていけるが、竹林のそれが普通の感覚というものだろう。今まで知らず知らずのうちに悪いことをしゃっていたのかな。ちひろはこの二年を反省する。
これからは廻進堂の羊羹がなくても少しずつ部長の世間話に付き合ってみようか。楽しそうな竹林を見て、考えを改めた。
「校閲部は変わり者が多いですけど、仕事は一切手を抜かない、エキスパートたちの集まりです。私はこの静かな空間を誇りに思っているんですよ。静かであればあるほど、校閲部のみなさんの集中力が研ぎ澄まされているという証拠ですからね」
「なるほどぉ~」
嬉しいことを言ってくれるじゃないかと思いつつ、ようやくお茶に口をつけながら興味深そうに相づちを打つ櫻田をちらりと見る。これでさっき「態度が悪い」と言ったことを反省してくれるだろうか。正直ムッっとなっていたから、これで少しは清々した。
「――で、さっき話していた早峰カズキの原稿のことなんですけど」
「あ、はい」
話が切り替わると、片手で湯飲みを持ち、ズズズーとお茶をすすっていた櫻田が居住まいを正した。ちひろが怠慢を見破ったように竹林からもそれを指摘されると思ったのかもしれない。バツの悪そうな表情を浮かべている櫻田の目は、少しだけ泳いでいる。
「実はさっき、事情は明かせないが『抹消(仮)』の出版を取りやめてほしい、と早峰カズキ本人から電話があったんです。編集部に直接電話があったそうなんですけど、あいにく担当編集が――つまり櫻田君が校閲部に行っていると言うと、そこに取り次いでくれと言われたそうで。でもこちらも手が離せない状況でしたから。代わりに私が電話を受けたんですが、校閲部ですと名乗るが早いか、一方的にそれだけを言って電話を切られてしまいましてね。とりあえず、お茶でも飲もうと思って準備したんです」
けれど、竹林の話を聞いているうちに櫻田の目が驚きに見開かれていった。ちひろも竹林の横で大きく目を見張る。第二稿まで進んでいながら出版を取りやめてほしいとは、一体どういうことだろうか。いや、それ以前に明かせない〝事情〟とは何だろう?
「ていうか、早峰カズキ本人からの電話なら、なんでそのときに俺に取り次いでくれなかったんですか! こいつとの話なんてどうでもいいでしょう!」
立ち上がった櫻田が、向かいのソファーから真っ直ぐにちひろを指さし声を荒げる。
言い方は腹が立つし指を指すなと言いたいが、確かにそうだ。職務怠慢を指摘され、頼んでもいないのに勝手に白状するより、たとえ原稿に目を通していなくても早峰カズキ本人からの電話を受けるほうが担当編集として仕事をしていると言えなくもない。
それを一方的に電話を切られたからとはいえ、すぐに櫻田に言わない部長も部長だと、櫻田は怒っているのだ。お茶を煎れ、羊羹を切り、世間話のついでみたいに最も重要なことを言うなんて、櫻田にとって悔やまれる時間のロスなのだろう。
……たとえ原稿に目を通していなくても。
「期日までに原稿が上がらなくて、編集部に一本『無理でした』って電話を入れたっきり連絡手段を絶とうとする作家もいるんだよ……。こっちは契約書を交わすときに本名とか住所とかいろいろ書いてもらうから、別に訪ねていけばいいだけの話なんだけど。でも、ここまでやっておいてそれはないだろ、早峰カズキ……。自由にしていいのは小説の中身だけ! 出版を取りやめたいだなんだって、そこまで自由にしていいとは言ってない! 編集長に報告すんの俺じゃんか。マジ最悪! マジあり得ない!」
うわ、とんでもないことになってきた……。他人事のように思っていると、櫻田の怒りは今度は早峰カズキに向いたようだった。漫画のワンシーンのように頭を抱えて天井を仰ぎ、編集者あるあるを挟みながら、最終的に〝責められるのは俺〟に行き着く。
