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■3.三佳とタヌキの神隠し
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『あ、あそこです! あそこだけ靄が晴れているところがありますよね。そこを通り抜ければ山を出られるはずです。さあ、三佳さん、どうぞ行ってください』
やがて、コロがクンと鼻先を持ち上げて示したとおり、前方にかつて林業用のトラックの搬入口だったと思われる道と木のトンネルが見えてきた。その先には夏空と、見慣れた田園風景。少しずつ鳥や虫たちの声も戻ってきて、その待ち望んだ光景に、なんとか帰ってこられたんだ……と、三佳の気もようやくほっと緩んでいった。
ずいぶん山の中を歩き回ったような気がしていたけれど、どうやら思ったほど時間は経っていなかったらしい。思えば、この辺りだけ空気が違うような気がする。冷気が緩んでいることもそうだが、人が頻繁に出入りし、林道として均された道のおかげで、この周辺だけは森に潜む動物霊たちの負の感情もそこまで強く介入できないのかもしれない。
三佳には見えないが、そこに境界線があるのだろうか。
コロたちは、ちょうどトラックのタイヤ跡が判別できるかどうかのところで、ふと足を止め、ちょこんと腰を下ろす。それから、つぶらな瞳で三佳を見上げた。
「コロさん、マルくん、チビちゃん、何から何まで本当にありがとうございました」
ここから先はひとりで帰れということなのだと察しながら、三佳は三匹に深々と頭を下げ、礼を述べた。感謝してもしきれないとは、このことだ。三匹にとっては余計な手間にしかならなかっただろうに、嫌な顔ひとつせず案内役を買って出てくれた優しさに、頭が上がらない。と、その拍子に背中のリュックが揺れ、三佳は「あ」と声を上げた。
「そうだ、これなんですけど、よかったらもらってください。……そこに座っているってことは、コロさんたちは私と一緒には帰らないってことですよね。おにぎり、お口に合うかわかりませんが、せめてものお礼に受け取ってもらえないでしょうか」
ごそごそとリュックを漁り、野球ボールほどのおにぎりを三つ、取り出す。おかかに、高菜に、味噌を塗って軽く焼き目をつけた味噌おにぎりだ。
シンプルなおにぎりだが、どれも三佳の好物であり、出がけに三佳がせっせと握ったものだ。ちなみに、三佳がおにぎりを握ると、いつもボールみたいになってしまう。おにぎりくらい、まともに握れるようにならないと彼氏もできないよ、と自分の家事のド下手ぶりを見るたび、常々思うのだが、なかなか上達の兆しは見えてこない。
『そんな……! わたしたちはもう命無きものですので、それは三佳さんがお食べください。今は気を張っているおかげで大丈夫かもしれませんが、体も心もずいぶん疲労しているはずです。山を出たところで倒れられたら、わたしたちは助けに行けませんので……。さあ、わたしたちのことは、いいのです。すぐに山を出てください』
するとコロはそう言い、前足をクイクイとして、早くと促す。子ダヌキたちは残念そうな顔をしているが、わがままを言わないところを見ると早く行ったほうがよさそうだ。
「わかりました。……じゃあ、これで本当のお別れですね」
『はい。どうかお気をつけて』
「コロさんたちも」
そうして三佳は、三匹並んでちょこんと座り、境界線の内側で見送ってくれるコロたちに後ろ髪を引かれる思いながらも、トラックのタイヤ跡を辿って歩きはじめた。
一分としないうちにトンネルを抜け、直後、怒涛のように押し寄せてくる鳥や虫たちの声と痛いくらいの日差しの中に出る。三佳の全身を包むのは、夏そのものだ。
「……」
たまらず振り返ると、まだ小さく見えているはずのコロたちの姿はなく、山は三佳もよく知る、いつもの山だった。とたんに吹き出る汗にまみれて、温かいものが頬を伝う。
「なんか、神隠しにでもあった気分……」
まさに昔大ヒットしたアニメ映画の主人公になった気分だった。安定して少々危ない目にも遭ったし、結局タヌキの母子を連れ戻せなかった力不足感や切なさも残るけれど、びっくりするほど憑かれやすい体質だという自分だからこそ体験できた出来事だと捉えれば、たまにはこういうことも悪くないかも、と思えてくるから不思議だ。
