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■3.ハロウィンナイトの鬼は甘く
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それからの約二週間は仕事を覚えることだけで精一杯で、ほかに何か考える余裕も余力もないまま、まさに怒涛のように毎日が過ぎていった。
くたくたになるまで頭と体力を使って働き、部屋に帰ってからも今日の仕事の振り返りや反省点、改善点などを自分なりに洗い出して翌日に備え、また、くたくたになるまで働いたあとは次の日に備える――それの繰り返しで、やっと金曜日になっても、映画館に足を運ぶ暇があるなら休むほうに使いたいと思ってしまうほど、鬼との仕事はハードそのもだった。
部屋でDVDを観る気も湧いてこないし、真紘のほうもまた、薪が今、一番に考えていることをわかって【喜べ、甘えてやる】なんていう謎のラインを寄越して水を差してくるようなこともなければ、週末を連れ回すようなこともなかった。
……もとより、あのキス以降は仕事上の会話以外はしていないので、その点においてはふたりの間にはピンと張り詰めたような緊張がずっと走っているけれど。
でも、薪にはむしろ、ちょうどよかった。
仕事のこと以外を考える余裕がないということは、それだけ目の前に集中できているということだ。そうでなくても、仕事で真紘に付いていくのに精一杯すぎて、ほかのことに時間を割く暇さえない。何も考えずに仕事にだけ没頭する――そんな二週間は、薪にとっても真紘にとっても、いったんクールダウンをする、いいきっかけになったことは間違いなかった。
だって真紘の仕事は、本当に多岐に渡っている。
誌面の編集は、なにも自分が担当する部分だけではない。
『iroha』に毎号、掲載させてもらう地元モデルやカリスマ性のある人物のリサーチ、そのアポ取りに依頼、了承が得られればキャスティングをして、それと並行で写真撮影に必要なスタジオや、カメラマンからスタイリスト、メイクアップアーティストなどのスタッフの手配に、撮影した写真のリストアップや確認等々、挙げればきりがないほど、裏方仕事は多い。
もちろん、真紘がすべてひとりでこなしているわけではないけれど、その窓口の役割ではあるので、各方面から上がってくる報告や進捗状況をいったん統括する立場にはある。
例えばカメラマンの手配が上手くいっていないと報告があれば、どこからともなく見つけてきて撮影スタッフを揃えたり、押さえていたスタジオが急な予定変更で使えなくなったと聞けば別のスタジオを用意したり、それを各方面に連絡したりといった具合に、とにかく真紘の仕事量は多く、またマルチタスクが過ぎる。
さらに、ネイルサロンやエステ、美容院などの美容部門や、ホテルや旅館といった宿泊施設を扱う部門、飲食店部門や娯楽施設部門などの各チームリーダーと、部長など全体をまとめる立場にある人たちでの編集会議に、校了間近になってくると次々と上がってくる記事の入力チェックを行い、以前、薪も連れて行ってもらったように足での営業活動も普通にしている。
どこに休む暇があるんだろうと度肝を抜かれるほどに真紘の仕事は幅も量も並大抵のものではなく、実際に薪も真紘に付いて撮影現場や編集会議に参加させてもらったものの、あたふたしたまま役に立てずに終わってしまった、という感覚だ。
最初の一週間、真紘と仕事をしてみて、薪は、こんなのは人が業務時間内でこなせる仕事の量じゃないと何度、腰を抜かしそうになったことだろう。
次の一週間はなんとか食らいついていこうと奮起したものの、週の早い段階でぐんぐん真紘に引き離されてしまい、手も足も出なかった。
スケジュール通りにいかないことなんて当たり前なのに、それでもしっかり期日までに完璧に仕上げる真紘は、やはりすごいとしか言いようがなかった。
とどのつまり、この編集部を実際に動かしているのは、鬼神・新田真紘だ。
以前、真紘と組んで仕事をする話を受けたとき、部長の諸住も真紘のことを『彼は本当に仕事がよくできる、この編集部のエースだから』と言っていたけれど、その意味が骨身に染みて本当によくわかった、怒涛に次ぐ怒涛の二週間だった。
