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■6.おまえと走れなきゃ意味がない
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「おまえ、一体どういうつもりだよ⁉ 棄権するとか、ほんっとふざけんな‼」
その日の夜遅く、似内とともに盛岡に帰ってきた翔琉は、いつもの青山駅で待ち構えていた康平に開口一番、ものすごい勢いと剣幕で怒鳴られることとなった。
似内が見ている手前、いくら怒り心頭でも殴るわけにはいかなかったのだろう。それでも康平が今、どれほどの怒りを覚えているかが手に取るようにわかり、翔琉はキュッと心臓が縮むような圧迫感を覚えた。けれど、それもほんの一瞬だ。
「なあ康平、陸部のみんなに本当のことを言わないか」
「は⁉ 今はそんな話をしてんじゃ――」
「おれ、駅伝一本に懸けたい。東北大会のあの場で、それがようやくわかったんだ。一番やっちゃいけないことをやったって、ちゃんとわかってる。でも、おれは康平と駅伝が走れなきゃ意味がないんだよ。そのためなら、なにを失ったっていいと思ってる。……康平は? 康平はどう思ってる? 康平の本当の気持ちを聞かせてほしい」
ますます語気を荒げた康平の言葉を遮り、翔琉はきっぱり言い切る。
――福浦は絶対に短距離に向いている、だからウチのエースになってくれ。
そう言われてエースになった。成績もたくさん残した。二つ名がつくほど名前が有名にもなったし、粒ぞろいの世代の中で田上とともに頭半分抜け出ているとも言われた。
でも、短距離に『おれにはこれしかない』とは、どうしても思えなかった。懸けるほどのものが、どうしても見い出せなかったのだ。初めて心の底からそう思えたのは、あとにも先にも康平をどうにかして陸上の世界に連れ戻したくて思いついた駅伝だけだった。
駅伝にしか『これだ!』と思えるものを感じられなかったのだ。
「……なあ。康平もいい加減、みんなに嘘ついてるの、つらくないか? きっと今を逃したらますますつらくなるだけだと思う。それに、ずっと借りものの靴を履いてるような気分だったんだ。心と体が噛み合ってない感じ、康平ならわかってくれると思う」
目を瞠り、言葉を失っている康平に静かに呼びかける。
もちろん中学時代の顧問には感謝している。ここまで育ててもらって、本当に。棄権なんていう、康平には考えられないことをしてきたことも、心の底から詫びる。短距離でずっと伸び悩んでいた康平にとってそれは、これ以上ない冒涜にほかならないのだから。
走って、ちゃんと記録を残してくることこそ、康平が願っていたことのはず。それを土壇場で裏切ってきたのだから、どれほど怒りを感じているか、嫌でもわかる。
でも、これだけは言わせてほしい。
「……おれ、自分がずっと気持ち悪かったんだ。全部に対して中途半端で、その気持ちのまま東北大会まで行った。結局走ってはこなかったけど、走ってても勝てなかったと思う。集まってくる選手たちは、みんなそれぞれ自分の競技に懸けてる。本当は違うことをやりたいのにって思いながら出てくる選手なんてひとりもいないんだよ。そんな中で、どうしておれが勝てると思う? おれが懸けたいのは、やっぱり駅伝しかないんだよ」
言い換えればそれは、どうして康平は長距離種目に出てこないんだとやきもきしていた頃の翔琉の気持ちにとても近かった。あれだけの才能が体から溢れているのに、どうして気づこうとしないんだ、短距離にばかり目を向けているんだと、何度もそう言ってやりたい気持ちに駆られた。とうとう中学最後の試合にも出てこなかったときは、一発くらい殴ってやりたい気分だったし、やきもきをとおり越して恨みがましささえ覚えた。
