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■1.鬼と下僕の奇妙な週末
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金曜の夜は、薪にとって天国だ。
どんなに上司が厳しくても、週の半分は残業になっても、この日があるから頑張れるし、この日のために頑張れる――薪にとって毎週金曜日はそれほど大事だ。
そしてその日は、恋愛映画を観ることに決めている。
仕事で疲れ切っているため、リアルで恋愛をするには体力的になかなかきつい。でもやっぱり、ときめきは欲しい。そんな薪にうってつけだったのが、お手軽価格で恋を楽しめる恋愛映画というわけだった。
あまり人がいない夜の映画館で、甘いのから切ないのまで、恋愛と名の付く映画をひとりで観ながら一週間分の疲れを癒やし、辛いことを忘れ、そうしていろいろな恋を疑似体験して胸をときめかせるのが、二年半前に就職してからの薪の密やかな楽しみになっている。
もはや心の拠り所と言っても過言ではないかもしれない。
広告会社の営業兼、事務職は、薪にとっては控えめに言ってもなかなかハードな仕事だ。会社自体はそれなりに大きいものの、薪が所属している部署は少人数のため、事務として採用されたはずが、なぜか営業も任されるという職場だった。
一日、外回りに出ずっぱりの日もあれば、デスクにかじりつきっぱなしの日もあり、残業もそれなりに多い。そのため、仕事と恋愛の両立は早々に諦めた。というより、薪にはできそうになかった。
薪はもともと、誰かと外に出かけるより部屋で自由気ままに過ごすほうが好きなインドア派だ。だから恋のチャンスはそれほど多くはなく、恥ずかしながらこれまでに〝きちんとした〟お付き合いをしたのは大学生のときのひとりだけだった。
男性はその元彼しか知らない薪にとって、社会人になってからの恋愛はどうにも敷居が高いように感じられ、また、どうしても恋か仕事かどちらか一方になってしまうような気がして、なかなか手が出ない。
要は、要領が悪く不器用なのだ。それに加えて臆病でもあると薪は思う。
恋人に会いに行く時間があったら寝ていたいし、のんびり気ままに過ごしたい。デートに丸一日を使うなら、その一日を自分のために使いたい。〝仕事で疲れているから〟ということを理由にして面倒くさがっているところも往々にしてある。
けれど薪は、どうしても〝恋愛〟そのものに二の足を踏んでしまうのだ。
大学時代の元彼とは、これといって波乱があったわけでも、恋愛に臆病になってしまうような出来事が起こったわけでもない。
サークルのひとつ先輩だった元彼の就活を機にすれ違いが生まれ、結果的に別れてしまったという、よくある別れの理由のひとつだ。
そのうち薪も就活に忙しくなり、それっきりだ。元彼の顔もうろ覚えなくらいで、だから、申し訳ないなと思うほど、未練なんて少しもなかったりする。
それに今は、もうすっかり週末にお手頃価格でときめきを買うサイクルに体が慣れてしまっている。そして休みの日は、一日中、ごろごろして過ごすことにも。
おそらく、仕事とプライベートの切り替えも下手なのだろうと思う。
上司の新田主任に『切り替えろボケェ!』と怒られることもしばしばだし、そうしてぐじぐじしていると、同期で同じ営業兼、事務職の麻井由里子にも『薪ちゃん面倒くさい』と綺麗な笑顔で毒を吐かれるので、恋愛面においてもそうである素質は十分に持っているはずだ。
そんな何の役にも立たない素質なんていらないけれど、世の中、いろいろな人がいて当たり前だと思ってもいいんじゃないかと薪は密かに思っている。
鬼上司の新田主任しかり、毒舌美人の由里子しかり、容量が悪く不器用臆病な薪しかり、いろいろな人がいてこその〝社会〟なんだと思ったっていいじゃないか。
――うう、なんだか私、底辺だな。
そこまで考えて、薪は邪念を振り払うように頭を振ると目の前に集中しようと顔を上げた。まあいいや、今は映画を観ようとは、すぐに気持ちが切り替わらないけれど、ポップコーンを頬張りつつスクリーンに映し出されている映画に徐々に意識を集中させていく。
