14 / 31
■2.ダークオフィスに起死回生のどんでん返しを
5
しおりを挟む
もうすっかり見慣れてしまった早坂のオオカミ姿とはいえ、その俊敏さにも、竦み上がるような唸り声や、どこか切なさを孕んだ遠吠えにも、この二ヵ月間、三佳は遭遇したことがなかった。三佳とて、早坂がぐうたら寝ているだけではないことは、これでも十分に承知していたはずだった。けれど、もはや悪霊とはいえその喉元に牙を突き立てる瞬間をこの目で捉えてしまったショックは、それなりに大きいものでもある。
「……あの、あの人はどこに……?」
何とも言えない後味の悪さを感じながら、三佳の横に立ち、屋上の出入り口をじっと見つめる早坂におずおずと尋ねてみる。三佳はまだ、ほとんど呆然としながら、高いフェンスで囲われた向こう――彼がいた空間の方向を向いたままだ。振り向かなければ、早坂が今、どんな顔をしているかは窺い知ることができない。
聞かなくても答えはだいたいわかっているし、さらに後味の悪い思いをするだろうこともわかっていたが、切ない遠吠えがやけに耳に残って、早坂の口からきちんと聞かなければ、という一種の信念のようなものが、三佳の胸を静かに突き動かしていた。
「……」
けれど早坂は、なかなか口を開こうとはしなかった。
「……あの、しょ、所長……?」
あの霊に対して何か思うところがあるのだろうか、まさか今になって何度も犬呼ばわりされたことに口も利けないほど怒っているのだろうか、だったらどうやって宥めよう、と恐る恐る早坂の顔を覗き込んでみれば――。
「帰る気力も体力も失いました。とりあえずここで休みますから、野々原さんは、フロアを片づけたら帰る前に屋上に寄って僕を起こしてください」
「……え?」
「そして今日は臨時休業です。野々原さんもしっかり休養を取ってくださいね」
「うわっ、ちょ、ちょっと……!」
すでに寝ぼけ眼でうつらうつらしながら、それでも言うことだけはしっかり言って、まるで電池が切れたかのようにその場にパタリと倒れ込んでしまった。
「ええぇー……」
つーか、眠かっただけかい!
犬の連呼に怒り狂っていたり、反対に心を痛めていたり……せめてそういった心配心を少しは返してから眠ってほしいものだと、三佳は呆れたため息を吐きながら切実に思う。
一度オオカミの力を使うと眠くなってしまうことは、前回も、それ以前に赴いたお掃除物件でも経験済みだ。でもここは、深夜の風はまだ冷たいビルの屋上である。しかも、こんなケースは初めてだ。前まではどんなに眠そうでもちゃんと帰っていたけど、今回はよっぽど疲れたんだろうな……と思うと、無下に置いていくことも憚られるから困った。
「わ、もう夜明けじゃん」
いつの間にかオオカミ姿で丸まって眠っている早坂から、ふと顔を上げると、ひしめき合う高層階ビルの谷間にわずかに見える空が少しずつ色を帯びはじめていた。
どうやらもう朝方らしい。これじゃあ所長じゃなくても眠くなるよ、と三佳はふいに出てきた欠伸をひとつ、噛み殺す。残念ながら、まだ克明に後味の悪さが残っているせいで、死にかけたあとの夜明けは格別に綺麗に見える――というほど三佳の心を洗ってはくれなかったけれど。無事に生きて一夜を乗り越えられた安堵感は、確かにある。
「……これじゃあ、ちょっと寒いかもしれないですけど」
スースーと気持ちよさそうに眠っている早坂の体に、作業着の上着を掛けてやる。温かそうなモフモフの毛並みがあるのだから、人間よりは寒さに強くできているとは思うけれど、ブランケットを掛けずに放置していたら「愛がない」と言われたことがある手前、掛けられるものは掛けてやるのが、やはり人情というものだろう。
「さて。じゃあ、掃除の続き、してきますね」
そうして三佳は、今度は正真正銘〝普通の掃除〟に戻っていった。
そういえば、あの霊が言っていたハンカチは、早坂に掛けた作業着のポケットの中だ。
それを思い出した頃にはどうにかフロアの掃除も終わり、屋上で寝ている早坂を起こしに行く時間だった。霊が言っていたことが本当だとするなら、あのハンカチは救急車を呼んだり応急手当をしてくれた人のものだろう。遺族の側からすると、他人の血が付いたものでもハンカチが手元に戻ってこないのは、どんな気持ちなんだろうか。
彼が死んだのは五年も前だという。その後、助けたその人も三佳と同様、体を乗っ取られて自殺させられたのだとすると、だいぶ前のこと、ということになる。