まあ確かに、早峰カズキが出版したくないと言い出したことを編集長に告げるのは、とんでもなく言い出しにくいことなのだろうと同情はする。そのことは、第二稿の校閲まではじまっている校閲部にとっても、けっこうな打撃となることは事実だ。
でもこれは、どう同情の余地を汲んでも櫻田が悪い。早峰カズキの〝明かせない事情〟というのも関係してはいるだろうけれど、こまめにフォローしていたら。第一稿が上がってきた時点で変だなと気づいていれば。こうなる前に防げただろう。
「……編集さんがちゃんとフォローしないから、こういうことになるんですよ」
隣の竹林にも聞き取れないほどの声で言い、ちひろは栗羊羹に爪楊枝を指した。小さく小さく切ったそれを口に入れ、廻進堂羊羹のあまりの美味しさに頬を緩める。こんなときでも廻進堂の羊羹は絶品だ。もう一切れ口に入れて、存分にその舌触りを味わう。
「おい、なに呑気に羊羹なんか食ってんだよ」
それに気づいた櫻田が、くわっとちひろのほうを向く。焦りと怒りと編集長に事情を話さなければいけない恐怖でその顔は引きつっており、爽やかさの欠片もない。
「いけませんか?」
「いいわけないだろ。今すぐ早峰カズキの自宅に行って詳しい事情を聞くんだよ」
「はあ。どうぞ行ってきてください」
「お前も行くの! 俺と! 一緒に! だからもう食うなっ!」
「……なっ、なんでですかっ」
「一人じゃ嫌だからに決まってんだろ。空気を読め、バカ!」
「――ごほっ」
危うく栗の甘露煮の塊を喉に詰まらせるかと思った。驚きのあまりひゅっと息を吸い込んだ途端、舌の上で転がっていた甘露煮が喉の奥へ滑っていってしまったのだ。
「斎藤さん、大丈夫ですか?」
湯飲みを差し出してくれた竹林からそれを受け取り、喉に引っ掛かった甘露煮を無理やり奥へ流し込む。味わう前に消えてしまった甘露煮が非常に惜しい。廻進堂の羊羹に目がないちひろは、むせて涙目になった目できつく櫻田を睨む。食べ物の恨みは深いのだ。
「な、なんだよ」
「……いえ、なんでも」
どうせ櫻田にはわかるまい。簡単に一切れを口に放り込むような人には。
というか、なんという自分勝手な言い分なんだろうか。一人じゃ嫌だからって、関係のない校閲部の人間を連れて行ったところで、どうこうなるわけでもないだろう。それなら包み隠さず編集長に話して同行してもらったほうが、よほど得策だ。
編集長に話したくない気持ちもわからないでもないけれど、すべては櫻田のちっぽけなプライドと怠慢な仕事ぶりが招いたことだ。校閲部は今、人手が足りないんだから、幼稚な理由で連れ出そうとするのはやめてほしい。外出する校閲なんているものか。
「……じゃあ、廻進堂の羊羹、十本買ってやる、って言ったらどうだ?」
「っ」
「そういえば廻進堂って、もなかも最高に美味いんだよな~。胡麻だろ、白餡だろ、粒餡の大納言に、季節限定の桜餡とか、苺餡とか。でもこれも高いんだよな~」
「……っ」
しかし櫻田は一歩も引く気はないようだった。にやにやと笑いながら、もなかの種類をもったいぶるように指を折って挙げつつ、ちらちらとちひろの顔色を窺ってくる。
その瞬間、ちひろの中で、そんなものに釣られてたまるかという自分と、今すぐにでも羊羹やもなかに飛びついてしまいそうな自分が激しく衝突する。ちひろは老舗和菓子店の廻進堂のものなら、なんでも好きだ。どうやら櫻田はそれに目を付けたらしく、姑息な手を使ってちひろに首を縦に振らせようとしているらしい。
「どうする? どうする~?」
「ぐっ」
「自分じゃ高くて買えないんだよ~? でも食べたいでしょ~?」
