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■9.こんなにも諦めの悪い性格をしていたなんて知りませんでしたよ ◆西窪なずな
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佑次は続ける。
「ビラ配りに署名活動に、日頃からお騒がせしてごめんなさい! でも、俺たちはどうしても見たいんです! 皆さんも見てみたくないですか? 一緒にやってみませんか? バンカラ応援は北高の心臓です。バンカラでこそ、北高です。それでも俺たちは、伝統は伝統として大事に継承しながらも、新しいチャレンジがしてみたいんです!」
そこでいったん言葉を区切り、佑次は地面を見つめて荒く肩で一呼吸置く。
「――つーか!」
すると、顔を上げた佑次はそれまでの口調をいきなり崩した。
「今までのは全部、建て前。ただ俺が見てみたいだけ! 情けないけど、俺たちの力だけじゃ、どうにもなんねーんだわ。あとはみんなしかいない。頼む、バカだこいつと思って力を貸してくれっ! 俺たちに……俺に〝夏〟を見せてくれっ! お願いします!」
そしてサッと学生帽を取り、深く深く、頭を下げた。
間近ではないが、なずなも見てきたからわかる。佑次の本気度は半端ない。並々ならぬその決意が蒸気となって全身から上り立っているようで、なずなの胸も熱く滾る。
バンカラ応援に吹奏楽を取り入れたいと音楽室に来たときも、生徒総会のときも。たったひとりでビラ配りをはじめたときも、雨の中を探しに来てくれたときも。
――そして今も。
佑次の思いの強さは、面倒事が増えれば増えるだけ研ぎ澄まされ、精彩さを増し、生き生きとその彩りを美しくしていくのだ。そして、周りは次第にそれに魅せられる。
だからなずなは、佑次の『俺が見てみたいから』という理由を知ったとき、ああ完敗だと思った。ごちゃごちゃともっともらしい御託を並べられるより、ずっとずっと胸に染みたのだ。
昨日、景吾も言っていたが、なずなも〝自分が見てみたいから〟という理由が一番しっくりきた。なんてバカな理由なんだろうとは思うけれど、実に佑次らしくて好感が持てる。だからかえって、それならいっちょ力を貸してやろう、という気にさせられたのだ。
「お願いしますっ!」
「お願いしますっっっ‼」
繰り返した佑次の声に続いて、有志メンバーたちの幾重にも重なった声が校庭中に、校舎中に響き渡る。横一列に並び、佑次と同じようにして深々と頭を下げるほかのメンバーに倣ってなずなも慌てて頭を下げると、無性に涙が込み上げて仕方がなかった。
平均点なんて狙わずに無謀なことにチャレンジし続ける佑次が眩しくて目が眩む。もちろん最初は、なにを余計なことをと思った。頼むから吹部を巻き込まないでよと。
でも、一進一退を繰り返しながらも、徐々に吹奏楽応援をやる方向で話が現実味を帯びていくにつれ、少しずつ気持ちが変わっていった。平均点はなずなの信条ではあるが、本当はずっと、そんな自分に閉塞感を感じていたことに気づかされたのだ。
佑次と――この人と一緒なら変われるかもしれない。
そして実際、なずなは今、平均点なんてクソ食らえとばかりに校庭にいる。
泣きたいような、笑いたいような、そんな気分だ。きっと、この場に集まった有志たちも、なずなと同様の気持ちだから、こうして頭を下げているのだろう。
……なんか、とんでもない人を好きになっちゃったかも。目の奥にぎゅーっと力を入れて我慢したが、なずなの目からは少しだけ、涙がこぼれた。
「コラーッ、お前たち! そこでなにをしているんだ‼」
大博打を成し遂げた余韻に浸る間もなく、ホームルーム開始の予鈴とともに校庭に怒号が響き渡った。騒ぎを聞きつけた教師のお出ましである。けれど、こうなることは想定済みだ。ルパンでもないのにご丁寧に予告をするバカがどこにいるのだろうか。
「うわっ、田淵だ。なんかやべーのに見つかったな~」
「おいおい、あっちには学年主任の大西もいるぞ。けっこう地獄耳だな~」
なので、怒り心頭の教師の姿を認めて声が上がるが、その実、危機感はまるでない。