自然界に生きるものたち、死んで魂となったものたちに、こちらから無闇に近づくと場合によっては危ない、と身をもって学習できたのも、よかったと思う。
かといって、これからは霊と一定の距離を置いて憑かれないように自衛できるかといえば、視えるし話せるし、必要以上に肩入れしてしまうのが三佳の性分なので、なんとも言えないのが困ったところだけれど。でも、これに懲りるつもりもないのだ。
「お母さんに聞いて、おにぎりと水、コロさんたちのお墓に供えてあげよう」
リュックの肩紐を握り直し、三佳は夏の中へ帰っていった。
コロの〝命があったものはみな、例外なく帰ってくるのです〟という言葉を噛みしめながら、キヨさんや須藤さんも家族のもとへ帰っているのかな、と思いを馳せて。
*
事後談として――。
「三佳!! 一体どこへ行ってたの!!」
ただいまーと家の玄関を開けた三佳を待っていたのは、声を聞きつけ血相を変えて飛び出してきた母と、狼狽えているだけで何の役にも立っていない祖父と父。それから、丸まってきた背中をより丸めてすっかり意気消沈している祖母だった。
状況が飲み込めずに「え? え?」と目を見開くばかりの三佳に事情を説明してくれた近所の駐在さんの話によると、なんと三佳は丸一日、帰ってこなかったらしい。
昨夜、母は、祖母に約束した夜になっても帰ってこない三佳を心配して、大慌てで駐在所に駆け込んだらしい。『昔から人一倍信じやすい子だったから、誘拐されたに違いない』と大いに取り乱したそうで、なんだそりゃ……とは思ったものの、図らずも母の愛を知ることになった三佳は、それを顔に出さず、静かに口を噤むしかなかった。
結局、紆余曲折ありつつも、とりあえず今日の夜までに帰ってこなかったら捜索願を出そう、という話に落ち着いたのは、明け方になってからだそうだ。その間、母は駐在所で取り乱し続け、駐在さんは「もう少し様子を見ましょう」と宥め続けたらしい。一睡もできなかったというのは、お互いの赤く充血した目を見れば一目瞭然だった。
と、そこへ、今朝から駐在さんも交えて家で待っていたところ、三佳が呑気に帰ってきたというわけである。耳をつんざくような母の悲鳴も、狼狽えるだけの男性陣も、祖母の力なく丸まった背中も、どれも大いに納得の結果だった。
こちらの感覚としては数時間程度だと思っていただけに、これは本当に神隠しにあったんじゃないかという気がしてくる。そういえばコロは〝体も心もずいぶん疲労しているはずです〟と言っていたが、それはこういう意味だったのだろうか。
「心配かけてごめんなさい……」
家族四人の泣き濡れた顔をひととおり見回し、頭を下げる。
「駐在さんも、わざわざ家まで来ていただいて、とんだご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。それにしても、連絡もなしに丸一日もどこへ行かれていたんですか?」
「ど、どこって……」
疲れきった顔に笑顔を浮かべて尋ねる駐在さんに、しかし三佳は言葉に詰まった。
どこと言われたら、家の裏山だ。連絡をしなかったのは、霊障の中で電波なんて通じるわけがないと最初から諦めていたからである。だいたい、三佳としては数時間家を空けていた感覚なので、わざわざ電話をかけようとも思わなかったのだ。
詳しい話を聞かれたら、いろいろと不都合が生じてしまう。三佳にはこれが日常だからいいとしても、霊だのもののけだのと縁遠い家族や、職業的にそれでは事実にも証拠にもできない駐在さんには、『裏山で遭難していた』と言ったところで弱すぎる。
「……あの、ですね――」
そうは言っても、家族の泣き濡れた瞳の圧力は凄まじかった。
特に祖母の弱々しい瞳に負けた三佳は、よしと腹を決めると頭を高速回転させ、口を開きながら考えられるだけの理由を考えていった。こうなったら一か八か、嘘をつき通すしかなさそうだ。全員に申し訳ないが、でも仕方がない。
祖母の意気消沈ぶりから、母に相当責められたと思われる。そりゃ、そうだ。ろくに出かける理由も言わずに『夜までには帰るから』とだけして丸一日帰ってこなかったのだから、祖母のためにも信憑性のある理由を作らなければ、申し訳なくて申し訳なくて……。
おばあちゃんにあとでいっぱい謝ろう。そう心に決めて、
