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■2.下僕、鬼にアレを奪われる
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それでも週は明け、月曜日がやってくる。
土曜日の鬼スケジュールのおかげで全身の関節という関節が軋み声を上げる中、なんとか出勤した編集部は、今日も今日とて鬼のように慌ただしい。
「薪ちゃん、薪ちゃん。ちょっとこっちにおいで」
「はい。なんでしょう、部長」
朝礼後、すぐに部長の諸住に手招きで呼ばれた薪は、部長の人好きのする笑顔にトコトコとデスクの前まで行くと、改めて「お話ですか?」と尋ねた。
主任の真紘が鬼ならば、部長の諸住は仏様か神様だ。
どんなときでも穏やかで笑顔を絶やさない諸住は、日々、目まぐるしく状況が二転、三転するのが当たり前であるこの編集部の平穏や安定、安寧をその双肩に一手に引き受けているといっても過言ではない。
マスコットキャラと言ってしまっては本当に申し訳が立たないけれど、でも、薪だけではなく、ほかの誰もが諸住のほんわかしたキャラクターに癒しをもらっているのは間違いのないことで、みんな親しみを込めて諸住をそう思って久しい。
諸住もまた『〝部長〟なんて肩書きだから』と、社員との距離感を近くしてくれている。部署にもよるとは思うけれど、ここではそれが当たり前で、でも仕事には一切の手抜きをしないのが『iroha編集部』全体の誇りだったりする。
「新田君とも話していたんだけど、薪ちゃん、彼と半年、組んでみる気はない?」
すると、にっこり笑って諸住が言う。
「……へ?」
「いやね、ここだけの話、新田君が〝薪は今がさらに成長できるチャンスなんです〟〝自分と組ませてもらえませんか〟って何度も何度も僕に話を持ってきてね。そのたびに〝多かれ少なかれ、新田君や薪ちゃんの顧客をほかの社員に担当してもらうことになるだろうから、正直なところ厳しい〟って、新田君と組ませる話を預かっていたんだけど、とうとう〝薪の顧客は自分が全部引き受けるから〟〝薪の面倒は自分が見るから、どうか薪を半年、自分にくれないか〟って直談判してきたんだよ。僕も薪ちゃんがどこか伸び悩んでいるのは感じていたから、その熱意と男気に負けてしまってね。そこまで言うなら組ませようって、そう思ったんだよ」
そして、勝手に決めてしまって申し訳ないねと、眉をハの字にさせて笑った。
――部長……。それに、主任も。
薪は、つい二日前の真紘の言葉に、改めて胸の底から熱いものが込み上げてくるのを感じずにはいられなかった。
何度も何度もということは、一度や二度じゃないはずだ。真紘がそんなにも多くの熱量を持って諸住に話をしてくれていたのも知らなかったし、薪に話があるまでの経緯だって、こうして教えてもらわなければ知る由もないことだった。
第一、真紘は口が裂けても薪には言わないだろう。
説明もなしに『黙って付いてくりゃいいんだよ』と殿様発言をするような人だ。
あれには薪もかなり度肝を抜かれたものの、けれどいざ真紘の話を聞いてみれば、薪の成長を望む思いだったり、どうにかして自信をつけさせてやりたい気持ちが溢れそうなほど込められていた。
そんな真紘の期待に応えたいと気持ちが入ったのは、記憶に新しい。
さらに諸住から詳細を聞かされた今においては、迷う余地なんてどこにもない。
「みなさんにはご迷惑をおかけすることになるとは思いますが、私、主任と一緒に仕事がしてみたいです。どうか主任と組ませてください。お願いしますっ!」
「よし。それでこそ薪ちゃんだ。ふたりの顧客の割り振りやフォローは僕に任せておいて。新田君は全部引き受けるつもりみたいだけど、いくら新田君でも、それじゃあ完全に自分で手に負える許容量を超えてしまうからね。薪ちゃんは何も心配しないで新田君からいろいろ教えてもらうんだよ。彼は本当に仕事がよくできる、この編集部のエースだから」
勢いよく頭を下げた薪に、諸住がまた人好きのする笑顔でにっこり笑いかける。
