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■2.下僕、鬼にアレを奪われる

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 けれど、真紘はやはり説明不足だし、なんなら言葉も足りなかった。
 資料の束をテーブルから取り除いたことで〝もう今日はこれくらいにしよう〟という真紘の意図は十分に伝わってきたし、薪の頭をひと撫でした手つきからも、この怒涛の一週間を労わってくれていることは明らかだった。
 でも、そのあとの言葉が壊滅的に足りない。
「……っ。あ、あともう少しで出来るからな。まま、待ってろ」
「っ……。そそ、そうします。わ、わーいパエリア楽しみー」
 直後、当たり前に妙によそよそしい空気になり、会話も宙を滑っていく。
 真紘は、理解力の乏しさや場の空気、状況が読めない薪に非があるような言い方をした。けれど薪は、悪いのは言葉足らずな真紘のほうだと強く強く思う。
 ――これ絶対、私のせいじゃないでしょう!
 どうしてくれるのこの空気と、ものすごく居たたまれない気持ちになりながら、それでも薪はメモを取るために出した手帳や筆記用具を鞄に戻したり、布巾でテーブルの上を拭いて時間を稼ぎつつ、パエリアが出来上がるのを待つしかなかった。
 だって今日は、資料作りを手伝ってもらった借りがある。甘えたがりだという真紘に甘えられることで、その借りが返せるのなら、早めにそうしてしまいたい。
 そこまで考えて、薪はふと、テーブルを拭く手を止めて真紘のほうに顔を向けた。パエリアの様子も気になるけれど、本人のほうもとても気になる。
 思いがけない形でとんでもない爆弾を投げ合ってしまったけれど、意外に動揺が顔に現れやすい真紘なので、もしそんな顔をしていたら、ここはひとつ、薪のほうから折れるのも手だと思ったのだ。
 先週の映画館でのやり取りは記憶に新しい。
 するとその真紘は、所在なさげにキッチンに立ち、何度もフライパンの蓋を取ってパエリアの様子を確かめていた。
 俯いているため、動揺が顔に出ているかまではわからなかったものの、そわそわと落ち着かない様子や、どことなく落ち込んでいる雰囲気が見て取れ、薪はわざとらしくコホンと咳払いをすると、布巾を手にそちらに向かう。
「しゅにーん。テーブル拭き終わりましたよー。ほかに手伝うことありますか?」
 これでこの何とも言えない気まずすぎる空気も一掃されるはずだ。
 本当は薪の機転で貸し借りなしにしてもいいくらいだけれど、やっぱりパエリアは食べたいし、実を言うと、お腹もすごく減っている。
 真紘の料理の腕前は先週のクリームパスタでもうわかっているので、食べさせてもらえるなら、薪には願ったり叶ったりの展開だ。
「じゃあ、スプーンと取り皿と、貝を殻から外すのにフォークも。頼めるか、薪」
「はいっ!」
 すると、薪が思った通り、場の空気が一気に元に戻った。
 恩に着る、とでも言いたげに真紘は少しだけ口元に笑みを作り、薪は元気のいい返事と笑顔でそれに応える。
 先ほどの真紘は、言葉は足りなかったけれど、思いやりは十分だった。薪も薪で、真紘の背中が飛びつきたいくらいに格好よく見えてしまったあとのことだったために、思いがけなく過敏になってしまったものの、これでいつも通りの、薪と真紘の間に流れる空気感や雰囲気だ。
 ――うん。やっぱり、こっちのほうが全然いいや。
 取り皿やスプーン、フォークをふたりぶん、トレイに載せて大型テレビの前のローテーブルへ運びながら、薪は心からそう思う。
 そもそも鬼と下僕という間柄に妙な空気になる要素なんてないし、週明けからはそんな鬼と組んで仕事をすることになっている。お互いに先ほどのことを引きずったままでは仕事だってやりにくい。真紘は言葉が残念なんだなと思えば、普段からの度重なる説明不足も大いに納得できるというものだ。

「いただきまーす!」
「おー。よく噛んで食えー」
 それから間もなくして出来上がったパエリアを前に、薪は勢いよく両手を合わせ、真紘は、少し迷ったようだったけれど、今日は缶ビールにそのまま口を付けてゴクゴクと喉を鳴らした。