*
それでも、誰にでも平等に週末はやってくる。
「かなりお疲れだねえ。はい、これ。私から薪ちゃんに差し入れ」
「わあ、ありがとう由里子。愛してるよー」
「はいはい。ラウンジでちょっと休も。薪ちゃん、死相が出かかってるわ」
どうにかこうにか今週の仕事の終わりが見えてきた金曜日、定時ちょっと過ぎ、自分のデスクにかじりつくようにして誌面の編集作業をしていた薪は、由里子にそう声をかけられ、へろへろの笑顔で礼を言うと、そのままふたりでラウンジへ向かって少し休憩を取ることにした。
「ああー、生き返るー」
「お。だんだん死相が引っ込んできたかも」
「あはは」
差し入れてもらったカフェオレにストローを差し、ぢゅーっと勢いよく吸い上げると、途端に全身に糖分が巡って、まさに生き返るような心地がした。
死相が出かかっているとか、引っ込んできたとか、由里子もさすがに表現が過ぎるなとは思うけれど、それくらい薪の顔には疲れが滲んでいるのだろう。この休憩は、馬車馬のように働いた二週間をずっと間近で見てきた由里子からの労いだ。
それに甘えて「美味しいよー、ありがとう由里子ー」と言いながら、薪はテーブルに覆い被さる。すると頭を由里子が優しい手つきで撫でてくれて、薪はそんな彼女にへにゃりと笑うと、その手つきと温かさにしばし身を委ねることにした。
目を閉じるとここが会社にも関わらず寝てしまいそうだったので、カフェオレのカロリーや成分表を読むことで、襲ってくる眠気を紛らわすことにする。
「でもさ、どうして死にかけるのがわかってて主任と組むことにしたの?」
すると、由里子が若干、同情した口調で尋ねてきた。
真紘のマルチタスクが過ぎる仕事のことは、由里子だけではなく、編集部の誰もが周知のことだ。みんな口には出さないまでも、なんとか真紘の仕事量を軽減できないかと、個々で賄える仕事は個々でやっている。
けれど、どうしても頼らざるを得ないことも多く、なかなか真紘に自分の仕事に集中してもらう時間を取らせてあげられないのが、悔しいかな編集部の現状だ。
部長の諸住だって、編集部に人を入れてほしいと何度も人事に掛け合っている。けれどその要望もなかなか通らないのが実際のところで、もとよりギリギリの人数で回している部署のため、真紘にかかる負担は正直、かなりのものと言える。
由里子もそのことをわかっているから、真紘と組んで仕事をしはじめた薪にどうしてなのかと尋ねているのだ。薪の要領がお世辞にもいいとは言えないことは、ずっと同じ仕事をしてきた同期の由里子が身近に感じてきたことでもあるだろう。
真紘のことが苦手だと愚痴をこぼしたことだって何度もある。由里子は純粋に、そんな薪のことを心配してくれているに違いなかった。
「……私さ、自分でも、ここのところずっと伸び悩んでるって感覚があったの。どうにかしなきゃって思って、私なりに勉強したりもしてたんだけど、なかなか上手くいかなくて。そんな私を見兼ねた主任が、部長に〝薪の面倒は自分が見るから、どうか薪を半年、自分にくれないか〟って何度も掛け合ってくれたみたいで。部長から主任と半年組んで仕事をしないかって話をもらったときに、そのことを教えてもらったんだけど……私、すごく嬉しかったんだよね。だから、死相が出かかるくらい、どうってことないっていうか」
そこまで言って、薪はくしゃりと笑った。
今は、真紘が薪のために部長に掛け合ってくれたときの言葉と、映画館で遭遇し、わけもわからないまま真紘の住む部屋に連れて行かれた翌朝、優しく真剣な口調と眼差しで言ってくれた『俺が〝薪はこんなもんじゃない〟って思ってる。……俺の期待に応えてみる気はないか?』という一言が薪の原動力だ。
とはいえ、たとえ由里子の前であっても、真紘とプライベートの時間に何があったかや、どんな会話をしたか、どこに行ったかなどを話せるわけもない。
それを打ち明けるには会社の中では都合が悪いし、こんなふうにカフェオレを片手に、ぐでぐでしながら言えるような話でもない。
だって、真紘の趣味が薪と同じ恋愛映画を観ることだったり、なぜか〝けっこうな甘えたがり〟だという秘密まで無理やり握らされたり、強引に連れ回されたり、可愛いことが言えたご褒美だとかで、足湯であんなキスをされたり――どうやったら、こんなところで、ぐでぐでしながら話せるというのだろう。