あのハンカチは本来、三佳が持っているべきものではないことだけは確かだが、調べて遺族のもとへお返しするにしても、時間が経っているぶん、今さらなような気もする。しかも、死後に悪霊に堕ちた自殺者の血がベッタリと付いたものでもあるのだ。
「うーん……」
実はあなたのご家族は、助けようとしたその人がのちに悪霊化して恨みを晴らしていたうちのひとりでした――などとは、とてもじゃないが言えない。にしても、今さら返しても、かえって失礼だろうか、でも、すごく大切なものかもしれないし……と、三佳はどうするのがいいのか、無人の廊下を屋上に向かいながら大いに悩む。
答えが出ないまま屋上の扉の前までたどり着き、鉄製の重厚なそれを押し開ける。
外は日がすっかり昇りきり、雲の合間に綺麗な青空が覗いていた。そういえば昨日見た天気予報では、今日は梅雨の晴れ間が覗くという。久しぶりの洗濯日和ということだけれど、この時季独特の湿った空気は相変わらず健在で、三佳は少々、苦笑する。
まあ、部屋干しよりは断然いいけど。
ワンルームの狭い部屋では、いい加減、干すスペースもなくなってきている。それに、心も洗濯しようにも、こう蒸し蒸ししていると、一日かけて天日で干しても結局九割くらいしか乾かないような気がして、それもなんだかなぁと思う。
そして、苦笑の原因はもうひとつ。
「所長、終わりましたよ。起きてください、帰りましょ」
むっとする空気の中、モフモフの体を揺する。今日はこれから暑くなるらしい。このままここで寝ていては、日差しと湿った蒸し暑さのせいで、のぼせ上ってしまう。
「……あ、終わりました? 野々原さん」
「はい。今日は暑くなる予報なんですよ。ここには日差しを遮るものがないので、もうちょっと寝るなら、帰ってからにしましょう。もうすでにけっこう暑いですし」
「そうですね。そうしましょうか」
「はい」
……というか、人語を話すオオカミというのも、なかなかシュールなものだ。しかし、起き上がると同時にパッと人間の姿になるのも、これはこれでシュールである。
「相変わらず、すごいですね、それ……」
人間とオオカミの姿をいとも簡単に切り替える様子を目にするたび、三佳はどうしても狐や狸に化かされているような気分になる。どんなに緻密で精巧に作り上げられたマジックでも、タネがあるぶん、そちらのほうが万倍可愛らしいのは言うまでもない。
「なにを言っているんですか、もう驚かないくらい見慣れたでしょうに」
「はい、まあそうなんですけど。でも所長、こういう変化の瞬間って、あんまり人に見られたいものではないんじゃないですか? しょっちゅう見てる私が言うのも変な話ですけど、もう少し慎重になっても損はないんじゃないかと……」
誰に話すつもりもないし、それ以前に絶対に信じてもらえないだろうから誰にも話せないけれど、いくら社員の三佳の前であっても、あんまり無防備だといろいろと心配だ。
一番気がかりなのは、変化の瞬間をうっかり他人に見られてしまった場合だ。そのときそばに三佳がいるとして、どう言い訳しようかと。三佳は早坂が人間とオオカミの姿を行ったり来たりする様を見るにつけ、頭痛の種が少しずつ増えていく気がしてならない。
「ははは、大丈夫ですよ」
しかし早坂は、三佳の心配をよそに鷹揚に笑った。
「どうせ夢でも見たと思うのが関の山でしょう。人間は〝思い込む〟のが上手な生き物ですからね。それに、その力は人間にしかありません。そのおかげで成功を手に掴むことができるときもありますし、逆に死んでもなお、破滅することもあります」
「そういうものでしょうか……?」
「そういうものです。そうだ、試しに一度、野々原さんのご友人に事務所に遊びに来ていただいてはいかがでしょう? そのときは、うんとサービスしますよ」
「ぜひ遠慮させてください……」
光葉には、つい最近も仕事中にもかかわらず電話をかけて泣きついてしまった。
就職できずに困っていたときの三佳をどう思っていたのかも聞き、改めて彼女との友情の深さを痛感した瞬間でもあった。そんな光葉を面白半分で実験台になどさせてなるものか。
心底嫌そうな顔で即断った三佳にまた笑うと、早坂は「ともかく」と場を仕切り直す。
「こういう仕事をしていれば、嫌な思いも、後味の悪い思いをすることもあります。それでも、僕は困ったことに、野々原さんを手放すつもりもないんです」
「所長……」
