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■5.聖夜の鬼は下僕に傅(かしず)く
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社会人にとっての十二月は、恋人たちの一大イベントを前に怒涛の忙しさに追われる。もはや、クリスマスのために頑張るのか、頑張ったご褒美にクリスマスがあるのかわからなくなりそうなくらい、仕事もプライベートも二十四日のイブと二十五日の当日に向けて浮き立ち、妙なハイ状態をキープしつつ日々は過ぎる。
それでも、ふと気づくと街はクリスマス一色に染まり、クリスマスソングが流れ、幻想的な光に包まれるページェントに、巨大なモミの木がデートスポットや広場に現れ人々の目を奪うのだから、やっぱりクリスマスは特別なイベントだ。
「薪、悪い。さっきのクーポン内容、やっぱりこっちと差し替えてくれ」
「ええっ⁉ も、もうデータ送って……」
「半額じゃなくてドリンクサービスにするんだと」
「……了解です」
「データ修正と外注先への連絡と、その他もろもろ、任せるな。あとで報告だけ上げてくれればいい。俺は今からちょっと出なきゃなんねーんだわ。頼む」
「わ、わかりました……!」
けれど、薪と真紘には、どうやらクリスマスは、まだまだ遠いらしい。
あるときは、さあ次はこの誌面の編集をとデスクに山積みの未処理案件から優先度の高いものをピックアップして作業をはじめようとした矢先、真紘に横から紙を差し出され、さらに優先度の順位を入れ替えなければならなくなりつつ、コートとビジネスバッグを引っ掴み急いで編集部を駆け出していく真紘の背中を〝グッドラック!〟と見送り、自分の仕事に取りかかり。
「薪、今から出るぞ。すぐに準備してくれ」
「えっ、私もですか?」
「例のあの温泉街の特集な、薪が一生懸命、企画書を作ってくれたおかげで本決まりになりそうなんだ。正式に決めに行くぞ。バレンタイン特集にぶち当てる」
「本当ですか⁉ 十秒で支度します!」
「薪。よくやった」
「はいっ!」
またあるときは、建て替え工事が終わった際にあいさつに行った、あの老舗ホテルを含む温泉街全体を特集するという企画を本決めにするため、真紘とともに最後の一押しに先方へ伺ったり。
そんな具合に、十二月初旬から年をまたいで並行する仕事にも奔走した。
「お疲れ、薪ちゃん。また死相が出かかってるわ」
「由里子ー。そっちはどう? 由里子もだいぶお疲れみたいだけど」
「こっちも似たような感じ。でも薪ちゃん、楽しそう」
「うん。由里子も」
とはいえ、編集部全体も同じようなものだ。
いつにも増して忙しさに拍車がかかる編集部内は、あちこちで電話が鳴り、その対応に追われ、急いで先方へ向かう社員も少なくない。
なにも薪と真紘のコンビだけがてんやわんやしているわけではないのだ。由里子だって連日残業続きだし、それはみんな同じ――十二月の宿命とも言える。
「ひと段落したら、いっぱい、いちゃいちゃしようね」
「……っ! 由里子、ここ編集部の中……!」
「誰も聞いてないって。そんな余裕、みんなないもの」
「う、うん……。……あのね、由里子。実は私も、そのために頑張ってる」
「あはは。同じだね」
「へへ。うん」
薪の耳元に口を寄せて囁く由里子に小声で抗議しつつも、誰も自分たちの会話も耳に入らない様子なのをいいことに本音を打ち明け合うと、途端に活力が湧いてくるから不思議だった。
でも、いくら現金だと言われようと、いっぱい、いちゃいちゃしたい。
それは真紘も同じで、もちろん仕事中は厳しい部分もあるものの、一度、プライベートのスイッチが入ると、途端にクリスマスの話題を口にするから可愛い。
幸い今年のクリスマスは土日に被っていて、ふたりで心ゆくまでいちゃいちゃしながら過ごすにはもってこいのカレンダーの並びだ。
そのあとは正月休みも控えている。仕事納めの前はまた忙しくなるけれど、クリスマス前までの忙しさよりはずいぶん可愛いものだし、何よりまた真紘といちゃいちゃしながら過ごせることが、薪の仕事へのモチベーションを上げてくれる。