けれど、櫻田には陥落は時間の問題だという確信があるのだろう。さっきまでは竹林や早峰カズキに怒りをあらわにしていたのに、今の顔は単なる腹の立つ小学生だ。
でも、羊羹十本も、もなかも非常に惜しい。一度、櫻田に付いて行ったらそれを買ってもらえるという条件もかなり魅力的だ。それにまだ今年の季節限定の桜餡も苺餡も食べていない。残念なことに、いつ店舗に行っても売り切れなのだ。そうこうしている間に、今度は初夏限定のさくらんぼ餡のもなかが出はじめる。真夏には水羊羹だって……。
「……わ、わかりました。羊羹は五本でいいです。その代わり、春季限定のもなかを買ってください。もうすぐ販売が終わってしまうんです。それまでに食べさせてください」
「おっしゃ!」
高々とガッツポーズをする櫻田の向かいで、ちひろは額に手を当て、深いため息をついた。手の内が丸わかりな姑息な手に釣られるものかと頑張ってはみたが、こうも簡単に落ちてしまうとは、ちょっと想像すらしていなかった。それほどちひろの中で廻進堂の和菓子は強いということなのだろう。……自分でも驚きの新事実だった。
「こいつもこう言ってることですし、借りてってもいいですよね?」
「はい。こちらのことはお気になさらず」
「ありがとうございます!」
嬉々として竹林に深々と頭を下げた櫻田は、顔を上げたときにはもう、爽やか好青年全開だった。さっきは竹林にも噛みつく勢いだったというのに、調子のいい男である。
その後ちひろは、「ちびちび食うな」と急かす櫻田の声を完全にシャットアウトし、自分のペースで心ゆくまで栗羊羹を堪能したあと、約束をすっぽかされたらたまらないと思い、竹林の見ている前で【斎藤ちひろに羊羹五本と春季限定のもなかを買う】という念書を書かせた。今はハンコを持っていないと言うので、名前の横に拇印も押させる。
「……よし」
「おいおい、そんなに俺は信用ならない男なのか?」
「ね、念には念を、です」
「あっそ……」
満足げに念書を眺めるちひろを見て、櫻田が何とも言えないため息をこぼす。怠慢で調子のいい男、というのが、ちひろが櫻田に持つ印象だ。当の櫻田は「そこまですることないじゃん」と不服そうに唇を尖らせているが、そう簡単に印象は変わらない。念書どおり付き添いの報酬をちゃんと持ってきてくれれば、多少良くなるかもしれないけれど。
廻進堂と聞いて瞳をらんらんと輝かせた櫻田が、バクバクなんていう、なんともおぞましい食べ方を披露しながら竹林にすり寄る。こういうところは、日々たくさんの人と関わっている編集者ならではの対人スキルなのだろう。が、羊羹はちびちび食べるから美味しいのであって、バクバク食べたら味わいも何もないじゃないかとちひろは思う。
「もちろん、いいですよ。さ、斎藤さんもどうぞ。休憩にしましょう」
しかし、大好物を目の前にして見栄を張る度胸はちひろにはなかった。給料日はまだまだ先、先月の給料日に買った羊羹は、大切に大切に食べたが、もう食べきってしまった。タダで大好物が食べられるこの機会をどうしても逃すわけにはいかないのだ。
「……は、はい」
ちひろは心に完敗の白旗を立てながら渋々と首肯する。櫻田とお茶を飲むのは嫌だけれど、廻進堂の羊羹のため、背に腹は代えられない。それに竹林も同席するなら、電話をかけろだのなんだのと櫻田もしつこく言ってはこないだろう。
そう高を括り、客なんて来たことのない応接セットのほうへ三人で向かう。応接テーブルにはすでに三人分のお茶と栗羊羹が並べられていて、お茶からは湯気が立っていた。