「あの霊に言われたことは、正直、半分は僕が野々原さんに抱いている懸念と同じです。だから忘れろとは言えません。でも、信じなければ、そこには信頼関係は生まれないんです。例えば、僕が無防備に姿を変えられるのは、野々原さんを信頼しているからできることなんですよ。ソファーでのんびり昼寝ができるのも、あなたが事務所にいるからです」
「そ、そんなこと……」
急に早坂が優しいことを言ってくるので、三佳は頬や耳が熱くなり、モジモジと俯く。
確かにあの霊に言われたことは核心を突いていたと三佳も思う。早坂からも、たびたび〝あまりものに肩入れしすぎないように〟と言われている。それで痛い目に遭うこと、しばしばだ。そのおかげで、今回は笑うに笑えない恋の入り口にも立ってしまった。
彼は、人を疑うことを覚えろと言った。それはきっと〝人〟に対しても〝もの〟に対しても、過度に心を寄せすぎると痛い目を見る、という警告だろう。
でも、その言葉に心の底から納得はできない。
危うく自殺させられそうになったあとでも、それだけは、はっきりしている。
「あの……鷹爪夫妻の請求額の件、勝手なことをして本当に申し訳ありませんでした」
光葉に念を押されるまでもなく、あの日の翌日、朝一番で早坂に謝っていたけれど、三佳は改めて深く腰を折り、頭を下げた。そのとき早坂は「もういいですよ、野々原さんの気持ちもわかりますし」と三佳の頭にポンと手をやり、笑って許してくれたが、今、どうしてももう一度、きちんと謝らなければならない気がしたのだ。
「……どうしたんですか、いきなり」
目を瞠る早坂に構わず、三佳は続ける。
「鷹爪夫妻のことで信用を無くしていたのに、そんな私を当たり前に信頼しているだなんて言わないでください。無くした信用を取り戻すのは、信頼を得ることより時間がかかるのはわかっています。これからもっともっと信頼回復に努めます。だからどうか、末永く『早坂ハウスクリーニング』に置いてください。お願いします……!」
今になって思えば、あのときは心のどこかに〝謝れば大丈夫〟という慢心があったように思う。向こう五ヵ月間給料カットに、以前早坂から「定年まで働け」と言われた記憶も新しく、よっぽどのことがない限り早坂が三佳を解雇するはずがないと思い込んでいたからだ。それも今では、なんて身の程知らずで恐ろしい考え方だったんだろうと思う。
でも今は、心の底から早坂の信頼を得たいと思う。
そのためには、光葉も言っていたように、今まで以上に会社にも早坂にも尽くす覚悟でひとひとつの仕事に真剣に臨まなければならない。
できるかと言われれば、すぐに胸を張って「はい!」と答えられないのが悔しい。だってこれから先、どんな〝お掃除物件〟にひとりで送り込まれるか、わからないのだから。
ただ、できるかどうかではなく、やるかやらないかなのだということは、わかっているつもりだ。ギリギリまで粘っていれば、必ず早坂が現れる――三佳的には遅いと思うこともあるけれど、そのことだけは、心にも体にも深く深く刻み込まれているのだから。
「……あの、あの人はどこに……?」
何とも言えない後味の悪さを感じながら、三佳の横に立ち、屋上の出入り口をじっと見つめる早坂におずおずと尋ねてみる。三佳はまだ、ほとんど呆然としながら、高いフェンスで囲われた向こう――彼がいた空間の方向を向いたままだ。振り向かなければ、早坂が今、どんな顔をしているかは窺い知ることができない。
聞かなくても答えはだいたいわかっているし、さらに後味の悪い思いをするだろうこともわかっていたが、切ない遠吠えがやけに耳に残って、早坂の口からきちんと聞かなければ、という一種の信念のようなものが、三佳の胸を静かに突き動かしていた。
「……」
けれど早坂は、なかなか口を開こうとはしなかった。
「……あの、しょ、所長……?」
あの霊に対して何か思うところがあるのだろうか、まさか今になって何度も犬呼ばわりされたことに口も利けないほど怒っているのだろうか、だったらどうやって宥めよう、と恐る恐る早坂の顔を覗き込んでみれば――。
「帰る気力も体力も失いました。とりあえずここで休みますから、野々原さんは、フロアを片づけたら帰る前に屋上に寄って僕を起こしてください」
「……え?」
「そして今日は臨時休業です。野々原さんもしっかり休養を取ってくださいね」
「うわっ、ちょ、ちょっと……!」
すでに寝ぼけ眼でうつらうつらしながら、それでも言うことだけはしっかり言って、まるで電池が切れたかのようにその場にパタリと倒れ込んでしまった。
「ええぇー……」
つーか、眠かっただけかい!