真紘がかけてくれる期待に応えると決めた気持ちに変わりはない。だから、由里子が言うところの、死相が出かかったり、死にかけるとわかっていても、部長に話をもらったとき、すぐに真紘と組んで仕事をすると決めた。
そのあとに何があっても、私情なんて絶対に持ち込みたくないし、今は仕事のことだけ考えていたい。……そうやって無理やりにでも切り離していないと、キスのことを思い出してしまって、頭の中がどうにかなってしまいそうだ。
「でも、それにしては、薪ちゃんの様子が少しおかしい気がするんだけど……」
すると、薪の頭をぽんぽんと子供をあやすときの手つきに変えて由里子が言う。
「おかしいって?」
「さっき、薪ちゃんは〝すごく嬉しかった〟って言ったけど、薪ちゃんの顔、ずっと泣きそうなんだよね。最初は私も、慣れないうちは誰だってそうなるよねとか、組む相手が鬼の主任だからなとか、けっこう単純に思ってたんだけどさ。でも、よく見たら全然嬉しそうじゃないし、すっごい無理した顔で働いてる。だから、薪ちゃんはちょっとおかしい。……違う?」
「ふはっ。ちょっとおかしいって……」
内心でぎくりとしながら、それでも平静を装って聞き返すと、由里子は最後をそう締めくくって薪を少しだけ笑わせてくれた。
だいぶ省いたなとは思うけれど、でも、間違ってはいないとも思う。
自分では仕事中のことはわからないものの、ここ二週間の薪はとにかく、思考も体力も仕事に全振りしようと躍起になっていたことは確かだ。
もちろんそれは、真紘や部長がかけてくれる期待に応えてみせるという意気込みだったり、早く仕事を覚えなきゃという、無意識に自分自身にかけていたプレッシャーの大きさだったりが理由だと思う。
でも、ふと気が抜けた瞬間に重く頭をもたげてくるのは、どうしたってあの日のあのキスだった。それを追い払いたくて、より一層、仕事に全振りする。けれどまた、いくら打ち消しても心につきまとって離れてくれない。
おそらく、強迫観念にも似たそのループが知らず知らずのうちに顔に出ていて、由里子には〝泣きそうな顔〟として見えていたのだろう。
――由里子だって忙しいのに。……ごめん。
薪は、変に心配させてしまったな、由里子だって自分たちが組んだことでそれぞれの顧客を引き継いで業務量が多くなっているのに申し訳ないことをしたな、という気持ちが胸の中に広がってくるのを感じずにはいられなかった。
「――で。実際のところはどうなの? 違う? 違わない?」
「はは。私は全然、大丈夫。ほんと、疲れてるだけだから。でも、ありがとう」
「薪ちゃん……」
由里子に再度聞かれて、けれど薪はこれ以上は心配をかけられないと嘘をつく。
本当は苦しいし、自分の気持ちもわからない。真紘が何を考えたり思ったりしているのかもわからないし、仕事で向き合うたびに逃げ出したい気持ちにもなる。それに、どうして泣きながら自慰なんてしたのかも、わからない。わかるのは〝わからない〟ことだけだ。……あんなのは、ほんの一時的な慰めでしかないのに。
――ああもう。出てこないでよ、涙なんて……。
そこまで考えて、不意打ちで食らった由里子の優しさに、薪の目にはじわじわと涙が溜まっていった。でも、嘘をついた手前、できるだけ自然なふうを心がけつつ由里子と反対側に顔を向けて、薪は涙が引いていくのをじっと待つことにする。
口が悪いところはあるけれど、由里子はとても優しい、薪の大好きな同期だ。ただでさえ業務を引き継いだことで忙しくなっているのに、ほかのことで――自分のことなんかで由里子の気を煩わせたくはなかった。
「ごめん。本格的に眠くなってきちゃったから、このまま仮眠しちゃうね」
「……うん。無理だけはしないでね」
「ありがとう」
涙はまだ引きそうになく、顔を見せられない以上、申し訳ないけれど由里子に席を外してもらったほうがいいだろうと思った薪は、そう言ってひとりになることを選ばせてもらう。気を利かせてくれたのだろう、ややすると由里子が席を立つ音がして、そのままラウンジを出て行った気配がした。
「うっ……ううっ……。……主任のバカ……」