真紘が伸び悩んでいるところを掬い上げてくれたおかげで、すっかり仕事の楽しさにも、週末を恋人と過ごす何物にも代えられない幸せな時間にも目覚めた薪は、クリスマスに向けて目の前の仕事をひとつひとつ片づけていった。
*
そうして迎えた、クリスマス直前の週末、金曜日――。
「薪、急ぎの案件だ。一緒に出るぞ」
「了解です! 戻りは何時頃でしょう? 片づけたい仕事があって」
「立て込んだ案件だからな。時間がかかるだろうから、悪いけど直帰だ」
「わ、わかりました……!」
またしても、薪のもとにクリスマスが遠のくような仕事が入った。
自分のデスクで誌面の編集作業に没頭していた薪は、すでにコートを着込んでビジネスバッグを片手に腕時計で時刻を確かめている真紘に弾かれるようにして外出の準備をすると、てんやわんやの編集部を急いであとにした。
今日が終われば主任といちゃいちゃクリスマス、と頭の中で繰り返しながら仕事に精を出していたのだけれど、真紘にさえ帰社時間が予想もつかないとは、どうやら相当、立て込んだ案件が舞い込んでしまったらしい。
現在時刻は午後三時を少し過ぎたあたりだ。これからその立て込んだ案件という先方へ伺うとして、それでも帰社時間がわからないだなんて、相当と言うほかないだろう。到着したエレベーターに乗り込み、真紘とともに一階へ降りながら、薪の胸は何かよっぽどのことがあったんだと不穏にざわめきっぱなしだった。
――けれど。
「二泊分の準備にどれくらい時間があればいい?」
「……へ?」
車に乗り込むなりそう尋ねた真紘に、薪は間の抜けた声しか出なかった。
空気が半分以上含まれているような薪の掠れた声が車内に溶け消えていき、薪と真紘の間に数瞬の沈黙が落ちる。
「いや……せっかくのクリスマスだし、思う存分、薪と過ごしたくて、ちょっと遠方のコテージを予約したんだ。もうそろそろ向かいはじめないとチェックインの時間に間に合わなくなりそうなんだよな」
すると、困惑する薪の顔を両手で包んだ真紘が優しい声色で言う。
「……、……しゅ、主任……? 何言って……?」
けれど薪はますます困惑するばかりだ。
状況に頭の整理がひとつも追いつかなくて、ただただ、間近にある真紘の顔を、その目に映る困惑しきった自分の顔を見つめるだけだった。
「急ぎの案件なんて、ありゃ嘘だ。――喜べ薪、サプライズだ」
「っ……!」
そこに一段と声色を優しくした真紘に微笑まれた薪は、やっとここまでの出来事が真紘が仕掛けたものだったと気づき、その瞬間、身体の力が一気に抜けていってしまった。まさか真紘が編集部全体を静かに巻き込んでこんなことをするとは思いもよらなくて、嬉しいやら、びっくりやら、薪の感情は途端に忙しくなる。
「仕事のことは心配するな。今、薪に任せてるのは、年明けから手を付けても全然間に合うものだし、ここのところ輪をかけて忙しすぎたから、俺が休みたかったんだ。付き合わせて悪いけど、全部放ってちょっとふたりでゆっくりしたい」
「もう。……主任、私のこと好きすぎます。嬉しいです、とっても」
そんなことを言われたら、もうこれしか返す言葉がない。
責任も立場もあって、編集部のエースだと部長の諸住も言うほど欠かせない存在である真紘が、仕事より恋人と過ごす時間のほうを優先することがあるだなんて、こうして種明かしをされた薪でさえ、いまだに信じられないような気分なのに、編集部の誰が直帰に見せかけてクリスマス旅行に行くことが予想できただろう。
……真紘が言うところの、薪への独占欲が出ているときに限って見られていたという由里子にすら、予想するのはだいぶ難しいことかもしれない。
「いい子だ。じゃあ、もう出よう。これはまさに〝急ぎの直帰案件〟だからな」
「ふふっ。はい」
そうして薪と真紘は、一度、薪の部屋に寄って二泊分の準備を整えると、そのまま高速に乗ってコテージへと向かうことになった。
仕掛け人の真紘はすでに車の後部座席に旅行の準備を済ませたバッグを置いていて、薪が気にかけるまでもなく準備万端の様子だ。