犬の連呼に怒り狂っていたり、反対に心を痛めていたり……せめてそういった心配心を少しは返してから眠ってほしいものだと、三佳は呆れたため息を吐きながら切実に思う。
一度オオカミの力を使うと眠くなってしまうことは、前回も、それ以前に赴いたお掃除物件でも経験済みだ。でもここは、深夜の風はまだ冷たいビルの屋上である。しかも、こんなケースは初めてだ。前まではどんなに眠そうでもちゃんと帰っていたけど、今回はよっぽど疲れたんだろうな……と思うと、無下に置いていくことも憚られるから困った。
「わ、もう夜明けじゃん」
いつの間にかオオカミ姿で丸まって眠っている早坂から、ふと顔を上げると、ひしめき合う高層階ビルの谷間にわずかに見える空が少しずつ色を帯びはじめていた。
どうやらもう朝方らしい。これじゃあ所長じゃなくても眠くなるよ、と三佳はふいに出てきた欠伸をひとつ、噛み殺す。残念ながら、まだ克明に後味の悪さが残っているせいで、死にかけたあとの夜明けは格別に綺麗に見える――というほど三佳の心を洗ってはくれなかったけれど。無事に生きて一夜を乗り越えられた安堵感は、確かにある。
「……これじゃあ、ちょっと寒いかもしれないですけど」
スースーと気持ちよさそうに眠っている早坂の体に、作業着の上着を掛けてやる。温かそうなモフモフの毛並みがあるのだから、人間よりは寒さに強くできているとは思うけれど、ブランケットを掛けずに放置していたら「愛がない」と言われたことがある手前、掛けられるものは掛けてやるのが、やはり人情というものだろう。
「さて。じゃあ、掃除の続き、してきますね」
そうして三佳は、今度は正真正銘〝普通の掃除〟に戻っていった。
そういえば、あの霊が言っていたハンカチは、早坂に掛けた作業着のポケットの中だ。
それを思い出した頃にはどうにかフロアの掃除も終わり、屋上で寝ている早坂を起こしに行く時間だった。霊が言っていたことが本当だとするなら、あのハンカチは救急車を呼んだり応急手当をしてくれた人のものだろう。遺族の側からすると、他人の血が付いたものでもハンカチが手元に戻ってこないのは、どんな気持ちなんだろうか。
彼が死んだのは五年も前だという。その後、助けたその人も三佳と同様、体を乗っ取られて自殺させられたのだとすると、だいぶ前のこと、ということになる。
あのハンカチは本来、三佳が持っているべきものではないことだけは確かだが、調べて遺族のもとへお返しするにしても、時間が経っているぶん、今さらなような気もする。しかも、死後に悪霊に堕ちた自殺者の血がベッタリと付いたものでもあるのだ。
「うーん……」
実はあなたのご家族は、助けようとしたその人がのちに悪霊化して恨みを晴らしていたうちのひとりでした――などとは、とてもじゃないが言えない。にしても、今さら返しても、かえって失礼だろうか、でも、すごく大切なものかもしれないし……と、三佳はどうするのがいいのか、無人の廊下を屋上に向かいながら大いに悩む。
答えが出ないまま屋上の扉の前までたどり着き、鉄製の重厚なそれを押し開ける。
外は日がすっかり昇りきり、雲の合間に綺麗な青空が覗いていた。そういえば昨日見た天気予報では、今日は梅雨の晴れ間が覗くという。久しぶりの洗濯日和ということだけれど、この時季独特の湿った空気は相変わらず健在で、三佳は少々、苦笑する。
まあ、部屋干しよりは断然いいけど。
ワンルームの狭い部屋では、いい加減、干すスペースもなくなってきている。それに、心も洗濯しようにも、こう蒸し蒸ししていると、一日かけて天日で干しても結局九割くらいしか乾かないような気がして、それもなんだかなぁと思う。
そして、苦笑の原因はもうひとつ。
「所長、終わりましたよ。起きてください、帰りましょ」
むっとする空気の中、モフモフの体を揺する。今日はこれから暑くなるらしい。このままここで寝ていては、日差しと湿った蒸し暑さのせいで、のぼせ上ってしまう。
「……あ、終わりました? 野々原さん」
「はい。今日は暑くなる予報なんですよ。ここには日差しを遮るものがないので、もうちょっと寝るなら、帰ってからにしましょう。もうすでにけっこう暑いですし」
「そうですね。そうしましょうか」
「はい」
……というか、人語を話すオオカミというのも、なかなかシュールなものだ。しかし、起き上がると同時にパッと人間の姿になるのも、これはこれでシュールである。