「はい。ありがとうございます。絶対、成長してみせます!」
そうして薪は、真紘と組んで仕事をすることを二つ返事で了承したのだった。
それからの一週間は、長いようで本当にあっという間だった。
諸住から話があったその足で真紘のデスクへ行き、ちょうど契約書やそのほかの書類を顧客ごとにクリアファイルに挟めているところに「部長からお話をいただきました。よろしくお願いします」と頭を下げると、今は仕事中だからだろう、真紘は淡々とした口調で「そうか」と言って、続けて「お互い、あいさつ回りや引継ぎは一週間を目処に終わらせるか」と、早くも来週から本格的に組んで仕事をしようと考えていることを薪に伝えた。
真紘の趣味が恋愛映画だったり、甘えたがりだという秘密を強引に握らさている薪は最初、真紘のあまりのオン・オフの切り替えに肩すかしを食らったような気分だったけれど、すぐに薪自身も仕事モードを全開にした。
これから半年、真紘と組んで仕事を勉強させてもらうのだ。そこには真紘の〝可愛い秘密〟なんて持ち込んでいいはずがない。
すぐに「承知しました」と自分のデスクに戻った薪は、肩で大きく息をして気合いを入れると、これまで一緒に紙面を作ってきた顧客データをもとに、担当を離れる旨のあいさつ回りのスケジュールを組みはじめる。
――日中はほぼ、あいさつ回りに出るとして、来月号の誌面の編集や校正チェックもあるし、引き継ぎの資料も誰が見てもわかるように、できるだけ時間をかけて作りたいよね。うーん、今週は毎日、残業かな。……でも、寂しいな。
「……」
何度となく足を運んだ顧客の名前で瞬く間に埋まっていくスケジュール帳を眺めながら、これから大きく成長できるチャンスを与えてもらったありがたみと、それでも、先輩から引き継いできた顧客や、それほど多くはないけれど、この二年半で自分で新規開拓して得てきた顧客をほかの社員に託さなければならなくなった寂しさとで、薪はつい、感傷的な気分になってしまう。
でも――と、薪は顧客の名前で埋まったスケジュール帳をぎゅっと胸に抱く。
真紘が薪に期待しかかけていないことは、もう十分にわかっている。
「よしっ。あいさつ回りに行ってきますっ!」
勢いよく席を立つと、薪はそう声高に言って編集部を駆け出していった。
――こんなに主任が期待してくれているんだ、絶対に応えてみせる!
会社を出てオフィスビル街を颯爽と歩きながら、薪は、あの頃、憧れだけで終わってしまった〝大人の女性〟にちょっとだけ近づけたような、そんな気がした。
*
そうして連日の残業をどうにか終え、心身共に充足感を味わいながら恋愛映画を観るはずだった週末、金曜日――なぜか薪は、今週も真紘と一緒に過ごすことになってしまった。理由なんてこれしかない。甘えたいからだそうだ。
それを受け取ったのは昼頃だ。ラインの通知音が聞こえてスマホを手に取ると【喜べ、甘えてやる】という謎の一文が目に入り、薪はそっと画面を暗くした。
けれどその後、引き継ぎの資料作りで手間取っているところを見兼ねた真紘から「手伝ってやるから爆速で終わらせるぞ」と手を貸してもらった一幕もあり、どうにもこうにも〝甘えたい〟という真紘の要望に首を縦に振るだけの借りができてしまったと、そういうわけだ。
でも、この状況は一体、どういうことだろう。
「これは俺が担当している顧客資料だ。引き継いでもらう分は除いてあるけど、ひとまず薪にはこれを覚えてもらいたい。で、薪のほうの資料は俺のほうでも頭に入れてある。だから、あとは薪がこれを覚えるだけだ。晩メシに美味いパエリアを作ってやるから、頑張って頭に叩き込め」
借りは返さなきゃと甘えられるために付いてきた、真紘の城、再び。
先週は絶品のクリームパスタと美味しいワインが並んだローテーブルに置かれたのは、分厚い紙の束だった。思わずげんなりするほど、本当に厚みが恐ろしい。
「わ、なんて恐ろしい量……。パエリアは食べたいですけど」
薪が用意した、引き継いでもらう分や真紘に覚えてもらう分の資料の軽く三倍はあろうかという膨大な顧客量と、ざっと目を通してみても疲れた頭では思うように文字が入ってこないこともあって、薪は早々に白旗を上げてしまう。
