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■6.おまえと走れなきゃ意味がない

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「なんて言ったらいいか、すぐには言葉が見つからないけど……翔琉。おまえ、ひとりでよく頑張ったな。過ぎたことに後悔してもはじまらないのはわかってるけど、おれもあのとき翔琉を見つけられてたらって思うと、なんかもうたまんない気分だわ……」
 話を聞き終えた康平が傘の柄をぎゅっと握って言った。翔琉が話している間中、康平の横顔はずっと強張っていたが、今は軽蔑と侮蔑の表情にはっきりと歪んでいる。
 それから、自分自身に対する後悔が如実に顔に現れる。
「おれには翔琉しかないように、翔琉にもおれしかないってわかってれば、こんなにややこしいことにはならなかったんだろうな。翔琉の名前にばっかり目が行って、本当の翔琉を見てなかった。……さっきは怒鳴って悪かった。ごめん。理由がないわけないのに、似内から翔琉がいきなり棄権したって連絡が入ってから、おれがどんなに試合に出たかったのか一番わかってるくせになにしてんだって。もうそれしか頭になかったんだ」
 そう言うと、苦虫を噛み潰したような顔で傘の隙間から翔琉を見上げた。
 走って一分の距離ではゆっくり引き返しても時間が足りず、五分ほどかけて駅に戻ってからも話は終わらなかった。外で立ち話をしながら、傘の下で雨に打たれる時間が続く。
 肉まんとピザまんは、もうとっくにふたりの胃の中に落ち着いていた。戻ってきたときには先ほどのサラリーマンの姿はすでになく、煌々と明かりが灯る駅舎の中は無人だった。
 どうやらコンビニに行っている間に電車が出たようだった。終電はまだ先だが、雨の日では人通りもなく、駅員も今日の業務を終えてその姿はないので駅前は閑散としている。
「いいよ。康平がそう思うのは当然だもん。ボコボコにされる覚悟で帰ってきたんだ。ていうか、ちゃんと話してなかったおれが悪いんだよ。康平は全然悪くない」
 ゆっくりと首を横に振りながら、翔琉は康平を正面から見つめる。
 おれもあのとき翔琉を見つけられていたら。おれには翔琉しかないように、翔琉にもおれしかないってわかっていれば。なにより〝ひとりでよく頑張ったな〟――そのたったひと言だけで、今までのことすべてが救われるような気がした。
「でもおれ……翔琉が一番おれを頼りたいときに気づいてやれなかった。あんなに一緒に走ったのに、川瀬先輩が駅伝を走ってくれるって聞いて、おれのおかげで長距離に本気になったって言ってくれて、これでチームが組める、日報駅伝に出られるって思ったら、翔琉がどんな気持ちになるか考える余裕なんて、そのときのおれにはなかったんだ」
「わかってるよ。日報駅伝に出られるってなったときの康平は、ただただ嬉しかったんでしょ? それくらい、康平を見てたらわかる。そこにそれ以上の感情がなかったことだって、ちゃんと理解してる。おれのことを忘れてるわけじゃないって。だから短距離を捨てて帰ってこれたんだよ。そうじゃなかったら、今、康平とこんな話はしてない」
 唇を噛みしめ俯く康平に再度、翔琉は笑って首を振った。
「正直に言うと、確かにあのときは康平に捨てられたような気持ちになったよ。一緒に駅伝を走るって約束したのに、ひとりで勝手に先に行こうとするなんてって。だけど、東北大会が終わるまでは、おれが本当は駅伝をやりたいって思ってることは周りに伏せておいたほうがいいって考えてくれてたんでしょ。いつ部活のみんなに言おうかっていうのも、ずっと考えさせてた。負担をかけてたのはむしろおれのほうだから。何度も言うけど、康平は全然悪くないんだよ。中学時代がこんなだったって、康平に知られたくない気持ちが強かったんだろうね。変にプライドを持ってたから、たくさん誤解させたんだよ」
「翔琉……」