「相変わらず、すごいですね、それ……」
人間とオオカミの姿をいとも簡単に切り替える様子を目にするたび、三佳はどうしても狐や狸に化かされているような気分になる。どんなに緻密で精巧に作り上げられたマジックでも、タネがあるぶん、そちらのほうが万倍可愛らしいのは言うまでもない。
「なにを言っているんですか、もう驚かないくらい見慣れたでしょうに」
「はい、まあそうなんですけど。でも所長、こういう変化の瞬間って、あんまり人に見られたいものではないんじゃないですか? しょっちゅう見てる私が言うのも変な話ですけど、もう少し慎重になっても損はないんじゃないかと……」
誰に話すつもりもないし、それ以前に絶対に信じてもらえないだろうから誰にも話せないけれど、いくら社員の三佳の前であっても、あんまり無防備だといろいろと心配だ。
一番気がかりなのは、変化の瞬間をうっかり他人に見られてしまった場合だ。そのときそばに三佳がいるとして、どう言い訳しようかと。三佳は早坂が人間とオオカミの姿を行ったり来たりする様を見るにつけ、頭痛の種が少しずつ増えていく気がしてならない。
「ははは、大丈夫ですよ」
しかし早坂は、三佳の心配をよそに鷹揚に笑った。
「どうせ夢でも見たと思うのが関の山でしょう。人間は〝思い込む〟のが上手な生き物ですからね。それに、その力は人間にしかありません。そのおかげで成功を手に掴むことができるときもありますし、逆に死んでもなお、破滅することもあります」
「そういうものでしょうか……?」
「そういうものです。そうだ、試しに一度、野々原さんのご友人に事務所に遊びに来ていただいてはいかがでしょう? そのときは、うんとサービスしますよ」
「ぜひ遠慮させてください……」
光葉には、つい最近も仕事中にもかかわらず電話をかけて泣きついてしまった。
就職できずに困っていたときの三佳をどう思っていたのかも聞き、改めて彼女との友情の深さを痛感した瞬間でもあった。そんな光葉を面白半分で実験台になどさせてなるものか。
心底嫌そうな顔で即断った三佳にまた笑うと、早坂は「ともかく」と場を仕切り直す。
「こういう仕事をしていれば、嫌な思いも、後味の悪い思いをすることもあります。それでも、僕は困ったことに、野々原さんを手放すつもりもないんです」
「所長……」
「あの霊に言われたことは、正直、半分は僕が野々原さんに抱いている懸念と同じです。だから忘れろとは言えません。でも、信じなければ、そこには信頼関係は生まれないんです。例えば、僕が無防備に姿を変えられるのは、野々原さんを信頼しているからできることなんですよ。ソファーでのんびり昼寝ができるのも、あなたが事務所にいるからです」
「そ、そんなこと……」
急に早坂が優しいことを言ってくるので、三佳は頬や耳が熱くなり、モジモジと俯く。
確かにあの霊に言われたことは核心を突いていたと三佳も思う。早坂からも、たびたび〝あまりものに肩入れしすぎないように〟と言われている。それで痛い目に遭うこと、しばしばだ。そのおかげで、今回は笑うに笑えない恋の入り口にも立ってしまった。
彼は、人を疑うことを覚えろと言った。それはきっと〝人〟に対しても〝もの〟に対しても、過度に心を寄せすぎると痛い目を見る、という警告だろう。
でも、その言葉に心の底から納得はできない。
危うく自殺させられそうになったあとでも、それだけは、はっきりしている。
「あの……鷹爪夫妻の請求額の件、勝手なことをして本当に申し訳ありませんでした」
光葉に念を押されるまでもなく、あの日の翌日、朝一番で早坂に謝っていたけれど、三佳は改めて深く腰を折り、頭を下げた。そのとき早坂は「もういいですよ、野々原さんの気持ちもわかりますし」と三佳の頭にポンと手をやり、笑って許してくれたが、今、どうしてももう一度、きちんと謝らなければならない気がしたのだ。
「……どうしたんですか、いきなり」
目を瞠る早坂に構わず、三佳は続ける。
「鷹爪夫妻のことで信用を無くしていたのに、そんな私を当たり前に信頼しているだなんて言わないでください。無くした信用を取り戻すのは、信頼を得ることより時間がかかるのはわかっています。これからもっともっと信頼回復に努めます。だからどうか、末永く『早坂ハウスクリーニング』に置いてください。お願いします……!」