――三年間、おまえはなにをやってきたんだ。
実際には話をしたこともなかったのに、ひどく裏切られた気分だった。
けれど、それは康平も同じだ。
――おまえこそ、東北大会でなにをやってきたんだ。
短距離に関しての熱量の違いが、康平には許せるものではないのだ。
「……ただ尻尾巻いて帰ってきただけじゃねーか」
それを裏付けるように、相変わらず視線は鋭いまま、康平が吐き捨てるように言う。
「確かに翔琉の言うことはわかる。心と体が噛み合ってない感じも、その競技に懸ける気持ちの強さも、おれなりにこんな感じだろうかって見当もつくし、今は駅伝に高校三年間の競技人生を懸けてる。それは熱心に誘ってくれた翔琉がいたからこそ見つけられた、おれの新しい夢だよ。……でもおれは、あのたった十秒の世界も好きだったんだ。ちっとも芽が出なくても、どんなに惨めな思いをしても、好きだったから! その気持ちだけで三年間やってこれたんだ。それを一番よく知ってるおまえが、なんで棄権なんかしてくるんだよ。それを尻尾を巻いて帰ってきたって言わないで……なんて言えばいいんだ……」
「康平……」
最後は震えてしまった康平の声が、ガラガラに空いた駅舎に静かに反響する。
康平自身も、今日の翔琉の行動にこの上なく怒ってはいるが、反面、どう捉えたらいいか、まだはっきりしないのかもしれない。『なにを失ってもいい』とまで言って棄権を選択した翔琉に嬉しさを感じる一方で、短距離をやってきたからこそ許せない気持ちもある。
両極端なふたつの気持ちの奔流に、今の康平は成す術がないのかもしれない。
「……」
「……」
それからしばらく、六月中旬のじめじめした空気が蔓延するそこは、じっとりと息が詰まるような重苦しさに包まれたままだった。似内でさえ口を挟める状況ではなく、三人が三人とも言葉に詰まったままの時間が刻々と積み重なっていくだけだった。
やがて仕事終わりのサラリーマンがひとり、傘から雨の雫を滴らせて入ってくるまでそれは続いた。直後、はっと弾かれるようにして我に返った似内は、
「……今日はもう遅いし、ふたりとも話は明日だ。気をつけて帰るんだぞ」
それだけを言い置いて駅舎を出ていった。
残された康平と翔琉の間に、再び沈黙が鎮座する。いつの間にか外はすっかり雨模様に変わっていたらしい。さっきまではなんとか持ちこたえていた空もとうとう限界に達したようで、不要なものを吐き出すように、墨を掃いたような真っ暗な空から雨を降らせている。
「……康平、傘は?」
沈黙に耐え兼ね、恐る恐る聞くと、康平は無言で首を振った。話したい気分ではないが無視もできない。複雑な心境が如実に現れたそれに、やはり康平の素直さが垣間見える。
「同じ。おれもないよ。……てか、たぶんずっと雨ざらしだったんだ」
康平らしいなと思わず口元が緩んでしまいながら、翔琉はぽつりと声を落とした。
そういえば午後の降水確率は五十パーセントだったもんな。
駅舎の中に静かに響いてくる雨音を聞きながら、翔琉は少々場違いなことを思う。
今朝は遠方の会場に向かうために早く家を出なければならず、あいにく天気予報は見ていない。が、昨日の時点では確かそうだったはずだ。女子なら折り畳みを持ち歩くくらいの確率だろうけれど、男子は多少雨に降られても構わないと思う確率だ。
「雨ざらし……?」
その声を拾った康平が、窺うように翔琉に目をやる。
「うん。今までおれ、誰かの傘に入れてもらって歩いたことがないんだよね」
それから続きに少し迷って、翔琉は苦笑混じり付け加える。「物理的な意味じゃなくて」
今なら言えるかもしれないと唐突に思った。
東北大会の場に北園中時代の同級生や先輩の姿は見つけられなかったけれど、部員のほとんどが県央地域の高校に進んでいることを考えれば、遅かれ早かれ、どこかで鉢合わせるだろう。むしろ、入学して二ヵ月半も誰とも会わなかったのが不思議なくらいだ。