「でもね、康平と出会うために陸上に巡り合ったんだと思ったら、世界が変わった。今まで走ってきてよかったって心から思えるんだよ。バレー部のままだったら、こんなにつらい経験はしなくてよかったかもしれないけど、陸部に入ったから、康平とこうして一緒にいられるんだし。康平と一緒にいられる〝今〟が、おれにとって一番大事だよ。たられば言ってたって過ぎたことは変わらないしね。これからのことだけ、見ていたいんだ」
〝北園中の福浦翔琉〟〝あの福浦翔琉〟と言われることがなにより嫌だった。自分の名前なのに、まるでひとり歩きしてしまっているようで、背負いきれそうになくて、いつも押し潰されそうだった。けれど、いつの間にかそれを隠れ蓑にしていた自分もいた。〝おれは福浦翔琉なんだ〟というプライドが無意識に働き、康平やほかの部員に順風満帆に陸上に愛されてきたと思わせようとしていたところが、きっと少なからずあった。
 それらを捨ててゼロに戻るには、今日の舞台は大きすぎたかもしれない。でも反面、これくらい大きな舞台じゃないと捨てきれなかったかもしれないとも思う。
 結局、タイミングの問題だったんだと翔琉は思う。田上と自分との気持ちの入れ方に、これは最初から勝負にならないと悟ったとき。自分にとって陸上は康平に出会うために必要なものだったと気づいたとき。棄権を申し入れ、〝福浦翔琉〟の名前を捨てたとき――それらのタイミングが今日、東北大会のあの場で綺麗に重なったんだと思う。
 もちろん、すべのことに納得しているわけじゃない。いくらなんでも理不尽すぎると、かつての陸部の部員たちに思うところはいくらでもある。あの日、無数の刃を突き立てられた心は、まだ深い傷を残したまま今でも翔琉の胸に癒えない痛みをもたらす。
 それでも、康平の隣に並んで立っていられる喜びが。貫き通したい駅伝への強い気持ちが、傷ついた心に鎧をまとわせ、さらに強固にしてくれる。康平が翔琉を〝翔琉〟として認め、ともに走ろうと言ってくれたからこそ、自分自身で引いた目に見えない線を再び飛び越えることができたのだ。だって、康平はあの頃の部員とは違うのだから。
「……さっきの質問の答えだけど、今返していいか?」
「さっきの質問?」
 ふいに聞かれて、翔琉は目をしばたたく。「ほら、康平は? って聞いただろ」
「ああ。おれは康平と駅伝を走れなきゃ意味がないってやつか。……で?」
 促すと、康平は自分の傘を翔琉の傘の上にかざして言う。
「おれも翔琉と同じ。――おまえと駅伝が走れなきゃ意味がない」
「康平……」
「つーか、それ以外にどんな意味があるっていうんだ。翔琉と一緒に走れなかったら、なんのために陸部に入って、なんのために長距離なんていう苦しいしめちゃくちゃつらい種目を本気になってやってんのかわかんねーよ。そんなのただのマゾだぞ、マジで」
「……はは。言えてる」
 その眼差しはもう、これからのことだけを見つめ、翔琉を導くように力強い。
「そもそも、どうして人は走るんだろうなんて考え出したらキリがないんだ。速く走ったとしても、距離を走ったとしても、障害物を飛び越えたとしても……その先に待ってるやつがいるとか、なにかを必死で届けたいとか、誰かのためにって思いがなきゃ、人は走ろうなんて思わねーんだよ。なんのために走るかなんて〝おまえのため〟以外に理由なんてあるわけないだろ。……ほんっと、翔琉は人をその気にさせるのが上手いくせに、肝心なことはなんも言わねーんだから。だから翔琉って、微妙に付き合いにくいんだよ」
「……うん、ごめん……」
 言葉とは裏腹の優しい眼差しが、翔琉の胸を打つ。涙が込み上げ、鼻がスンスン鳴る。
 翔琉の傘は、もうとっくに地面に転がっていた。それでも、もうひとつ。雨から守ってくれる傘があることが、傘を差し伸べてくれる人がいることが切ないくらいに嬉しい。
「今までつらかったぶんの穴は、おれが埋めてやるよ。前に言ったよな、ずっとゾワゾワさせてやるって。こうなったらもう、いっさいがっさい曝け出すしかないって、おれも覚悟が決まった。もうひとりにはさせない。こうして一緒の傘に入ってるんだからな」
