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■6.鬼と下僕と、愛の言葉
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*
「ああ、それな。俺としては半年組むのが終わるタイミングはどうだろうって思ってたんだけど、薪はいつがいいとかあるか? 年度末で忙しい頃だけど、俺たちにとっては区切りがいいしって思ってたんだ。忙しいのはいつものことだしな」
その日の夜、ひとまず、いつ編集部に付き合っていることを打ち明けるかという話をさっそく持ちかけると、真紘はそう言って薪の髪の毛をくしゃりと撫でた。
編集部の忘年会後、帰る方向が同じだからついでに送っていく、とタクシーに薪と乗り込んだ真紘は、そのまま自分の部屋へ薪を連れて来て、今に至る。
以前『美味いとは思うけど、そこまで好きってわけでもねーかな』と言っていた通り、真紘は忘年会の席ではそれほど飲んでいなかった。むしろ、お酌に回った薪が返杯を受けているところを、やきもきしながら見ていて、その様子を近くの席の由里子に訳知り顔で見られているという、ちょっと面白いことになっていた。
自分の車は明日、会社に取りに行くらしい。結局、定時ギリギリまで頑張ったものの、今年中に片づけておきたかった仕事がまだ少し残っているとかで、ついでにそれも片づけてから遅れて年末年始の休暇に入るということだった。
薪も真紘も、実家にはすでに帰省はしないと連絡を入れている。こんなときでもなければ何日も一緒に過ごせないので、今回は帰省せずにふたりでゆっくりすることにしようと、クリスマス旅行から帰る車の中で話して決めていた。
「それに、いい加減、飲み会の席で薪があちこちに捕まるのも、こうやって連れて帰るのにいちいち理由が必要なのも、あんまりいい気はしないしな」
そして、そう言うと真紘は少しだけ決まり悪そうに笑う。
「周りに言ってないせいなんだけど、薪を返せって普通に思ってたしな。薪も心穏やかじゃないと思うんだ。麻井にもニヤニヤしながら見られてたし」
「あはは。気づいてたんですね」
「……あいつは怖いやつだよ」
「ふふ」
最後こそ薪を笑わせたけれど、どうやら真紘は、周りにはまだ上司と部下としての関係しか見せていないことをとても気にしているようだ。そういう部分でどうしたって気を揉んだり言葉を選んだりしなければならない場面が多くなるのは、今日に限ったことではないはずだから、そのことも気にしているらしい。
それに、そんなときに真紘自身がどう思うのかもあるだろうけれど、むしろその顔は、薪がどういう気持ちになるのかを、ひどく案じている。
「この際だから、年明けに言おう。いいタイミングだと思っただけで、別に半年にこだわりはないし、付き合ってることを言おうが言うまいが、薪が今、仕事が楽しいのは変わらない。編集部の中に、俺と付き合ってるから薪に仕事が振られるようになったとか、デカい企画に関わるようになったとか、そんなくだらないことを言う人なんていない。それは薪もわかってるだろ? これは全部、薪の実力なんだから。だから薪は、俺の隣で堂々と仕事をしてりゃいい」
「主任……」
「な? そうしよう。薪は俺がモテるって言うけど、薪だって、会社の中でも外でも、愛想がよくて、ふわふわしてて、ちょっと抜けてるところがいい、なんていう声がよく耳に入るんだ。ほかの男たちをけん制したいのは俺のほうだって話で、そのためのネックレスでもあるわけだから、見せびらかす勢いで付けておけばいい」
そして、薪の表情から心の機微を読み取った真紘は、そう言ってもう一度、薪の髪の毛をくしゃりと撫でると、優しい眼差しで薪を見つめた。
「ふふ。……はい。じゃあ、そうしましょう。別に悪いことをしてるわけじゃないのに、隠し事をしてるみたいで後ろめたい気持ちにもなりますからね。でもやっぱり、私も女の子たちをけん制したいので、主任も今日みたいに時計を見せびらかす勢いで付けていてくれたら嬉しいです。編集部に付き合ってることを打ち明けたら、私からのクリスマスプレゼントだって言ってくれると、もっと」
