就職したらお掃除物件に放り込まれました

白野よつは(白詰よつは)

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■2.ダークオフィスに起死回生のどんでん返しを

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 三佳が何もできない自分に激しく憤りを感じていると、
「今の台詞、聞き捨てなりませんね。僕も大概、野々原さんのバカっぷりには困っていたところだったんですが……犬ときましたか。へぇ、僕は犬に見えるんですか」
 早坂が、薄い笑みの中に冷徹さを潜ませながら確かめるように言った。
『どう見たって犬でしょ。耳も尻尾も、まさに犬じゃん。ワンって鳴いてみなよ。ほら』
「そうですか……。それは残念です」
 食ってかかるような言い方の彼に、さらに口元に薄い笑みを広げると、早坂は特に残念そうでもなく、そう言う。顔は確かに笑っているのに、目が笑っていない。いまだ動きのないことに加えて目も笑っていないとなると、恐ろしさは倍増だ。
 このまま一気に滅してしまえ、と三佳は思う。早坂がやけに怖いこともそうだが、三佳に話したことだって、全部でっち上げだったに違いない。彼の目的はきっと、波長が合う人間を道連れにすることだったのだろう。嘘の身の上話で同情心を誘い、ふっと気を緩めた隙間に入り込んで自殺させる――それが彼――いや、この禍々しい悪霊の巧妙な手口だったのだ。ほんのり恋していた自分が、いかにバカだったか、やっと思い知る。
 ――どうしたんですか! ひと思いにやっちゃってください!
 私情も多分に含んだ怒りに震えながら、三佳は立ったままの早坂に呼びかけた。
 この霊は、前の靄のときとは明らかに目的が違う。明確な殺意を持って、生きている人間を死に陥れようとしているのだ。化けの皮が剥がれた今、同情するところなんてひとつもないし、早坂のことまで執拗に侮辱されたとなれば、話は違う。
 三佳は初めて、早坂の霊とあらば早々に滅してしまおうという癖を頼もしく思った。これ以上、早坂のことを侮辱されては敵わない。バカにしたことを今すぐ後悔させてやる。
 けれど。
「野々原さんともあろう善意の塊みたいな方が、そんなことを言うものではありません」
 早坂はそう言い、憤怒する三佳を窘めた。
 三佳が、なんでですか! と反論するのは当たり前のことだった。
 三佳自身のことは、ひとまずいい。できることなら一発殴ってやりたいし、文句だってわんさか言ってやりたいけれど、自称気高きオオカミのもののけである早坂には、彼の毒を多分に含んだ言葉の羅列はプライドが許さないものだったはずだ。
 それに対して三佳は怒っているのだ。早坂はバカなんかじゃない。それをわからせるためにも、今すぐ強力な力でねじ伏せなければ、三佳の気だってひとつも治まりはしない。
「こうなることは、ある意味、予測できていたことだったんです。彼が貸してくれたハンカチ、今も持っていますよね? あとで見てみるといいですよ、血のあとがベッタリ付いているはずです。ですから、もともと涙を拭けるようなものではないんです」
 すると早坂は、いい加減本体がうざったくなったのだろう、……失礼、と呟くと本体のみぞおちに拳を見舞い、すぐにぐったりしたそれを丁重に地面に寝かせながら言った。
 あわわ私が……! と戦慄するも、言葉の端々に引っかかるものを感じ、三佳は正直、パンチを食らわされたことより、そちらのほうが気になって仕方がなかった。
 考えたくはないが、早坂はこの十日あまりのことをすべて知っているのではないだろうか、という気がしてならない。知っていて、夢見がちな妄想を膨らませながら足しげく現場へ通い続ける三佳を物言わず放っておいたのではないだろうか。