「実は――」
急遽でっち上げた話を切り出そうと、口を開いた。そのときだった。
「ごめんくださーい」
タイミングがいいのか悪いのか、三佳の声に被せるように来客の声がした。瑞恵はさっと涙を拭くと「あ、はーい」と来客の応対に席を立つ。
こんなときに誰だろう。ていうか、なんとなく聞き覚えのある声のような気が……と考えている間に、玄関から「三佳! 三佳!!」と瑞恵の高く弾んだ声に呼ばれてしまう。
「どうしたの、お母さん。そんなよそ行きの声なんか出し――って、所長!?」
「やあ野々原さん。その後どうなったか気になりましてね。顔を見に来ましたよ」
「……」
渋々と玄関先まで行くと、なんとそこに立っていたのは早坂だった。聞き覚えのある声の主は、どうやら彼のものだったらしい。どうやって三佳の家までたどり着いたのか、驚きすぎて声すら出ない三佳ににっこり笑うと、それはそれは爽やかにひらりと手を振る。
今日の早坂は、白のVネックのTシャツに黒いベストを羽織り、下はタイトな黒のパンツに黒のサマーブーツを合わせるという格好だった。胸に抱いているのは、お決まりの黒い帽子である。礼儀として帽子は脱いだようだが、しかしなんで早坂がこんな片田舎の古民家然とした家の敷居を跨いでいるのだろうか。いや、別に歓迎しないわけではないのだけれど、どうにも釣り合わなさすぎて軽く眩暈を起こしてしまいそうだ。
「この方が三佳を雇ってくださってるの!?」
と、カジュアルだが同時にカッチリした印象も同時に抱かせるその装いに、自分の歳もわきまえずに頬を赤く染めた瑞恵が興奮気味に尋ねる。正体は、せっせと働く三佳の傍らでソファーに寝そべり連日うたた寝を決め込むオオカミのあやかしだとも知らずに。
「……う、うん。紹介します、こちらは、私が働かせてもらっている『早坂ハウスクリーニング』の所長で、早坂慧さん。所長、この人はウチの母の瑞恵です」
「まあ、なんて素敵なお名前なんでしょう!」
「いえいえ、瑞恵さんこそ、いいお名前じゃないですか」
「あらまあ! 何を仰います、そんなことありませんわよぉ。さあさあ、玄関先ではなんですから、どうぞ上がってください。ちょうど家族も勢揃いしているんです」
明らかなお世辞をまともに受け取る瑞恵にげんなりする三佳の傍らを、「お父さーん!」と叫びながらその瑞恵が踵を返していく。お茶や座布団や、何かご馳走を用意しに行ったのだろう。ということは、居間まで案内する役は、三佳しかいない。
「あの、所長……なんで来たんですか?」
上がり框に腰を下ろし、ブーツの靴紐を緩めている早坂にさっそく尋ねる。
自分でもあんまりな言い方だとは思ったものの、電話で相談したときは冷たかったくせにと思うと、なんとなく反発したくなってしまう。どうなったか気になって訪ねてくるくらいなら、最初からアドバイスしてくれたらよかったのに。おかげでこっちは捜索願を出される一歩手前までいったのだ。……いや、そもそも肩入れしすぎてしまう性分の三佳がいけないのだけれど。でも、やっぱりどこか納得がいかないのだった。
「はは、これはまた、ひどい言い方ですね野々原さん。僕が休み中にどこに行こうと、僕の勝手じゃないですか。それに、少しは僕に頼りたいと思ったんじゃありません?」
すると早坂は、靴紐を緩める手を止めることなく、逆に尋ねてきた。
「ずいぶん山の中を歩き回ったんでしょう? あれだけの数ですからね、ひとつひとつの霊が持つ力はそれほど強くないにしても、かなり霊気に中てられたはずです。そのときに僕に助けてもらおうとは思わなかったんですか? 野々原さんなら上手く察せると思うんですけどね。たとえ霊障の中でも、僕なら関係なく連絡がつくことに」
「それは……そうかもしれないですけど……」
考えたけれど、コロたちが一生懸命、帰り道を探してくれているのに、自分だけズルはできなかった。彼らは無償の優しさに溢れた霊だったのだ、丁寧に弔ってくれたというその恩だけで、ああして危険を顧みず行動に移してくれたというのに、そんな矢先に「実はウチの会社の所長がオオカミのあやかしでして……」なんて言えるわけがない。
もしかしたら、そのほうがお互いに安全だったのかもしれないけれど。でも、マルくんもチビちゃんも、めちゃくちゃ可愛かったし、何より三佳自身がもう少しだけ彼らと一緒にいたかったのだ。結局、山で別れることにはなってしまったが、今も成仏までの間、我が家の天井裏に住まわせてあげたかったなという思いは変わらない。