その途端、堪えきれずに薪の口から嗚咽が漏れる。
涙はいつの間にか、テーブルの上にぼたぼた落ちて大きくなりつつあった。
くたくたになるまで頭と体力を使って働き、部屋に帰ってからも今日の仕事の振り返りや反省点、改善点などを自分なりに洗い出して翌日に備え、また、くたくたになるまで働いたあとは次の日に備える――それの繰り返しで、やっと金曜日になっても、映画館に足を運ぶ暇があるなら休むほうに使いたいと思ってしまうほど、鬼との仕事はハードそのもだった。
部屋でDVDを観る気も湧いてこないし、真紘のほうもまた、薪が今、一番に考えていることをわかって【喜べ、甘えてやる】なんていう謎のラインを寄越して水を差してくるようなこともなければ、週末を連れ回すようなこともなかった。
……もとより、あのキス以降は仕事上の会話以外はしていないので、その点においてはふたりの間にはピンと張り詰めたような緊張がずっと走っているけれど。
でも、薪にはむしろ、ちょうどよかった。
仕事のこと以外を考える余裕がないということは、それだけ目の前に集中できているということだ。そうでなくても、仕事で真紘に付いていくのに精一杯すぎて、ほかのことに時間を割く暇さえない。何も考えずに仕事にだけ没頭する――そんな二週間は、薪にとっても真紘にとっても、いったんクールダウンをする、いいきっかけになったことは間違いなかった。
だって真紘の仕事は、本当に多岐に渡っている。
誌面の編集は、なにも自分が担当する部分だけではない。
『iroha』に毎号、掲載させてもらう地元モデルやカリスマ性のある人物のリサーチ、そのアポ取りに依頼、了承が得られればキャスティングをして、それと並行で写真撮影に必要なスタジオや、カメラマンからスタイリスト、メイクアップアーティストなどのスタッフの手配に、撮影した写真のリストアップや確認等々、挙げればきりがないほど、裏方仕事は多い。
もちろん、真紘がすべてひとりでこなしているわけではないけれど、その窓口の役割ではあるので、各方面から上がってくる報告や進捗状況をいったん統括する立場にはある。
例えばカメラマンの手配が上手くいっていないと報告があれば、どこからともなく見つけてきて撮影スタッフを揃えたり、押さえていたスタジオが急な予定変更で使えなくなったと聞けば別のスタジオを用意したり、それを各方面に連絡したりといった具合に、とにかく真紘の仕事量は多く、またマルチタスクが過ぎる。
さらに、ネイルサロンやエステ、美容院などの美容部門や、ホテルや旅館といった宿泊施設を扱う部門、飲食店部門や娯楽施設部門などの各チームリーダーと、部長など全体をまとめる立場にある人たちでの編集会議に、校了間近になってくると次々と上がってくる記事の入力チェックを行い、以前、薪も連れて行ってもらったように足での営業活動も普通にしている。
どこに休む暇があるんだろうと度肝を抜かれるほどに真紘の仕事は幅も量も並大抵のものではなく、実際に薪も真紘に付いて撮影現場や編集会議に参加させてもらったものの、あたふたしたまま役に立てずに終わってしまった、という感覚だ。
最初の一週間、真紘と仕事をしてみて、薪は、こんなのは人が業務時間内でこなせる仕事の量じゃないと何度、腰を抜かしそうになったことだろう。
次の一週間はなんとか食らいついていこうと奮起したものの、週の早い段階でぐんぐん真紘に引き離されてしまい、手も足も出なかった。
スケジュール通りにいかないことなんて当たり前なのに、それでもしっかり期日までに完璧に仕上げる真紘は、やはりすごいとしか言いようがなかった。
とどのつまり、この編集部を実際に動かしているのは、鬼神・新田真紘だ。
以前、真紘と組んで仕事をする話を受けたとき、部長の諸住も真紘のことを『彼は本当に仕事がよくできる、この編集部のエースだから』と言っていたけれど、その意味が骨身に染みて本当によくわかった、怒涛に次ぐ怒涛の二週間だった。
*
それでも、誰にでも平等に週末はやってくる。
「かなりお疲れだねえ。はい、これ。私から薪ちゃんに差し入れ」
「わあ、ありがとう由里子。愛してるよー」
「はいはい。ラウンジでちょっと休も。薪ちゃん、死相が出かかってるわ」