 だとしたら、恥ずかしすぎて死にそうだ。
 やはり早坂には、三佳が知らないだけで舎弟や子分が複数いるのだと思う。そうでなければ、日によっては退勤時間になってもオオカミ化したままソファーを占領してうたた寝に講じている早坂が、三佳のプライベートな行動まで監視できるはずがない。
 幽霊とは夢にも思わず、付き合えたらいいな、と妄想を抱いていた頭の中までは、さすがに読まれていないと思いたいけれど……それもどうだか。
 とにかく、穴があったら入りたい気分というのは、まさにこのことである。血のあとがベッタリ、という言葉も気にはなるが、それどころではない心境だ。
『ああ、あれか』
 と、ハンカチに反応した彼が、ぽつりと言葉をこぼした。
『あれ、瀕死のときの俺の血。通りに面してビルの下に植え込みがあったんだよ、その当時は。落ちたはいいけど、運悪くそれがクッションになってすぐには死ねなくてさぁ。たまたま通りかかった人が救急車呼んだり、その間応急手当をしてくれたりしたんだけど。頑張ってください、今救急車を呼びましたから、もうすぐ来ますから、ってウザくてウザくて。瀕死ながら思ったよね。――なに余計なことをしてくれてんだよ、って』
 そんな……。
 三佳は、ゾッとするほど怜悧な口調で語られる当時の緊迫した状況に、意識だけの状態のはずなのに思わずブルリと震えた。必死で助けようとしてくれた人をそんなふうにしか思えないなんて、心のどこかが壊れているとしか思えなかった。
 ただ、身投げするほど精神的に追い込まれていた状態だったのだから、このまま死なせてくれという気持ちがあった、あるいは生きたいと思う意思より強かった可能性はある。
 それでも、たまたま通りかかっただけのその人が必死に彼を助けようとしてくれていた気持ちや行動を〝ウザい〟と取るのは筋違いだと、三佳は断固、そう思う。
『――だから、殺しちゃった』
 そんなとき、そう少しも悪びれる様子もなく言った彼に、三佳の中で何かが弾けた。
「……どんなふうに殺したの?」
 地面からむくりと起き上がった三佳は、彼をスッと見据え、声を低くして尋ねる。
 今まで抱いたことのない激しい怒りからか、自力で意識と体が本来あるべき形に戻ったのかもしれない。不思議とみぞおちに痛みはなかった。てっきり実際にパンチを打って立てなくさせたのだと思っていたのだが、早坂の拳が当てられたそこからは、熱すぎるくらいの力が腹の底からふつふつと湧き上がり、全身に漲っている。
『へぇ、変わった人間もいるもんだね。驚いたよ。その犬のそばにいると、普通の人間にはない力が使えるようになるのかな。まあとにかく、感心、感心。よくできました』
「ふざけないでっ! 私の質問に答えて」
『おー、こっわ』
 ピシャリと切り捨てると、彼は薄ら笑いを浮かべながら大袈裟に怖がるふりをする。いい加減カチンとくることが多すぎて、もはや三佳の頭の中は沸騰寸前だ。
 だが、彼の煽りに乗ってはいけないという冷静な部分も、三佳は持ち合わせていた。ここできちんと聞いておかなければ、その人のところに供養に行けない。
「……ちゃんと答えて。その人のことを、どんなふうに殺したの」
 もう一度訪ねると、肩を竦めた彼はしばし思案し、やがて、
『そうそう、確か……自殺スポットで有名な富士の樹海で首吊り自殺させたんだったと思うよ。死ぬ間際、いかにも悪そうな奴が俺のところに来て、あんたにしたみたいに体と精神を切り離す力をくれたんだけど。その力を使って殺したい奴はひと通り殺したから、誰をどうやって殺したか、正直覚えてないところのほうが多いんだよね』
 そう言って、また怒りを煽るような薄ら笑いを浮かべた。
「ちょっ、人を殺しておいて曖昧なことを言わないでよ!」