やがて、コロがクンと鼻先を持ち上げて示したとおり、前方にかつて林業用のトラックの搬入口だったと思われる道と木のトンネルが見えてきた。その先には夏空と、見慣れた田園風景。少しずつ鳥や虫たちの声も戻ってきて、その待ち望んだ光景に、なんとか帰ってこられたんだ……と、三佳の気もようやくほっと緩んでいった。
ずいぶん山の中を歩き回ったような気がしていたけれど、どうやら思ったほど時間は経っていなかったらしい。思えば、この辺りだけ空気が違うような気がする。冷気が緩んでいることもそうだが、人が頻繁に出入りし、林道として均された道のおかげで、この周辺だけは森に潜む動物霊たちの負の感情もそこまで強く介入できないのかもしれない。
三佳には見えないが、そこに境界線があるのだろうか。
コロたちは、ちょうどトラックのタイヤ跡が判別できるかどうかのところで、ふと足を止め、ちょこんと腰を下ろす。それから、つぶらな瞳で三佳を見上げた。
「コロさん、マルくん、チビちゃん、何から何まで本当にありがとうございました」
ここから先はひとりで帰れということなのだと察しながら、三佳は三匹に深々と頭を下げ、礼を述べた。感謝してもしきれないとは、このことだ。三匹にとっては余計な手間にしかならなかっただろうに、嫌な顔ひとつせず案内役を買って出てくれた優しさに、頭が上がらない。と、その拍子に背中のリュックが揺れ、三佳は「あ」と声を上げた。
「そうだ、これなんですけど、よかったらもらってください。……そこに座っているってことは、コロさんたちは私と一緒には帰らないってことですよね。おにぎり、お口に合うかわかりませんが、せめてものお礼に受け取ってもらえないでしょうか」
ごそごそとリュックを漁り、野球ボールほどのおにぎりを三つ、取り出す。おかかに、高菜に、味噌を塗って軽く焼き目をつけた味噌おにぎりだ。
シンプルなおにぎりだが、どれも三佳の好物であり、出がけに三佳がせっせと握ったものだ。ちなみに、三佳がおにぎりを握ると、いつもボールみたいになってしまう。おにぎりくらい、まともに握れるようにならないと彼氏もできないよ、と自分の家事のド下手ぶりを見るたび、常々思うのだが、なかなか上達の兆しは見えてこない。
『そんな……! わたしたちはもう命無きものですので、それは三佳さんがお食べください。今は気を張っているおかげで大丈夫かもしれませんが、体も心もずいぶん疲労しているはずです。山を出たところで倒れられたら、わたしたちは助けに行けませんので……。さあ、わたしたちのことは、いいのです。すぐに山を出てください』
するとコロはそう言い、前足をクイクイとして、早くと促す。子ダヌキたちは残念そうな顔をしているが、わがままを言わないところを見ると早く行ったほうがよさそうだ。
「わかりました。……じゃあ、これで本当のお別れですね」
『はい。どうかお気をつけて』
「コロさんたちも」
そうして三佳は、三匹並んでちょこんと座り、境界線の内側で見送ってくれるコロたちに後ろ髪を引かれる思いながらも、トラックのタイヤ跡を辿って歩きはじめた。
一分としないうちにトンネルを抜け、直後、怒涛のように押し寄せてくる鳥や虫たちの声と痛いくらいの日差しの中に出る。三佳の全身を包むのは、夏そのものだ。
「……」
たまらず振り返ると、まだ小さく見えているはずのコロたちの姿はなく、山は三佳もよく知る、いつもの山だった。とたんに吹き出る汗にまみれて、温かいものが頬を伝う。
「なんか、神隠しにでもあった気分……」
まさに昔大ヒットしたアニメ映画の主人公になった気分だった。安定して少々危ない目にも遭ったし、結局タヌキの母子を連れ戻せなかった力不足感や切なさも残るけれど、びっくりするほど憑かれやすい体質だという自分だからこそ体験できた出来事だと捉えれば、たまにはこういうことも悪くないかも、と思えてくるから不思議だ。
自然界に生きるものたち、死んで魂となったものたちに、こちらから無闇に近づくと場合によっては危ない、と身をもって学習できたのも、よかったと思う。