 もしかしたら真紘は、お酒が入ればまた言葉が足りなくなるかもしれないと考えて躊躇ったのかもしれない。薪のほうとしては、そこまでしなくても残念なんだなと思うことで片づけられるけれど、真紘のその不器用な気遣いがなんだか嬉しい。
「主任。ビール美味しいですか?」
「薪も飲むか?」
「いえ。飲んだら爆速で寝ちゃいそうなので、今日は。そうじゃなくて、覚えなきゃならないことがまだある私に気を使って、飲みたいのに我慢させちゃってたら申し訳ないじゃないですか。そういう意味で、美味しいですかって聞いたんです」
「ああ。ずっと一人暮らしだから、帰ったら暇なんだよ。この性格だから彼女も何年もいないし、時間潰しの意味も兼ねて週末は飲むことが多いってくらいだ。美味いとは思うけど、そこまで好きってわけでもねーかな」
「へえ」
 そういえば、編集部の忘新年会や新入社員歓迎会の席でも、真紘はそれほど飲んでいるイメージがなかった。主任という立場上、あまり飲みすぎないようにセーブしているのかなと思っていたのだけれど、そういうことなら缶ビール一本や二本、この前のようにワインをグラスで数杯で十分、満足なのかもしれない。
 ――ていうか、彼女はいないんだ……。
 自分で〝この性格だから〟と言うくらいだから、難ありなのは十分、自覚しているのだろう。……そう言った真紘がなんだかちょっと可愛く思えてくる薪だ。
「薪は?」
「好きですけど、量はあんまりですかね。先週も主任に言われましたけど、私、けっこうなんでも食べちゃうので。ご覧の通り、飲むより食べたい派です」
 あっという間に空になったパエリアの皿を真紘に見せ、薪は得意げに笑う。
 食べるスピードとしては女性の平均くらいだろう。けれど、お腹が空いていただけではなく、今回のパエリアもすごく美味しくて、どんどん食べてしまう。
「ふはっ。もっと食っていいんだぞ。どれ、取り分けてやろう」
「わーい! ありがたき幸せ!」
 どこの腰巾着だよ、とツッコミされつつ、にこにこ笑って皿を渡すと、キッチンに向かった真紘は皿を山盛りにして戻ってくる。サフランで綺麗に色付けされ、魚介類の出汁がこれでもかとしみ込んだパエリアを大きく一口、口に頬張れば、やっぱり薪は「んんっ!」と唸るしかない。
「美味いか?」
「もちろんれふ(です)よっ!」
 これでちょっとお酒でも入れながら恋愛映画が観れれば最高の金曜日だ。真紘のコレクションは本当によく充実しているから、きっと何をリクエストしてもすぐに出してくれる。けれど薪には、まだまだ、やらなければならないことがある。
 ――主任の期待に応えなきゃ。
 パエリアを食べたら先ほど真紘が片づけた資料を借りて勉強だ。
 編集部にも会社にも、そして真紘にも、けして迷惑はかけられない。付き合ってやるから、と言ってくれた真紘の言葉に胸の奥をじんわり温かくしながら、薪はお腹がいっぱいになるまでパエリアを頬張った。
 けれど、そのやる気とは裏腹に薪の身体はすぐにふわふわとしてきてしまった。
 食べ終わって十分と経たないうちに頭が回らなくなり、資料の字が追えなくなる。二十分もすれば身体も言うことを聞かなくなって、とうとうテーブルに覆い被さり、そしてそのまま、なかなか身体を起こすことができなくなってしまった。
「……薪? 薪?」
「ううーん。資料……貸してください。覚えなきゃ……」
「今日はもういいから。寝るぞって言っただろ。休め」
「で、でも」
「そんな今にも寝そうな頭じゃ何も入ってこないんだから」
「……く、悔しい。主任、悔しいです」
「はいはい。薪はよくやってる。大丈夫だから」
 そんなやり取りを最後に、薪の意識は深く深く沈んでいく。

 次に意識が浮上したのは、まるで包み込むような真紘の匂いの中だった。
「いい匂い。すごく落ち着く……」
 身体はたっぷりと寝た感覚があるものの、頭はまだぼんやりしている薪は、寝ぼけた声でそう言いながら、無意識に身体にかけられている布団を引き寄せ、枕に顔をうずめる。そうするとさらに真紘の匂いが濃くなるようで、薪は知らず知らずのうちに口元に笑みを作った。
 どうやら、いつの間にかベッドに運ばれていたらしい。
 スプリングの利いた柔らかいベッドは、薪が使っている安価のベッドとは比べ物にならないほど上質の寝心地だ。
「はっ! 主任は⁉」
 けれどそこで薪は急速に目が覚める。慌てて起き上がり、キョロキョロと辺りを見回す。先ほどの夢うつつの言葉や行動を本人に見聞きされていたらどうにも言い逃れできる気がしないし、昨夜のことも謝りたい。