今日選んだ映画は『今期最高の甘ロマ』とキャッチコピーが付いている、御曹司とメイドの身分差が最大の障害であり胸を締めつけてやまない、ピュアラブストーリーだ。以前、違う恋愛映画を観に映画館に訪れたとき、この予告編を見て〝これは絶対号泣だ! 観なきゃ損する!〟と胸をがっちり掴まれ、公開を首を長くして待ちわびていたものだ。
公開日は今日のため、顔や態度に出ないように気をつけていたはずが無意識に出ていたらしく、今日はいつもより多めに主任に怒られてしまったけれど。
「ぐずっ、う、うう……」
ストーリーは序盤だ。少しずつ惹かれ合っていく二人のもどかしい距離の縮め方に、すでに薪の涙腺は緩みはじめている。お互いに身分の差があることはわかっていて、現実では結ばれることがないのも痛いくらいにわかっている二人が、それでも懸命に視線や仕草、間の取り方などで気持ちを伝えようとしている様子が、いじらしくて切なく、もどかしい。
――お願い、家を捨てて一緒に逃げてあげて。
薪はもう映画の世界にどっぷりだ。
「もういいだろ、頼むよ、家を捨てて一緒に逃げてやれよ……」
そのとき、どこからともなく薪が思ったことと同じことを涙混じりに呟く声が聞こえ、薪は思わずキョロキョロと周りに目を走らせた。すると三つほど離れた席でぐずっぐずっと鼻をすすりながら泣いている人を見つけ、暗がりに目を凝らせば、スーツの上を脱いでワイシャツ姿になったサラリーマンが、こちらの視線にも気づかずスクリーンに釘付けだった。
見たところ、歳は若そうだった。といっても、しっかり社会に馴染んでいる雰囲気が佇まいから見て取れたので、おそらく薪よりいくつか年上だと思われる。
――ていうか、序盤で号泣とかあり得るんだ。しかも男の人で……。
人のことは言えないと思いつつ、それでも薪はどうしても気になってしまい、不躾ながら、その号泣サラリーマンをじーっと見つめてしまう。
「……っ!」
すると、パチリ。
視線を感じたのだろう、次の瞬間、号泣サラリーマンと目が合ってしまった。
館内は照明が落とされているために暗く、口元は手で覆われているから顔の全体像はわからない。けれど、どうしてか、彼の泣き濡れた瞳に捕らえられた途端、薪の全身はぞわぞわと粟立つ。
――な、なんなの、この感覚は。なんだか、毎日嫌になるくらいビシビシ感じているものにすごく似ている気がするんだけど……。
けれど、その既視感のある感覚を思い出す前にスクリーンから大きな音が聞こえ、はっとして急いで目を戻すと、映画はまさに急展開を迎えていた。
御曹司の父親が倒れたのだ。
――うわ、これ絶対、政略結婚のパターンだよ……。
気持ちを押し殺して家のために結婚するか、それとも全てを捨ててメイドの手を取るか。観ているこちらとしてはハッピーエンドが望ましいところだけれど、残念ながら御曹司は長男だ。次男もいるものの、ずいぶん前に幼くして病気で亡くなっている。ほかに兄弟もいない御曹司は、実質、一人っ子のようなものだった。
そんな生い立ちもあって、最初は心を閉ざしていた御曹司も、メイドと触れ合ううち、徐々に人間らしい感情を取り戻していった。
果たして、心に血が通うようになった御曹司が選ぶ道は――。
なんとも切ない展開だ。
「ああ、もう。なんて切ねぇんだ……」
近くでは、またサラリーマンが涙声で呟く。
どうやら彼とは波長が合うらしい。こんなにもお約束のパターンのオンパレードなのにしっかり泣けちゃうとは、ピュアすぎてむしろ可愛ささえ薪は感じる。
「……本当ですね。胸が痛いです」
気づくと薪は、そんな親近感から、メイクが剥がれ落ちるのも気にせずハンカチで目元を擦りながら、彼の独り言に返事をしていた。けれど次の瞬間〝あれ?〟と、ちょっとした違和感を覚えて、まさかまさかと半信半疑ながら号泣サラリーマンの横顔をそろりと窺う。
「……っ⁉ に、新田主任⁉」
「おー、薪。お疲れ。しかし泣けるな」
――既視感の正体はこれか!
