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■5.聖夜の鬼は下僕に傅(かしず)く
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そこまで思い出した薪は、ちらりと真紘を窺った。
そういえば、あのあとから真紘は輪をかけてほかの編集部の社員からの相談やフォローの頼みを聞くようになっていったし、薪が何かやらかしても、まるでそこまでがお約束だった『火にくべて燃やすぞ』も、あまり言わなくなったように思う。
そのときは、可愛がっていた後輩が急に異動になって寂しいんだろうと勝手に思っていたけれど、実際はそんな簡単な理由ではなかったのかもしれない。
今になって続々と思い出されたあの頃の出来事は、当時は〝こんなこともあるんだな〟で片づけたとはいえ、でもやっぱり、今、考えてみると、少しおかしい。
すると、薪の表情からいろいろと思い出したことを感じたのだろう、真紘は薪の手を痛いくらいに握りしめると、苦虫を嚙み潰したような顔と口調で言う。
「そうだ。……古賀な、俺が何か仕事を任せるたびに『あとで報告だけ上げてくれればいい』なんて言ってたもんだから、いつの間にか、自分だけじゃ到底、対応できないような案件もひとりで抱えてしまって。それでも、頑張らないとって思って一生懸命やってくれてたんだろう。どうにもならなくなって震える声で俺に助けを求めてきたときには、そのとき進めていた特集がダメになる寸前だった」
「……え」
「先方をかなり怒らせてしまっていてな。なんとか溜飲を飲み下してもらって、特集も組めたんだけど、当然、古賀はかなり参ってしまって……。すぐに別の部署で面倒を見てもらいながらケアもしてもらうことになったんだ」
「そうだったんですね……」
「ああ。今もそっちで頑張ってくれてるみたいだけど、古賀には本当に悪いことをしたと思ってる。俺が言えた義理じゃないけど、会社を辞めないでくれて感謝してるんだ。俺の教育が行き届かなかったばっかりに、古賀にはだいぶ辛い思いをさせてしまったから、会社に残る選択をしてくれただけで、本当にもう……」
そこまで言うと、真紘は深いため息をついて首を垂れた。
薪は咄嗟に返す言葉が見つけられず、真紘の手を握り返すと、肩口に額を押しつけるようにして、くっつく。それくらいしかできない自分がもどかしく、かけられる言葉が出てこないことが悔しい。けれど、もっと悔しいのは真紘のはずだ。
古賀も辛かっただろうし、真紘も辛かっただろう。お互いに〝なんでもっと早く〟と、その思いしか残らないような出来事だったと思う。
それでも、ふたりとも今も同じ会社で働いている。
そのことが真紘にとって、どんなに救いになっていることだろうか。古賀にとっても、おそらくは、そうだろうと思う。
社内外から絶大な信頼を得ている真紘にも、ひとりで抱えるには大きすぎる出来事があっただなんて、いつも完璧に仕事をこなしている姿からは想像することさえなかった。けれど、数えきれないほどの努力も、泣きたくなるような失敗も無しに今の真紘があるなんてことは絶対にないのだ。
編集部に配属になってもうすぐ三年、薪もたくさんの努力と失敗の上に今の自分があることを思い返して、改めて仕事とはどういうものかを考えさせられたような、そんな気持ちだ。そして、それを上回る嬉しさや喜びがあるから仕事が〝楽しい〟ことも、だからこそ、ときに〝辛い〟ことも、薪は真紘から教えてもらった。
その気持ちが少しでも真紘に伝わればいいなと思いながら、薪は口を開く。
「主任。私、主任のおかげで、今、仕事がとっても楽しいですよ」
「薪……」
「へへ。こんなことくらいしか言えないですけど、自分が手掛けたものがどんどん形になっていく喜びや責任や、嬉しさも悔しさも、主任が教えてくれたから、全部ひっくるめて〝楽しい〟んです。古賀君が今も会社に残っているのは、それを見つけたからなんじゃないでしょうか。それから、もしかしたら古賀君は、社内で主任の名前が耳に入るたびに嬉しいのかもしれません。だって、いい子ですから。……って、主任のほうがわかってますよね、すみません」