『だってしょうがないでしょ、何人も自殺させたんだから。そんなの、いちいち覚えてらんないって。それに、余計なことをして恨まれるほうが悪いと思わない? 俺を助けようとしたその人だって、のちのち自分が自殺させられるってわかっていたら、知らんぷりして通り過ぎてたはずだよ。そうしてくれれば、恨まれることもなかったのに』
「なっ……!」
 なんていう自分勝手な考え方だろうか。三佳の握った拳がわなわなと震える。
 助けようとしたら殺されるなんて、そんな話があっていいはずがない。
 その人には守る家族がいたかもしれない、帰りを待つ子どももいたかもしれない。あるいは恋人や、将来を約束した人がいたかもしれないのに……その人たちの幸せな未来まで唐突に奪っておいて、どうしてそんなふうに笑っていられるのだろうか。
 今、せせら笑っている彼にだって家族がいた。友人もいた。その人たちは、彼の突然の訃報を聞いて大いに嘆き悲しんだ。どうやら全部が全部、嘘だったわけではないようだけれど、周りの人たちの痛みもわかりすぎるくらいにわかっているはずの、そんな彼が、死んでもなお、なぜ自ら悪意の塊に堕ちなければならなかったのだろう。
 三佳だって、残念ながら生きている人間みんながみんな、善人だとは思っていない。
 でも……。
『――あのさ、野々原さん』
 すると彼が笑うのをピタリとやめ、唐突に三佳の苗字を呼んだ。
『善意は悪意と紙一重なんだよ』
「……え?」
『あんた、ちょっと優しくされただけで、すぐ熱を上げちゃうくらい騙されやすいんだから、これからは、良かれと思って向けた善意が回り回って悪意に成り代わらないように、少しは人を疑うことを覚えたほうがいいんじゃない?』
 そして、親身なアドバイスでしょ、とでも言いたげに、自分自身の言葉に何度も頷く。
「……」
 どういう意味かと真意を測りかねていると、
『そこの犬も言ってたじゃん、あんたのバカっぷりには大概困ってたって。これからも俺みたいな奴と関わる仕事を続けていくつもりなら、体だけじゃなく心まで乗っ取られないようにせいぜい用心しなよ、って言ってんの。ぶっちゃけ、あんたみたいな人に憑くのが一番面白いんだけど、これ以上深追いしたら、そこの犬が黙ってないだろうから』
 そう言って、今まで恐ろしいくらいに黙っていた早坂に意味ありげな視線を向けた。
「安らかな眠りにはつけませんよ、永遠に。生まれ変わることも叶いません」
 それを受けた早坂もまた、含みのある言い方をする。しかし二人とも、どういうことかと早坂と彼を交互に見つめ、説明を乞う目を向ける三佳のことはお構いなしだ。
『どうでもいいさ。もう恨んでる奴もみんな殺しちゃったし、いい加減、視えたり感じたりはできても、こうやって話せる人とはなかなか会わなくて超つまんなかったし』
「そうですか。そこまで言うなら、そのようにしましょう」
『ああ。現世はもう飽き飽きだ』
「大したものです。あなたみたいな外道の輩は、そうそういませんよ」
『そりゃ、どうも』
 そんな会話を続けたあと――。
 早坂の体が白い靄に包まれ、その中から『グルルルル……』と獣が敵を威嚇するときの唸り声が聞こえた。まさかと思い、靄に目を凝らすと、徐々に晴れていったそこから現れたのは、三佳の胸のあたりまで体高のある、大きな銀毛のオオカミだった。
 オオカミは、一足飛びで彼に飛びかかると、その喉元に鋭い牙を突き立てる。あれだけはっきり見えていた彼の姿は、その瞬間、ぱっと弾けるようにして、どこかここではないどこかへ消えていった。それを横目に、すぐさま方向転換して屋上に舞い戻ったオオカミは、ひとつ空に向かって遠吠えをすると、あっという間に早坂慧の姿に戻る。
 その間は、おそらく数秒もないだろう。
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