なんと号泣サラリーマンは職場の上司、誰もが恐れる鬼神――新田真紘だった。
しかも、薪が口をパクパクさせて驚き固まってしまっている間に隣の席に移動し、ちゃっかり薪のポップコーンに手を伸ばしている。
真紘は涙目ながら涼しい顔で〝よ!〟と小さく片手を上げて薪を見ているけれど、当の薪は、会社では鬼の顔しか見たことがないために、しっかり名前を呼ばれたのにも関わらず、これっぽっちも同一人物の気がしない。
――ていうか私、知ってはいけないことを知ってしまったんじゃ……。
「……、……」
あまりの驚きっぷりにまん丸と目を見開き、口をあんぐりと開けたまま固まる薪は、もはや映画どころではない。泣きながら器用に薪のポップコーンに手を伸ばし続ける真紘の横顔を、それでもまだ信じられない思いで見つめながら、薪はそれからの時間をただただ呆然として過ごしたのだった。
*
上映後。
エンドロールの最後の最後までしっかり堪能した真紘は、それが当然であるかのように、置き物と化した薪の手首を掴んでやや強引に席を立たせた。
ほかの人には恋人同士に見えなくもないだろうけど、さながら薪の気分は処刑台に向かう囚人のようだった。
映画の後半部分を真紘との遭遇の衝撃ですっかり持っていかれた薪とは違い、当の真紘は最後までストーリーにどっぷり浸かっていたようだったので、目元の涙のあとはまだ新しい。けれど反対に、今は真紘の纏う空気が会社でのピリピリしたそれにとても近いものに変わっているため、真紘も薪と遭遇したことが想定外であり、この状況をどうにかしなければならないと思っていることは、薪の手首を掴む強さからもありありと読み取れた。
――もしかして私、口封じに念書とか書かされるのかな……。
真紘に手を引かれるままに歩きながら、そんなことをしなくたってコテコテの恋愛映画で号泣するほどピュアな一面があるなんて言ったところで誰も信じないだろうに、と薪は思う。
由里子あたりに『幻でも見たんじゃないの?』と一蹴されるのがオチだ。
「……あ、あの、主任。私、言いませんよ?」
そのため、いい加減離してもらえないだろうかと、薪はおずおずと申し出る。
けれど真紘は、まるで般若のような顔で薪を振り返ると、途端に歩く速度を増しつつ「信じられるか!」と面白いくらいに目を泳がせるのだから、鬼も形無しだ。
――動揺しているんだね、主任。だからってどうしたらいいのよ、この手。
上映中や上映直後の余裕はどこに行ったのと思うほど、真紘は狼狽えている。
「逃げませんから離してくださいよ」
子どもか、というツッコミを寸前のところで堪え若干呆れつつ言うと、ズンズン歩いていた真紘はピタリと足を止め、唐突に薪の手首を掴んでいた手を離した。
絨毯張りの映画館の、フロアの片隅での出来事だ。
そんな薪たちの近くを、アルバイトと思われる大学生風の男性店員が大きなあくびを噛み殺しながら通り過ぎていった。
薪の手首を掴んでいたことに今初めて気がついた、というような真紘の手の離し方が少し傷つくけれど、いくら誰もが恐れる鬼とはいえ、それほどまでに余裕がなかったのだろうという結論に薪はすぐに至る。なぜなら真紘は耳まで真っ赤だ。
こんなときに不謹慎だけれど、いやだからこそ、思いっきり狼狽えている真紘は河童や雪男などの未確認生物よりも数倍、珍生物に見えてきて、薪は、ちょっと可愛い……くもなくもない、なんて思ってしまう。いまだ真紘との遭遇の衝撃が尾を引いている中ではあっても、薪もそれなりに慣れてきたということのようだ。
「……悪い、薪。誰にも言ってなかったけど、俺の趣味、ああいう恋愛映画を観ることなんだよ。まあ、言ったところで誰が信じるんだって話だろうけどな」
すると、真紘がぽつりと声を落とした。自分の首筋に手を当てて長い息を吐きながら観念したようにそう打ち明けた目の前の真紘には、鬼の片鱗すらない。
「いえ。私、見ちゃったんで信じます。そりゃ、主任がいることに気づいたときの衝撃はものすごいものがありましたけど、私だって同じ趣味ですから。おすすめはやっぱりレイトショーですよね。人目を気にしないで思いっきり泣けますし」