自分で言っていて、まとまっていないなと思う。古賀のことは、薪がそうだったらいいなと思うことを自分に都合よく並べただけだ。でも、古賀がいい子なことは、関りが多かった真紘のほうこそわかっているはずだ。
古賀に対して先輩らしいことは何もできなかったし、どうしたらいいかわからなかったり、行き詰まったり悩んだりしていることも気づいてあげられなかった。ふたりとも辛い思いをしたことも、こうして真紘の口から話してもらうまで、こういうこともあるんだなと、のほほんと片付けていたほど、薪は本当に鈍い。
けれど、薪は今、仕事が楽しい。それは間違いなく真紘が〝仕事の楽しさ〟を教えてくれたからだ。そのことだけは、どうしても自分の口から伝えたかった。
「本当は薪みたいに、ある程度、経験を積んだ人にしか『あとで報告だけ』って台詞は言っちゃいけなかったんだよな。いくら飲み込みが早くて要領もよくても、初めてのことだらけだったんだから、近くで見ててやらないといけなかったんだ」
すると真紘は、そう言いながら薪の頭に自分の頭を預けた。
「気を回してくれた部長は、俺にも『大丈夫か』って声をかけてくれて、事後処理も一緒に動いてくれてさ。その頃よく部長と会議室に籠ってたのは、古賀の経過を教えてもらったり、顧客先のことや俺の様子見もあったんだ。……たぶん、慢心してたんだよな。周りから仕事ができるって言われて、調子に乗って。実際は助けてもらって仕事が成り立ってたのに、いつの間にか、それをすっかり忘れてた」
「主任……」
「そんなときだよ。なんとなく事情を察した周りが、どことなく、よそよそしい雰囲気だったとき、薪だけはいつもの薪だった。相変わらずどこか抜けてて、詰めが甘いところがあって、俺に『火にくべて燃やすぞ』って言われるのをわかってて相談に来たりしてさ。そのとき、薪のことは育て方を間違っちゃいけねーなって思ったんだよ。こんな俺を変わらず頼ってくれる薪を後輩として可愛いと思う気持ちが恋愛感情に変わるのに、そんなに時間はかからなかった」
救われたんだよ、と真紘は言う。
「そんな感じで薪があんまりいつも通りすぎたから、そのうち周りも、前みたいに相談やフォローの頼みを俺に持ってきてくれるようになって、今がある。部長に何度も『薪と組ませてほしい』って頼んだのは、ちゃんと育ってほしい薪が伸び悩んでたのもあるし、また前みたいに変な虫に言い寄られないとも限らないって焦りもあったんだ。半年かけて薪に好きになってもらえなかったら諦めようって決心して、それからはメシで餌付けしたり、いろんなところに連れ出したり、とにかく薪に俺を意識してもらうことに全力だった。……さすがにキスはやりすぎたって反省してるけど。でも後悔はしてない。あれは薪が可愛いのがいけない」
「ふふ。鈍すぎて嫌になったりしませんでした?」
聞くと真紘は、すぐに「全然」なんて言って、ふっと笑う。
「それも覚悟の上だよな。だってそれが薪なんだから」
「……否定できないのが悔しいです」
「ははっ」
真紘は軽く笑い飛ばすけれど、でも本当によくこんな自分をずっと好きでいてくれたものだと薪は思う。
由里子から、これまで真紘がどんなふうに薪のことを好きでいたかを教えてもらった記憶は新しい。その全部が薪には初耳だったし、自分では何ひとつ気づけなかった。それほどまでに鈍い薪を思う真紘の気苦労は、なかなかに察して余りある。
でも、真紘はそれを〝全然〟と笑い飛ばしてくれた。
折川のことではハラハラさせただろうし、仕事の面では常に危なっかしいと思わせていただろう。伸び悩んでいるときには、どうにかして自信をつけさせてやりたい、そのために俺にできることは何だろうと、たくさん考えてくれただろうし、足湯でキスされたときに言われた『半年後にどうしたいかは、そのときの薪の気持ちで決めていいから』という言葉は、きっと薪のための逃げ道だ。