通常の仕事に加えて、一週間で引継ぎをそれなりの形にしなければならなかった今週は、猫の手も借りたいくらいに本当に忙しかった。そんな中でもしっかりと真紘の頭の中に薪の顧客資料が入っているのは、単に薪の要領が悪いだけなのか、それとも、真紘のスペックが高いからなのか……。
それはともかくとして、正直なところ、薪の頭はもうパンク寸前だった。そんなところへ、甘えられるならまだしも、これからこの膨大な資料をひとつひとつ覚えていかなければならないなんて、頭に叩き込もうにも上手くいく気がしない。
「なに弱気なことを言ってんだ。今はしんどくても最初のうちにしっかり覚えておかないと、後々ひとりで出向いたときに恥ずかしい思いをするのは薪なんだから」
「そ、そうですよね……。あと、会社や編集部の顔にも泥を塗ることになります」
「だな。じゃあ、いい子だから頭に叩き込め」
「はい」
けれど、真紘に優しく諫められ、薪は気持ちを奮い立たせる。
本当に真紘の言う通りだ。
今きちんと覚えておかないと恥をかくのは薪だけではない。編集部や会社にはもちろんのこと、薪と組んで仕事をしている真紘にも――部長の諸住に何度も何度も薪と組ませてほしいと直談判したという真紘が薪にかけてくれる期待も全部、裏切ってしまうことになるし、何より、これまで積み重ねてきた顧客との信頼関係にひびを入れてしまうことになり兼ねない。
それはどんな仕事においても一番やってはいけないことだ。一度失ってしまった信頼ほど、取り戻すまでに膨大な時間と努力を必要とすることはないのだから。
「あとで俺も付き合うから」
そう言って薪の頭をくしゃくしゃと撫で、パエリア作りに取りかかるのだろう、ワイシャツ姿になった真紘は、ネクタイをしゅるりと解いてキッチンへ向かう。
「……えっ?」
するとふと、そんな真紘の背中が今日は抱きつきたいくらいに格好よく見えて、薪は思わず口の中で小さく声を転がした。幸い、腕まくりをして手を洗っていた真紘には水道の水音で聞こえなかったようだけれど、それにしても――と、薪はまず自分の目を疑ってしまった。
だってここは鬼が住む城だ。キッチンにいるのはその鬼で、仕事以外では絶対に関わりたくないと、そう思ってきたはずの鬼神・新田真紘なのだ。それがどうして、抱きつきたいとか格好いいとか、当たり前に思ってしまったのだろう。
――ちょっと……ううん、だいぶ疲れてるのかな、私。
頭に叩き込まなければと思いつつ、その実、ひとつも頭に入ってこない資料を呆然とした面持ちで眺めながら、薪は、きっとそうだと無理やり結論付ける。
「……だって鬼だもん」
薪は再度、口の中でそう声を転がし、何度も自分に言い聞かせる。
そうだ、鬼だ。
ドSな発言が通常運転だし、物事を勝手に決めるし、強引だし、説明が不足しがちだし、先週だって今週だって、来たくてここに来たわけじゃない。薪は下僕で、真紘が甘えたいときに呼ばれる便利な存在だ。
これからだって、それ以上のことは起こり得るはずもない。
「……」
――じゃあ、なんでこんなに胸の中が忙しいの……。
並べられるだけ文句を並べていると、薪の胸は苦しいくらいに締めつけられる。けれど、真紘がかけてくれる期待だったり、部長の諸住に何度も一緒に組むことを掛け合ってくれたりした、薪に対しての〝思いの強さ〟のほうに焦点を当てると、途端に胸の痛みがすっと引く。
「薪? どうした、そんなに難しい顔をして」
「……あ、いえ。ちょっと疲れちゃったみたいで。でも、頑張って覚えますね」
様子を見に来たらしい真紘に声をかけられ、薪はひとまず当たり障りのない言葉を返して笑顔を添えた。
すると一度は「そうか」と頷いた真紘は、けれど薪の顔によっぽど疲れが見て取れたのだろう、テーブルの上から資料の分厚い束をひょいと持ち上げると、また薪の頭をくしゃくしゃと撫でる。
そして最後に労わるように優しくひと撫でして、そっと手を離した。
「あの、主任……?」
「そろそろ出来上がる。食ったら寝るぞ」
「はい――あ、いやいや、ええっ⁉」
「ばかか。睡眠だ、睡眠」