どうにかこうにか今週の仕事の終わりが見えてきた金曜日、定時ちょっと過ぎ、自分のデスクにかじりつくようにして誌面の編集作業をしていた薪は、由里子にそう声をかけられ、へろへろの笑顔で礼を言うと、そのままふたりでラウンジへ向かって少し休憩を取ることにした。
「ああー、生き返るー」
「お。だんだん死相が引っ込んできたかも」
「あはは」
差し入れてもらったカフェオレにストローを差し、ぢゅーっと勢いよく吸い上げると、途端に全身に糖分が巡って、まさに生き返るような心地がした。
死相が出かかっているとか、引っ込んできたとか、由里子もさすがに表現が過ぎるなとは思うけれど、それくらい薪の顔には疲れが滲んでいるのだろう。この休憩は、馬車馬のように働いた二週間をずっと間近で見てきた由里子からの労いだ。
それに甘えて「美味しいよー、ありがとう由里子ー」と言いながら、薪はテーブルに覆い被さる。すると頭を由里子が優しい手つきで撫でてくれて、薪はそんな彼女にへにゃりと笑うと、その手つきと温かさにしばし身を委ねることにした。
目を閉じるとここが会社にも関わらず寝てしまいそうだったので、カフェオレのカロリーや成分表を読むことで、襲ってくる眠気を紛らわすことにする。
「でもさ、どうして死にかけるのがわかってて主任と組むことにしたの?」
すると、由里子が若干、同情した口調で尋ねてきた。
真紘のマルチタスクが過ぎる仕事のことは、由里子だけではなく、編集部の誰もが周知のことだ。みんな口には出さないまでも、なんとか真紘の仕事量を軽減できないかと、個々で賄える仕事は個々でやっている。
けれど、どうしても頼らざるを得ないことも多く、なかなか真紘に自分の仕事に集中してもらう時間を取らせてあげられないのが、悔しいかな編集部の現状だ。
部長の諸住だって、編集部に人を入れてほしいと何度も人事に掛け合っている。けれどその要望もなかなか通らないのが実際のところで、もとよりギリギリの人数で回している部署のため、真紘にかかる負担は正直、かなりのものと言える。
由里子もそのことをわかっているから、真紘と組んで仕事をしはじめた薪にどうしてなのかと尋ねているのだ。薪の要領がお世辞にもいいとは言えないことは、ずっと同じ仕事をしてきた同期の由里子が身近に感じてきたことでもあるだろう。
真紘のことが苦手だと愚痴をこぼしたことだって何度もある。由里子は純粋に、そんな薪のことを心配してくれているに違いなかった。
「……私さ、自分でも、ここのところずっと伸び悩んでるって感覚があったの。どうにかしなきゃって思って、私なりに勉強したりもしてたんだけど、なかなか上手くいかなくて。そんな私を見兼ねた主任が、部長に〝薪の面倒は自分が見るから、どうか薪を半年、自分にくれないか〟って何度も掛け合ってくれたみたいで。部長から主任と半年組んで仕事をしないかって話をもらったときに、そのことを教えてもらったんだけど……私、すごく嬉しかったんだよね。だから、死相が出かかるくらい、どうってことないっていうか」
そこまで言って、薪はくしゃりと笑った。
今は、真紘が薪のために部長に掛け合ってくれたときの言葉と、映画館で遭遇し、わけもわからないまま真紘の住む部屋に連れて行かれた翌朝、優しく真剣な口調と眼差しで言ってくれた『俺が〝薪はこんなもんじゃない〟って思ってる。……俺の期待に応えてみる気はないか?』という一言が薪の原動力だ。
とはいえ、たとえ由里子の前であっても、真紘とプライベートの時間に何があったかや、どんな会話をしたか、どこに行ったかなどを話せるわけもない。
それを打ち明けるには会社の中では都合が悪いし、こんなふうにカフェオレを片手に、ぐでぐでしながら言えるような話でもない。
だって、真紘の趣味が薪と同じ恋愛映画を観ることだったり、なぜか〝けっこうな甘えたがり〟だという秘密まで無理やり握らされたり、強引に連れ回されたり、可愛いことが言えたご褒美だとかで、足湯であんなキスをされたり――どうやったら、こんなところで、ぐでぐでしながら話せるというのだろう。
真紘がかけてくれる期待に応えると決めた気持ちに変わりはない。だから、由里子が言うところの、死相が出かかったり、死にかけるとわかっていても、部長に話をもらったとき、すぐに真紘と組んで仕事をすると決めた。