田淵というのは、野球部の顧問兼監督の五十代の体育教師だ。体を鍛えているので筋肉は厚く、また足も速い。普段から野球部の指導で声を張っているので、田淵の怒号は耳によく届いた。ものすごいスピードで校舎から駆けてくる姿は、さながらターミネーターだ。
大西は三年の学年主任である。こちらも五十代ではあるがポテポテと腹の肉が厚く、走ってはいるが田淵にどんどん置いていかれている。ビラ配りのこともあるので、こんなことをするのは佑次しかいないと確信を持って出てきたらしい。
遠目からではわかりずらいが、大西の顔には、またかお前かという疲労の色と、注意してもどうせまたなにかやるんだろうという諦めの色が半々に浮かんでいる。こちらはカーネル・サンダースといったところか。
「よーし、みんな逃げるぞ!」
そう先導する佑次の声も、びっくりするほど危機感に欠けている。急いで涙を目の奥に押し込むと、なずなたち吹部の三人も楽器を抱えてみんなと一緒に逃げることにした。
途中、愛が体の正面に抱えたマーチングスネアドラムに四苦八苦していると、無言でなずなにトランペットを預けた中島がそれを背中に背負って走った。
「ぶはっ、二宮金次郎か!」
「あははっ、やだもう、超ウケるんだけど!」
追われているにも関わらず、なずなと愛は大笑いする。中島は「しょうがないだろ!」と顔を真っ赤にして怒ったけれど、それさえおかしくて、なかなか笑いは収まらない。
やがて、校庭に散った有志メンバーたちもなんとか無事に校舎に逃げ込むことに成功し、急いで靴を履き替え、それぞれのクラスに散っていく。吹部は一度音楽室に楽器を置いてからホームルームに出る段取りを組んでいる。途中で息切れを起こした中島に代わって、今度は景吾がスネアドラムを背負って階段を駆け上がってくれていた。
さすが柔道部である。その体力が、なんとも頼もしい。
日頃から佑次たちの行いを見て知っているので、田淵も大西も手加減してくれたのだろうか。ふたりとも校舎の中まで追いかけてくることはなく、階段を駆け上がる足は、疲れもあって次第にゆっくりになっていく。三階を過ぎたときには呼吸も整いはじめていた。なずなはフィギュアスケートのスクールに通って久しいので体力には自信があったが、普段あまり運動をしないらしい愛や中島も、だいぶ呼吸が楽になってきたようだ。
普通に考えれば、吹部が一番捕まりやすいのは明白だった。愛なんかは特に格好の餌食のはずである。もとより大西は戦力外だとしても、田淵があえて野球部ばかりを追いかけていたのは、彼が顧問兼監督だからか、それとも自分たちに情けをかけてくれたからなのか。
「ありがとね。あとは私たちで大丈夫だから」
「わかった。三人とも、今日はバカなことに付き合ってくれてありがとう」
四階に着き、音楽室の前でゆっくりとスネアドラムを下ろすと、景吾は折り目正しく一礼して一足先に教室に戻っていった。ホームルーム開始は八時二十分だ。まだチャイムは鳴っていないが、なずなたちも片づけを急いだほうがよさそうである。ドラムを隣の音楽準備室に運び入れると、早々に音楽室に鍵をかけ、階段を駆け下りはじめた。
「……あれ? ていうか、教頭いなくなかった?」
すると、愛が不思議そうに首をかしげた。
「ああ、そういえば」
「真っ先に出てきてもよさそうなのにな」
なずなと中島も今さらながら教頭の姿がなかったことを思い出し、首をかしげる。
中島の言うとおり、あれだけ吹奏楽応援を目の敵にしていた教頭が真っ先に出てこないなんておかしい。佑次がひとりでビラ配りをしていたときでさえ、毎日のように注意していたというのに、こんなに目立つ真似を教頭が見逃すはずがないと思うのだけれど。
そんななずなたちの疑問をかき消すようにチャイムが鳴りはじめ、
「鳴ったぞ、早く戻ろう」
「うん」
「急げ急げ」
三人は急いで自分たちの教室に駆け込む。
ややあって担任教師が教室に入ってくると、まず真っ先に触れたのが、さっきの校庭での出来事だった。名指しで呼び出したりはしなかったものの、三十代前半の男性担任は「覚えがある人は昼休みに学年主任の大西先生のところまで」と言って、なずなと愛にそれぞれ意味ありげな視線を送る。きっとどこのクラスでもこの話題になっているだろう。昼休みの職員室は呼び出された自分たちのせいで一気に人口密度が増えそうだ。