「ああ。そのつもりだ。……つーか、やっぱ可愛いな、薪は。これまでだって十分わかってるつもりだったけど、薪が可愛すぎて、今、ちょっと辛い」
「もう……。忘年会ではそんなに飲んでるように見えませんでしたけど、もしかして、けっこう酔っ払っちゃってます? お水、持ってきましょうか?」
「……うん。水より、薪が膝枕で介抱して」
「うん、って。主任もめちゃくちゃ可愛いです」
「うるせーよ。そういう気分なの」
「あは」
社内外で薪がどういう印象を持たれているかは別にしても、編集部の中に真紘と付き合っていることで何かしらの恩恵を受けていると言う人はいないと断言してくれたことも、徐々に大きい仕事に携われるようになってきたことを自分自身の実力だと評価してくれたことも、薪は純粋に嬉しい。今、仕事が楽しいこともわかってくれていて、それも変わらないと言ってくれたことも、もちろんだ。
急に甘えたがりのスイッチが入って、座っている薪の膝にごろんと頭を預け、腰にぎゅーっと腕を回してきた真紘の柔らかな髪を笑って撫でながら、薪は、真紘は自分のことを本当によく見てくれているんだなと改めて思う。
普段からもそうだけれど、気持ちを先回りして汲んでくれるところも、心配や懸念を当たり前に払拭してくれるところも、薪がどういう性格でどんな気質を持っているか、思考回路をしているかなどをわかっていないと、そのときどきで薪が欲しい言葉や行動をすぐには取れないのではないだろうかと思うほどだ。
相変わらず強引なところも健在とはいえ、真紘自身が自分がどうしたいのかを優先しているように見えて、実は薪が自分では上手く言葉にできなかったり行動に移せなかったりする部分を引っ張り出して導いてくれている。
理想の上司や理想の恋人の定義は人それぞれだけれど、薪にとって真紘は、どちらも理想だ。……いや、間違いなく、それ以上だろう。仕事でもプライベートでも、そういう人に巡り会えたことを薪はとても幸せに思う。
「あ、主任。こんなところで寝ないでください。ベッドに行きましょう?」
そんなことを思っていると、真紘の呼吸が急に深くなり、次いでわずかに寝息を立てはじめた。腰に回された腕は相変わらず薪を捕まえて離さないけれど、さっきまであんなに喋っていたのに、どうやら電池切れを起こしかけているようだ。
肩を優しく叩くと、薪のお腹に顔を埋めるようにしていた真紘が上を向く。
「うーん……。もうちょい」
「本当にもうちょっとですよ? 私じゃ運べないですし」
「わかってる。けど、一週間も薪を独占できると思ったら気が抜けて酔いが回ってきたんだ。明日は午前中で終わらせて、すぐに帰ってくる。そしたら〝おかえり〟って言ってほしい。朝、行くときは〝いってらっしゃい〟って見送ってほしい」
そして、眠そうな目で薪を見つめて、とんでもなく可愛いことを言う。
――なな、なんなのこの、めちゃくちゃ可愛い生き物……。
今にも寝そうじゃなかったら襲っちゃうところなんだけど、なんて思いながら、ゆるゆると頬に手を伸ばしてきた真紘に、薪はひとつ、キスをする。
すると、すぐに後頭部に手を回した真紘に頭を引き寄せられた薪は、そのまま何度か角度を変えて慈しむような、愛おしむような、深く優しいキスを受けた。
真紘がこういうキスをするときは、甘えたい気持ちがピークのときだ。
薪も、そんな可愛くて愛おしい真紘の全部を包み込むようにキスを返して、やがて唇を離した真紘を真っすぐに見つめると、にっこり微笑む。
「はい。お昼ご飯を作って待ってますね」
「ははっ。そりゃいい。俄然、やる気が出てきた」
「飛んで帰ってきてくれると、私が喜びます」
「……あー、急に行きたくなくなってきた」
「もう」
これまで付き合ってきた女性にはどういう甘え方をしていたのかも、それ以前に〝甘えたがり〟を打ち明けていたのかも、絶対に嫉妬してしまうから薪は真紘に聞いたことはない。けれど、どうしてだか、一番、甘えてもらっている自負はある。
そこだけは不思議と揺るがないのだから、薪は自分でも、あんなに苦手だったのに、もうどうしようもないくらい真紘に毒されているなとつくづく思う。
