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■9.こんなにも諦めの悪い性格をしていたなんて知りませんでしたよ ◆西窪なずな

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「確かに私はここの卒業生で、浅石君が言ったとおり、応援団員でした。でも、私はただの団員で、バンカラ応援に吹奏楽を取り入れようと言い出したのは、当時の団長でした。四十年も前ですから、今の時代よりずっと自由もなくて窮屈で、学校は厳格なところでした。今は体罰やらパワハラやら禁煙やらと規制も多いですが、当時はそれが当たり前の時代です。教師と対等に渡り合おうなんてそんな風潮は、片田舎のここにはありませんでした。そんな時代ですから、もちろん学校の伝統を変えようという動きはすぐに潰されました。〝バンカラこそ北高〟というのは、今も昔も変わらず北高の魂なんです」
 そこまで言うと、教頭は佑次たち有志メンバーの顔をひとりずつ眺め、口元にわずかに苦笑を作った。眉間に深く刻まれていたしわはいつの間にか伸び、教頭の顔には、年齢とともに増えた年相応の目尻のしわやほうれい線のみが残されていた。
教頭は続ける。
「――その年の夏の野球応援は、思い出すと今でも胸が苦しくなります。今よりもう少しだけ小綺麗な学ランを着て声を張り上げ腕を振る団長の泣き顔が、なぜだか、どうしても忘れられないんですよ。
 私の胸を占めているのは、今も昔も、団長とともに教師たちと渡り合う勇気を持てなかったことです。そんな私が教師をしているなんて笑ってしまいますけど、これでも昔は、もう少しマシな教師だったんですよ。
 でも、いつからか生徒に怖がられるようになって、今はこんな堅物です。それでも、見切り発車もいいところだったあなたたちに、しっかり覚悟してほしかったんです。今まで何十年と守り続けてきたものに手を加えることがどういうことかということ、無謀かもしれないことにどこまで心血を注げるかということ、学校を動かすことがどれだけのエネルギーを消耗するかということ、どんなに反対されても絶対に折れない強い意志を持てるかということ……。
 挙げたらキリがなくなってしまいますけど、四十年前にあっさりと潰されてしまった団長の思いを受け継ぐ覚悟を、どうしても見せてもらいたかったんです。……ただの団員なのに、変な話ですけど」
 そう言って瞑目し、疲れきったようにソファーに深く身を沈める教頭に、しばらく誰も口を開けなかった。校長も知らなかったようで、自分にも覚えがあるのだろう学生当時のことを思い出しているのか、ふう、とひとつ息を吐くと遠くを見るような目をした。綿貫先生がそんな教頭を柔らかな眼差しで見ていて、胸になんとも言えない切なさが込み上げる。
 そういえば先生たちは同年代だ。思い当たるところがないはずがない。
 時代時代で教育の現場は変わっていく。家族の形も、社会全体も、世界だってどんどん変わっていくのだ。四十年近くもの間、そうやって変わっていく現場の中に身を置いてきた先生たちにとって、この歳月は目に、心に、どういうふうに映ってきたのだろうか。
 今、教頭が話してくれたことは、なずなたちの何十倍もの時間を生きてきた教頭にとっては、胸にある気持ちの、ほんの上澄みの部分だろう。それでもこんなにも胸に迫るものがあるのだから、当時、まだ学生だった教頭の気持ちは想像するにも憚られる。
 ――でも。これですべてがはっきりした。
 教頭はただ、自分たちに覚悟を求めていただけなのだ。あらゆる困難に打ち勝つ覚悟を。
 それなら、なずなも、ほかのメンバーも、もうとっくに覚悟は決まっている。前はまったく足りなかったけれど、今は。今なら、どんなことにも真正面から勝負する覚悟がある。
「教頭先生、だったらなおさら、やりましょう! バンカラだけじゃない北高を県内に披露しましょうよ! 俺バカですけど、今やんなきゃ絶対に後悔することだけはわかります! 教頭先生があのときできなかったことが今ならできます! どうか認めてください!」
 佑次が真っ先に立ち上がり、そう言って頭を下げる。なずなやほかのメンバーもその声にはっとし、立ち上がったり姿勢を正したりしながら、一斉に「お願いします!」と深々と腰を折った。こんな話を聞かされて心が奮い立たないわけがないのだ。今の教頭にも、そして当時の高橋清二応援団員にも、両方に自分たちの覚悟を見せられる機会は、きっとこれがラストチャンスだろう。その最後の一回に、自分の覚悟をすべて注ぎ込むのだ。
「だそうですけど、どうしましょうか、団長」
 すると、頭を下げ続けるなずなたちに耳を疑うような台詞が入ってきた。まさかまさかと思いながら顔を上げると、教頭がなんと綿貫先生を見ていて、度肝を抜かれる。……ということは、綿貫先生が当時の団長ということなのだろうか。年齢的にも時代的にも違和感はないように思うけれど、果たして綿貫先生のこの小さな体からは、なかなか想像に難しい。
