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■3.ずっとゾワゾワさせてやっから
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「まあ、おまえの気持ちはわかったよ。そこまで思ってくれてたなんて知らなかったし」
ひととおり整理を終えた康平は、胸に言いようのないむず痒さを覚えながらボソリと声を落とす。向いていると言われたから渋々はじめたとか、東北大会とか全国大会とか、未練はないとか、ちょいちょい自慢が入ってくるのがムッとしないでもないけれど。
でも、短距離に関してはやりきった感があったという部分は、さっきまで死闘を繰り広げていたためか、「ああ、そうか」と、すとんと胸に落ちるものがあった。
きっと、翔琉が自分でそう感じている以上、いくら周りがなにを言っても、どんなに必死に戻ってこいと説得しても、心はもう短距離には戻らなかったのだろう。
モチベーションや情熱を同じ熱量で長く保ち続けるのは、並大抵のことじゃない。本当は康平だってわかっていたのだ。底辺にしかわからない気持があるように、上には上の気持ちがある。上のやつらは上のやつらで戦っている。記録だったり、周りからの期待だったり。どれだけ練習を積んでも上には上がいることだったり、ましてオリンピックに出られる選手は、その一握りの中でもさらに一握りの選手しか、なれないことだったり。
「……ごめんね。なんか気持ち悪いでしょ、おれ」
翔琉が打って変わって弱々しい声を出す。単にどうにも照れくさく、それを誤魔化すためにボソボソと言ってしまっただけなのだが、変なところで気が弱いやつなのか、その声も詫びるような笑顔も、すっかりドン引きされていると思い込んでいるようだった。
康平は慌ててかぶりを振る。
「いやいや、違う違う。おまえがあんまり照れくさいことを言うからだろ」
ったく、どれだけの思いで駅伝に誘っていたのか……。
聞かなかった康平も悪いが、これだけの思いを秘めていながら、それらしいことをなにも言わなかった翔琉も翔琉だろう。今さら聞かされても、かえってこっちが恥ずかしい。
「……引いてないの?」
「引くわ。ドン引いたわ。……でも、ありがたいと思ったのも本当。おまえはおまえで、一生懸命おれを引き上げてくれようとしてたんだろ? ……嬉しいだろ、普通に」
「はは。そっか。そう言ってくれると、おれも嬉しい」
少しだけ目を瞠った翔琉は、それからすぐに康平以上に照れくさそうにジュースに目を落とす。どうやら翔琉は本当に変なところで気が弱いらしい。普段はヘラヘラ、キツいことを言われてもまるで気にも留めていないようなやつだが、意外な面もあるものだ。
「……ま、まあ、これで相手がめちゃくちゃ可愛い女の子だったら、なにも言うことはないんだけどな。でも仕方ないから、しばらくおまえで勘弁してやるよ」
そして康平も、またあからさまに照れてしまう。
「え、あ……じゃ、じゃあ……」
「んだよ。おまえと走っちゃいけないのか」
「! そんなわけないじゃん! この日が来るのをめちゃくちゃ待ってた‼」
ぱっと顔を輝かせる翔琉に、康平は無言で握った拳を突き出す。数瞬ののち、意味を理解したらしい翔琉も、満面の笑みで康平の拳に自分の拳を合わせる。
もう悔しいと思うこととは縁を切ったはずだったのに、不思議なものだ。
長距離をはじめたばかりとはいえ、相手はあの福浦翔琉。二つ名が付くほど遠い存在だった相手に、あんなにも腹の底から悔しいと思う心がまだ自分に残っていたなんて。そしてその翔琉は、康平に陸上に戻ってもらうためだけに、ここまでのことをした。
お膳立てをしていたのは一体どっちだろう? そう考えると、無性に腹立たしいやら、おかしいやらで、どういう顔をしたらいいか、まるで表情が定まらない。
でもきっと、それらはすべて翔琉が引き出してくれたものなのだ。
本当は、まだまだ陸上に未練があった。やりきったなんて少しも思っていない。ただ目を逸らしていただけ。本気になればなるだけダメだったときのことが怖くて、おれは陸上がもう嫌になっているんだと、無理やり思い込もうとしていただけだった。
「引き受けたからには死ぬほど本気でやるからな。覚悟しておけ」
「望むところだよ」
お互い、けっこう執念深いな。
心の中で完敗だと降参の白旗を上げつつ、康平はまた、翔琉と拳を突き合わせた。
やがて駅構内に下り線の電車を知らせるアナウンスが流れはじめた。そのすぐあとに続くようにして、上り線のアナウンスも流れはじめる。
ああ、もうこんな時間か。ふと壁の時計を見て、午後七時近いことに驚く。見ると外はすっかり夜だった。いつの間にか、あれだけたくさんいた他校生の姿もほとんどない。
顧問を誰に引き受けてもらうかや、部員の勧誘はどうするか。練習場所の確保のことなどを夢中になって話し込んでいたため、どうやら長居してしまっていたらしい。