*
果たして、その昼休みの職員室は、予想どおりむさ苦しいまでに人口密度が増加した。
疲労と諦めの色が半々の大西の説教はほとんど形だけのもので、みんなで聞いていれば反省する気持ちも等分されるのか、正直あまり罪悪感はないことに逆に罪悪感を覚える。
大西のほうもまた、ひととおり言ってしまうと「説教はここまでだ」とひとつ息をつき、
「……お前たちの気持ちもわかる」
弱々しく苦笑を浮かべた。
「先生たちだってなにも思わないわけじゃない。お前たちの頑張りに胸を打たれる。本音を言えば、俺だってバンカラと吹奏楽が融合した姿を見てみたい気持ちはあるんだ。今の子供たちは冷めているとか、なにを考えているかわからないなんて言われてしまうことも多いけど、〝これだ〟って目標を見つけたときの爆発力は、やっぱりすごい。舌を巻くものがある。しっかり青春してんだなぁってしみじみ思うよ」
どうやらこれが大西の本音らしい。穏やかな口調で紡がれていく言葉が胸に迫り、今朝のことと共鳴してツキンと鼻の奥に痛みが生まれる。そういえば今まで先生たちがどう思っているのかを知る機会はなかったが、少なくとも大西は自分たちの気持ちに共感してくれているのだと思うと、胸に温かいものが込み上げ、素直に嬉しい。
佑次も少しは安心しただろう。佑次は大西の正面に立っていて、今朝の有志のメンバーたちがずらりと並ぶ後ろのほうにいるなずなからはその後頭部しか見えないが、肩に入っていた力がほっと抜けたように少しだけ背中が丸まったのが、ここからでもわかった。
「ちゃんと聞くから、ちゃんと答えろよ。――お前たち、そんなにやりたい?」
大西がひときわ真剣な声色で言った。有志メンバーたちをぐるりと見回し、最後は自身の正面にいる佑次を視線の行き着く先にすると、じっと佑次と目を合わせる。
「もちろんです!」
「よし、わかった。――三浦先生、お願いします!」
間を置かずに佑次が答えると、大西もバンッと机に手を付いて吹部顧問の三浦先生を呼んだ。いったいどうしたんだろうと有志メンバーの間の空気が色めき立つ中、呼ばれた三浦先生は「はーい」なんてのんびり返事をしながらやってくる。腕には紙の束が抱えられていて、ピンクや黄色やオレンジの蛍光色の付箋がチカチカと目に眩しかった。
「みんながあんまり頑張ってるものだから、先生もなにか協力できることはないかと思って、知り合いの吹奏楽部の顧問の先生方に片っ端からお願いしてたの。ふふ、それでね、実は状態のいい楽器を譲ってもらえることになってね。新しいものじゃなくて申し訳ないんだけど、それを野外用の楽器として使うことはできないかしら?」
あれはなんだろうと思っていると、三浦先生は紙の束を大事そうに胸に抱ながら、大所帯の有志メンバーの中から真っ直ぐになずなに視線を注いだ。
三浦先生はいつものんびり、ほんわかとしていて、こう言っては失礼だが、あまりなにも考えていなさそうだ。歳は乙女の秘密だとか言って教えてくれない不思議なところもあるし(たぶん四十代半ば)、口調もこのとおり、満腹時には特に眠気を誘われてしまう。
けれど今、なずなを見ている先生の目は、いつになくキリッとしていて熱い。楽器購入のことでなずなと中島が大ゲンカをしてまだ日が浅いので、中古で事足りるだろうかと不安そうに少し瞳が揺れているけれど、それでも目の奥には確かな熱さが宿っていた。
なずなは両隣の愛と中島に視線を送る。ふたりがニッと笑って頷く。
「ありがとうございます!」
ならば、なずなにも異論はない。というか、ここまでしてもらって、あるわけがない。
「そう、よかった」
そう言ってほっと胸を撫で下ろす三浦先生の顔にも笑顔が満ちる。
「正直、はじめの頃の吹部は、たぶんここにいるみんなの中で一番消極的だったと思う。でも、今は違うよね。先生はそのことがすごく嬉しい。今朝のアフリカンシンフォニーも最高でした。コンクールと応援曲と忙しくなるけど、その情熱があればきっと全部大丈夫!」
「先生……」
「あなたたちなら、最高の応援団が組めると思うわ。ここだけの話、先生も早くアルプス席で指揮がしたくてウズウズしてるもの。どこにも負けない応援、しましょうね」
「はい」