「ああ、そういう……。や、やだもう主任ったら」
「いやいや、俺じゃないだろ薪だろ」
「私なの⁉」
土曜日の鬼スケジュールのおかげで全身の関節という関節が軋み声を上げる中、なんとか出勤した編集部は、今日も今日とて鬼のように慌ただしい。
「薪ちゃん、薪ちゃん。ちょっとこっちにおいで」
「はい。なんでしょう、部長」
朝礼後、すぐに部長の諸住に手招きで呼ばれた薪は、部長の人好きのする笑顔にトコトコとデスクの前まで行くと、改めて「お話ですか?」と尋ねた。
主任の真紘が鬼ならば、部長の諸住は仏様か神様だ。
どんなときでも穏やかで笑顔を絶やさない諸住は、日々、目まぐるしく状況が二転、三転するのが当たり前であるこの編集部の平穏や安定、安寧をその双肩に一手に引き受けているといっても過言ではない。
マスコットキャラと言ってしまっては本当に申し訳が立たないけれど、でも、薪だけではなく、ほかの誰もが諸住のほんわかしたキャラクターに癒しをもらっているのは間違いのないことで、みんな親しみを込めて諸住をそう思って久しい。
諸住もまた『〝部長〟なんて肩書きだから』と、社員との距離感を近くしてくれている。部署にもよるとは思うけれど、ここではそれが当たり前で、でも仕事には一切の手抜きをしないのが『iroha編集部』全体の誇りだったりする。
「新田君とも話していたんだけど、薪ちゃん、彼と半年、組んでみる気はない?」
すると、にっこり笑って諸住が言う。
「……へ?」
「いやね、ここだけの話、新田君が〝薪は今がさらに成長できるチャンスなんです〟〝自分と組ませてもらえませんか〟って何度も何度も僕に話を持ってきてね。そのたびに〝多かれ少なかれ、新田君や薪ちゃんの顧客をほかの社員に担当してもらうことになるだろうから、正直なところ厳しい〟って、新田君と組ませる話を預かっていたんだけど、とうとう〝薪の顧客は自分が全部引き受けるから〟〝薪の面倒は自分が見るから、どうか薪を半年、自分にくれないか〟って直談判してきたんだよ。僕も薪ちゃんがどこか伸び悩んでいるのは感じていたから、その熱意と男気に負けてしまってね。そこまで言うなら組ませようって、そう思ったんだよ」
そして、勝手に決めてしまって申し訳ないねと、眉をハの字にさせて笑った。
――部長……。それに、主任も。
薪は、つい二日前の真紘の言葉に、改めて胸の底から熱いものが込み上げてくるのを感じずにはいられなかった。
何度も何度もということは、一度や二度じゃないはずだ。真紘がそんなにも多くの熱量を持って諸住に話をしてくれていたのも知らなかったし、薪に話があるまでの経緯だって、こうして教えてもらわなければ知る由もないことだった。
第一、真紘は口が裂けても薪には言わないだろう。
説明もなしに『黙って付いてくりゃいいんだよ』と殿様発言をするような人だ。
あれには薪もかなり度肝を抜かれたものの、けれどいざ真紘の話を聞いてみれば、薪の成長を望む思いだったり、どうにかして自信をつけさせてやりたい気持ちが溢れそうなほど込められていた。
そんな真紘の期待に応えたいと気持ちが入ったのは、記憶に新しい。
さらに諸住から詳細を聞かされた今においては、迷う余地なんてどこにもない。
「みなさんにはご迷惑をおかけすることになるとは思いますが、私、主任と一緒に仕事がしてみたいです。どうか主任と組ませてください。お願いしますっ!」
「よし。それでこそ薪ちゃんだ。ふたりの顧客の割り振りやフォローは僕に任せておいて。新田君は全部引き受けるつもりみたいだけど、いくら新田君でも、それじゃあ完全に自分で手に負える許容量を超えてしまうからね。薪ちゃんは何も心配しないで新田君からいろいろ教えてもらうんだよ。彼は本当に仕事がよくできる、この編集部のエースだから」
勢いよく頭を下げた薪に、諸住がまた人好きのする笑顔でにっこり笑いかける。
「はい。ありがとうございます。絶対、成長してみせます!」
そうして薪は、真紘と組んで仕事をすることを二つ返事で了承したのだった。
それからの一週間は、長いようで本当にあっという間だった。