だったらいっそ今言ってしまえと思ったのだ。尻尾を巻いて逃げ帰ってきたんだから、この際、もうとことん弱味を見せてもいいんじゃないかと吹っ切れた。
「どういう意味だよ、それ」
怪訝な表情で声を固くしながら、それでも康平は機転を利かせて場所を変えようと目配せする。人がいたら話しにくいことだとすぐに察するあたり、やはり康平は康平だ。
おれはべつに誰に聞かれてもいいんだけどな……。
そう思いながら、「とりあえずコンビニに行くか。まだ電車の時間じゃないし、小腹も空いたし」と言って外に出ようとする康平のあとを追って翔琉も表へ出る。
四十代中頃と思われるサラリーマンは、待合席に座るなりビジネスバッグからイヤホンと小さく折り畳まれたスポーツ新聞を取り出し、完全に周囲から意識を切り離している。誰に聞かれてもと言うより、あれではなにを話していてもわからないだろうに。
やはり康平は、一度心を開いた相手にはとことん気を回してくれるやつらしい。それが今は自分にだけ向けられていることが、翔琉はたまらなく嬉しかった。
外は、サーッと静かな雨が降っていた。それほど気温は高くなく、むしろ少し寒いくらいかもしれない。濡れたアスファルトに駅舎を照らす光がキラキラ反射して、ところどころに生まれた水たまりに、しとしとと雨粒が落ちては吸い込まれていく。
最寄りのコンビニまでは、走って一分ほどだろうか。去年まで青山駅周辺のコンビニといえば、住宅地のほうか国道のほうにしかなかったそうだが、今は駅から見える位置だ。こういうときは本当にありがたい。いい時間潰しになるし、簡単に小腹も満たせる。
緑色に光るコンビニの明かりを目指して無言で走り出す康平に続いて、翔琉もアスファルトを蹴った。ふたつぶんの足音がパシャパシャと水たまりの水を跳ね上げる。
傘を買う必用があるかどうかは、着いてから考えればいいだろう。小腹が空いたのは本当だろうし、翔琉も腹になにか入れておきたい気分だった。でも、わざわざコンビニまで行くのは、それだけが目的ではないことくらい翔琉だってよくわかっていた。
時間をかけて駅へ戻るため。それ以外にどんな目的があるだろう。
「……ありがとね」
「なんか言ったか?」
「肉まんあるかなって言ったんだよ」
「おれはピザまん派だな」
「あ、マニアック」
「なんだそれ」
片腕で雨よけを作って走りながら、翔琉は康平の懐の深さに心の底から感謝した。
帰り道。
「……要はおれ、部活のみんなから煙たがられてたんだよね。こういう言い方はあれだけど、嫉妬の的っていうか、その捌け口っていうか。まあ、途中から陸部に入って、すぐに成績が伸びたから。先輩たちは面白くないに決まってるし、同級生もそうだったよ。化け物を見るような目でおれを見てさ。最初から最後まで、ずっとひとりだった」
結局買うことにした傘を差しつつ、それぞれ肉まんとピザまんを頬張りながら翔琉はぽつりぽつりと話しはじめた。北園中時代の面子の陰にいつ脅かされるだろうと怯えるような気持ちで今まで過ごしていたが、そのときになって康平が知るよりはずっといい。
それに、康平にだから言っておきたかった。境遇は違えど、ひどく傷ついた康平なら必ずわかってくれる。そんな確信めいたものに突き動かされるように、唇を開く。
「でも顧問は、どんどんおれに短距離の勝ち方を教え込んでいったんだ。そうすれば、目を掛けられてる、贔屓されてるって周りは思うよね。顧問からかけられる熱心な期待と、部員から浴びる冷めた視線がとにかくつらくてさ……。まあ、成績が成績だったから、さすがに周りもなにかしようにも直接的には手が出せなかったんだろうけど。でも、わかっちゃうもんでしょ、そういうのって。短距離に縛り付けられてる限り、おれはここではこうなんだってわかってからは、いつも窒息寸前なくらい、息苦しかった」