高速に乗る前に目に映った、まだまだ忙しなさが点在する街のそここでは、道を歩くスーツ姿の営業マンやオフィスカジュアルに身を包んだ女性社員と思われる人たちが多く行き交っていた。少しだけ早くその日常から抜け出た薪は、そんな姿をまだどこか夢を見ているような気分で眺めながら、けれど隣でハンドルを握る真紘や、しっかりと胸に抱いた自分の旅行の荷物に目を向けては、非日常の世界へ向かっているのを再確認することに忙しかった。
――嬉しい。幸せ。大好き……。……早く主任とひとつになりたい。
やがて目に映る景色に白く薄化粧をした山々が見えてくると、薪の胸の中はよりいっそう、その思いでいっぱいになっていったのだった。
*
「着いたぞ、薪。チェックインしてくるから、ちょっと待ってろ」
「はい」
そうして車で三時間ほどかけて着いたのは、薄っすらと雪が積もり、まるで粉砂糖のデコレーションを振りかけたような三角屋根が可愛らしいコテージが点在する、まさに非日常の世界だった。その管理棟の前に車を停めた真紘は、中に薪を残してチェックインに向かい、ややして受け取った鍵を手に戻ってくる。
「けっこう疲れただろ。三時間だからな」
「いえ。ずっと運転しっぱなしで、主任のほうこそ疲れたんじゃないですか?」
「そんなことはない。これから薪と二泊もするんだ、疲れるもんか」
「ふふ。私もずっと、ドキドキしっぱなしで……。それにしても、なんて可愛らしいコテージが並んでいるんでしょう。まるで童話の世界に迷い込んだみたいですよ。日常から抜け出すとこんな世界があったなんて、やっぱりまだまだ主任に連れ出してもらわないと、自分の中に糧として落とし込んでいけそうにないです」
気づかってくれた真紘に笑って、それから改めてライトアップされたコテージを見回した薪は、なんて綺麗なんだろうと感嘆のため息をつく。
午後三時過ぎに会社を出て薪の部屋に寄って旅行の準備をし、午後四時にはこちらへ向かったので現在は午後七時だ。チェックインは午後八時までだというから、道中の道路状況も読めない中では、真紘が言った通り、あの時点でそろそろ向かいはじめないと余裕を持って到着できない時間だったかもしれない。
――日中の景色も綺麗なんだろうな。『iroha』で紹介できないかな。
そんなことを思いながら、薪は車の窓に顔を寄せる。
「薪、仕事のことはもう忘れろ。今回は冗談抜きに薪と過ごすためだけに探したコテージなんだ。これだけ遠けりゃ、滅多なことでもない限り会社の人にも会わないだろうし、羽も広げられる。非日常をふたりでゆっくり楽しもう」
すると真紘にそう言われ、薪は苦笑しながら「はい」と返した。
つい仕事のことが頭をよぎってしまったけれど、それを忘れてゆっくり過ごせるように、わざわざ真紘が車で三時間もかかるほど遠い場所のコテージを探してくれたのだ。この非日常を心の底から楽しまないでどうするんだろう。
そんな薪を見て、ふっと口元を緩めた真紘が尋ねる。
「荷物だけ置いてメシに出るか? それとも、何か適当に食材を買ってキッチンで作ってやろうか? ディナーも予約しようか迷ったんだけど、薪、俺が作るメシが好きだろ? どっちがいいか、薪に決めてもらおうと思って」
「うーん。主任のご飯がいいです。きっとディナーも美味しいでしょうけど、緊張しちゃうんと思うんです。それに、主任も、主任のご飯も大好きなんです。ふたりでゆっくり過ごすなら、出かけるより何かしながらずっと一緒にいたいです」
「そうか。じゃあ、荷物を置いたら買い出しに行くか」
少し迷って答えると、真紘が嬉しそうに笑ってそう言う。
にっこり笑って頷いた薪は、そうしてひとまずコテージに荷物を置くと、再び真紘の運転で食料の買い出しに向かうことになった。
荷物を置く際にちらりと見たコテージの中は、広々としたダイニングキッチンと、リビングには大きなソファーとテレビ、そして暖炉があった。到着時間に合わせて火を起こしてくれたのだろう、中はすでに十分なくらいに暖かく、パチパチと薪が燃える音が静かに響いていた。