「……だな」
そのときふっと、真紘が纏う空気が柔らかく、丸くなった気配がした。どうやら肯定してもらえたことで少し気持ちが楽になったらしい。これで念書なんて書かなくても薪が誰にも言いふらしたりしないことは伝わったはずだ。――となれば。
どんなに上司が厳しくても、週の半分は残業になっても、この日があるから頑張れるし、この日のために頑張れる――薪にとって毎週金曜日はそれほど大事だ。
そしてその日は、恋愛映画を観ることに決めている。
仕事で疲れ切っているため、リアルで恋愛をするには体力的になかなかきつい。でもやっぱり、ときめきは欲しい。そんな薪にうってつけだったのが、お手軽価格で恋を楽しめる恋愛映画というわけだった。
あまり人がいない夜の映画館で、甘いのから切ないのまで、恋愛と名の付く映画をひとりで観ながら一週間分の疲れを癒やし、辛いことを忘れ、そうしていろいろな恋を疑似体験して胸をときめかせるのが、二年半前に就職してからの薪の密やかな楽しみになっている。
もはや心の拠り所と言っても過言ではないかもしれない。
広告会社の営業兼、事務職は、薪にとっては控えめに言ってもなかなかハードな仕事だ。会社自体はそれなりに大きいものの、薪が所属している部署は少人数のため、事務として採用されたはずが、なぜか営業も任されるという職場だった。
一日、外回りに出ずっぱりの日もあれば、デスクにかじりつきっぱなしの日もあり、残業もそれなりに多い。そのため、仕事と恋愛の両立は早々に諦めた。というより、薪にはできそうになかった。
薪はもともと、誰かと外に出かけるより部屋で自由気ままに過ごすほうが好きなインドア派だ。だから恋のチャンスはそれほど多くはなく、恥ずかしながらこれまでに〝きちんとした〟お付き合いをしたのは大学生のときのひとりだけだった。
男性はその元彼しか知らない薪にとって、社会人になってからの恋愛はどうにも敷居が高いように感じられ、また、どうしても恋か仕事かどちらか一方になってしまうような気がして、なかなか手が出ない。
要は、要領が悪く不器用なのだ。それに加えて臆病でもあると薪は思う。
恋人に会いに行く時間があったら寝ていたいし、のんびり気ままに過ごしたい。デートに丸一日を使うなら、その一日を自分のために使いたい。〝仕事で疲れているから〟ということを理由にして面倒くさがっているところも往々にしてある。
けれど薪は、どうしても〝恋愛〟そのものに二の足を踏んでしまうのだ。
大学時代の元彼とは、これといって波乱があったわけでも、恋愛に臆病になってしまうような出来事が起こったわけでもない。
サークルのひとつ先輩だった元彼の就活を機にすれ違いが生まれ、結果的に別れてしまったという、よくある別れの理由のひとつだ。
そのうち薪も就活に忙しくなり、それっきりだ。元彼の顔もうろ覚えなくらいで、だから、申し訳ないなと思うほど、未練なんて少しもなかったりする。
それに今は、もうすっかり週末にお手頃価格でときめきを買うサイクルに体が慣れてしまっている。そして休みの日は、一日中、ごろごろして過ごすことにも。
おそらく、仕事とプライベートの切り替えも下手なのだろうと思う。
上司の新田主任に『切り替えろボケェ!』と怒られることもしばしばだし、そうしてぐじぐじしていると、同期で同じ営業兼、事務職の麻井由里子にも『薪ちゃん面倒くさい』と綺麗な笑顔で毒を吐かれるので、恋愛面においてもそうである素質は十分に持っているはずだ。
そんな何の役にも立たない素質なんていらないけれど、世の中、いろいろな人がいて当たり前だと思ってもいいんじゃないかと薪は密かに思っている。
鬼上司の新田主任しかり、毒舌美人の由里子しかり、容量が悪く不器用臆病な薪しかり、いろいろな人がいてこその〝社会〟なんだと思ったっていいじゃないか。
――うう、なんだか私、底辺だな。
そこまで考えて、薪は邪念を振り払うように頭を振ると目の前に集中しようと顔を上げた。まあいいや、今は映画を観ようとは、すぐに気持ちが切り替わらないけれど、ポップコーンを頬張りつつスクリーンに映し出されている映画に徐々に意識を集中させていく。