「おまえ、一体どういうつもりだよ⁉ 棄権するとか、ほんっとふざけんな‼」
その日の夜遅く、似内とともに盛岡に帰ってきた翔琉は、いつもの青山駅で待ち構えていた康平に開口一番、ものすごい勢いと剣幕で怒鳴られることとなった。
似内が見ている手前、いくら怒り心頭でも殴るわけにはいかなかったのだろう。それでも康平が今、どれほどの怒りを覚えているかが手に取るようにわかり、翔琉はキュッと心臓が縮むような圧迫感を覚えた。けれど、それもほんの一瞬だ。
「なあ康平、陸部のみんなに本当のことを言わないか」
「は⁉ 今はそんな話をしてんじゃ――」
「おれ、駅伝一本に懸けたい。東北大会のあの場で、それがようやくわかったんだ。一番やっちゃいけないことをやったって、ちゃんとわかってる。でも、おれは康平と駅伝が走れなきゃ意味がないんだよ。そのためなら、なにを失ったっていいと思ってる。……康平は? 康平はどう思ってる? 康平の本当の気持ちを聞かせてほしい」
ますます語気を荒げた康平の言葉を遮り、翔琉はきっぱり言い切る。
――福浦は絶対に短距離に向いている、だからウチのエースになってくれ。
そう言われてエースになった。成績もたくさん残した。二つ名がつくほど名前が有名にもなったし、粒ぞろいの世代の中で田上とともに頭半分抜け出ているとも言われた。
でも、短距離に『おれにはこれしかない』とは、どうしても思えなかった。懸けるほどのものが、どうしても見い出せなかったのだ。初めて心の底からそう思えたのは、あとにも先にも康平をどうにかして陸上の世界に連れ戻したくて思いついた駅伝だけだった。
駅伝にしか『これだ!』と思えるものを感じられなかったのだ。
「……なあ。康平もいい加減、みんなに嘘ついてるの、つらくないか? きっと今を逃したらますますつらくなるだけだと思う。それに、ずっと借りものの靴を履いてるような気分だったんだ。心と体が噛み合ってない感じ、康平ならわかってくれると思う」
目を瞠り、言葉を失っている康平に静かに呼びかける。
もちろん中学時代の顧問には感謝している。ここまで育ててもらって、本当に。棄権なんていう、康平には考えられないことをしてきたことも、心の底から詫びる。短距離でずっと伸び悩んでいた康平にとってそれは、これ以上ない冒涜にほかならないのだから。
走って、ちゃんと記録を残してくることこそ、康平が願っていたことのはず。それを土壇場で裏切ってきたのだから、どれほど怒りを感じているか、嫌でもわかる。
でも、これだけは言わせてほしい。
「……おれ、自分がずっと気持ち悪かったんだ。全部に対して中途半端で、その気持ちのまま東北大会まで行った。結局走ってはこなかったけど、走ってても勝てなかったと思う。集まってくる選手たちは、みんなそれぞれ自分の競技に懸けてる。本当は違うことをやりたいのにって思いながら出てくる選手なんてひとりもいないんだよ。そんな中で、どうしておれが勝てると思う? おれが懸けたいのは、やっぱり駅伝しかないんだよ」
言い換えればそれは、どうして康平は長距離種目に出てこないんだとやきもきしていた頃の翔琉の気持ちにとても近かった。あれだけの才能が体から溢れているのに、どうして気づこうとしないんだ、短距離にばかり目を向けているんだと、何度もそう言ってやりたい気持ちに駆られた。とうとう中学最後の試合にも出てこなかったときは、一発くらい殴ってやりたい気分だったし、やきもきをとおり越して恨みがましささえ覚えた。
――三年間、おまえはなにをやってきたんだ。
実際には話をしたこともなかったのに、ひどく裏切られた気分だった。
けれど、それは康平も同じだ。
――おまえこそ、東北大会でなにをやってきたんだ。