真紘は続ける。
「映画館で会ったのは本当に偶然だったけど、ちょうどその日、部長からようやく、薪を半年、俺に預けてもらう許可をもらったばかりだったから、柄にもなく浮かれて部屋に連れ込んだんだよな。引かれるかもしれないって思いつつ、甘えたがりなのも打ち明けるくらいには、あのとき薪に会えて、内心ではめちゃくちゃ浮かれてた。……恋愛映画を観るのが趣味なのを知られて焦ったのも本当だけど」
「あはは。そうだったんですね」
「ああ。俺の中で立ててた薪を落とす計画では、ゆっくり時間をかけて好きになってもらうはずだったんだけど、いざ本物の薪を目の前にしたら、いろいろと歯止めが利かなくなることも多くて……。薪にはしんどい思いをさせたよな。悪い」
「いえ。そのときには私、もう主任のことが好きになっていたんです。鬼だし、何を考えてるかわからないし、私も誰かに恋愛感情を持つなんて久しぶりすぎたので、認めるのが怖かっただけで、もうとっくに主任に惹かれていましたよ」
「そうか。餌付けの甲斐があったな」
「……もう。どれだけ食いしん坊なんですか、私。それだけじゃないですよ」
「はは。わかってる。茶化して悪かった」
「いえ」
つい二か月前の出来事なのに、薪は懐かしささえ感じる。
それだけ濃密な二か月だったと言い換えることができるその期間は、薪には戸惑うことの連続だったし、自分の気持ちの目まぐるしい変化に付いていけないことも多かった。真紘の気持ちがわからなくて必死に自分を奮い立たせていたときもあったし、とうとう限界に達して子どもみたいに泣いてしまったときもあった。
だって、まさか自分が恋愛対象になっているだなんて思ってもいなかったのだ。
しんどいと薪が泣きじゃくったときの『俺を嫌いにならないでくれ。でも、好きになってほしい』は、びっくりするくらい不器用な真紘が、プライドも何もかもを捨てて裸の心で薪にぶつけた本心からの言葉だったに違いない。
付き合いはじめれば、真紘はとにかく薪のことが好きだと行動で示してくれた。
告白のときの〝一回きりしか言えないかもしれないから〟との言葉通り、面と向かって『好きだ』と言われたのは、そのときの一度だけだけれど、それを差し引いても余りあるほど、真紘は薪の前で素直に気持ちを表してくれる。
独占欲は本当に鬼並みで、セーブしなくてよくなったことで輪をかけて〝甘えたがり〟になった。そのたびに薪は嬉しいし、愛おしいなと思うことに忙しい。これまでだって今日だって、薪にだから真紘はとことん甘く尽くしてくれる。言いたくなかっただろうことも、薪を安心させるために、こうして打ち明けてくれた。
――こんなにも私のことを思ってくれる人が主任のほかにどこにいるんだろう。
これまで真紘からもらった言葉や気持ちや、たくさんの行動、溢れんばかりの愛情が一気に胸に押し寄せて、薪は痛いくらいに胸が締めつけられた。
「……薪。こんな俺でも、薪は俺のことが好きか?」
聞かれて薪は、真紘の手を両手で包み込むようにしながら答える。
「もちろんですよ。どんな主任も、全部好きです」
すると真紘は、ぐいと薪の手を引き、自分の胸板に押しつけた。途端にむせ返るような真紘の匂いに包まれた薪は、痛いくらいに抱きしめる真紘の背中に腕を回して抱きしめ返すと、もう一度「好きですよ。大好きです」と言う。
そうすると、真紘が耳元で噛みしめるように言葉を落とす。
「……ありがとう。俺も。これからも俺の全部で薪に伝えていく」
その言葉は薪の中にどこまでも深くしみ込んで、やがて涙になって溢れる。
「はい。私もです。私の全部で主任に伝えていきます」
まだまだ返せるものは少ないかもしれない。鈍すぎる薪のことだ、ときにはその鈍さのせいで、真紘を不安にさせたり、やきもきさせてしまうことも、ないとも限らない。けれど、びっくりするくらい不器用な真紘が、照れくさかったり恥ずかしかったりして言いたくても言えない分まで、自分が〝好きだ〟と言葉にして伝えればいいだけなんだと、薪はそのとき、すとんと胸に落ちるものがあった。