もし、真紘のこんなに可愛い部分を知っていても別れたのなら。もし、教えてもらうことなく別れたのなら。当たり前に嫉妬もするけれど、それ以上に〝この人を私にありがとう〟という感謝の気持ちさえ湧いてくるくらいだ。
「薪」
「はい」
「薪は俺が好きか?」
「もちろんです。どんな主任も全部好きですよ」
「すげー嬉しい……」
心の底から嬉しそうな顔をしてこちらを見つめる真紘にもう一度キスをしながら、薪はこれまでの真紘の彼女へ向けて、心の中でお礼を言った。
――この人を私にありがとう。……本当に本当に、ありがとう。
そう、何度も、何度も。
クリスマス旅行の話をきっかけに、由里子から、お互いにそんなに思い合っているならと〝結婚〟という言葉が出ただけで、自分でも思いのほか意識してしまったとはいえ、薪は今のままで十分すぎるほど幸せだし、満ち足りている。
それに、まだまだ恋人同士を楽しみたいし、仕事も今以上に充実させたい。
クリスマスの日の朝、真紘の寝顔を眺めながらもう一度眠ったときに見た夢のように、新しい命を授かる、なんてことがあれば話は違ってくるだろうけれど、きっとそれは、当人同士の薪や真紘にもわからないことだから。
月並みな表現しかできないものの、神様や運命の導きとか、コウノトリが運んできたとか、そういったことがあるまで、ふたりのペースで関係を深めていけたらいいなと薪は思う。それに、ひょっとすると先に結婚の話が出るかもしれない。
どちらにせよ、こればっかりは〝タイミング〟だ。
由里子が言っていたように、これはふたりで決めることだし、自分たちが今だと思ったときが、きっとベストなタイミングなんだろうと思う。
「……愛してますよ、主任」
どうにかこうにかベッドまで移動し布団に潜ると、ものの数分で寝息を立てはじめた真紘を胸に抱きながら、薪は、イブの日に感じた、恋しく思う気持ちや焦がれる気持ちよりも、もっと大きく深い気持ちを実際に声に出して言ってみる。
当然、すっかり眠っている真紘からは反応はなかったけれど、それでも薪は猛烈に恥ずかしさが込み上げ、顔どころか全身が燃えるように熱くなった。
「うう、めちゃくちゃ恥ずかしい……」
真紘に直接、そう言える日はいつになるだろう。
――それまでにはもう少し免疫を付けておかなきゃ。
変な汗をかきつつも、どうしてもにまにまと緩んでしまう頬をそのままに、しっかりと真紘を胸に抱いた薪は、それからほどなくして、うとうとしはじめ、やがて真紘の匂いに包まれながらゆっくりと瞼を閉じた。
*
そうして年明け――。
普段の出勤時間より少し早く出社した薪と真紘は、部長の諸住の出勤を待って付き合っていることを話し、朝礼の場で編集部に周知する時間をもらう了解を得た。
最初こそ、ふたりで出迎えられて驚いた顔をした諸住だったけれど、話を聞くとすぐに相好を崩し、薪と真紘とそれぞれしっかりと目を合わせて「ふたりがどういう関係でも、編集部はこれまでと何も変わりません。安心して仕事に励んでください」と言ってくれ、薪と真紘は揃って「ありがとうございます」と頭を下げた。
それからほどなくしてはじまった朝礼の場で、真紘の口から付き合っていることを打ち明けられた編集部の面々は、みな一様に諸住と同じく驚いた顔をした。
けれど、由里子が先陣を切って大きな拍手をしてくれたおかげで場が一気に祝福ムードになり、すぐに方々から「年明けからおめでたい」や「お似合いだよ」との声、それから諸住にも言われた「編集部はこれまでと変わらないから安心して」という声もかけてもらい、薪と真紘はどちらからともなく目を見合わせると、照れながらもまた「ありがとうございます」と揃って頭を下げた。
由里子には事前に、年明けの朝礼で付き合っていることを話すことにした、と連絡を入れていたため、気を回して場の空気をいい方向に作ってくれたらしい。
でも、どうやらそれは必要なかったようだ。
薪にとってはハードな仕事内容で、何度、会社を辞めたいと思ったか数知れない。けれど、顧客先はもちろん、一緒に働く仲間にも大いに恵まれ、見守られ、これまで育ててもらってきたことを改めて思い知った薪は、目頭が熱くて、真紘が顔を上げてもまだ少しだけ、腰を折ったままの姿勢を元に戻せそうになかった。