短距離に関しての熱量の違いが、康平には許せるものではないのだ。
「……ただ尻尾巻いて帰ってきただけじゃねーか」
それを裏付けるように、相変わらず視線は鋭いまま、康平が吐き捨てるように言う。
「確かに翔琉の言うことはわかる。心と体が噛み合ってない感じも、その競技に懸ける気持ちの強さも、おれなりにこんな感じだろうかって見当もつくし、今は駅伝に高校三年間の競技人生を懸けてる。それは熱心に誘ってくれた翔琉がいたからこそ見つけられた、おれの新しい夢だよ。……でもおれは、あのたった十秒の世界も好きだったんだ。ちっとも芽が出なくても、どんなに惨めな思いをしても、好きだったから! その気持ちだけで三年間やってこれたんだ。それを一番よく知ってるおまえが、なんで棄権なんかしてくるんだよ。それを尻尾を巻いて帰ってきたって言わないで……なんて言えばいいんだ……」
「康平……」
最後は震えてしまった康平の声が、ガラガラに空いた駅舎に静かに反響する。
康平自身も、今日の翔琉の行動にこの上なく怒ってはいるが、反面、どう捉えたらいいか、まだはっきりしないのかもしれない。『なにを失ってもいい』とまで言って棄権を選択した翔琉に嬉しさを感じる一方で、短距離をやってきたからこそ許せない気持ちもある。
両極端なふたつの気持ちの奔流に、今の康平は成す術がないのかもしれない。
「……」
「……」
それからしばらく、六月中旬のじめじめした空気が蔓延するそこは、じっとりと息が詰まるような重苦しさに包まれたままだった。似内でさえ口を挟める状況ではなく、三人が三人とも言葉に詰まったままの時間が刻々と積み重なっていくだけだった。
やがて仕事終わりのサラリーマンがひとり、傘から雨の雫を滴らせて入ってくるまでそれは続いた。直後、はっと弾かれるようにして我に返った似内は、
「……今日はもう遅いし、ふたりとも話は明日だ。気をつけて帰るんだぞ」
それだけを言い置いて駅舎を出ていった。
残された康平と翔琉の間に、再び沈黙が鎮座する。いつの間にか外はすっかり雨模様に変わっていたらしい。さっきまではなんとか持ちこたえていた空もとうとう限界に達したようで、不要なものを吐き出すように、墨を掃いたような真っ暗な空から雨を降らせている。
「……康平、傘は?」
沈黙に耐え兼ね、恐る恐る聞くと、康平は無言で首を振った。話したい気分ではないが無視もできない。複雑な心境が如実に現れたそれに、やはり康平の素直さが垣間見える。
「同じ。おれもないよ。……てか、たぶんずっと雨ざらしだったんだ」
康平らしいなと思わず口元が緩んでしまいながら、翔琉はぽつりと声を落とした。
そういえば午後の降水確率は五十パーセントだったもんな。
駅舎の中に静かに響いてくる雨音を聞きながら、翔琉は少々場違いなことを思う。
今朝は遠方の会場に向かうために早く家を出なければならず、あいにく天気予報は見ていない。が、昨日の時点では確かそうだったはずだ。女子なら折り畳みを持ち歩くくらいの確率だろうけれど、男子は多少雨に降られても構わないと思う確率だ。
「雨ざらし……?」
その声を拾った康平が、窺うように翔琉に目をやる。
「うん。今までおれ、誰かの傘に入れてもらって歩いたことがないんだよね」
それから続きに少し迷って、翔琉は苦笑混じり付け加える。「物理的な意味じゃなくて」
今なら言えるかもしれないと唐突に思った。
東北大会の場に北園中時代の同級生や先輩の姿は見つけられなかったけれど、部員のほとんどが県央地域の高校に進んでいることを考えれば、遅かれ早かれ、どこかで鉢合わせるだろう。むしろ、入学して二ヵ月半も誰とも会わなかったのが不思議なくらいだ。
だったらいっそ今言ってしまえと思ったのだ。尻尾を巻いて逃げ帰ってきたんだから、この際、もうとことん弱味を見せてもいいんじゃないかと吹っ切れた。