「……ありがとう……康平」
「おう」
 洟をすすりながら言うと、そう返した康平も、やっぱり微妙に鼻声だった。

 それからも、雨はしとしとと降り続いた。一夜明けても空からは相変わらず雨が降り注いでいて、水たまりを避けて歩く通学路には色とりどりの傘の花が咲いていた。
 学校に着き、康平とともに真っ先に向かったのは、昨夜、自分のせいで板挟みに遭わせてしまった似内のところだった。特に示し合わせていたわけではなかったけれど、一足先に着いていたらしい康平が教室の前の廊下で待っていて。同じことを思っていた翔琉も、教室に荷物を置くなりすぐに職員室へと謝罪に向かうことにしたのだった。
 しかし似内は、特に怒ることもなく、やや疲れた様子で「陸部に入った目的が目的だから、遅かれ早かれ、こうなることはわかっていた」と苦笑するだけだった。ただ、学校側からも陸上連名からも説明を求められただろうことは、疲れた様子を見ればわかる。
 昨日、帰り際まで似内はなにも言わなかったが、本来なら直帰するところを学校へ戻っていったのは、そのためだろう。翔琉は、改めて自分のしでかした事の大きさと、いかに自分がまだなんの責任も取れないクソガキであるかを思い知らされる。
「勝手なことをして、本当にすみませんでした……」
「もういいって。無理やり短距離をさせたのはこっちなんだから」
 康平とともに深々と頭を下げると、けれど似内はふっと笑う。
「東北大会に出てくれないかと言う前に福浦が自分から出ると言ったのは、おれの〝出てほしい〟って気持ちが最初から透けていたからだ。福浦に気を使わせてるってわかっていながら、行きたくない道を行かせようとしていたこっちが悪い。だから、福浦も戸塚も、昨日のことは一切気にする必要はない。だいたい、高校生が教師相手に一人前の気遣いをしようとするんじゃない。そういうのなんて言うか知ってるか? ありがた迷惑だ」
 そして言い終わるや否や、もうこの話はカタが付いているからとでも言うように、おまえらは行けと面倒くさそうに手をひらひらさせて追い払う仕草までした。
「本当にすみませんでした」
「すみませんでした」
「……ったく。大胆なことをするかと思えば、ほんっとケツの穴の小せえやつらだな、おまえらは。謝るくらいなら〝ありがとうございます〟だろ、そこは」
 それでもデスクの前を離れられずにいれば、似内はカッカと声を上げて笑った。
 昨日のことで吹っ切れたのは似内も同じだったらしい。福浦がそこまでして駅伝に懸けたいなら、と肝が据わったような豪快な笑い声に自然に口元が緩んでいく。
「ほら、言え」
 催促されて「ありがとうございます!」と声を揃えれば、似内は満足そうにひとつ頷く。雑然としたデスクに向き合うと、その背中から仕事オーラを漂わせはじめた。
 どちらからともなく目を合わせた翔琉と康平は、もう一度大きな声で「ありがとうございます!」と似内に頭を下げ、職員室を辞す。静かにするのが職員室での常識的なマナーのはずが、二度も大声を出したふたりに居合わせた教職員たちは最後まで気難しい顔をしていたけれど。その咎めるような視線さえ今はどこか誇らしく、心地が良かった。
 ひとりぼっちで雨に打たれるだけだった翔琉に傘を差し伸べてくれたのは、康平と。それから、どれだけ駅伝に本気か気持ちを汲んで協力してくれようとしている似内だ。
 ここからは、おれたちが。翔琉は気持ちを新たにぐっと顔を上げた。似内はなにも言わなかったが、ここまでしてもらって、さらにおんぶにだっこでは、男じゃないだろう。
 これから部の連中をどう説得していくかは、おれたちの気持ち次第だ。
 ひとつ力強く頷き合うと、ふたりはホームルーム前の騒がしい廊下を颯爽と駆け抜けた。
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