「ああ、それな。俺としては半年組むのが終わるタイミングはどうだろうって思ってたんだけど、薪はいつがいいとかあるか? 年度末で忙しい頃だけど、俺たちにとっては区切りがいいしって思ってたんだ。忙しいのはいつものことだしな」
その日の夜、ひとまず、いつ編集部に付き合っていることを打ち明けるかという話をさっそく持ちかけると、真紘はそう言って薪の髪の毛をくしゃりと撫でた。
編集部の忘年会後、帰る方向が同じだからついでに送っていく、とタクシーに薪と乗り込んだ真紘は、そのまま自分の部屋へ薪を連れて来て、今に至る。
以前『美味いとは思うけど、そこまで好きってわけでもねーかな』と言っていた通り、真紘は忘年会の席ではそれほど飲んでいなかった。むしろ、お酌に回った薪が返杯を受けているところを、やきもきしながら見ていて、その様子を近くの席の由里子に訳知り顔で見られているという、ちょっと面白いことになっていた。
自分の車は明日、会社に取りに行くらしい。結局、定時ギリギリまで頑張ったものの、今年中に片づけておきたかった仕事がまだ少し残っているとかで、ついでにそれも片づけてから遅れて年末年始の休暇に入るということだった。
薪も真紘も、実家にはすでに帰省はしないと連絡を入れている。こんなときでもなければ何日も一緒に過ごせないので、今回は帰省せずにふたりでゆっくりすることにしようと、クリスマス旅行から帰る車の中で話して決めていた。
「それに、いい加減、飲み会の席で薪があちこちに捕まるのも、こうやって連れて帰るのにいちいち理由が必要なのも、あんまりいい気はしないしな」
そして、そう言うと真紘は少しだけ決まり悪そうに笑う。
「周りに言ってないせいなんだけど、薪を返せって普通に思ってたしな。薪も心穏やかじゃないと思うんだ。麻井にもニヤニヤしながら見られてたし」
「あはは。気づいてたんですね」
「……あいつは怖いやつだよ」
「ふふ」
最後こそ薪を笑わせたけれど、どうやら真紘は、周りにはまだ上司と部下としての関係しか見せていないことをとても気にしているようだ。そういう部分でどうしたって気を揉んだり言葉を選んだりしなければならない場面が多くなるのは、今日に限ったことではないはずだから、そのことも気にしているらしい。
それに、そんなときに真紘自身がどう思うのかもあるだろうけれど、むしろその顔は、薪がどういう気持ちになるのかを、ひどく案じている。
「この際だから、年明けに言おう。いいタイミングだと思っただけで、別に半年にこだわりはないし、付き合ってることを言おうが言うまいが、薪が今、仕事が楽しいのは変わらない。編集部の中に、俺と付き合ってるから薪に仕事が振られるようになったとか、デカい企画に関わるようになったとか、そんなくだらないことを言う人なんていない。それは薪もわかってるだろ? これは全部、薪の実力なんだから。だから薪は、俺の隣で堂々と仕事をしてりゃいい」
「主任……」
「な? そうしよう。薪は俺がモテるって言うけど、薪だって、会社の中でも外でも、愛想がよくて、ふわふわしてて、ちょっと抜けてるところがいい、なんていう声がよく耳に入るんだ。ほかの男たちをけん制したいのは俺のほうだって話で、そのためのネックレスでもあるわけだから、見せびらかす勢いで付けておけばいい」
そして、薪の表情から心の機微を読み取った真紘は、そう言ってもう一度、薪の髪の毛をくしゃりと撫でると、優しい眼差しで薪を見つめた。
「ふふ。……はい。じゃあ、そうしましょう。別に悪いことをしてるわけじゃないのに、隠し事をしてるみたいで後ろめたい気持ちにもなりますからね。でもやっぱり、私も女の子たちをけん制したいので、主任も今日みたいに時計を見せびらかす勢いで付けていてくれたら嬉しいです。編集部に付き合ってることを打ち明けたら、私からのクリスマスプレゼントだって言ってくれると、もっと」
「ああ。そのつもりだ。……つーか、やっぱ可愛いな、薪は。これまでだって十分わかってるつもりだったけど、薪が可愛すぎて、今、ちょっと辛い」