かといって、これからは霊と一定の距離を置いて憑かれないように自衛できるかといえば、視えるし話せるし、必要以上に肩入れしてしまうのが三佳の性分なので、なんとも言えないのが困ったところだけれど。でも、これに懲りるつもりもないのだ。
「お母さんに聞いて、おにぎりと水、コロさんたちのお墓に供えてあげよう」
リュックの肩紐を握り直し、三佳は夏の中へ帰っていった。
コロの〝命があったものはみな、例外なく帰ってくるのです〟という言葉を噛みしめながら、キヨさんや須藤さんも家族のもとへ帰っているのかな、と思いを馳せて。
*
事後談として――。
「三佳!! 一体どこへ行ってたの!!」
ただいまーと家の玄関を開けた三佳を待っていたのは、声を聞きつけ血相を変えて飛び出してきた母と、狼狽えているだけで何の役にも立っていない祖父と父。それから、丸まってきた背中をより丸めてすっかり意気消沈している祖母だった。
状況が飲み込めずに「え? え?」と目を見開くばかりの三佳に事情を説明してくれた近所の駐在さんの話によると、なんと三佳は丸一日、帰ってこなかったらしい。
昨夜、母は、祖母に約束した夜になっても帰ってこない三佳を心配して、大慌てで駐在所に駆け込んだらしい。『昔から人一倍信じやすい子だったから、誘拐されたに違いない』と大いに取り乱したそうで、なんだそりゃ……とは思ったものの、図らずも母の愛を知ることになった三佳は、それを顔に出さず、静かに口を噤むしかなかった。
結局、紆余曲折ありつつも、とりあえず今日の夜までに帰ってこなかったら捜索願を出そう、という話に落ち着いたのは、明け方になってからだそうだ。その間、母は駐在所で取り乱し続け、駐在さんは「もう少し様子を見ましょう」と宥め続けたらしい。一睡もできなかったというのは、お互いの赤く充血した目を見れば一目瞭然だった。
と、そこへ、今朝から駐在さんも交えて家で待っていたところ、三佳が呑気に帰ってきたというわけである。耳をつんざくような母の悲鳴も、狼狽えるだけの男性陣も、祖母の力なく丸まった背中も、どれも大いに納得の結果だった。
こちらの感覚としては数時間程度だと思っていただけに、これは本当に神隠しにあったんじゃないかという気がしてくる。そういえばコロは〝体も心もずいぶん疲労しているはずです〟と言っていたが、それはこういう意味だったのだろうか。
「心配かけてごめんなさい……」
家族四人の泣き濡れた顔をひととおり見回し、頭を下げる。
「駐在さんも、わざわざ家まで来ていただいて、とんだご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。それにしても、連絡もなしに丸一日もどこへ行かれていたんですか?」
「ど、どこって……」
疲れきった顔に笑顔を浮かべて尋ねる駐在さんに、しかし三佳は言葉に詰まった。
どこと言われたら、家の裏山だ。連絡をしなかったのは、霊障の中で電波なんて通じるわけがないと最初から諦めていたからである。だいたい、三佳としては数時間家を空けていた感覚なので、わざわざ電話をかけようとも思わなかったのだ。
詳しい話を聞かれたら、いろいろと不都合が生じてしまう。三佳にはこれが日常だからいいとしても、霊だのもののけだのと縁遠い家族や、職業的にそれでは事実にも証拠にもできない駐在さんには、『裏山で遭難していた』と言ったところで弱すぎる。
「……あの、ですね――」
そうは言っても、家族の泣き濡れた瞳の圧力は凄まじかった。
特に祖母の弱々しい瞳に負けた三佳は、よしと腹を決めると頭を高速回転させ、口を開きながら考えられるだけの理由を考えていった。こうなったら一か八か、嘘をつき通すしかなさそうだ。全員に申し訳ないが、でも仕方がない。
祖母の意気消沈ぶりから、母に相当責められたと思われる。そりゃ、そうだ。ろくに出かける理由も言わずに『夜までには帰るから』とだけして丸一日帰ってこなかったのだから、祖母のためにも信憑性のある理由を作らなければ、申し訳なくて申し訳なくて……。
おばあちゃんにあとでいっぱい謝ろう。そう心に決めて、
「実は――」
急遽でっち上げた話を切り出そうと、口を開いた。そのときだった。
「ごめんくださーい」
タイミングがいいのか悪いのか、三佳の声に被せるように来客の声がした。瑞恵はさっと涙を拭くと「あ、はーい」と来客の応対に席を立つ。