どうりで屋根に煙突が立っていたわけだ。「本物の暖炉なんて初めて見ました」と感動する薪の腰を抱いて「ずっと裸で抱き合ってても寒くないな」と耳元で囁く真紘にちょっとだけ頬を膨らませた薪は、けれどすぐに「寒くないようにずっと抱いててください」と真紘の頬に手を添えて自分に引き寄せ、その唇にキスをした。
それでも、ふと気づくと街はクリスマス一色に染まり、クリスマスソングが流れ、幻想的な光に包まれるページェントに、巨大なモミの木がデートスポットや広場に現れ人々の目を奪うのだから、やっぱりクリスマスは特別なイベントだ。
「薪、悪い。さっきのクーポン内容、やっぱりこっちと差し替えてくれ」
「ええっ⁉ も、もうデータ送って……」
「半額じゃなくてドリンクサービスにするんだと」
「……了解です」
「データ修正と外注先への連絡と、その他もろもろ、任せるな。あとで報告だけ上げてくれればいい。俺は今からちょっと出なきゃなんねーんだわ。頼む」
「わ、わかりました……!」
けれど、薪と真紘には、どうやらクリスマスは、まだまだ遠いらしい。
あるときは、さあ次はこの誌面の編集をとデスクに山積みの未処理案件から優先度の高いものをピックアップして作業をはじめようとした矢先、真紘に横から紙を差し出され、さらに優先度の順位を入れ替えなければならなくなりつつ、コートとビジネスバッグを引っ掴み急いで編集部を駆け出していく真紘の背中を〝グッドラック!〟と見送り、自分の仕事に取りかかり。
「薪、今から出るぞ。すぐに準備してくれ」
「えっ、私もですか?」
「例のあの温泉街の特集な、薪が一生懸命、企画書を作ってくれたおかげで本決まりになりそうなんだ。正式に決めに行くぞ。バレンタイン特集にぶち当てる」
「本当ですか⁉ 十秒で支度します!」
「薪。よくやった」
「はいっ!」
またあるときは、建て替え工事が終わった際にあいさつに行った、あの老舗ホテルを含む温泉街全体を特集するという企画を本決めにするため、真紘とともに最後の一押しに先方へ伺ったり。
そんな具合に、十二月初旬から年をまたいで並行する仕事にも奔走した。
「お疲れ、薪ちゃん。また死相が出かかってるわ」
「由里子ー。そっちはどう? 由里子もだいぶお疲れみたいだけど」
「こっちも似たような感じ。でも薪ちゃん、楽しそう」
「うん。由里子も」
とはいえ、編集部全体も同じようなものだ。
いつにも増して忙しさに拍車がかかる編集部内は、あちこちで電話が鳴り、その対応に追われ、急いで先方へ向かう社員も少なくない。
なにも薪と真紘のコンビだけがてんやわんやしているわけではないのだ。由里子だって連日残業続きだし、それはみんな同じ――十二月の宿命とも言える。
「ひと段落したら、いっぱい、いちゃいちゃしようね」
「……っ! 由里子、ここ編集部の中……!」
「誰も聞いてないって。そんな余裕、みんなないもの」
「う、うん……。……あのね、由里子。実は私も、そのために頑張ってる」
「あはは。同じだね」
「へへ。うん」
薪の耳元に口を寄せて囁く由里子に小声で抗議しつつも、誰も自分たちの会話も耳に入らない様子なのをいいことに本音を打ち明け合うと、途端に活力が湧いてくるから不思議だった。
でも、いくら現金だと言われようと、いっぱい、いちゃいちゃしたい。
それは真紘も同じで、もちろん仕事中は厳しい部分もあるものの、一度、プライベートのスイッチが入ると、途端にクリスマスの話題を口にするから可愛い。
幸い今年のクリスマスは土日に被っていて、ふたりで心ゆくまでいちゃいちゃしながら過ごすにはもってこいのカレンダーの並びだ。
そのあとは正月休みも控えている。仕事納めの前はまた忙しくなるけれど、クリスマス前までの忙しさよりはずいぶん可愛いものだし、何よりまた真紘といちゃいちゃしながら過ごせることが、薪の仕事へのモチベーションを上げてくれる。
真紘が伸び悩んでいるところを掬い上げてくれたおかげで、すっかり仕事の楽しさにも、週末を恋人と過ごす何物にも代えられない幸せな時間にも目覚めた薪は、クリスマスに向けて目の前の仕事をひとつひとつ片づけていった。
*
そうして迎えた、クリスマス直前の週末、金曜日――。