だって、それが真紘を安心させてあげられる魔法の言葉になるはずだから。
そういえば、あのあとから真紘は輪をかけてほかの編集部の社員からの相談やフォローの頼みを聞くようになっていったし、薪が何かやらかしても、まるでそこまでがお約束だった『火にくべて燃やすぞ』も、あまり言わなくなったように思う。
そのときは、可愛がっていた後輩が急に異動になって寂しいんだろうと勝手に思っていたけれど、実際はそんな簡単な理由ではなかったのかもしれない。
今になって続々と思い出されたあの頃の出来事は、当時は〝こんなこともあるんだな〟で片づけたとはいえ、でもやっぱり、今、考えてみると、少しおかしい。
すると、薪の表情からいろいろと思い出したことを感じたのだろう、真紘は薪の手を痛いくらいに握りしめると、苦虫を嚙み潰したような顔と口調で言う。
「そうだ。……古賀な、俺が何か仕事を任せるたびに『あとで報告だけ上げてくれればいい』なんて言ってたもんだから、いつの間にか、自分だけじゃ到底、対応できないような案件もひとりで抱えてしまって。それでも、頑張らないとって思って一生懸命やってくれてたんだろう。どうにもならなくなって震える声で俺に助けを求めてきたときには、そのとき進めていた特集がダメになる寸前だった」
「……え」
「先方をかなり怒らせてしまっていてな。なんとか溜飲を飲み下してもらって、特集も組めたんだけど、当然、古賀はかなり参ってしまって……。すぐに別の部署で面倒を見てもらいながらケアもしてもらうことになったんだ」
「そうだったんですね……」
「ああ。今もそっちで頑張ってくれてるみたいだけど、古賀には本当に悪いことをしたと思ってる。俺が言えた義理じゃないけど、会社を辞めないでくれて感謝してるんだ。俺の教育が行き届かなかったばっかりに、古賀にはだいぶ辛い思いをさせてしまったから、会社に残る選択をしてくれただけで、本当にもう……」
そこまで言うと、真紘は深いため息をついて首を垂れた。
薪は咄嗟に返す言葉が見つけられず、真紘の手を握り返すと、肩口に額を押しつけるようにして、くっつく。それくらいしかできない自分がもどかしく、かけられる言葉が出てこないことが悔しい。けれど、もっと悔しいのは真紘のはずだ。
古賀も辛かっただろうし、真紘も辛かっただろう。お互いに〝なんでもっと早く〟と、その思いしか残らないような出来事だったと思う。
それでも、ふたりとも今も同じ会社で働いている。
そのことが真紘にとって、どんなに救いになっていることだろうか。古賀にとっても、おそらくは、そうだろうと思う。
社内外から絶大な信頼を得ている真紘にも、ひとりで抱えるには大きすぎる出来事があっただなんて、いつも完璧に仕事をこなしている姿からは想像することさえなかった。けれど、数えきれないほどの努力も、泣きたくなるような失敗も無しに今の真紘があるなんてことは絶対にないのだ。
編集部に配属になってもうすぐ三年、薪もたくさんの努力と失敗の上に今の自分があることを思い返して、改めて仕事とはどういうものかを考えさせられたような、そんな気持ちだ。そして、それを上回る嬉しさや喜びがあるから仕事が〝楽しい〟ことも、だからこそ、ときに〝辛い〟ことも、薪は真紘から教えてもらった。
その気持ちが少しでも真紘に伝わればいいなと思いながら、薪は口を開く。
「主任。私、主任のおかげで、今、仕事がとっても楽しいですよ」
「薪……」
「へへ。こんなことくらいしか言えないですけど、自分が手掛けたものがどんどん形になっていく喜びや責任や、嬉しさも悔しさも、主任が教えてくれたから、全部ひっくるめて〝楽しい〟んです。古賀君が今も会社に残っているのは、それを見つけたからなんじゃないでしょうか。それから、もしかしたら古賀君は、社内で主任の名前が耳に入るたびに嬉しいのかもしれません。だって、いい子ですから。……って、主任のほうがわかってますよね、すみません」