にっこり笑って頷く先生の顔が次第にぼやけていく。先生には中島とのことで心配と迷惑をかけてしまっただけに、こんなサプライズは反則すぎていけない。
「ビラ配りに署名活動に、日頃からお騒がせしてごめんなさい! でも、俺たちはどうしても見たいんです! 皆さんも見てみたくないですか? 一緒にやってみませんか? バンカラ応援は北高の心臓です。バンカラでこそ、北高です。それでも俺たちは、伝統は伝統として大事に継承しながらも、新しいチャレンジがしてみたいんです!」
そこでいったん言葉を区切り、佑次は地面を見つめて荒く肩で一呼吸置く。
「――つーか!」
すると、顔を上げた佑次はそれまでの口調をいきなり崩した。
「今までのは全部、建て前。ただ俺が見てみたいだけ! 情けないけど、俺たちの力だけじゃ、どうにもなんねーんだわ。あとはみんなしかいない。頼む、バカだこいつと思って力を貸してくれっ! 俺たちに……俺に〝夏〟を見せてくれっ! お願いします!」
そしてサッと学生帽を取り、深く深く、頭を下げた。
間近ではないが、なずなも見てきたからわかる。佑次の本気度は半端ない。並々ならぬその決意が蒸気となって全身から上り立っているようで、なずなの胸も熱く滾る。
バンカラ応援に吹奏楽を取り入れたいと音楽室に来たときも、生徒総会のときも。たったひとりでビラ配りをはじめたときも、雨の中を探しに来てくれたときも。
――そして今も。
佑次の思いの強さは、面倒事が増えれば増えるだけ研ぎ澄まされ、精彩さを増し、生き生きとその彩りを美しくしていくのだ。そして、周りは次第にそれに魅せられる。
だからなずなは、佑次の『俺が見てみたいから』という理由を知ったとき、ああ完敗だと思った。ごちゃごちゃともっともらしい御託を並べられるより、ずっとずっと胸に染みたのだ。
昨日、景吾も言っていたが、なずなも〝自分が見てみたいから〟という理由が一番しっくりきた。なんてバカな理由なんだろうとは思うけれど、実に佑次らしくて好感が持てる。だからかえって、それならいっちょ力を貸してやろう、という気にさせられたのだ。
「お願いしますっ!」
「お願いしますっっっ‼」
繰り返した佑次の声に続いて、有志メンバーたちの幾重にも重なった声が校庭中に、校舎中に響き渡る。横一列に並び、佑次と同じようにして深々と頭を下げるほかのメンバーに倣ってなずなも慌てて頭を下げると、無性に涙が込み上げて仕方がなかった。
平均点なんて狙わずに無謀なことにチャレンジし続ける佑次が眩しくて目が眩む。もちろん最初は、なにを余計なことをと思った。頼むから吹部を巻き込まないでよと。
でも、一進一退を繰り返しながらも、徐々に吹奏楽応援をやる方向で話が現実味を帯びていくにつれ、少しずつ気持ちが変わっていった。平均点はなずなの信条ではあるが、本当はずっと、そんな自分に閉塞感を感じていたことに気づかされたのだ。
佑次と――この人と一緒なら変われるかもしれない。
そして実際、なずなは今、平均点なんてクソ食らえとばかりに校庭にいる。
泣きたいような、笑いたいような、そんな気分だ。きっと、この場に集まった有志たちも、なずなと同様の気持ちだから、こうして頭を下げているのだろう。
……なんか、とんでもない人を好きになっちゃったかも。目の奥にぎゅーっと力を入れて我慢したが、なずなの目からは少しだけ、涙がこぼれた。
「コラーッ、お前たち! そこでなにをしているんだ‼」
大博打を成し遂げた余韻に浸る間もなく、ホームルーム開始の予鈴とともに校庭に怒号が響き渡った。騒ぎを聞きつけた教師のお出ましである。けれど、こうなることは想定済みだ。ルパンでもないのにご丁寧に予告をするバカがどこにいるのだろうか。
「うわっ、田淵だ。なんかやべーのに見つかったな~」
「おいおい、あっちには学年主任の大西もいるぞ。けっこう地獄耳だな~」
なので、怒り心頭の教師の姿を認めて声が上がるが、その実、危機感はまるでない。
田淵というのは、野球部の顧問兼監督の五十代の体育教師だ。体を鍛えているので筋肉は厚く、また足も速い。普段から野球部の指導で声を張っているので、田淵の怒号は耳によく届いた。ものすごいスピードで校舎から駆けてくる姿は、さながらターミネーターだ。