 しかし、驚く有志メンバーをよそに、教頭と綿貫先生の会話は続く。
「そうですねぇ。みなさんの覚悟はどれも申し分ないものでしたし、教頭先生が認めると仰ってくださるなら、私からは特になにも、といったところでしょうか」
「そんな……。それはなにがなんでも、ずるいですよ……」
「そうでしょうか? 今は先生のほうが立場が上なんですから、先生が思うようにしてくださればいいと思うんですけど。それに、もとより私は、バンカラ応援に吹奏楽を取り入れたいという要望書が出たときから、この案には賛成だったんです。今は時代が変わって、生徒たちが一人前に教師と渡り合う時代になりました。なんとも頼もしいことじゃないですか。散々反対しても、みんなこのとおりです。……高橋君、昔のことは昔のことです」
「……そう、ですね。久々に名前を呼ばれると、なんだかこそばゆいですね」
「はは。私もです。団長、だなんて、照れるものがありますね」
 みな呆気に取られて瞬きすらできないほどだった。なかなか信じられずに、口があんぐりと開いてしまう。けれど、先生たちが嘘をつく理由もわからないし、会話を聞いていても、どうやら綿貫先生が団長で教頭が団員だったことは間違いなさそうである。
 もしかしたら教頭は、また失敗するところを綿貫先生に見せたくなかったのかもしれない。当時、勇気がなくて綿貫先生に加勢できなかった後悔と、今年になって急に吹奏楽応援を取り入れたいという動きがはじまったことと。どこかしらでリンクして、また失敗するくらいなら――と。そう考えることは、きっと特別なことじゃない。
「はあ。わかりました、もうなにも言いませんから好きにしなさい。あなたたちがこんなにも諦めの悪い性格をしていたなんて知りませんでしたよ。……完敗です」
 やがて教頭が苦笑交じりに言う。
 その顔には往生際の悪すぎる自分たちへの諦めと、長年心を重くしていた後悔からやっと少しだけ解放されたような清々しさが入り混じっている。
「ありがとうございますっ‼」
 佑次に続き、なずな自身もみんなに合わせて「ありがとうございます!」と礼を言う。
 こんなに頑張ったのは、なずなの記憶では後にも先にもこれが初めてだ。一度強く目を閉じ、開けると同時に顔を上げる。すると今まで見えていた校長室の風景や先生たちの顔、みんなの顔が、まるで高精度のフィルターを通して見ているかのように彩り鮮やかに目に飛び込んできた。陳腐だけれど、世界がキラキラ輝いているような。そんな感じだ。
 あのまま平均点女子を続けていたら絶対に見ることのできなかった光景が目の前に広がっている。今にも佑次に飛びついてしまいそうなほどに高鳴る胸のドキドキは、なずなに新しい景色を見せてくれた感謝からなのか、ただ単に佑次に恋をしているからか。
 きっと、どちらもなんだろうと思う。佑次のおかげで散々吹部も振り回されたが、佑次がいたからこそ、なずなは変わることができた。そう、それは世界が反転するほどに。
 ――すると。
「校長先生、どうか吹奏楽応援を認めてくださいっ! 俺、今朝の校庭でのことを見て感動したんです! 皆さんの頑張りをどうか……どうかお願いしますっ!」
 大西に「ちょっと待ちなさい」と腕を掴まれながらも、ひとりの男子生徒が校長室に乗り込んできた。やっと認めてもらえた喜びを徐々に実感しはじめていたなずなたちは、彼のあまりの形相と必死さに、数瞬、この場になにが起きているのかさえわからなかった。
 校長や教頭、綿貫先生もさすがに呆気に取られてしまい、大声でまくし立て、はあはあと肩で荒く息をしている彼を見てソファーの上から目を丸くしている。
 しかし、ふとその顔になずなは既視感を覚えた。――そうだ、生徒総会のときの、名前はなんていったっけ……そう、確か、湯川広樹だ。同級生男子数名にわざと突っかかる質問をさせられてすっかり委縮してしまっていた、あの論破君だ。
 あれからどうなったんだろうと少し気がかりではあったが、校長室に乗り込んできたということは、あれからも変わらず学校に来ているということなのだろう。どこからか校長室に呼ばれたという話を聞いたのかもしれない。救済に入ってくれたようである。
「……あ、あれ? あれ?」
 でも、ほんの少し登場が遅かった。決死の覚悟で乗り込んできてくれた気持ちは本当に嬉しいし有難い。けれど、もうすべて終わってしまったところなのだ。彼も校長室の雰囲気に違和感を覚えはじめたようで、しきりに目をぱちくりさせている。
 やがて彼はすべて察し、さーっと顔を青ざめさせた。人の顔が真っ赤から真っ青に変わる過程をこんなにも間近で見たのは、これも後にも先にも初めてだ。彼の腕を引いていた大西が呆れたように「だから言っただろ、上手くいってるんだから待てって……」とぽつりとこぼした声が、水を打ったようにしーんと静まり返った校長室にわずかに響いて消えた。
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