竹林の隣にちひろ、向かいに櫻田、という形で座ると、櫻田はまず二切れある羊羹の一つをなんの躊躇いもなく一口で口に放り込んだ。お茶に口を付けようとしていたちひろが思わず「ああっ」とソファーから身を乗り出すくらい、本当に素早い一口だった。
「……なんだよ?」
「い、いえ」
「斎藤さんはこの羊羹が大好きなんですよ。入社したての頃でしょうか、初めてこれを食べた斎藤さんの美味しさにとろけきった顔が印象的で。普段は無口ですけど、そういう人だからこその裏表のない本当の表情というのは、強烈なインパクトを放つんですよねぇ」
「へぇ~」
口をもぐもぐさせながらちひろに怪訝な表情を向けた櫻田に、部長が説明する。
そんなに顔に出ていたとは夢にも思わなかった。というか恥ずかしいからやめてくれ。
「たぶん斎藤さんは、一口でパクリといってしまったあなたの食べ方に、思わず声が出てしまったんだと思いますよ。ほいほい買える値段じゃありませんしね」
「ほぉ~。そうなんですかぁ~」
しかし竹林は、ちひろの知る限り初めての客人に年甲斐もなくはしゃいでいるのか、なかなか口が止まらない。余計なことを言うなと思う。黙ってお茶でも飲んでいろ。
けれどちひろは、そこで元来竹林はおしゃべりな人なのかもしれないと初めて気づく。
普段の校閲部は、ヘッドフォンだったり耳栓だったりを付け、外の音をシャットアウトして黙々と活字を追っている、ものすごく静かな部署だ。ここの変人たちの性格も、ちひろと似たり寄ったり――つまり煩わしい人間関係を嫌う人が多い。
でも竹林は、そんな変人たちの集まりの中でも、それなりに世間話をしたり、お茶を飲んだり、ずっとしたかったのかもしれない。ちひろは活字さえあれば生きていけるが、竹林のそれが普通の感覚というものだろう。今まで知らず知らずのうちに悪いことをしゃっていたのかな。ちひろはこの二年を反省する。
これからは廻進堂の羊羹がなくても少しずつ部長の世間話に付き合ってみようか。楽しそうな竹林を見て、考えを改めた。
「校閲部は変わり者が多いですけど、仕事は一切手を抜かない、エキスパートたちの集まりです。私はこの静かな空間を誇りに思っているんですよ。静かであればあるほど、校閲部のみなさんの集中力が研ぎ澄まされているという証拠ですからね」
「なるほどぉ~」
嬉しいことを言ってくれるじゃないかと思いつつ、ようやくお茶に口をつけながら興味深そうに相づちを打つ櫻田をちらりと見る。これでさっき「態度が悪い」と言ったことを反省してくれるだろうか。正直ムッっとなっていたから、これで少しは清々した。
「――で、さっき話していた早峰カズキの原稿のことなんですけど」
「あ、はい」
話が切り替わると、片手で湯飲みを持ち、ズズズーとお茶をすすっていた櫻田が居住まいを正した。ちひろが怠慢を見破ったように竹林からもそれを指摘されると思ったのかもしれない。バツの悪そうな表情を浮かべている櫻田の目は、少しだけ泳いでいる。
「実はさっき、事情は明かせないが『抹消(仮)』の出版を取りやめてほしい、と早峰カズキ本人から電話があったんです。編集部に直接電話があったそうなんですけど、あいにく担当編集が――つまり櫻田君が校閲部に行っていると言うと、そこに取り次いでくれと言われたそうで。でもこちらも手が離せない状況でしたから。代わりに私が電話を受けたんですが、校閲部ですと名乗るが早いか、一方的にそれだけを言って電話を切られてしまいましてね。とりあえず、お茶でも飲もうと思って準備したんです」
けれど、竹林の話を聞いているうちに櫻田の目が驚きに見開かれていった。ちひろも竹林の横で大きく目を見張る。第二稿まで進んでいながら出版を取りやめてほしいとは、一体どういうことだろうか。いや、それ以前に明かせない〝事情〟とは何だろう?