諸住から話があったその足で真紘のデスクへ行き、ちょうど契約書やそのほかの書類を顧客ごとにクリアファイルに挟めているところに「部長からお話をいただきました。よろしくお願いします」と頭を下げると、今は仕事中だからだろう、真紘は淡々とした口調で「そうか」と言って、続けて「お互い、あいさつ回りや引継ぎは一週間を目処に終わらせるか」と、早くも来週から本格的に組んで仕事をしようと考えていることを薪に伝えた。
真紘の趣味が恋愛映画だったり、甘えたがりだという秘密を強引に握らさている薪は最初、真紘のあまりのオン・オフの切り替えに肩すかしを食らったような気分だったけれど、すぐに薪自身も仕事モードを全開にした。
これから半年、真紘と組んで仕事を勉強させてもらうのだ。そこには真紘の〝可愛い秘密〟なんて持ち込んでいいはずがない。
すぐに「承知しました」と自分のデスクに戻った薪は、肩で大きく息をして気合いを入れると、これまで一緒に紙面を作ってきた顧客データをもとに、担当を離れる旨のあいさつ回りのスケジュールを組みはじめる。
――日中はほぼ、あいさつ回りに出るとして、来月号の誌面の編集や校正チェックもあるし、引き継ぎの資料も誰が見てもわかるように、できるだけ時間をかけて作りたいよね。うーん、今週は毎日、残業かな。……でも、寂しいな。
「……」
何度となく足を運んだ顧客の名前で瞬く間に埋まっていくスケジュール帳を眺めながら、これから大きく成長できるチャンスを与えてもらったありがたみと、それでも、先輩から引き継いできた顧客や、それほど多くはないけれど、この二年半で自分で新規開拓して得てきた顧客をほかの社員に託さなければならなくなった寂しさとで、薪はつい、感傷的な気分になってしまう。
でも――と、薪は顧客の名前で埋まったスケジュール帳をぎゅっと胸に抱く。
真紘が薪に期待しかかけていないことは、もう十分にわかっている。
「よしっ。あいさつ回りに行ってきますっ!」
勢いよく席を立つと、薪はそう声高に言って編集部を駆け出していった。
――こんなに主任が期待してくれているんだ、絶対に応えてみせる!
会社を出てオフィスビル街を颯爽と歩きながら、薪は、あの頃、憧れだけで終わってしまった〝大人の女性〟にちょっとだけ近づけたような、そんな気がした。
*
そうして連日の残業をどうにか終え、心身共に充足感を味わいながら恋愛映画を観るはずだった週末、金曜日――なぜか薪は、今週も真紘と一緒に過ごすことになってしまった。理由なんてこれしかない。甘えたいからだそうだ。
それを受け取ったのは昼頃だ。ラインの通知音が聞こえてスマホを手に取ると【喜べ、甘えてやる】という謎の一文が目に入り、薪はそっと画面を暗くした。
けれどその後、引き継ぎの資料作りで手間取っているところを見兼ねた真紘から「手伝ってやるから爆速で終わらせるぞ」と手を貸してもらった一幕もあり、どうにもこうにも〝甘えたい〟という真紘の要望に首を縦に振るだけの借りができてしまったと、そういうわけだ。
でも、この状況は一体、どういうことだろう。
「これは俺が担当している顧客資料だ。引き継いでもらう分は除いてあるけど、ひとまず薪にはこれを覚えてもらいたい。で、薪のほうの資料は俺のほうでも頭に入れてある。だから、あとは薪がこれを覚えるだけだ。晩メシに美味いパエリアを作ってやるから、頑張って頭に叩き込め」
借りは返さなきゃと甘えられるために付いてきた、真紘の城、再び。
先週は絶品のクリームパスタと美味しいワインが並んだローテーブルに置かれたのは、分厚い紙の束だった。思わずげんなりするほど、本当に厚みが恐ろしい。
「わ、なんて恐ろしい量……。パエリアは食べたいですけど」
薪が用意した、引き継いでもらう分や真紘に覚えてもらう分の資料の軽く三倍はあろうかという膨大な顧客量と、ざっと目を通してみても疲れた頭では思うように文字が入ってこないこともあって、薪は早々に白旗を上げてしまう。
通常の仕事に加えて、一週間で引継ぎをそれなりの形にしなければならなかった今週は、猫の手も借りたいくらいに本当に忙しかった。そんな中でもしっかりと真紘の頭の中に薪の顧客資料が入っているのは、単に薪の要領が悪いだけなのか、それとも、真紘のスペックが高いからなのか……。