「薪、急ぎの案件だ。一緒に出るぞ」
「了解です! 戻りは何時頃でしょう? 片づけたい仕事があって」
「立て込んだ案件だからな。時間がかかるだろうから、悪いけど直帰だ」
「わ、わかりました……!」
またしても、薪のもとにクリスマスが遠のくような仕事が入った。
自分のデスクで誌面の編集作業に没頭していた薪は、すでにコートを着込んでビジネスバッグを片手に腕時計で時刻を確かめている真紘に弾かれるようにして外出の準備をすると、てんやわんやの編集部を急いであとにした。
今日が終われば主任といちゃいちゃクリスマス、と頭の中で繰り返しながら仕事に精を出していたのだけれど、真紘にさえ帰社時間が予想もつかないとは、どうやら相当、立て込んだ案件が舞い込んでしまったらしい。
現在時刻は午後三時を少し過ぎたあたりだ。これからその立て込んだ案件という先方へ伺うとして、それでも帰社時間がわからないだなんて、相当と言うほかないだろう。到着したエレベーターに乗り込み、真紘とともに一階へ降りながら、薪の胸は何かよっぽどのことがあったんだと不穏にざわめきっぱなしだった。
――けれど。
「二泊分の準備にどれくらい時間があればいい?」
「……へ?」
車に乗り込むなりそう尋ねた真紘に、薪は間の抜けた声しか出なかった。
空気が半分以上含まれているような薪の掠れた声が車内に溶け消えていき、薪と真紘の間に数瞬の沈黙が落ちる。
「いや……せっかくのクリスマスだし、思う存分、薪と過ごしたくて、ちょっと遠方のコテージを予約したんだ。もうそろそろ向かいはじめないとチェックインの時間に間に合わなくなりそうなんだよな」
すると、困惑する薪の顔を両手で包んだ真紘が優しい声色で言う。
「……、……しゅ、主任……? 何言って……?」
けれど薪はますます困惑するばかりだ。
状況に頭の整理がひとつも追いつかなくて、ただただ、間近にある真紘の顔を、その目に映る困惑しきった自分の顔を見つめるだけだった。
「急ぎの案件なんて、ありゃ嘘だ。――喜べ薪、サプライズだ」
「っ……!」
そこに一段と声色を優しくした真紘に微笑まれた薪は、やっとここまでの出来事が真紘が仕掛けたものだったと気づき、その瞬間、身体の力が一気に抜けていってしまった。まさか真紘が編集部全体を静かに巻き込んでこんなことをするとは思いもよらなくて、嬉しいやら、びっくりやら、薪の感情は途端に忙しくなる。
「仕事のことは心配するな。今、薪に任せてるのは、年明けから手を付けても全然間に合うものだし、ここのところ輪をかけて忙しすぎたから、俺が休みたかったんだ。付き合わせて悪いけど、全部放ってちょっとふたりでゆっくりしたい」
「もう。……主任、私のこと好きすぎます。嬉しいです、とっても」
そんなことを言われたら、もうこれしか返す言葉がない。
責任も立場もあって、編集部のエースだと部長の諸住も言うほど欠かせない存在である真紘が、仕事より恋人と過ごす時間のほうを優先することがあるだなんて、こうして種明かしをされた薪でさえ、いまだに信じられないような気分なのに、編集部の誰が直帰に見せかけてクリスマス旅行に行くことが予想できただろう。
……真紘が言うところの、薪への独占欲が出ているときに限って見られていたという由里子にすら、予想するのはだいぶ難しいことかもしれない。
「いい子だ。じゃあ、もう出よう。これはまさに〝急ぎの直帰案件〟だからな」
「ふふっ。はい」
そうして薪と真紘は、一度、薪の部屋に寄って二泊分の準備を整えると、そのまま高速に乗ってコテージへと向かうことになった。
仕掛け人の真紘はすでに車の後部座席に旅行の準備を済ませたバッグを置いていて、薪が気にかけるまでもなく準備万端の様子だ。
高速に乗る前に目に映った、まだまだ忙しなさが点在する街のそここでは、道を歩くスーツ姿の営業マンやオフィスカジュアルに身を包んだ女性社員と思われる人たちが多く行き交っていた。少しだけ早くその日常から抜け出た薪は、そんな姿をまだどこか夢を見ているような気分で眺めながら、けれど隣でハンドルを握る真紘や、しっかりと胸に抱いた自分の旅行の荷物に目を向けては、非日常の世界へ向かっているのを再確認することに忙しかった。
