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■9月26日(火)
白岩くるり 1
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「ねえ、さっきの子さぁ、うちらのことを見て、ニヤッと笑ってかなかった?」
杏奈がそう言ったのは、カラオケ店に着いてから、だいぶ経った頃のことだった。
先週末、急にドタキャンした埋め合わせ。
統吾たちはそのあと、普通にカラオケに行ったそうだけれど、みんな口々に「くるりがいないとイマイチ盛り上がらないんだよね」なんて言って、くるりをおだて、火曜日の今日、五人連れ立ってここに来ている。
「あ、それ、俺もちらっと見えたわ。怠惰な俺らに同情? 憐れみ? みたいな?」
さっきというか、もうけっこう前のことなのに、なにを指しているのかすぐにわかったらしい統吾が、そう言って杏奈に同調する。
長年に渡る営業のおかげでタバコの匂いと埃っぽさがすっかり染みついて取れなくなっている、駅前商店街の中にある古いカラオケボックス。その一室の、端っこがところどころ破れているソファにどっかりと座って背中を預けていた統吾は、直後、ニヤッと。学校の廊下ですれ違った彼女の顔真似なのだろう、口角を歪に持ち上げて笑顔を作った。
「やっぱり統ちゃんも思った? うちらがあんたになにしたのって話じゃない? てか統ちゃん、それ、犯罪者の顔っぽいから!」
あははと杏奈が笑う。それにつられて、変顔をしている統吾も、統吾の顔を見た瑞季や雄平も、ウケるー似てるわーと笑う。
カラオケに来たものの、さっきから統吾たちは、ほとんどマイクを握っていなかった。話のネタはもっぱら猿渡と例の陸部の彼女のことで、今は帰りに廊下ですれ違った同級生の彼女の話に移っている。
杏奈は案外、こういう話が好きだ。放っておけばいいものを、こうやって仲間たちに話題を振っては、みんなの反応を見て楽しんでいるようなところがある。
くるりは別に、それをいいとも悪いとも思ったことはないし、言ったこともない。周りのことも杏奈のこういう性格も、どうでもいい、自分には関係ない、とシャットアウトしているわけではないけれど、わざわざ自分から熱くなることもないと思っているためだ。
それに、杏奈も統吾たちも、どこか冷めたようなところがある。皮肉ると置き換えてもいいようなそれは、だらけているほうが格好いいだとか、イケてるだとか、きっとそういう、この年代特有のものなのだろう。
もちろん、くるりもそれに倣うだけだ。だって、そのほうが楽だし、平和で、温和で、余計な波風だって立たないし。
だけど今日も、どうしてかみんなの輪に入っていく気にはなれず、くるりは静かにコーラを飲んでいた。誰がどうだというわけでもないのに、今ひとつ、彼らのテンションに乗りきれないのだ。……先週から、ずっと。
「あー、ていうか、もう今週末じゃん。どうにかして休めないかなー。ほんっと憂鬱」
「夜行遠足だろ? 俺もー」
「俺も」
「俺も」
でも、話の矛先がコロコロ変わるのは、杏奈の気持ちのいいところだ。さしたる興味も執着もないのだろう、くるくると自分の毛先を弄びながら心底嫌そうな顔をして呟く。それに統吾、瑞季、雄平の順で、絶妙な間とテンポの同意の声が続いた。
そんな男子三人組のことを、くるりは、どこかの鳥の倶楽部みたいだなと常々思っている。さしずめ杏奈は、飼い主か調教師。
けれど実際にそれを口に出したことはないし、なんとなく口に出せないでもいる。別に言ったところで、どうこうなるわけでもないだろうけれど、なんとなく。しかしあれはもはや伝統芸能の域だと思う。統吾たちにはぜひ頑張ってもらいたい。……なにをだ。
でもあれ、別に私たちに向けて笑ったものじゃないと思うんだけど。てか、同情したり憐れんだりもしていなくて、ただ単にその子にとって嬉しいことがあって、たまたま私たちの後ろを通りかかったときに思わず頬が緩んじゃっただけだと思うんだけど。
炭酸が抜けて生ぬるくなったコーラとともに、その台詞を喉の奥に押し流す。
話が長引くようなら、聞いているこっちもあまり気持ちのいいものでもないので、ただの悪口になる前に止めに入ろうかと思っていたけれど、出る幕がなくてよかった。
顔くらいは知っているものの、話したことのない隣の隣のクラスの子。その子を庇ったせいで杏奈から顰蹙を買いたくはない。
「で、くるりはどうなの?」
「うぇっ?」
急に話を振られて、盛大にまごつく。
どうなのかと聞かれても、なにを求められているのかわからず、くるりは尋ねてきた杏奈を見た。いったいなんの話だろう?