こんなときに誰だろう。ていうか、なんとなく聞き覚えのある声のような気が……と考えている間に、玄関から「三佳! 三佳!!」と瑞恵の高く弾んだ声に呼ばれてしまう。
「どうしたの、お母さん。そんなよそ行きの声なんか出し――って、所長!?」
「やあ野々原さん。その後どうなったか気になりましてね。顔を見に来ましたよ」
「……」
渋々と玄関先まで行くと、なんとそこに立っていたのは早坂だった。聞き覚えのある声の主は、どうやら彼のものだったらしい。どうやって三佳の家までたどり着いたのか、驚きすぎて声すら出ない三佳ににっこり笑うと、それはそれは爽やかにひらりと手を振る。
今日の早坂は、白のVネックのTシャツに黒いベストを羽織り、下はタイトな黒のパンツに黒のサマーブーツを合わせるという格好だった。胸に抱いているのは、お決まりの黒い帽子である。礼儀として帽子は脱いだようだが、しかしなんで早坂がこんな片田舎の古民家然とした家の敷居を跨いでいるのだろうか。いや、別に歓迎しないわけではないのだけれど、どうにも釣り合わなさすぎて軽く眩暈を起こしてしまいそうだ。
「この方が三佳を雇ってくださってるの!?」
と、カジュアルだが同時にカッチリした印象も同時に抱かせるその装いに、自分の歳もわきまえずに頬を赤く染めた瑞恵が興奮気味に尋ねる。正体は、せっせと働く三佳の傍らでソファーに寝そべり連日うたた寝を決め込むオオカミのあやかしだとも知らずに。
「……う、うん。紹介します、こちらは、私が働かせてもらっている『早坂ハウスクリーニング』の所長で、早坂慧さん。所長、この人はウチの母の瑞恵です」
「まあ、なんて素敵なお名前なんでしょう!」
「いえいえ、瑞恵さんこそ、いいお名前じゃないですか」
「あらまあ! 何を仰います、そんなことありませんわよぉ。さあさあ、玄関先ではなんですから、どうぞ上がってください。ちょうど家族も勢揃いしているんです」
明らかなお世辞をまともに受け取る瑞恵にげんなりする三佳の傍らを、「お父さーん!」と叫びながらその瑞恵が踵を返していく。お茶や座布団や、何かご馳走を用意しに行ったのだろう。ということは、居間まで案内する役は、三佳しかいない。
「あの、所長……なんで来たんですか?」
上がり框に腰を下ろし、ブーツの靴紐を緩めている早坂にさっそく尋ねる。
自分でもあんまりな言い方だとは思ったものの、電話で相談したときは冷たかったくせにと思うと、なんとなく反発したくなってしまう。どうなったか気になって訪ねてくるくらいなら、最初からアドバイスしてくれたらよかったのに。おかげでこっちは捜索願を出される一歩手前までいったのだ。……いや、そもそも肩入れしすぎてしまう性分の三佳がいけないのだけれど。でも、やっぱりどこか納得がいかないのだった。
「はは、これはまた、ひどい言い方ですね野々原さん。僕が休み中にどこに行こうと、僕の勝手じゃないですか。それに、少しは僕に頼りたいと思ったんじゃありません?」
すると早坂は、靴紐を緩める手を止めることなく、逆に尋ねてきた。
「ずいぶん山の中を歩き回ったんでしょう? あれだけの数ですからね、ひとつひとつの霊が持つ力はそれほど強くないにしても、かなり霊気に中てられたはずです。そのときに僕に助けてもらおうとは思わなかったんですか? 野々原さんなら上手く察せると思うんですけどね。たとえ霊障の中でも、僕なら関係なく連絡がつくことに」
「それは……そうかもしれないですけど……」
考えたけれど、コロたちが一生懸命、帰り道を探してくれているのに、自分だけズルはできなかった。彼らは無償の優しさに溢れた霊だったのだ、丁寧に弔ってくれたというその恩だけで、ああして危険を顧みず行動に移してくれたというのに、そんな矢先に「実はウチの会社の所長がオオカミのあやかしでして……」なんて言えるわけがない。
もしかしたら、そのほうがお互いに安全だったのかもしれないけれど。でも、マルくんもチビちゃんも、めちゃくちゃ可愛かったし、何より三佳自身がもう少しだけ彼らと一緒にいたかったのだ。結局、山で別れることにはなってしまったが、今も成仏までの間、我が家の天井裏に住まわせてあげたかったなという思いは変わらない。
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