自分で言っていて、まとまっていないなと思う。古賀のことは、薪がそうだったらいいなと思うことを自分に都合よく並べただけだ。でも、古賀がいい子なことは、関りが多かった真紘のほうこそわかっているはずだ。
古賀に対して先輩らしいことは何もできなかったし、どうしたらいいかわからなかったり、行き詰まったり悩んだりしていることも気づいてあげられなかった。ふたりとも辛い思いをしたことも、こうして真紘の口から話してもらうまで、こういうこともあるんだなと、のほほんと片付けていたほど、薪は本当に鈍い。
けれど、薪は今、仕事が楽しい。それは間違いなく真紘が〝仕事の楽しさ〟を教えてくれたからだ。そのことだけは、どうしても自分の口から伝えたかった。
「本当は薪みたいに、ある程度、経験を積んだ人にしか『あとで報告だけ』って台詞は言っちゃいけなかったんだよな。いくら飲み込みが早くて要領もよくても、初めてのことだらけだったんだから、近くで見ててやらないといけなかったんだ」
すると真紘は、そう言いながら薪の頭に自分の頭を預けた。
「気を回してくれた部長は、俺にも『大丈夫か』って声をかけてくれて、事後処理も一緒に動いてくれてさ。その頃よく部長と会議室に籠ってたのは、古賀の経過を教えてもらったり、顧客先のことや俺の様子見もあったんだ。……たぶん、慢心してたんだよな。周りから仕事ができるって言われて、調子に乗って。実際は助けてもらって仕事が成り立ってたのに、いつの間にか、それをすっかり忘れてた」
「主任……」
「そんなときだよ。なんとなく事情を察した周りが、どことなく、よそよそしい雰囲気だったとき、薪だけはいつもの薪だった。相変わらずどこか抜けてて、詰めが甘いところがあって、俺に『火にくべて燃やすぞ』って言われるのをわかってて相談に来たりしてさ。そのとき、薪のことは育て方を間違っちゃいけねーなって思ったんだよ。こんな俺を変わらず頼ってくれる薪を後輩として可愛いと思う気持ちが恋愛感情に変わるのに、そんなに時間はかからなかった」
救われたんだよ、と真紘は言う。
「そんな感じで薪があんまりいつも通りすぎたから、そのうち周りも、前みたいに相談やフォローの頼みを俺に持ってきてくれるようになって、今がある。部長に何度も『薪と組ませてほしい』って頼んだのは、ちゃんと育ってほしい薪が伸び悩んでたのもあるし、また前みたいに変な虫に言い寄られないとも限らないって焦りもあったんだ。半年かけて薪に好きになってもらえなかったら諦めようって決心して、それからはメシで餌付けしたり、いろんなところに連れ出したり、とにかく薪に俺を意識してもらうことに全力だった。……さすがにキスはやりすぎたって反省してるけど。でも後悔はしてない。あれは薪が可愛いのがいけない」
「ふふ。鈍すぎて嫌になったりしませんでした?」
聞くと真紘は、すぐに「全然」なんて言って、ふっと笑う。
「それも覚悟の上だよな。だってそれが薪なんだから」
「……否定できないのが悔しいです」
「ははっ」
真紘は軽く笑い飛ばすけれど、でも本当によくこんな自分をずっと好きでいてくれたものだと薪は思う。
由里子から、これまで真紘がどんなふうに薪のことを好きでいたかを教えてもらった記憶は新しい。その全部が薪には初耳だったし、自分では何ひとつ気づけなかった。それほどまでに鈍い薪を思う真紘の気苦労は、なかなかに察して余りある。
でも、真紘はそれを〝全然〟と笑い飛ばしてくれた。
折川のことではハラハラさせただろうし、仕事の面では常に危なっかしいと思わせていただろう。伸び悩んでいるときには、どうにかして自信をつけさせてやりたい、そのために俺にできることは何だろうと、たくさん考えてくれただろうし、足湯でキスされたときに言われた『半年後にどうしたいかは、そのときの薪の気持ちで決めていいから』という言葉は、きっと薪のための逃げ道だ。
真紘は続ける。