今日選んだ映画は『今期最高の甘ロマ』とキャッチコピーが付いている、御曹司とメイドの身分差が最大の障害であり胸を締めつけてやまない、ピュアラブストーリーだ。以前、違う恋愛映画を観に映画館に訪れたとき、この予告編を見て〝これは絶対号泣だ! 観なきゃ損する!〟と胸をがっちり掴まれ、公開を首を長くして待ちわびていたものだ。
公開日は今日のため、顔や態度に出ないように気をつけていたはずが無意識に出ていたらしく、今日はいつもより多めに主任に怒られてしまったけれど。
「ぐずっ、う、うう……」
ストーリーは序盤だ。少しずつ惹かれ合っていく二人のもどかしい距離の縮め方に、すでに薪の涙腺は緩みはじめている。お互いに身分の差があることはわかっていて、現実では結ばれることがないのも痛いくらいにわかっている二人が、それでも懸命に視線や仕草、間の取り方などで気持ちを伝えようとしている様子が、いじらしくて切なく、もどかしい。
――お願い、家を捨てて一緒に逃げてあげて。
薪はもう映画の世界にどっぷりだ。
「もういいだろ、頼むよ、家を捨てて一緒に逃げてやれよ……」
そのとき、どこからともなく薪が思ったことと同じことを涙混じりに呟く声が聞こえ、薪は思わずキョロキョロと周りに目を走らせた。すると三つほど離れた席でぐずっぐずっと鼻をすすりながら泣いている人を見つけ、暗がりに目を凝らせば、スーツの上を脱いでワイシャツ姿になったサラリーマンが、こちらの視線にも気づかずスクリーンに釘付けだった。
見たところ、歳は若そうだった。といっても、しっかり社会に馴染んでいる雰囲気が佇まいから見て取れたので、おそらく薪よりいくつか年上だと思われる。
――ていうか、序盤で号泣とかあり得るんだ。しかも男の人で……。
人のことは言えないと思いつつ、それでも薪はどうしても気になってしまい、不躾ながら、その号泣サラリーマンをじーっと見つめてしまう。
「……っ!」
すると、パチリ。
視線を感じたのだろう、次の瞬間、号泣サラリーマンと目が合ってしまった。
館内は照明が落とされているために暗く、口元は手で覆われているから顔の全体像はわからない。けれど、どうしてか、彼の泣き濡れた瞳に捕らえられた途端、薪の全身はぞわぞわと粟立つ。
――な、なんなの、この感覚は。なんだか、毎日嫌になるくらいビシビシ感じているものにすごく似ている気がするんだけど……。
けれど、その既視感のある感覚を思い出す前にスクリーンから大きな音が聞こえ、はっとして急いで目を戻すと、映画はまさに急展開を迎えていた。
御曹司の父親が倒れたのだ。
――うわ、これ絶対、政略結婚のパターンだよ……。
気持ちを押し殺して家のために結婚するか、それとも全てを捨ててメイドの手を取るか。観ているこちらとしてはハッピーエンドが望ましいところだけれど、残念ながら御曹司は長男だ。次男もいるものの、ずいぶん前に幼くして病気で亡くなっている。ほかに兄弟もいない御曹司は、実質、一人っ子のようなものだった。
そんな生い立ちもあって、最初は心を閉ざしていた御曹司も、メイドと触れ合ううち、徐々に人間らしい感情を取り戻していった。
果たして、心に血が通うようになった御曹司が選ぶ道は――。
なんとも切ない展開だ。
「ああ、もう。なんて切ねぇんだ……」
近くでは、またサラリーマンが涙声で呟く。
どうやら彼とは波長が合うらしい。こんなにもお約束のパターンのオンパレードなのにしっかり泣けちゃうとは、ピュアすぎてむしろ可愛ささえ薪は感じる。
「……本当ですね。胸が痛いです」
気づくと薪は、そんな親近感から、メイクが剥がれ落ちるのも気にせずハンカチで目元を擦りながら、彼の独り言に返事をしていた。けれど次の瞬間〝あれ?〟と、ちょっとした違和感を覚えて、まさかまさかと半信半疑ながら号泣サラリーマンの横顔をそろりと窺う。
「……っ⁉ に、新田主任⁉」
「おー、薪。お疲れ。しかし泣けるな」
――既視感の正体はこれか!