今になって思えば、あのときは心のどこかに〝謝れば大丈夫〟という慢心があったように思う。向こう五ヵ月間給料カットに、以前早坂から「定年まで働け」と言われた記憶も新しく、よっぽどのことがない限り早坂が三佳を解雇するはずがないと思い込んでいたからだ。それも今では、なんて身の程知らずで恐ろしい考え方だったんだろうと思う。
でも今は、心の底から早坂の信頼を得たいと思う。
そのためには、光葉も言っていたように、今まで以上に会社にも早坂にも尽くす覚悟でひとひとつの仕事に真剣に臨まなければならない。
できるかと言われれば、すぐに胸を張って「はい!」と答えられないのが悔しい。だってこれから先、どんな〝お掃除物件〟にひとりで送り込まれるか、わからないのだから。
ただ、できるかどうかではなく、やるかやらないかなのだということは、わかっているつもりだ。ギリギリまで粘っていれば、必ず早坂が現れる――三佳的には遅いと思うこともあるけれど、そのことだけは、心にも体にも深く深く刻み込まれているのだから。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
おおかみ宿舎の食堂でいただきます
ろいず
キャラ文芸
『おおかみ宿舎』に食堂で住み込みで働くことになった雛姫麻乃(ひなきまの)。麻乃は自分を『透明人間』だと言う。誰にも認識されず、すぐに忘れられてしまうような存在。
そんな麻乃が『おおかみ宿舎』で働くようになり、宿舎の住民達は二癖も三癖もある様な怪しい人々で、麻乃の周りには不思議な人々が集まっていく。
美味しい食事を提供しつつ、麻乃は自分の過去を取り戻していく。
となりの京町家書店にはあやかし黒猫がいる!
葉方萌生
キャラ文芸
★第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。お読みくださった皆様、本当にありがとうございます!!
京都祇園、弥生小路にひっそりと佇む創業百年の老舗そば屋『やよい庵』で働く跡取り娘・月見彩葉。
うららかな春のある日、新しく隣にできた京町家書店『三つ葉書店』から黒猫が出てくるのを目撃する。
夜、月のない日に黒猫が喋り出すのを見てしまう。
「ええええ! 黒猫が喋ったーー!?」
四月、気持ちを新たに始まった彩葉の一年だったが、人語を喋る黒猫との出会いによって、日常が振り回されていく。
京町家書店×あやかし黒猫×イケメン書店員が繰り広げる、心温まる爽快ファンタジー!

大神様のお気に入り
茶柱まちこ
キャラ文芸
【現在休載中……】
雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。
ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。
呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。
神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない
有沢真尋
キャラ文芸
☆第七回キャラ文芸大賞奨励賞受賞☆応援ありがとうございます!
限界社畜生活を送るズボラOLの古河龍子は、ある日「自宅と会社がつながってれば通勤が楽なのに」と願望を口にしてしまう。
あろうことか願いは叶ってしまい、自宅の押入れと自社の社長室がつながってしまった。
その上、社長の本性が猫のあやかしで、近頃自分の意志とは無関係に猫化する現象に悩まされている、というトップシークレットまで知ってしまうことに。
(これは知らなかったことにしておきたい……!)と見て見ぬふりをしようとした龍子だが、【猫化を抑制する】特殊能力持ちであることが明らかになり、猫社長から「片時も俺のそばを離れないでもらいたい」と懇願される。
「人助けならぬ猫助けなら致し方ない」と半ば強引に納得させられて……。
これは、思わぬことから同居生活を送ることになった猫社長と平社員が、仕事とプライベートを密に過ごし、またたびに酔ったりご当地グルメに舌鼓を打ったりしながら少しずつ歩み寄る物語です。
※「小説家になろう」にも公開しています。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる