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■6.おまえと走れなきゃ意味がない
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――中学二年のあの日。
県中総体で康平に声をかけようとした日の話には、続きがあった。
ひとり駆け出そうとした翔琉を厳しく止めた当時の三年は、そのあと、学校へ帰ると二年の連帯責任だと言って翔琉たちに校舎の周りを二十周させる自主練を課したのだ。
それも、一年生までその場に強制的に引き留めて。
今思えばそれは、自主練でもなんでもなく、三年生が唯一翔琉に直接的に下した報復だったと思う。今までの鬱憤が蓄積された末の、三年生がたった一度だけ取った行為だ。
連帯責任を取らされた同級生たちは当然面白くない。後輩たちの前で大恥をかかされ、先輩たちには翔琉が勝手な行動を取ったせいで二年全体が理不尽な目に遭った。
彼らの怒りは、一年と三年が帰ったあとの部室で翔琉にぶつけられる。
「おまえのせいで無駄に走らされたじゃねーか」「おまえなんかが入ってきたせいで、それから部の雰囲気が悪くて仕方ないんだよ」「なんでおれらばっかりおまえの尻拭いをさせられなきゃなんないんだ」「おまえさえいなきゃ、こんなことにはならなかったのに」「もうどっか行ってくれよ」「全部おまえのせいだ」「おまえさえ入ってこなきゃ、おれたちは先輩とだって仲良くやれてたんだ」「こんな部活なんて、部活じゃない」
容赦ないそれらは、翔琉の心をひどく抉った。四方八方から抉られ続けて心が空洞になってしまうくらい、そうなってからも、彼らの怒りは翔琉にぶつけられ続けた。
それでも翔琉はひとりひとりにただただ謝るしかなかった。許してもらえるわけがないのはわかっていたし、ここにいる全員が翔琉の存在を疎ましく思っているのに謝られたところで許す気もないこともわかっていたけれど。でも、そうするしかなかったのだ。
「本当に……ごめん……」
「なに言ってんの。謝って済む問題じゃねーんだよ」
「でも、ごめん……それしか言えない……」
「なあ、本当は謝る気なんてないんだろ? 心の中では予選敗退ばっかりのおれらのことをバカにしてるくせに、そんな薄っぺらい言葉じゃなんにも響かねーんだよ」
「ごめん……」
「またそれか。ほんっと、やってらんない」
「……っ」
言葉にせずとも翔琉が常々感じていた彼らの気持ちは、実際に浴びてみると、また違う胸の痛みを伴うものだった。こんなにもおれは嫌われていたんだ、こんなにもおれは部活にいらないやつだったんだという事実を改めて突きつけられ、一筋の光も届かない深海よりもずっとずっと深く暗いところへ叩き落とされたような。そんな気がした。
一年生は入ってまだ間もない時期だったが、部活内の雰囲気がすでに修正の余地もないほど崩壊しきっていることに早々に気がついていただろう。実際、仮入部の期間中にそれに気づいただろう何人かは、もともとどこの部活に入ろうか迷っていたのもあるだろうけれど、あっさりほかの部活に移っていった。けれど大半はそのまま本入部し、ギスギスした雰囲気を感じつつも先輩たちの顔色を窺いながら日々の部活をこなしている。
「ごめん……本当にごめん。……っ。ごめん、ごめん……」
卒業していった三年生にも、今の三年にも。同級生にも後輩にも、悪影響を与えているのは自分だと、言葉を詰まらせ謝り続けながら翔琉は何度も何度も思う。
でも、絶対に辞められない。
いっそ辞めてしまえたら楽だけれど、顧問はそれを許してはくれないことはわかっているから、部を離れる選択肢ははじめからなかった。もしそんなことを言えば、必ず理由を聞かれる。いくら翔琉がそれらしい理由を言っても、顧問は納得しないだろう。
そうすれば、ほかに原因を探るかもしれない。それが部員に及ぶようなことになれば、翔琉以外の部員を執拗に責めることも……もしかしたらあるかもしれなかった。
――福浦は北園中の宝なんだぞ。たったひとりのエースなんだぞ。みんなで陥れようとするなんて恥ずかしくないのか。それでも仲間か、スポーツマンか。正々堂々と福浦に勝ってやろうって意気込みのあるやつは、ここにはひとりもいないのか。がっかりだ。
そんな台詞を吐く顧問が目に浮かぶようで、翔琉はぎゅっと目をつぶった。
これ以上、部の中が乱れないでほしいと切実に思う。
どうせなにを言っても部活を辞めさせてもらえないんだから、せめて顧問はなにも知らないまま、気づかないままでいてほしい。そうやって一年後の引退まで過ごせれば、それでいい。それだけでいいのだ。それ以上に望むものなんて、当時の翔琉にはなかった。
「おい、勘違いしないように先に言っておくけど」
同じ短距離種目のメンバーのひとりが、吐き捨てるように言った。きつく閉じていた瞼を重々しく押し上げて彼を見ると、瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
それを気持ちだけで押し込めた彼は、
「くれぐれも自分が可哀そうだなんて思うなよ。可哀そうなのは、おまえがいるせいで試合に出られなかった前の三年や今の三年だ。三年が引退すれば、おれらの中からだって必ず外されるやつが出るんだ。一度も試合で走れないまま引退になるやつがおれらの中から必ず出るんだよ。実際、そうなった先輩だっているよな。今日だって、リレーで走れなかった先輩がいた。……可哀そうなのは〝翔琉と関りのある学年の選手たち〟だ!」
ずっと手に握りしめていたシューズを乱暴に翔琉に投げつけ、そのまま部室を出ていった。そのあとを、同級生たちが氷のような一瞥をくれてぞろぞろと帰っていく。
「……あああああああああああっ!」
部室のドアが完全に閉まり、彼らの足音も聞こえなくなってようやく、翔琉はその場でひとり、全身を震わせながら慟哭した。部室全体にビリビリと電流が駆け抜け、やがてたっぷりの余韻を残して汗とシューズと土臭い匂いが染み込んだそこに消えていく。
スカウトされて入ってきた時点で、確執が生まれないわけがなかった。一緒にバレー部に入っていた友人たちは、陸部に移ったことでめきめき頭角を現していった翔琉とは、すでに関係が絶たれているようなものだった。顧問が翔琉を絶対的エースとして妄信していることを考えれば、今日のことは到底、口が裂けても言えるわけもなかった。
彼が投げたシューズは、翔琉の頬の横を掠めて壁に叩きつけられ、力なく転がったままだ。それを震える手で拾い上げると、翔琉はそれからしばらく咽び泣いた。
「この足がなきゃ……この足さえなきゃ、おれは……」
呪文のように繰り返しながら。無心で落とした拳で足が青あざにまみれるまで。
それでも、短距離が翔琉を縛り付けている限り、どんなに自分を恨んでも結果は付いてきた。ますます確執が深まり、顧問の期待もそれと比例して膨れ上がる中、翔琉の唯一の逃げ道は、県内の陸上大会ではなく、東北や全国の大会へ遠征することだったからだ。
そんなときに田上や、ほかの各県のトップ選手たちと知り合い、それもひとつの息抜きの場になった。彼らは翔琉をただの〝福浦翔琉〟として見てくれる。それ以上でも以下でもない。そのことがとてもありがたかったし、救われたような気持ちだった。
もちろんそこには翔琉より速い選手なんてごろごろいて、ぐうの音も出ないほど打ちのめされることも多かった。けれど、そこでなら多少なりとも呼吸が楽だったのだ。
結局のところ、勝って上の大会へ行っても、上の大会で負けても、部員たちから言われるのは同じようなことばかりだったけれど。でも、少しの間だけでも物理的にも精神的にも部から離れられることが翔琉の原動力のひとつになっていたことは確かだった。
そして、当時の翔琉の心の支えになっていたのは、やはり康平の存在も大きかった。
県内の大会では常に康平の姿を探すことに神経を集中していたおかげで、周りの雑音も孤独もそれほど気にならなかったし、康平の走る姿を思い出すたび、強烈な憧れを抱いたり、康平と一緒に走ってみたいという思いが日増しに強くなっていった。
――康平とだったら、もう一度、陸上が好きになれるんじゃないか。
そう思える存在を見つけたことで、今にも折れてしまいそうだった翔琉の心は、それからずっと紙一重のところでバランスを保ちながらどうにか持ちこたえていたのだった。
だから、康平に短距離にだけ集中したほうがいいと言われたとき、底の見えない谷底に突き落とされたような気分だった。康平がたったひとりで川瀬に駅伝をやる気にさせたとき、こらえきれずに嬉し涙を流す康平のそばには、どうしても近寄れなかった。
やっぱり康平は、おれには短距離のほうが向いていると思っているんじゃないか。
やっとのことで掴んだ安心できる居場所が――康平の隣が、実は最初から陽炎のように実体のないものだったんじゃないかと思えてならなくて。それを確めに行くのが恐ろしくて。よかったなと肩を叩かれ嬉しそうに笑って頷く康平から、そっと目を逸らした。
でも、高校に上がり、さまざまな心の変化を経て行った東北大会の場は、全部に中途半端だった翔琉にはもう近づけない場所になっていた。あの場にいた全員がそれぞれ自分の競技に誇りと情熱を懸けて挑んでいる。中学までだったら純粋に短距離をやっていたわけではなくても通用していたけれど、たったひとつ歳を取っただけで、まったく違う。
田上の言葉を聞いて。周りの熱量や気迫を肌で直に感じて。これは俺なんかじゃ勝負にならないと思った。尻尾を巻いて逃げ帰ってきただけだと康平は言ったが、おれにはこの場で戦う資格すら最初からなかったんだと、ようやく気付いたと言ったほうが正しい。
東北大会に出場するには、まず県内で勝たなきゃならない。翔琉が中途半端な気持ちで出たばっかりに、その枠をひとつ潰してしまったことは本当に申し訳ないと思う。それを土壇場で棄権してくるなんて、ただでは済まされないだろう。これから県内や東北各県にどう拡散されていくんだろうかと思うと、恐ろしく、どうにもたまらない気持ちだ。
それでも、背負い続けてきた肩の荷物をようやく置くことができた。ようやく短距離に縛り付けられていた心が解放された。やっとずっと嵌められていた足枷を自ら壊せた。
だから今日の棄権に後悔はひとつもない。
翔琉が青春のすべてを懸けて貫き通したいのは、たったひとつだけ。
――駅伝だけなのだ。
――中学二年のあの日。
県中総体で康平に声をかけようとした日の話には、続きがあった。
ひとり駆け出そうとした翔琉を厳しく止めた当時の三年は、そのあと、学校へ帰ると二年の連帯責任だと言って翔琉たちに校舎の周りを二十周させる自主練を課したのだ。
それも、一年生までその場に強制的に引き留めて。
今思えばそれは、自主練でもなんでもなく、三年生が唯一翔琉に直接的に下した報復だったと思う。今までの鬱憤が蓄積された末の、三年生がたった一度だけ取った行為だ。
連帯責任を取らされた同級生たちは当然面白くない。後輩たちの前で大恥をかかされ、先輩たちには翔琉が勝手な行動を取ったせいで二年全体が理不尽な目に遭った。
彼らの怒りは、一年と三年が帰ったあとの部室で翔琉にぶつけられる。
「おまえのせいで無駄に走らされたじゃねーか」「おまえなんかが入ってきたせいで、それから部の雰囲気が悪くて仕方ないんだよ」「なんでおれらばっかりおまえの尻拭いをさせられなきゃなんないんだ」「おまえさえいなきゃ、こんなことにはならなかったのに」「もうどっか行ってくれよ」「全部おまえのせいだ」「おまえさえ入ってこなきゃ、おれたちは先輩とだって仲良くやれてたんだ」「こんな部活なんて、部活じゃない」
容赦ないそれらは、翔琉の心をひどく抉った。四方八方から抉られ続けて心が空洞になってしまうくらい、そうなってからも、彼らの怒りは翔琉にぶつけられ続けた。
それでも翔琉はひとりひとりにただただ謝るしかなかった。許してもらえるわけがないのはわかっていたし、ここにいる全員が翔琉の存在を疎ましく思っているのに謝られたところで許す気もないこともわかっていたけれど。でも、そうするしかなかったのだ。
「本当に……ごめん……」
「なに言ってんの。謝って済む問題じゃねーんだよ」
「でも、ごめん……それしか言えない……」
「なあ、本当は謝る気なんてないんだろ? 心の中では予選敗退ばっかりのおれらのことをバカにしてるくせに、そんな薄っぺらい言葉じゃなんにも響かねーんだよ」
「ごめん……」
「またそれか。ほんっと、やってらんない」
「……っ」
言葉にせずとも翔琉が常々感じていた彼らの気持ちは、実際に浴びてみると、また違う胸の痛みを伴うものだった。こんなにもおれは嫌われていたんだ、こんなにもおれは部活にいらないやつだったんだという事実を改めて突きつけられ、一筋の光も届かない深海よりもずっとずっと深く暗いところへ叩き落とされたような。そんな気がした。
一年生は入ってまだ間もない時期だったが、部活内の雰囲気がすでに修正の余地もないほど崩壊しきっていることに早々に気がついていただろう。実際、仮入部の期間中にそれに気づいただろう何人かは、もともとどこの部活に入ろうか迷っていたのもあるだろうけれど、あっさりほかの部活に移っていった。けれど大半はそのまま本入部し、ギスギスした雰囲気を感じつつも先輩たちの顔色を窺いながら日々の部活をこなしている。
「ごめん……本当にごめん。……っ。ごめん、ごめん……」
卒業していった三年生にも、今の三年にも。同級生にも後輩にも、悪影響を与えているのは自分だと、言葉を詰まらせ謝り続けながら翔琉は何度も何度も思う。
でも、絶対に辞められない。
いっそ辞めてしまえたら楽だけれど、顧問はそれを許してはくれないことはわかっているから、部を離れる選択肢ははじめからなかった。もしそんなことを言えば、必ず理由を聞かれる。いくら翔琉がそれらしい理由を言っても、顧問は納得しないだろう。
そうすれば、ほかに原因を探るかもしれない。それが部員に及ぶようなことになれば、翔琉以外の部員を執拗に責めることも……もしかしたらあるかもしれなかった。
――福浦は北園中の宝なんだぞ。たったひとりのエースなんだぞ。みんなで陥れようとするなんて恥ずかしくないのか。それでも仲間か、スポーツマンか。正々堂々と福浦に勝ってやろうって意気込みのあるやつは、ここにはひとりもいないのか。がっかりだ。
そんな台詞を吐く顧問が目に浮かぶようで、翔琉はぎゅっと目をつぶった。
これ以上、部の中が乱れないでほしいと切実に思う。
どうせなにを言っても部活を辞めさせてもらえないんだから、せめて顧問はなにも知らないまま、気づかないままでいてほしい。そうやって一年後の引退まで過ごせれば、それでいい。それだけでいいのだ。それ以上に望むものなんて、当時の翔琉にはなかった。
「おい、勘違いしないように先に言っておくけど」
同じ短距離種目のメンバーのひとりが、吐き捨てるように言った。きつく閉じていた瞼を重々しく押し上げて彼を見ると、瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
それを気持ちだけで押し込めた彼は、
「くれぐれも自分が可哀そうだなんて思うなよ。可哀そうなのは、おまえがいるせいで試合に出られなかった前の三年や今の三年だ。三年が引退すれば、おれらの中からだって必ず外されるやつが出るんだ。一度も試合で走れないまま引退になるやつがおれらの中から必ず出るんだよ。実際、そうなった先輩だっているよな。今日だって、リレーで走れなかった先輩がいた。……可哀そうなのは〝翔琉と関りのある学年の選手たち〟だ!」
ずっと手に握りしめていたシューズを乱暴に翔琉に投げつけ、そのまま部室を出ていった。そのあとを、同級生たちが氷のような一瞥をくれてぞろぞろと帰っていく。
「……あああああああああああっ!」
部室のドアが完全に閉まり、彼らの足音も聞こえなくなってようやく、翔琉はその場でひとり、全身を震わせながら慟哭した。部室全体にビリビリと電流が駆け抜け、やがてたっぷりの余韻を残して汗とシューズと土臭い匂いが染み込んだそこに消えていく。
スカウトされて入ってきた時点で、確執が生まれないわけがなかった。一緒にバレー部に入っていた友人たちは、陸部に移ったことでめきめき頭角を現していった翔琉とは、すでに関係が絶たれているようなものだった。顧問が翔琉を絶対的エースとして妄信していることを考えれば、今日のことは到底、口が裂けても言えるわけもなかった。
彼が投げたシューズは、翔琉の頬の横を掠めて壁に叩きつけられ、力なく転がったままだ。それを震える手で拾い上げると、翔琉はそれからしばらく咽び泣いた。
「この足がなきゃ……この足さえなきゃ、おれは……」
呪文のように繰り返しながら。無心で落とした拳で足が青あざにまみれるまで。
それでも、短距離が翔琉を縛り付けている限り、どんなに自分を恨んでも結果は付いてきた。ますます確執が深まり、顧問の期待もそれと比例して膨れ上がる中、翔琉の唯一の逃げ道は、県内の陸上大会ではなく、東北や全国の大会へ遠征することだったからだ。
そんなときに田上や、ほかの各県のトップ選手たちと知り合い、それもひとつの息抜きの場になった。彼らは翔琉をただの〝福浦翔琉〟として見てくれる。それ以上でも以下でもない。そのことがとてもありがたかったし、救われたような気持ちだった。
もちろんそこには翔琉より速い選手なんてごろごろいて、ぐうの音も出ないほど打ちのめされることも多かった。けれど、そこでなら多少なりとも呼吸が楽だったのだ。
結局のところ、勝って上の大会へ行っても、上の大会で負けても、部員たちから言われるのは同じようなことばかりだったけれど。でも、少しの間だけでも物理的にも精神的にも部から離れられることが翔琉の原動力のひとつになっていたことは確かだった。
そして、当時の翔琉の心の支えになっていたのは、やはり康平の存在も大きかった。
県内の大会では常に康平の姿を探すことに神経を集中していたおかげで、周りの雑音も孤独もそれほど気にならなかったし、康平の走る姿を思い出すたび、強烈な憧れを抱いたり、康平と一緒に走ってみたいという思いが日増しに強くなっていった。
――康平とだったら、もう一度、陸上が好きになれるんじゃないか。
そう思える存在を見つけたことで、今にも折れてしまいそうだった翔琉の心は、それからずっと紙一重のところでバランスを保ちながらどうにか持ちこたえていたのだった。
だから、康平に短距離にだけ集中したほうがいいと言われたとき、底の見えない谷底に突き落とされたような気分だった。康平がたったひとりで川瀬に駅伝をやる気にさせたとき、こらえきれずに嬉し涙を流す康平のそばには、どうしても近寄れなかった。
やっぱり康平は、おれには短距離のほうが向いていると思っているんじゃないか。
やっとのことで掴んだ安心できる居場所が――康平の隣が、実は最初から陽炎のように実体のないものだったんじゃないかと思えてならなくて。それを確めに行くのが恐ろしくて。よかったなと肩を叩かれ嬉しそうに笑って頷く康平から、そっと目を逸らした。
でも、高校に上がり、さまざまな心の変化を経て行った東北大会の場は、全部に中途半端だった翔琉にはもう近づけない場所になっていた。あの場にいた全員がそれぞれ自分の競技に誇りと情熱を懸けて挑んでいる。中学までだったら純粋に短距離をやっていたわけではなくても通用していたけれど、たったひとつ歳を取っただけで、まったく違う。
田上の言葉を聞いて。周りの熱量や気迫を肌で直に感じて。これは俺なんかじゃ勝負にならないと思った。尻尾を巻いて逃げ帰ってきただけだと康平は言ったが、おれにはこの場で戦う資格すら最初からなかったんだと、ようやく気付いたと言ったほうが正しい。
東北大会に出場するには、まず県内で勝たなきゃならない。翔琉が中途半端な気持ちで出たばっかりに、その枠をひとつ潰してしまったことは本当に申し訳ないと思う。それを土壇場で棄権してくるなんて、ただでは済まされないだろう。これから県内や東北各県にどう拡散されていくんだろうかと思うと、恐ろしく、どうにもたまらない気持ちだ。
それでも、背負い続けてきた肩の荷物をようやく置くことができた。ようやく短距離に縛り付けられていた心が解放された。やっとずっと嵌められていた足枷を自ら壊せた。
だから今日の棄権に後悔はひとつもない。
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――駅伝だけなのだ。
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