そのあとに何があっても、私情なんて絶対に持ち込みたくないし、今は仕事のことだけ考えていたい。……そうやって無理やりにでも切り離していないと、キスのことを思い出してしまって、頭の中がどうにかなってしまいそうだ。
「でも、それにしては、薪ちゃんの様子が少しおかしい気がするんだけど……」
すると、薪の頭をぽんぽんと子供をあやすときの手つきに変えて由里子が言う。
「おかしいって?」
「さっき、薪ちゃんは〝すごく嬉しかった〟って言ったけど、薪ちゃんの顔、ずっと泣きそうなんだよね。最初は私も、慣れないうちは誰だってそうなるよねとか、組む相手が鬼の主任だからなとか、けっこう単純に思ってたんだけどさ。でも、よく見たら全然嬉しそうじゃないし、すっごい無理した顔で働いてる。だから、薪ちゃんはちょっとおかしい。……違う?」
「ふはっ。ちょっとおかしいって……」
内心でぎくりとしながら、それでも平静を装って聞き返すと、由里子は最後をそう締めくくって薪を少しだけ笑わせてくれた。
だいぶ省いたなとは思うけれど、でも、間違ってはいないとも思う。
自分では仕事中のことはわからないものの、ここ二週間の薪はとにかく、思考も体力も仕事に全振りしようと躍起になっていたことは確かだ。
もちろんそれは、真紘や部長がかけてくれる期待に応えてみせるという意気込みだったり、早く仕事を覚えなきゃという、無意識に自分自身にかけていたプレッシャーの大きさだったりが理由だと思う。
でも、ふと気が抜けた瞬間に重く頭をもたげてくるのは、どうしたってあの日のあのキスだった。それを追い払いたくて、より一層、仕事に全振りする。けれどまた、いくら打ち消しても心につきまとって離れてくれない。
おそらく、強迫観念にも似たそのループが知らず知らずのうちに顔に出ていて、由里子には〝泣きそうな顔〟として見えていたのだろう。
――由里子だって忙しいのに。……ごめん。
薪は、変に心配させてしまったな、由里子だって自分たちが組んだことでそれぞれの顧客を引き継いで業務量が多くなっているのに申し訳ないことをしたな、という気持ちが胸の中に広がってくるのを感じずにはいられなかった。
「――で。実際のところはどうなの? 違う? 違わない?」
「はは。私は全然、大丈夫。ほんと、疲れてるだけだから。でも、ありがとう」
「薪ちゃん……」
由里子に再度聞かれて、けれど薪はこれ以上は心配をかけられないと嘘をつく。
本当は苦しいし、自分の気持ちもわからない。真紘が何を考えたり思ったりしているのかもわからないし、仕事で向き合うたびに逃げ出したい気持ちにもなる。それに、どうして泣きながら自慰なんてしたのかも、わからない。わかるのは〝わからない〟ことだけだ。……あんなのは、ほんの一時的な慰めでしかないのに。
――ああもう。出てこないでよ、涙なんて……。
そこまで考えて、不意打ちで食らった由里子の優しさに、薪の目にはじわじわと涙が溜まっていった。でも、嘘をついた手前、できるだけ自然なふうを心がけつつ由里子と反対側に顔を向けて、薪は涙が引いていくのをじっと待つことにする。
口が悪いところはあるけれど、由里子はとても優しい、薪の大好きな同期だ。ただでさえ業務を引き継いだことで忙しくなっているのに、ほかのことで――自分のことなんかで由里子の気を煩わせたくはなかった。
「ごめん。本格的に眠くなってきちゃったから、このまま仮眠しちゃうね」
「……うん。無理だけはしないでね」
「ありがとう」
涙はまだ引きそうになく、顔を見せられない以上、申し訳ないけれど由里子に席を外してもらったほうがいいだろうと思った薪は、そう言ってひとりになることを選ばせてもらう。気を利かせてくれたのだろう、ややすると由里子が席を立つ音がして、そのままラウンジを出て行った気配がした。
「うっ……ううっ……。……主任のバカ……」
その途端、堪えきれずに薪の口から嗚咽が漏れる。
涙はいつの間にか、テーブルの上にぼたぼた落ちて大きくなりつつあった。
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