大西は三年の学年主任である。こちらも五十代ではあるがポテポテと腹の肉が厚く、走ってはいるが田淵にどんどん置いていかれている。ビラ配りのこともあるので、こんなことをするのは佑次しかいないと確信を持って出てきたらしい。
遠目からではわかりずらいが、大西の顔には、またかお前かという疲労の色と、注意してもどうせまたなにかやるんだろうという諦めの色が半々に浮かんでいる。こちらはカーネル・サンダースといったところか。
「よーし、みんな逃げるぞ!」
そう先導する佑次の声も、びっくりするほど危機感に欠けている。急いで涙を目の奥に押し込むと、なずなたち吹部の三人も楽器を抱えてみんなと一緒に逃げることにした。
途中、愛が体の正面に抱えたマーチングスネアドラムに四苦八苦していると、無言でなずなにトランペットを預けた中島がそれを背中に背負って走った。
「ぶはっ、二宮金次郎か!」
「あははっ、やだもう、超ウケるんだけど!」
追われているにも関わらず、なずなと愛は大笑いする。中島は「しょうがないだろ!」と顔を真っ赤にして怒ったけれど、それさえおかしくて、なかなか笑いは収まらない。
やがて、校庭に散った有志メンバーたちもなんとか無事に校舎に逃げ込むことに成功し、急いで靴を履き替え、それぞれのクラスに散っていく。吹部は一度音楽室に楽器を置いてからホームルームに出る段取りを組んでいる。途中で息切れを起こした中島に代わって、今度は景吾がスネアドラムを背負って階段を駆け上がってくれていた。
さすが柔道部である。その体力が、なんとも頼もしい。
日頃から佑次たちの行いを見て知っているので、田淵も大西も手加減してくれたのだろうか。ふたりとも校舎の中まで追いかけてくることはなく、階段を駆け上がる足は、疲れもあって次第にゆっくりになっていく。三階を過ぎたときには呼吸も整いはじめていた。なずなはフィギュアスケートのスクールに通って久しいので体力には自信があったが、普段あまり運動をしないらしい愛や中島も、だいぶ呼吸が楽になってきたようだ。
普通に考えれば、吹部が一番捕まりやすいのは明白だった。愛なんかは特に格好の餌食のはずである。もとより大西は戦力外だとしても、田淵があえて野球部ばかりを追いかけていたのは、彼が顧問兼監督だからか、それとも自分たちに情けをかけてくれたからなのか。
「ありがとね。あとは私たちで大丈夫だから」
「わかった。三人とも、今日はバカなことに付き合ってくれてありがとう」
四階に着き、音楽室の前でゆっくりとスネアドラムを下ろすと、景吾は折り目正しく一礼して一足先に教室に戻っていった。ホームルーム開始は八時二十分だ。まだチャイムは鳴っていないが、なずなたちも片づけを急いだほうがよさそうである。ドラムを隣の音楽準備室に運び入れると、早々に音楽室に鍵をかけ、階段を駆け下りはじめた。
「……あれ? ていうか、教頭いなくなかった?」
すると、愛が不思議そうに首をかしげた。
「ああ、そういえば」
「真っ先に出てきてもよさそうなのにな」
なずなと中島も今さらながら教頭の姿がなかったことを思い出し、首をかしげる。
中島の言うとおり、あれだけ吹奏楽応援を目の敵にしていた教頭が真っ先に出てこないなんておかしい。佑次がひとりでビラ配りをしていたときでさえ、毎日のように注意していたというのに、こんなに目立つ真似を教頭が見逃すはずがないと思うのだけれど。
そんななずなたちの疑問をかき消すようにチャイムが鳴りはじめ、
「鳴ったぞ、早く戻ろう」
「うん」
「急げ急げ」
三人は急いで自分たちの教室に駆け込む。
ややあって担任教師が教室に入ってくると、まず真っ先に触れたのが、さっきの校庭での出来事だった。名指しで呼び出したりはしなかったものの、三十代前半の男性担任は「覚えがある人は昼休みに学年主任の大西先生のところまで」と言って、なずなと愛にそれぞれ意味ありげな視線を送る。きっとどこのクラスでもこの話題になっているだろう。昼休みの職員室は呼び出された自分たちのせいで一気に人口密度が増えそうだ。
*
果たして、その昼休みの職員室は、予想どおりむさ苦しいまでに人口密度が増加した。
疲労と諦めの色が半々の大西の説教はほとんど形だけのもので、みんなで聞いていれば反省する気持ちも等分されるのか、正直あまり罪悪感はないことに逆に罪悪感を覚える。