――嬉しい。幸せ。大好き……。……早く主任とひとつになりたい。
やがて目に映る景色に白く薄化粧をした山々が見えてくると、薪の胸の中はよりいっそう、その思いでいっぱいになっていったのだった。
*
「着いたぞ、薪。チェックインしてくるから、ちょっと待ってろ」
「はい」
そうして車で三時間ほどかけて着いたのは、薄っすらと雪が積もり、まるで粉砂糖のデコレーションを振りかけたような三角屋根が可愛らしいコテージが点在する、まさに非日常の世界だった。その管理棟の前に車を停めた真紘は、中に薪を残してチェックインに向かい、ややして受け取った鍵を手に戻ってくる。
「けっこう疲れただろ。三時間だからな」
「いえ。ずっと運転しっぱなしで、主任のほうこそ疲れたんじゃないですか?」
「そんなことはない。これから薪と二泊もするんだ、疲れるもんか」
「ふふ。私もずっと、ドキドキしっぱなしで……。それにしても、なんて可愛らしいコテージが並んでいるんでしょう。まるで童話の世界に迷い込んだみたいですよ。日常から抜け出すとこんな世界があったなんて、やっぱりまだまだ主任に連れ出してもらわないと、自分の中に糧として落とし込んでいけそうにないです」
気づかってくれた真紘に笑って、それから改めてライトアップされたコテージを見回した薪は、なんて綺麗なんだろうと感嘆のため息をつく。
午後三時過ぎに会社を出て薪の部屋に寄って旅行の準備をし、午後四時にはこちらへ向かったので現在は午後七時だ。チェックインは午後八時までだというから、道中の道路状況も読めない中では、真紘が言った通り、あの時点でそろそろ向かいはじめないと余裕を持って到着できない時間だったかもしれない。
――日中の景色も綺麗なんだろうな。『iroha』で紹介できないかな。
そんなことを思いながら、薪は車の窓に顔を寄せる。
「薪、仕事のことはもう忘れろ。今回は冗談抜きに薪と過ごすためだけに探したコテージなんだ。これだけ遠けりゃ、滅多なことでもない限り会社の人にも会わないだろうし、羽も広げられる。非日常をふたりでゆっくり楽しもう」
すると真紘にそう言われ、薪は苦笑しながら「はい」と返した。
つい仕事のことが頭をよぎってしまったけれど、それを忘れてゆっくり過ごせるように、わざわざ真紘が車で三時間もかかるほど遠い場所のコテージを探してくれたのだ。この非日常を心の底から楽しまないでどうするんだろう。
そんな薪を見て、ふっと口元を緩めた真紘が尋ねる。
「荷物だけ置いてメシに出るか? それとも、何か適当に食材を買ってキッチンで作ってやろうか? ディナーも予約しようか迷ったんだけど、薪、俺が作るメシが好きだろ? どっちがいいか、薪に決めてもらおうと思って」
「うーん。主任のご飯がいいです。きっとディナーも美味しいでしょうけど、緊張しちゃうんと思うんです。それに、主任も、主任のご飯も大好きなんです。ふたりでゆっくり過ごすなら、出かけるより何かしながらずっと一緒にいたいです」
「そうか。じゃあ、荷物を置いたら買い出しに行くか」
少し迷って答えると、真紘が嬉しそうに笑ってそう言う。
にっこり笑って頷いた薪は、そうしてひとまずコテージに荷物を置くと、再び真紘の運転で食料の買い出しに向かうことになった。
荷物を置く際にちらりと見たコテージの中は、広々としたダイニングキッチンと、リビングには大きなソファーとテレビ、そして暖炉があった。到着時間に合わせて火を起こしてくれたのだろう、中はすでに十分なくらいに暖かく、パチパチと薪が燃える音が静かに響いていた。
どうりで屋根に煙突が立っていたわけだ。「本物の暖炉なんて初めて見ました」と感動する薪の腰を抱いて「ずっと裸で抱き合ってても寒くないな」と耳元で囁く真紘にちょっとだけ頬を膨らませた薪は、けれどすぐに「寒くないようにずっと抱いててください」と真紘の頬に手を添えて自分に引き寄せ、その唇にキスをした。
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