「もー……。どのあたりでリタイヤするかって話だってば。あんまり初めのほうでもダメだし、半分を過ぎてからだと、あと何キロだから頑張って歩けって言われるだろうし」
だから、どこでリタイヤするのが妥当なのか、ちょうどいい距離を探してるんだよ。
すると杏奈はそう言い、ちぅ、と手に持っていたメロンソーダを吸った。ある意味毒々しい緑色の液体がストローの中を駆け上り、可愛らしくすぼまった口に入っていく。
「あー、やっぱ、六割くらいかな?」
それを眺めながら、くるりは適当に答えてみる。明らかに具合が悪そうであれば、距離に関係なく、すぐに救護されるが、そういうときに限って人って案外元気なものだ。
くるりの場合は違ったものの、どうやら杏奈たちは、今年も仮病を使っていい感じに夜行遠足から離脱する気が満々らしい。……呆れるというか、らしい、というか。なんでこういうところだけ全力なんだか。
「だよねー。じゃあ、ちゃっちゃと歩いて、さっさとリタイヤしちゃおうよ。頑張って歩きすぎて具合が悪くなった、とか言えば大丈夫だって。もっともらしいじゃん」
「……まあ、そういう場合もあるね」
「ね!」
名案だ、と言うように、杏奈がぱちんと両手を合わせて目を輝かせる。もう本当に、なんでこんなところだけ全力なの、この子は。
その全力をもっとほかのことに使ったらいいのに、と思うのは、いまだ体から体育会系が抜けきっていないからだろうか。
憧れていた自由な放課後を満喫しているはずなのに。抑圧の反動を今、めいいっぱい感じているはずなのに。夜行遠足がいよいよ近づいてきてからというもの、くるりの心の中には、私はこれでいいのかという疑問や迷いが重く鉛のようにのしかかっている。
「それじゃあ俺らは、六十キロも歩かなきゃなんねーじゃん。死ぬ死ぬ、そんなの!」
統吾が瑞季や雄平と顔を見合わせ、顔の前でオーバーにぶんぶんと手を振る。それだけ元気なら、完歩だって余裕そうである。
「いいじゃん。統ちゃんたちは六十キロくらい歩け。そんなに元気なら余裕でしょ」
「おい杏奈、俺らを見くびってもらっては困る。運動なんて体育以外、全然やってないんだぞ。ほかの男どもと一緒にすんな」
「そうだぞ杏奈、俺らはひ弱なんだぞ」
しかし杏奈はしれっとしたもので、そんな彼女の冷たい言い草に、瑞季と雄平がすかさず自分たちにフォローを入れる。彼らの横では統吾が腕を組んで仰々しく頷いていて、まるでどこかの社長のようだ。まあ、埃っぽいソファに座る社長なんていないけれど。
そんな四人を、どこか冷めた気持ちで見つめながら、話だけは上手く合わせて笑い、くるりは一度は手に取ったギンガムチェックの生地のことを密かに思い出していた。
先週の金曜、カラオケをドタキャンしたあとに向かった手芸店。応対してくれた店のおばさんは、くるりが店に入ってきたとたん、疑いもせずに生地が置いてある棚を教えてくれて、「可愛いわよねえ。青春って感じで」と嬉しそうに世間話を振ってきた。
そのときくるりは曖昧に笑うことしかできなかったけれど、蓮高生というだけで生地を買いに来たんだと思われたことも、お守りを渡すんだと当たり前に思われたことも、なんだかとても恥ずかしかった。
最終的にただの冷やかし、賑やかしになってしまったことも、それと同じくらい恥ずかしくて、申し訳なかった。けれど、実際に生地を手に取ってみても、結局はほかの子たちがどうしてそんなに恋や目の前の物事に頑張れるのかがわからなかったし、心の中に積もり続ける焦る気持ちとは裏腹に、自分はどうしたいのかも、わからずじまいだった。
そんな状態で、本命お守りを作るための赤のギンガムチェックの生地なんて買えるわけがなかった。……だって私は、頑張る目標をもうずいぶん前から見失っているんだから。
そして今も、わからないままだ。むしろ、統吾たちといると、どんどんわからなくなっていくような気がして、たまらなく怖い。
みんなのことが好きだから一緒にいるのに。そうすることを選んだのは私なのに。このままだと、ますます自分がダメになっていくような気がして、居心地のいいはずの五人での空間が、急に空々しく思えてくる。そして、そんな自分自身に恐怖心が拭い去れない。
私は本当にこのままでいいの? みんなのことが好きなはずなのに、一緒にいると、なんでこんなに冷めちゃうんだろう?