なんと号泣サラリーマンは職場の上司、誰もが恐れる鬼神――新田真紘だった。
しかも、薪が口をパクパクさせて驚き固まってしまっている間に隣の席に移動し、ちゃっかり薪のポップコーンに手を伸ばしている。
真紘は涙目ながら涼しい顔で〝よ!〟と小さく片手を上げて薪を見ているけれど、当の薪は、会社では鬼の顔しか見たことがないために、しっかり名前を呼ばれたのにも関わらず、これっぽっちも同一人物の気がしない。
――ていうか私、知ってはいけないことを知ってしまったんじゃ……。
「……、……」
あまりの驚きっぷりにまん丸と目を見開き、口をあんぐりと開けたまま固まる薪は、もはや映画どころではない。泣きながら器用に薪のポップコーンに手を伸ばし続ける真紘の横顔を、それでもまだ信じられない思いで見つめながら、薪はそれからの時間をただただ呆然として過ごしたのだった。
*
上映後。
エンドロールの最後の最後までしっかり堪能した真紘は、それが当然であるかのように、置き物と化した薪の手首を掴んでやや強引に席を立たせた。
ほかの人には恋人同士に見えなくもないだろうけど、さながら薪の気分は処刑台に向かう囚人のようだった。
映画の後半部分を真紘との遭遇の衝撃ですっかり持っていかれた薪とは違い、当の真紘は最後までストーリーにどっぷり浸かっていたようだったので、目元の涙のあとはまだ新しい。けれど反対に、今は真紘の纏う空気が会社でのピリピリしたそれにとても近いものに変わっているため、真紘も薪と遭遇したことが想定外であり、この状況をどうにかしなければならないと思っていることは、薪の手首を掴む強さからもありありと読み取れた。
――もしかして私、口封じに念書とか書かされるのかな……。
真紘に手を引かれるままに歩きながら、そんなことをしなくたってコテコテの恋愛映画で号泣するほどピュアな一面があるなんて言ったところで誰も信じないだろうに、と薪は思う。
由里子あたりに『幻でも見たんじゃないの?』と一蹴されるのがオチだ。
「……あ、あの、主任。私、言いませんよ?」
そのため、いい加減離してもらえないだろうかと、薪はおずおずと申し出る。
けれど真紘は、まるで般若のような顔で薪を振り返ると、途端に歩く速度を増しつつ「信じられるか!」と面白いくらいに目を泳がせるのだから、鬼も形無しだ。
――動揺しているんだね、主任。だからってどうしたらいいのよ、この手。
上映中や上映直後の余裕はどこに行ったのと思うほど、真紘は狼狽えている。
「逃げませんから離してくださいよ」
子どもか、というツッコミを寸前のところで堪え若干呆れつつ言うと、ズンズン歩いていた真紘はピタリと足を止め、唐突に薪の手首を掴んでいた手を離した。
絨毯張りの映画館の、フロアの片隅での出来事だ。
そんな薪たちの近くを、アルバイトと思われる大学生風の男性店員が大きなあくびを噛み殺しながら通り過ぎていった。
薪の手首を掴んでいたことに今初めて気がついた、というような真紘の手の離し方が少し傷つくけれど、いくら誰もが恐れる鬼とはいえ、それほどまでに余裕がなかったのだろうという結論に薪はすぐに至る。なぜなら真紘は耳まで真っ赤だ。
こんなときに不謹慎だけれど、いやだからこそ、思いっきり狼狽えている真紘は河童や雪男などの未確認生物よりも数倍、珍生物に見えてきて、薪は、ちょっと可愛い……くもなくもない、なんて思ってしまう。いまだ真紘との遭遇の衝撃が尾を引いている中ではあっても、薪もそれなりに慣れてきたということのようだ。
「……悪い、薪。誰にも言ってなかったけど、俺の趣味、ああいう恋愛映画を観ることなんだよ。まあ、言ったところで誰が信じるんだって話だろうけどな」
すると、真紘がぽつりと声を落とした。自分の首筋に手を当てて長い息を吐きながら観念したようにそう打ち明けた目の前の真紘には、鬼の片鱗すらない。
「いえ。私、見ちゃったんで信じます。そりゃ、主任がいることに気づいたときの衝撃はものすごいものがありましたけど、私だって同じ趣味ですから。おすすめはやっぱりレイトショーですよね。人目を気にしないで思いっきり泣けますし」
「……だな」
そのときふっと、真紘が纏う空気が柔らかく、丸くなった気配がした。どうやら肯定してもらえたことで少し気持ちが楽になったらしい。これで念書なんて書かなくても薪が誰にも言いふらしたりしないことは伝わったはずだ。――となれば。
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