「ていうか、早峰カズキ本人からの電話なら、なんでそのときに俺に取り次いでくれなかったんですか! こいつとの話なんてどうでもいいでしょう!」
立ち上がった櫻田が、向かいのソファーから真っ直ぐにちひろを指さし声を荒げる。
言い方は腹が立つし指を指すなと言いたいが、確かにそうだ。職務怠慢を指摘され、頼んでもいないのに勝手に白状するより、たとえ原稿に目を通していなくても早峰カズキ本人からの電話を受けるほうが担当編集として仕事をしていると言えなくもない。
それを一方的に電話を切られたからとはいえ、すぐに櫻田に言わない部長も部長だと、櫻田は怒っているのだ。お茶を煎れ、羊羹を切り、世間話のついでみたいに最も重要なことを言うなんて、櫻田にとって悔やまれる時間のロスなのだろう。
……たとえ原稿に目を通していなくても。
「期日までに原稿が上がらなくて、編集部に一本『無理でした』って電話を入れたっきり連絡手段を絶とうとする作家もいるんだよ……。こっちは契約書を交わすときに本名とか住所とかいろいろ書いてもらうから、別に訪ねていけばいいだけの話なんだけど。でも、ここまでやっておいてそれはないだろ、早峰カズキ……。自由にしていいのは小説の中身だけ! 出版を取りやめたいだなんだって、そこまで自由にしていいとは言ってない! 編集長に報告すんの俺じゃんか。マジ最悪! マジあり得ない!」
うわ、とんでもないことになってきた……。他人事のように思っていると、櫻田の怒りは今度は早峰カズキに向いたようだった。漫画のワンシーンのように頭を抱えて天井を仰ぎ、編集者あるあるを挟みながら、最終的に〝責められるのは俺〟に行き着く。
まあ確かに、早峰カズキが出版したくないと言い出したことを編集長に告げるのは、とんでもなく言い出しにくいことなのだろうと同情はする。そのことは、第二稿の校閲まではじまっている校閲部にとっても、けっこうな打撃となることは事実だ。
でもこれは、どう同情の余地を汲んでも櫻田が悪い。早峰カズキの〝明かせない事情〟というのも関係してはいるだろうけれど、こまめにフォローしていたら。第一稿が上がってきた時点で変だなと気づいていれば。こうなる前に防げただろう。
「……編集さんがちゃんとフォローしないから、こういうことになるんですよ」
隣の竹林にも聞き取れないほどの声で言い、ちひろは栗羊羹に爪楊枝を指した。小さく小さく切ったそれを口に入れ、廻進堂羊羹のあまりの美味しさに頬を緩める。こんなときでも廻進堂の羊羹は絶品だ。もう一切れ口に入れて、存分にその舌触りを味わう。
「おい、なに呑気に羊羹なんか食ってんだよ」
それに気づいた櫻田が、くわっとちひろのほうを向く。焦りと怒りと編集長に事情を話さなければいけない恐怖でその顔は引きつっており、爽やかさの欠片もない。
「いけませんか?」
「いいわけないだろ。今すぐ早峰カズキの自宅に行って詳しい事情を聞くんだよ」
「はあ。どうぞ行ってきてください」
「お前も行くの! 俺と! 一緒に! だからもう食うなっ!」
「……なっ、なんでですかっ」
「一人じゃ嫌だからに決まってんだろ。空気を読め、バカ!」
「――ごほっ」
危うく栗の甘露煮の塊を喉に詰まらせるかと思った。驚きのあまりひゅっと息を吸い込んだ途端、舌の上で転がっていた甘露煮が喉の奥へ滑っていってしまったのだ。
「斎藤さん、大丈夫ですか?」
湯飲みを差し出してくれた竹林からそれを受け取り、喉に引っ掛かった甘露煮を無理やり奥へ流し込む。味わう前に消えてしまった甘露煮が非常に惜しい。廻進堂の羊羹に目がないちひろは、むせて涙目になった目できつく櫻田を睨む。食べ物の恨みは深いのだ。
「な、なんだよ」
「……いえ、なんでも」
どうせ櫻田にはわかるまい。簡単に一切れを口に放り込むような人には。