「もう……。忘年会ではそんなに飲んでるように見えませんでしたけど、もしかして、けっこう酔っ払っちゃってます? お水、持ってきましょうか?」
「……うん。水より、薪が膝枕で介抱して」
「うん、って。主任もめちゃくちゃ可愛いです」
「うるせーよ。そういう気分なの」
「あは」
社内外で薪がどういう印象を持たれているかは別にしても、編集部の中に真紘と付き合っていることで何かしらの恩恵を受けていると言う人はいないと断言してくれたことも、徐々に大きい仕事に携われるようになってきたことを自分自身の実力だと評価してくれたことも、薪は純粋に嬉しい。今、仕事が楽しいこともわかってくれていて、それも変わらないと言ってくれたことも、もちろんだ。
急に甘えたがりのスイッチが入って、座っている薪の膝にごろんと頭を預け、腰にぎゅーっと腕を回してきた真紘の柔らかな髪を笑って撫でながら、薪は、真紘は自分のことを本当によく見てくれているんだなと改めて思う。
普段からもそうだけれど、気持ちを先回りして汲んでくれるところも、心配や懸念を当たり前に払拭してくれるところも、薪がどういう性格でどんな気質を持っているか、思考回路をしているかなどをわかっていないと、そのときどきで薪が欲しい言葉や行動をすぐには取れないのではないだろうかと思うほどだ。
相変わらず強引なところも健在とはいえ、真紘自身が自分がどうしたいのかを優先しているように見えて、実は薪が自分では上手く言葉にできなかったり行動に移せなかったりする部分を引っ張り出して導いてくれている。
理想の上司や理想の恋人の定義は人それぞれだけれど、薪にとって真紘は、どちらも理想だ。……いや、間違いなく、それ以上だろう。仕事でもプライベートでも、そういう人に巡り会えたことを薪はとても幸せに思う。
「あ、主任。こんなところで寝ないでください。ベッドに行きましょう?」
そんなことを思っていると、真紘の呼吸が急に深くなり、次いでわずかに寝息を立てはじめた。腰に回された腕は相変わらず薪を捕まえて離さないけれど、さっきまであんなに喋っていたのに、どうやら電池切れを起こしかけているようだ。
肩を優しく叩くと、薪のお腹に顔を埋めるようにしていた真紘が上を向く。
「うーん……。もうちょい」
「本当にもうちょっとですよ? 私じゃ運べないですし」
「わかってる。けど、一週間も薪を独占できると思ったら気が抜けて酔いが回ってきたんだ。明日は午前中で終わらせて、すぐに帰ってくる。そしたら〝おかえり〟って言ってほしい。朝、行くときは〝いってらっしゃい〟って見送ってほしい」
そして、眠そうな目で薪を見つめて、とんでもなく可愛いことを言う。
――なな、なんなのこの、めちゃくちゃ可愛い生き物……。
今にも寝そうじゃなかったら襲っちゃうところなんだけど、なんて思いながら、ゆるゆると頬に手を伸ばしてきた真紘に、薪はひとつ、キスをする。
すると、すぐに後頭部に手を回した真紘に頭を引き寄せられた薪は、そのまま何度か角度を変えて慈しむような、愛おしむような、深く優しいキスを受けた。
真紘がこういうキスをするときは、甘えたい気持ちがピークのときだ。
薪も、そんな可愛くて愛おしい真紘の全部を包み込むようにキスを返して、やがて唇を離した真紘を真っすぐに見つめると、にっこり微笑む。
「はい。お昼ご飯を作って待ってますね」
「ははっ。そりゃいい。俄然、やる気が出てきた」
「飛んで帰ってきてくれると、私が喜びます」
「……あー、急に行きたくなくなってきた」
「もう」
これまで付き合ってきた女性にはどういう甘え方をしていたのかも、それ以前に〝甘えたがり〟を打ち明けていたのかも、絶対に嫉妬してしまうから薪は真紘に聞いたことはない。けれど、どうしてだか、一番、甘えてもらっている自負はある。
そこだけは不思議と揺るがないのだから、薪は自分でも、あんなに苦手だったのに、もうどうしようもないくらい真紘に毒されているなとつくづく思う。
もし、真紘のこんなに可愛い部分を知っていても別れたのなら。もし、教えてもらうことなく別れたのなら。当たり前に嫉妬もするけれど、それ以上に〝この人を私にありがとう〟という感謝の気持ちさえ湧いてくるくらいだ。