「どういう意味だよ、それ」
怪訝な表情で声を固くしながら、それでも康平は機転を利かせて場所を変えようと目配せする。人がいたら話しにくいことだとすぐに察するあたり、やはり康平は康平だ。
おれはべつに誰に聞かれてもいいんだけどな……。
そう思いながら、「とりあえずコンビニに行くか。まだ電車の時間じゃないし、小腹も空いたし」と言って外に出ようとする康平のあとを追って翔琉も表へ出る。
四十代中頃と思われるサラリーマンは、待合席に座るなりビジネスバッグからイヤホンと小さく折り畳まれたスポーツ新聞を取り出し、完全に周囲から意識を切り離している。誰に聞かれてもと言うより、あれではなにを話していてもわからないだろうに。
やはり康平は、一度心を開いた相手にはとことん気を回してくれるやつらしい。それが今は自分にだけ向けられていることが、翔琉はたまらなく嬉しかった。
外は、サーッと静かな雨が降っていた。それほど気温は高くなく、むしろ少し寒いくらいかもしれない。濡れたアスファルトに駅舎を照らす光がキラキラ反射して、ところどころに生まれた水たまりに、しとしとと雨粒が落ちては吸い込まれていく。
最寄りのコンビニまでは、走って一分ほどだろうか。去年まで青山駅周辺のコンビニといえば、住宅地のほうか国道のほうにしかなかったそうだが、今は駅から見える位置だ。こういうときは本当にありがたい。いい時間潰しになるし、簡単に小腹も満たせる。
緑色に光るコンビニの明かりを目指して無言で走り出す康平に続いて、翔琉もアスファルトを蹴った。ふたつぶんの足音がパシャパシャと水たまりの水を跳ね上げる。
傘を買う必用があるかどうかは、着いてから考えればいいだろう。小腹が空いたのは本当だろうし、翔琉も腹になにか入れておきたい気分だった。でも、わざわざコンビニまで行くのは、それだけが目的ではないことくらい翔琉だってよくわかっていた。
時間をかけて駅へ戻るため。それ以外にどんな目的があるだろう。
「……ありがとね」
「なんか言ったか?」
「肉まんあるかなって言ったんだよ」
「おれはピザまん派だな」
「あ、マニアック」
「なんだそれ」
片腕で雨よけを作って走りながら、翔琉は康平の懐の深さに心の底から感謝した。
帰り道。
「……要はおれ、部活のみんなから煙たがられてたんだよね。こういう言い方はあれだけど、嫉妬の的っていうか、その捌け口っていうか。まあ、途中から陸部に入って、すぐに成績が伸びたから。先輩たちは面白くないに決まってるし、同級生もそうだったよ。化け物を見るような目でおれを見てさ。最初から最後まで、ずっとひとりだった」
結局買うことにした傘を差しつつ、それぞれ肉まんとピザまんを頬張りながら翔琉はぽつりぽつりと話しはじめた。北園中時代の面子の陰にいつ脅かされるだろうと怯えるような気持ちで今まで過ごしていたが、そのときになって康平が知るよりはずっといい。
それに、康平にだから言っておきたかった。境遇は違えど、ひどく傷ついた康平なら必ずわかってくれる。そんな確信めいたものに突き動かされるように、唇を開く。
「でも顧問は、どんどんおれに短距離の勝ち方を教え込んでいったんだ。そうすれば、目を掛けられてる、贔屓されてるって周りは思うよね。顧問からかけられる熱心な期待と、部員から浴びる冷めた視線がとにかくつらくてさ……。まあ、成績が成績だったから、さすがに周りもなにかしようにも直接的には手が出せなかったんだろうけど。でも、わかっちゃうもんでしょ、そういうのって。短距離に縛り付けられてる限り、おれはここではこうなんだってわかってからは、いつも窒息寸前なくらい、息苦しかった」
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