というか、なんという自分勝手な言い分なんだろうか。一人じゃ嫌だからって、関係のない校閲部の人間を連れて行ったところで、どうこうなるわけでもないだろう。それなら包み隠さず編集長に話して同行してもらったほうが、よほど得策だ。
編集長に話したくない気持ちもわからないでもないけれど、すべては櫻田のちっぽけなプライドと怠慢な仕事ぶりが招いたことだ。校閲部は今、人手が足りないんだから、幼稚な理由で連れ出そうとするのはやめてほしい。外出する校閲なんているものか。
「……じゃあ、廻進堂の羊羹、十本買ってやる、って言ったらどうだ?」
「っ」
「そういえば廻進堂って、もなかも最高に美味いんだよな~。胡麻だろ、白餡だろ、粒餡の大納言に、季節限定の桜餡とか、苺餡とか。でもこれも高いんだよな~」
「……っ」
しかし櫻田は一歩も引く気はないようだった。にやにやと笑いながら、もなかの種類をもったいぶるように指を折って挙げつつ、ちらちらとちひろの顔色を窺ってくる。
その瞬間、ちひろの中で、そんなものに釣られてたまるかという自分と、今すぐにでも羊羹やもなかに飛びついてしまいそうな自分が激しく衝突する。ちひろは老舗和菓子店の廻進堂のものなら、なんでも好きだ。どうやら櫻田はそれに目を付けたらしく、姑息な手を使ってちひろに首を縦に振らせようとしているらしい。
「どうする? どうする~?」
「ぐっ」
「自分じゃ高くて買えないんだよ~? でも食べたいでしょ~?」
けれど、櫻田には陥落は時間の問題だという確信があるのだろう。さっきまでは竹林や早峰カズキに怒りをあらわにしていたのに、今の顔は単なる腹の立つ小学生だ。
でも、羊羹十本も、もなかも非常に惜しい。一度、櫻田に付いて行ったらそれを買ってもらえるという条件もかなり魅力的だ。それにまだ今年の季節限定の桜餡も苺餡も食べていない。残念なことに、いつ店舗に行っても売り切れなのだ。そうこうしている間に、今度は初夏限定のさくらんぼ餡のもなかが出はじめる。真夏には水羊羹だって……。
「……わ、わかりました。羊羹は五本でいいです。その代わり、春季限定のもなかを買ってください。もうすぐ販売が終わってしまうんです。それまでに食べさせてください」
「おっしゃ!」
高々とガッツポーズをする櫻田の向かいで、ちひろは額に手を当て、深いため息をついた。手の内が丸わかりな姑息な手に釣られるものかと頑張ってはみたが、こうも簡単に落ちてしまうとは、ちょっと想像すらしていなかった。それほどちひろの中で廻進堂の和菓子は強いということなのだろう。……自分でも驚きの新事実だった。
「こいつもこう言ってることですし、借りてってもいいですよね?」
「はい。こちらのことはお気になさらず」
「ありがとうございます!」
嬉々として竹林に深々と頭を下げた櫻田は、顔を上げたときにはもう、爽やか好青年全開だった。さっきは竹林にも噛みつく勢いだったというのに、調子のいい男である。
その後ちひろは、「ちびちび食うな」と急かす櫻田の声を完全にシャットアウトし、自分のペースで心ゆくまで栗羊羹を堪能したあと、約束をすっぽかされたらたまらないと思い、竹林の見ている前で【斎藤ちひろに羊羹五本と春季限定のもなかを買う】という念書を書かせた。今はハンコを持っていないと言うので、名前の横に拇印も押させる。
「……よし」
「おいおい、そんなに俺は信用ならない男なのか?」
「ね、念には念を、です」
「あっそ……」
満足げに念書を眺めるちひろを見て、櫻田が何とも言えないため息をこぼす。怠慢で調子のいい男、というのが、ちひろが櫻田に持つ印象だ。当の櫻田は「そこまですることないじゃん」と不服そうに唇を尖らせているが、そう簡単に印象は変わらない。念書どおり付き添いの報酬をちゃんと持ってきてくれれば、多少良くなるかもしれないけれど。
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