大西のほうもまた、ひととおり言ってしまうと「説教はここまでだ」とひとつ息をつき、
「……お前たちの気持ちもわかる」
弱々しく苦笑を浮かべた。
「先生たちだってなにも思わないわけじゃない。お前たちの頑張りに胸を打たれる。本音を言えば、俺だってバンカラと吹奏楽が融合した姿を見てみたい気持ちはあるんだ。今の子供たちは冷めているとか、なにを考えているかわからないなんて言われてしまうことも多いけど、〝これだ〟って目標を見つけたときの爆発力は、やっぱりすごい。舌を巻くものがある。しっかり青春してんだなぁってしみじみ思うよ」
どうやらこれが大西の本音らしい。穏やかな口調で紡がれていく言葉が胸に迫り、今朝のことと共鳴してツキンと鼻の奥に痛みが生まれる。そういえば今まで先生たちがどう思っているのかを知る機会はなかったが、少なくとも大西は自分たちの気持ちに共感してくれているのだと思うと、胸に温かいものが込み上げ、素直に嬉しい。
佑次も少しは安心しただろう。佑次は大西の正面に立っていて、今朝の有志のメンバーたちがずらりと並ぶ後ろのほうにいるなずなからはその後頭部しか見えないが、肩に入っていた力がほっと抜けたように少しだけ背中が丸まったのが、ここからでもわかった。
「ちゃんと聞くから、ちゃんと答えろよ。――お前たち、そんなにやりたい?」
大西がひときわ真剣な声色で言った。有志メンバーたちをぐるりと見回し、最後は自身の正面にいる佑次を視線の行き着く先にすると、じっと佑次と目を合わせる。
「もちろんです!」
「よし、わかった。――三浦先生、お願いします!」
間を置かずに佑次が答えると、大西もバンッと机に手を付いて吹部顧問の三浦先生を呼んだ。いったいどうしたんだろうと有志メンバーの間の空気が色めき立つ中、呼ばれた三浦先生は「はーい」なんてのんびり返事をしながらやってくる。腕には紙の束が抱えられていて、ピンクや黄色やオレンジの蛍光色の付箋がチカチカと目に眩しかった。
「みんながあんまり頑張ってるものだから、先生もなにか協力できることはないかと思って、知り合いの吹奏楽部の顧問の先生方に片っ端からお願いしてたの。ふふ、それでね、実は状態のいい楽器を譲ってもらえることになってね。新しいものじゃなくて申し訳ないんだけど、それを野外用の楽器として使うことはできないかしら?」
あれはなんだろうと思っていると、三浦先生は紙の束を大事そうに胸に抱ながら、大所帯の有志メンバーの中から真っ直ぐになずなに視線を注いだ。
三浦先生はいつものんびり、ほんわかとしていて、こう言っては失礼だが、あまりなにも考えていなさそうだ。歳は乙女の秘密だとか言って教えてくれない不思議なところもあるし(たぶん四十代半ば)、口調もこのとおり、満腹時には特に眠気を誘われてしまう。
けれど今、なずなを見ている先生の目は、いつになくキリッとしていて熱い。楽器購入のことでなずなと中島が大ゲンカをしてまだ日が浅いので、中古で事足りるだろうかと不安そうに少し瞳が揺れているけれど、それでも目の奥には確かな熱さが宿っていた。
なずなは両隣の愛と中島に視線を送る。ふたりがニッと笑って頷く。
「ありがとうございます!」
ならば、なずなにも異論はない。というか、ここまでしてもらって、あるわけがない。
「そう、よかった」
そう言ってほっと胸を撫で下ろす三浦先生の顔にも笑顔が満ちる。
「正直、はじめの頃の吹部は、たぶんここにいるみんなの中で一番消極的だったと思う。でも、今は違うよね。先生はそのことがすごく嬉しい。今朝のアフリカンシンフォニーも最高でした。コンクールと応援曲と忙しくなるけど、その情熱があればきっと全部大丈夫!」
「先生……」
「あなたたちなら、最高の応援団が組めると思うわ。ここだけの話、先生も早くアルプス席で指揮がしたくてウズウズしてるもの。どこにも負けない応援、しましょうね」
「はい」
にっこり笑って頷く先生の顔が次第にぼやけていく。先生には中島とのことで心配と迷惑をかけてしまっただけに、こんなサプライズは反則すぎていけない。
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