それはともかくとして、正直なところ、薪の頭はもうパンク寸前だった。そんなところへ、甘えられるならまだしも、これからこの膨大な資料をひとつひとつ覚えていかなければならないなんて、頭に叩き込もうにも上手くいく気がしない。
「なに弱気なことを言ってんだ。今はしんどくても最初のうちにしっかり覚えておかないと、後々ひとりで出向いたときに恥ずかしい思いをするのは薪なんだから」
「そ、そうですよね……。あと、会社や編集部の顔にも泥を塗ることになります」
「だな。じゃあ、いい子だから頭に叩き込め」
「はい」
けれど、真紘に優しく諫められ、薪は気持ちを奮い立たせる。
本当に真紘の言う通りだ。
今きちんと覚えておかないと恥をかくのは薪だけではない。編集部や会社にはもちろんのこと、薪と組んで仕事をしている真紘にも――部長の諸住に何度も何度も薪と組ませてほしいと直談判したという真紘が薪にかけてくれる期待も全部、裏切ってしまうことになるし、何より、これまで積み重ねてきた顧客との信頼関係にひびを入れてしまうことになり兼ねない。
それはどんな仕事においても一番やってはいけないことだ。一度失ってしまった信頼ほど、取り戻すまでに膨大な時間と努力を必要とすることはないのだから。
「あとで俺も付き合うから」
そう言って薪の頭をくしゃくしゃと撫で、パエリア作りに取りかかるのだろう、ワイシャツ姿になった真紘は、ネクタイをしゅるりと解いてキッチンへ向かう。
「……えっ?」
するとふと、そんな真紘の背中が今日は抱きつきたいくらいに格好よく見えて、薪は思わず口の中で小さく声を転がした。幸い、腕まくりをして手を洗っていた真紘には水道の水音で聞こえなかったようだけれど、それにしても――と、薪はまず自分の目を疑ってしまった。
だってここは鬼が住む城だ。キッチンにいるのはその鬼で、仕事以外では絶対に関わりたくないと、そう思ってきたはずの鬼神・新田真紘なのだ。それがどうして、抱きつきたいとか格好いいとか、当たり前に思ってしまったのだろう。
――ちょっと……ううん、だいぶ疲れてるのかな、私。
頭に叩き込まなければと思いつつ、その実、ひとつも頭に入ってこない資料を呆然とした面持ちで眺めながら、薪は、きっとそうだと無理やり結論付ける。
「……だって鬼だもん」
薪は再度、口の中でそう声を転がし、何度も自分に言い聞かせる。
そうだ、鬼だ。
ドSな発言が通常運転だし、物事を勝手に決めるし、強引だし、説明が不足しがちだし、先週だって今週だって、来たくてここに来たわけじゃない。薪は下僕で、真紘が甘えたいときに呼ばれる便利な存在だ。
これからだって、それ以上のことは起こり得るはずもない。
「……」
――じゃあ、なんでこんなに胸の中が忙しいの……。
並べられるだけ文句を並べていると、薪の胸は苦しいくらいに締めつけられる。けれど、真紘がかけてくれる期待だったり、部長の諸住に何度も一緒に組むことを掛け合ってくれたりした、薪に対しての〝思いの強さ〟のほうに焦点を当てると、途端に胸の痛みがすっと引く。
「薪? どうした、そんなに難しい顔をして」
「……あ、いえ。ちょっと疲れちゃったみたいで。でも、頑張って覚えますね」
様子を見に来たらしい真紘に声をかけられ、薪はひとまず当たり障りのない言葉を返して笑顔を添えた。
すると一度は「そうか」と頷いた真紘は、けれど薪の顔によっぽど疲れが見て取れたのだろう、テーブルの上から資料の分厚い束をひょいと持ち上げると、また薪の頭をくしゃくしゃと撫でる。
そして最後に労わるように優しくひと撫でして、そっと手を離した。
「あの、主任……?」
「そろそろ出来上がる。食ったら寝るぞ」
「はい――あ、いやいや、ええっ⁉」
「ばかか。睡眠だ、睡眠」
「ああ、そういう……。や、やだもう主任ったら」
「いやいや、俺じゃないだろ薪だろ」
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