ずっと自分に問いかけているものの、いまだにひとつも答えは出ないままだ。
杏奈がそう言ったのは、カラオケ店に着いてから、だいぶ経った頃のことだった。
先週末、急にドタキャンした埋め合わせ。
統吾たちはそのあと、普通にカラオケに行ったそうだけれど、みんな口々に「くるりがいないとイマイチ盛り上がらないんだよね」なんて言って、くるりをおだて、火曜日の今日、五人連れ立ってここに来ている。
「あ、それ、俺もちらっと見えたわ。怠惰な俺らに同情? 憐れみ? みたいな?」
さっきというか、もうけっこう前のことなのに、なにを指しているのかすぐにわかったらしい統吾が、そう言って杏奈に同調する。
長年に渡る営業のおかげでタバコの匂いと埃っぽさがすっかり染みついて取れなくなっている、駅前商店街の中にある古いカラオケボックス。その一室の、端っこがところどころ破れているソファにどっかりと座って背中を預けていた統吾は、直後、ニヤッと。学校の廊下ですれ違った彼女の顔真似なのだろう、口角を歪に持ち上げて笑顔を作った。
「やっぱり統ちゃんも思った? うちらがあんたになにしたのって話じゃない? てか統ちゃん、それ、犯罪者の顔っぽいから!」
あははと杏奈が笑う。それにつられて、変顔をしている統吾も、統吾の顔を見た瑞季や雄平も、ウケるー似てるわーと笑う。
カラオケに来たものの、さっきから統吾たちは、ほとんどマイクを握っていなかった。話のネタはもっぱら猿渡と例の陸部の彼女のことで、今は帰りに廊下ですれ違った同級生の彼女の話に移っている。
杏奈は案外、こういう話が好きだ。放っておけばいいものを、こうやって仲間たちに話題を振っては、みんなの反応を見て楽しんでいるようなところがある。
くるりは別に、それをいいとも悪いとも思ったことはないし、言ったこともない。周りのことも杏奈のこういう性格も、どうでもいい、自分には関係ない、とシャットアウトしているわけではないけれど、わざわざ自分から熱くなることもないと思っているためだ。
それに、杏奈も統吾たちも、どこか冷めたようなところがある。皮肉ると置き換えてもいいようなそれは、だらけているほうが格好いいだとか、イケてるだとか、きっとそういう、この年代特有のものなのだろう。
もちろん、くるりもそれに倣うだけだ。だって、そのほうが楽だし、平和で、温和で、余計な波風だって立たないし。
だけど今日も、どうしてかみんなの輪に入っていく気にはなれず、くるりは静かにコーラを飲んでいた。誰がどうだというわけでもないのに、今ひとつ、彼らのテンションに乗りきれないのだ。……先週から、ずっと。
「あー、ていうか、もう今週末じゃん。どうにかして休めないかなー。ほんっと憂鬱」
「夜行遠足だろ? 俺もー」
「俺も」
「俺も」
でも、話の矛先がコロコロ変わるのは、杏奈の気持ちのいいところだ。さしたる興味も執着もないのだろう、くるくると自分の毛先を弄びながら心底嫌そうな顔をして呟く。それに統吾、瑞季、雄平の順で、絶妙な間とテンポの同意の声が続いた。
そんな男子三人組のことを、くるりは、どこかの鳥の倶楽部みたいだなと常々思っている。さしずめ杏奈は、飼い主か調教師。
けれど実際にそれを口に出したことはないし、なんとなく口に出せないでもいる。別に言ったところで、どうこうなるわけでもないだろうけれど、なんとなく。しかしあれはもはや伝統芸能の域だと思う。統吾たちにはぜひ頑張ってもらいたい。……なにをだ。
でもあれ、別に私たちに向けて笑ったものじゃないと思うんだけど。てか、同情したり憐れんだりもしていなくて、ただ単にその子にとって嬉しいことがあって、たまたま私たちの後ろを通りかかったときに思わず頬が緩んじゃっただけだと思うんだけど。
炭酸が抜けて生ぬるくなったコーラとともに、その台詞を喉の奥に押し流す。
話が長引くようなら、聞いているこっちもあまり気持ちのいいものでもないので、ただの悪口になる前に止めに入ろうかと思っていたけれど、出る幕がなくてよかった。
顔くらいは知っているものの、話したことのない隣の隣のクラスの子。その子を庇ったせいで杏奈から顰蹙を買いたくはない。
「で、くるりはどうなの?」
「うぇっ?」
急に話を振られて、盛大にまごつく。
どうなのかと聞かれても、なにを求められているのかわからず、くるりは尋ねてきた杏奈を見た。いったいなんの話だろう?