「薪」
「はい」
「薪は俺が好きか?」
「もちろんです。どんな主任も全部好きですよ」
「すげー嬉しい……」
心の底から嬉しそうな顔をしてこちらを見つめる真紘にもう一度キスをしながら、薪はこれまでの真紘の彼女へ向けて、心の中でお礼を言った。
――この人を私にありがとう。……本当に本当に、ありがとう。
そう、何度も、何度も。
クリスマス旅行の話をきっかけに、由里子から、お互いにそんなに思い合っているならと〝結婚〟という言葉が出ただけで、自分でも思いのほか意識してしまったとはいえ、薪は今のままで十分すぎるほど幸せだし、満ち足りている。
それに、まだまだ恋人同士を楽しみたいし、仕事も今以上に充実させたい。
クリスマスの日の朝、真紘の寝顔を眺めながらもう一度眠ったときに見た夢のように、新しい命を授かる、なんてことがあれば話は違ってくるだろうけれど、きっとそれは、当人同士の薪や真紘にもわからないことだから。
月並みな表現しかできないものの、神様や運命の導きとか、コウノトリが運んできたとか、そういったことがあるまで、ふたりのペースで関係を深めていけたらいいなと薪は思う。それに、ひょっとすると先に結婚の話が出るかもしれない。
どちらにせよ、こればっかりは〝タイミング〟だ。
由里子が言っていたように、これはふたりで決めることだし、自分たちが今だと思ったときが、きっとベストなタイミングなんだろうと思う。
「……愛してますよ、主任」
どうにかこうにかベッドまで移動し布団に潜ると、ものの数分で寝息を立てはじめた真紘を胸に抱きながら、薪は、イブの日に感じた、恋しく思う気持ちや焦がれる気持ちよりも、もっと大きく深い気持ちを実際に声に出して言ってみる。
当然、すっかり眠っている真紘からは反応はなかったけれど、それでも薪は猛烈に恥ずかしさが込み上げ、顔どころか全身が燃えるように熱くなった。
「うう、めちゃくちゃ恥ずかしい……」
真紘に直接、そう言える日はいつになるだろう。
――それまでにはもう少し免疫を付けておかなきゃ。
変な汗をかきつつも、どうしてもにまにまと緩んでしまう頬をそのままに、しっかりと真紘を胸に抱いた薪は、それからほどなくして、うとうとしはじめ、やがて真紘の匂いに包まれながらゆっくりと瞼を閉じた。
*
そうして年明け――。
普段の出勤時間より少し早く出社した薪と真紘は、部長の諸住の出勤を待って付き合っていることを話し、朝礼の場で編集部に周知する時間をもらう了解を得た。
最初こそ、ふたりで出迎えられて驚いた顔をした諸住だったけれど、話を聞くとすぐに相好を崩し、薪と真紘とそれぞれしっかりと目を合わせて「ふたりがどういう関係でも、編集部はこれまでと何も変わりません。安心して仕事に励んでください」と言ってくれ、薪と真紘は揃って「ありがとうございます」と頭を下げた。
それからほどなくしてはじまった朝礼の場で、真紘の口から付き合っていることを打ち明けられた編集部の面々は、みな一様に諸住と同じく驚いた顔をした。
けれど、由里子が先陣を切って大きな拍手をしてくれたおかげで場が一気に祝福ムードになり、すぐに方々から「年明けからおめでたい」や「お似合いだよ」との声、それから諸住にも言われた「編集部はこれまでと変わらないから安心して」という声もかけてもらい、薪と真紘はどちらからともなく目を見合わせると、照れながらもまた「ありがとうございます」と揃って頭を下げた。
由里子には事前に、年明けの朝礼で付き合っていることを話すことにした、と連絡を入れていたため、気を回して場の空気をいい方向に作ってくれたらしい。
でも、どうやらそれは必要なかったようだ。
薪にとってはハードな仕事内容で、何度、会社を辞めたいと思ったか数知れない。けれど、顧客先はもちろん、一緒に働く仲間にも大いに恵まれ、見守られ、これまで育ててもらってきたことを改めて思い知った薪は、目頭が熱くて、真紘が顔を上げてもまだ少しだけ、腰を折ったままの姿勢を元に戻せそうになかった。
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