 割合としては、九対一くらいで前者の気持ちのほうが大きいだろうか。
 もちろん、資料を覚えている間に寝てしまったことは失態だけれど、でも、いくら夢と現実の境目が曖昧だったとはいっても、薪は、目が覚めた直後の行動や言葉は自分の本心からのものだったような気がして、どうしたってそちらのほうにばかり意識が向いてしまう。
 ――だって鬼だよ? 鬼を相手に、こんなの変だよ……。
「おー、薪。起きたみたいだな」
「主任⁉」
 すると、そこに本人が現れた。
 社内ではいつも真顔か仏頂面で仕事をしている真紘にしては珍しく機嫌がよさそうなのが逆に怖くもあって、薪は反射的に引きつった声を出しながら、特に守らなくてもいいような陳腐な身体を布団で隠す。
 下僕といえど、そこは一応、女子としての恥じらいだ。
「ただ運んだだけだって。それより、今週も付き合えるか? 今回はさすがに俺も無理強いはできないと思ってるけど、早いうちに行っておいて絶対に損はないところだ。あれだけの量の資料とひたすらマッチアップする週末か、ちょっと出かける週末か、薪はどっちがいい?」
 けれど真紘は、薪のそんな行動には興味がないようで、さらりと話題を変えてそう尋ねる。無理強いはできない、なんて言いつつ、薪にとってはどちらも強制力は抜群だ。週末を分厚い資料の束と強制マッチアップか、鬼とランデブー再びか――どちらにせよ、薪には真紘の息のかかったものからは逃れられない運命なのは、その口ぶりからも明らかだった。
 それに、ベッドまで運んでもらった申し訳なさもある。重かっただろうな、きっとソファーで寝させてしまったんだろうなと簡単に想像できて、それなら真紘の思うようにしてもらったほうが、この申し訳なさも幾分、晴れるというものだ。
「主任はどうしたいですか?」
「俺?」
「昨日は私のほうが甘えちゃいましたし、主任の好きにしてください」
 恥じらいに対しての温度差の違いに若干、胸をチクリとさせつつ、薪は真紘に判断を委ねることにする。
 そういえば〝甘えたい〟という真紘の希望も昨日は叶えられなかった。
 一緒に仕事をするまでに日がないために、できるだけ早く資料を覚えてもらいたかったのも本当だろうけれど、謎のラインを送ってくるくらいだから、甘えたかったのも本当だろう。真紘だって薪と同じ、通常業務に加えてあいさつ回りや資料作り、薪がそのまま担当する顧客を覚えなければならなかったわけで、すごく疲れた一週間だったことは想像に容易い。そういうときには誰かに甘えたくなるし、甘やかしてもらいたくなるというものだ。
 ついついスペックの高さに注目してしまいがちだけれど、努力もなしに普段からのあの仕事量や、顧客先での接し方、ほかの社員からの相談にフォローの頼み、いつまでも手のかかる薪の世話焼きなどをこなせるわけがない。
 それくらいのことは薪にだってわかる。昨日、甘えられなかった分も甘えるなり、薪をまた顧客先へ連れて行くなり、真紘の思うようにしたらいい。
「薪がそう言うなら、じゃあ、出るか」
「あいさつ回りですよね? それなら身支度に一時間ください」
「わかった。朝飯はもう用意してある。あとは先週と同じにしよう」
「はい」
 そうして、今週末も薪は真紘と行動を共にすることとなった。
 リビングのローテーブルにすでに用意されていた朝食は、中まで卵液がしみ込んだ、甘くしっとりとした極上のフレンチトーストと、はちみつがたっぷりかかったヨーグルト、それにコーヒーという、モーニングセットだった。
 いただきます! と手を合わせたのもつかの間、それをものの数分でぺろりと平らげてしまいつつ、けれど薪は、なぜかずっと機嫌がいい真紘を不思議に思う。
 薪に使わせたためにゆっくりベッドで休めなかっただろうし、昨夜の寝落ち間際の薪はまるで聞き分けのない子どもみたいに真紘の手を焼かせた。朝一番に文句のひとつや二つ、飛んでくるならわかるのに、どうしてこんなにご機嫌なのだろう。
 ――変なの。でも、これで主任の〝甘えたがり〟の埋め合わせになるなら。
 今はまず帰って身支度を整えなきゃと、薪は最後のコーヒーを飲み干した。
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