「もー……。どのあたりでリタイヤするかって話だってば。あんまり初めのほうでもダメだし、半分を過ぎてからだと、あと何キロだから頑張って歩けって言われるだろうし」
だから、どこでリタイヤするのが妥当なのか、ちょうどいい距離を探してるんだよ。
すると杏奈はそう言い、ちぅ、と手に持っていたメロンソーダを吸った。ある意味毒々しい緑色の液体がストローの中を駆け上り、可愛らしくすぼまった口に入っていく。
「あー、やっぱ、六割くらいかな?」
それを眺めながら、くるりは適当に答えてみる。明らかに具合が悪そうであれば、距離に関係なく、すぐに救護されるが、そういうときに限って人って案外元気なものだ。
くるりの場合は違ったものの、どうやら杏奈たちは、今年も仮病を使っていい感じに夜行遠足から離脱する気が満々らしい。……呆れるというか、らしい、というか。なんでこういうところだけ全力なんだか。
「だよねー。じゃあ、ちゃっちゃと歩いて、さっさとリタイヤしちゃおうよ。頑張って歩きすぎて具合が悪くなった、とか言えば大丈夫だって。もっともらしいじゃん」
「……まあ、そういう場合もあるね」
「ね!」
名案だ、と言うように、杏奈がぱちんと両手を合わせて目を輝かせる。もう本当に、なんでこんなところだけ全力なの、この子は。
その全力をもっとほかのことに使ったらいいのに、と思うのは、いまだ体から体育会系が抜けきっていないからだろうか。
憧れていた自由な放課後を満喫しているはずなのに。抑圧の反動を今、めいいっぱい感じているはずなのに。夜行遠足がいよいよ近づいてきてからというもの、くるりの心の中には、私はこれでいいのかという疑問や迷いが重く鉛のようにのしかかっている。
「それじゃあ俺らは、六十キロも歩かなきゃなんねーじゃん。死ぬ死ぬ、そんなの!」
統吾が瑞季や雄平と顔を見合わせ、顔の前でオーバーにぶんぶんと手を振る。それだけ元気なら、完歩だって余裕そうである。
「いいじゃん。統ちゃんたちは六十キロくらい歩け。そんなに元気なら余裕でしょ」
「おい杏奈、俺らを見くびってもらっては困る。運動なんて体育以外、全然やってないんだぞ。ほかの男どもと一緒にすんな」
「そうだぞ杏奈、俺らはひ弱なんだぞ」
しかし杏奈はしれっとしたもので、そんな彼女の冷たい言い草に、瑞季と雄平がすかさず自分たちにフォローを入れる。彼らの横では統吾が腕を組んで仰々しく頷いていて、まるでどこかの社長のようだ。まあ、埃っぽいソファに座る社長なんていないけれど。
そんな四人を、どこか冷めた気持ちで見つめながら、話だけは上手く合わせて笑い、くるりは一度は手に取ったギンガムチェックの生地のことを密かに思い出していた。
先週の金曜、カラオケをドタキャンしたあとに向かった手芸店。応対してくれた店のおばさんは、くるりが店に入ってきたとたん、疑いもせずに生地が置いてある棚を教えてくれて、「可愛いわよねえ。青春って感じで」と嬉しそうに世間話を振ってきた。
そのときくるりは曖昧に笑うことしかできなかったけれど、蓮高生というだけで生地を買いに来たんだと思われたことも、お守りを渡すんだと当たり前に思われたことも、なんだかとても恥ずかしかった。
最終的にただの冷やかし、賑やかしになってしまったことも、それと同じくらい恥ずかしくて、申し訳なかった。けれど、実際に生地を手に取ってみても、結局はほかの子たちがどうしてそんなに恋や目の前の物事に頑張れるのかがわからなかったし、心の中に積もり続ける焦る気持ちとは裏腹に、自分はどうしたいのかも、わからずじまいだった。
そんな状態で、本命お守りを作るための赤のギンガムチェックの生地なんて買えるわけがなかった。……だって私は、頑張る目標をもうずいぶん前から見失っているんだから。
そして今も、わからないままだ。むしろ、統吾たちといると、どんどんわからなくなっていくような気がして、たまらなく怖い。
みんなのことが好きだから一緒にいるのに。そうすることを選んだのは私なのに。このままだと、ますます自分がダメになっていくような気がして、居心地のいいはずの五人での空間が、急に空々しく思えてくる。そして、そんな自分自身に恐怖心が拭い去れない。
私は本当にこのままでいいの? みんなのことが好きなはずなのに、一緒にいると、なんでこんなに冷めちゃうんだろう?
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