「映画館で会ったのは本当に偶然だったけど、ちょうどその日、部長からようやく、薪を半年、俺に預けてもらう許可をもらったばかりだったから、柄にもなく浮かれて部屋に連れ込んだんだよな。引かれるかもしれないって思いつつ、甘えたがりなのも打ち明けるくらいには、あのとき薪に会えて、内心ではめちゃくちゃ浮かれてた。……恋愛映画を観るのが趣味なのを知られて焦ったのも本当だけど」
「あはは。そうだったんですね」
「ああ。俺の中で立ててた薪を落とす計画では、ゆっくり時間をかけて好きになってもらうはずだったんだけど、いざ本物の薪を目の前にしたら、いろいろと歯止めが利かなくなることも多くて……。薪にはしんどい思いをさせたよな。悪い」
「いえ。そのときには私、もう主任のことが好きになっていたんです。鬼だし、何を考えてるかわからないし、私も誰かに恋愛感情を持つなんて久しぶりすぎたので、認めるのが怖かっただけで、もうとっくに主任に惹かれていましたよ」
「そうか。餌付けの甲斐があったな」
「……もう。どれだけ食いしん坊なんですか、私。それだけじゃないですよ」
「はは。わかってる。茶化して悪かった」
「いえ」
つい二か月前の出来事なのに、薪は懐かしささえ感じる。
それだけ濃密な二か月だったと言い換えることができるその期間は、薪には戸惑うことの連続だったし、自分の気持ちの目まぐるしい変化に付いていけないことも多かった。真紘の気持ちがわからなくて必死に自分を奮い立たせていたときもあったし、とうとう限界に達して子どもみたいに泣いてしまったときもあった。
だって、まさか自分が恋愛対象になっているだなんて思ってもいなかったのだ。
しんどいと薪が泣きじゃくったときの『俺を嫌いにならないでくれ。でも、好きになってほしい』は、びっくりするくらい不器用な真紘が、プライドも何もかもを捨てて裸の心で薪にぶつけた本心からの言葉だったに違いない。
付き合いはじめれば、真紘はとにかく薪のことが好きだと行動で示してくれた。
告白のときの〝一回きりしか言えないかもしれないから〟との言葉通り、面と向かって『好きだ』と言われたのは、そのときの一度だけだけれど、それを差し引いても余りあるほど、真紘は薪の前で素直に気持ちを表してくれる。
独占欲は本当に鬼並みで、セーブしなくてよくなったことで輪をかけて〝甘えたがり〟になった。そのたびに薪は嬉しいし、愛おしいなと思うことに忙しい。これまでだって今日だって、薪にだから真紘はとことん甘く尽くしてくれる。言いたくなかっただろうことも、薪を安心させるために、こうして打ち明けてくれた。
――こんなにも私のことを思ってくれる人が主任のほかにどこにいるんだろう。
これまで真紘からもらった言葉や気持ちや、たくさんの行動、溢れんばかりの愛情が一気に胸に押し寄せて、薪は痛いくらいに胸が締めつけられた。
「……薪。こんな俺でも、薪は俺のことが好きか?」
聞かれて薪は、真紘の手を両手で包み込むようにしながら答える。
「もちろんですよ。どんな主任も、全部好きです」
すると真紘は、ぐいと薪の手を引き、自分の胸板に押しつけた。途端にむせ返るような真紘の匂いに包まれた薪は、痛いくらいに抱きしめる真紘の背中に腕を回して抱きしめ返すと、もう一度「好きですよ。大好きです」と言う。
そうすると、真紘が耳元で噛みしめるように言葉を落とす。
「……ありがとう。俺も。これからも俺の全部で薪に伝えていく」
その言葉は薪の中にどこまでも深くしみ込んで、やがて涙になって溢れる。
「はい。私もです。私の全部で主任に伝えていきます」
まだまだ返せるものは少ないかもしれない。鈍すぎる薪のことだ、ときにはその鈍さのせいで、真紘を不安にさせたり、やきもきさせてしまうことも、ないとも限らない。けれど、びっくりするくらい不器用な真紘が、照れくさかったり恥ずかしかったりして言いたくても言えない分まで、自分が〝好きだ〟と言葉にして伝えればいいだけなんだと、薪はそのとき、すとんと胸に落ちるものがあった。
だって、それが真紘を安心させてあげられる魔法の言葉になるはずだから。
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