「行こっか」
「おう」
翔琉に促された康平は、なんだか離れがたいような気持ちで待合室を出る。
まさかこんなふうに翔琉と肩を並べて歩く日が来ようとは……。まだだいぶ慣れない、この隣の存在にも、いつかめちゃくちゃしっくりくる日が来るんだろうか。
駅員に定期を見せ、ホームへ出る。康平が乗る上り線は、ホームに出てすぐだ。「おれ、こっちだから。じゃあ、また明日」と軽く片手を上げて連絡通路の階段を上っていく翔琉に「おう」と同じようにして応えながら、康平は不思議な感覚でその背中を目で追う。
「なあ、――翔琉」
翔琉が反対側のホームに着くと、康平は初めて翔琉の名前を呼んだ。電車到着の際に流れるメロディーや、続いて入る『線の内側までお下がりください』というアナウンスに掻き消えてしまわないよう、それぞれ数人の乗客が待っている中、声を張り上げて。
福浦と呼ぼうか、翔琉呼ぼうか、ずいぶん迷った末のことだった。ただ単に照れくさいだけなのだが、でも仕方ないだろと康平は口の端をへし曲げる。そっちは会って幾ばくもないときから馴れ馴れしく「康平」と呼んできたのだ、こっちだってフェアな呼び方をしないと気が済まない。それにそもそも、ついさっきまで、しつこくまとわりついてくる厄介な相手だと思っていたのに、そう簡単に照れずに名前を呼べるものか。
「なに、こーへー」
一瞬だけ驚きに目を瞠った翔琉は、しかしすぐに顔を綻ばせ、ニヤニヤする。なんでもわかっているような顔が、ほんっと気に食わないったらない。ちくしょー嬉しそうにしやがって。康平はさらに口の端がへし曲がっていくのを感じずにはいられなかった。
――でも、もういい。
そう思うと、自然と言葉が口から出ていった。
「初めておれが走ってる姿を見たとき、どう思った?」
聞きたいことはひとつだけ。たったこれだけだ。
「へ? めちゃくちゃ全身がゾワゾワしたけど。……え、それがなに?」
「いや。じゃあ、ずっとゾワゾワさせてやっから。そんだけ」
「ええー……」
翔琉は困ったように笑うが、康平はそれだけ聞ければ十分だった。
こいつなら。翔琉となら、これからの三年間を腐らずに全力で走れる――。
それからすぐに、ほぼ同時に電車がホームに滑り込んだ。さっきのお返しと言わんばかりにニヤニヤ笑う康平と、反して心底不思議そうな顔のままの翔琉を乗せて、鉄の塊がゆっくりと線路を滑っていく。徐々にスピードが上がり、翔琉の顔が瞬く間に遠ざかる。
具体的なことはまだなにも決まっていないが、不思議と不安はなかった。
そうだ、明日、おれも南波を勧誘してみようか。
ふと思いついて、ガラガラに空いた席に腰掛けながらふいに笑いが込み上げる。あれだけ頑なに嫌がっていたのに一夜にして寝返った康平を前にした南波が、どれだけ泡を食ったような顔をするか。康平は、その顔を見るのが今から楽しみで仕方がなかった。
ひととおり整理を終えた康平は、胸に言いようのないむず痒さを覚えながらボソリと声を落とす。向いていると言われたから渋々はじめたとか、東北大会とか全国大会とか、未練はないとか、ちょいちょい自慢が入ってくるのがムッとしないでもないけれど。
でも、短距離に関してはやりきった感があったという部分は、さっきまで死闘を繰り広げていたためか、「ああ、そうか」と、すとんと胸に落ちるものがあった。
きっと、翔琉が自分でそう感じている以上、いくら周りがなにを言っても、どんなに必死に戻ってこいと説得しても、心はもう短距離には戻らなかったのだろう。
モチベーションや情熱を同じ熱量で長く保ち続けるのは、並大抵のことじゃない。本当は康平だってわかっていたのだ。底辺にしかわからない気持があるように、上には上の気持ちがある。上のやつらは上のやつらで戦っている。記録だったり、周りからの期待だったり。どれだけ練習を積んでも上には上がいることだったり、ましてオリンピックに出られる選手は、その一握りの中でもさらに一握りの選手しか、なれないことだったり。
「……ごめんね。なんか気持ち悪いでしょ、おれ」
翔琉が打って変わって弱々しい声を出す。単にどうにも照れくさく、それを誤魔化すためにボソボソと言ってしまっただけなのだが、変なところで気が弱いやつなのか、その声も詫びるような笑顔も、すっかりドン引きされていると思い込んでいるようだった。
康平は慌ててかぶりを振る。
「いやいや、違う違う。おまえがあんまり照れくさいことを言うからだろ」
ったく、どれだけの思いで駅伝に誘っていたのか……。
聞かなかった康平も悪いが、これだけの思いを秘めていながら、それらしいことをなにも言わなかった翔琉も翔琉だろう。今さら聞かされても、かえってこっちが恥ずかしい。
「……引いてないの?」
「引くわ。ドン引いたわ。……でも、ありがたいと思ったのも本当。おまえはおまえで、一生懸命おれを引き上げてくれようとしてたんだろ? ……嬉しいだろ、普通に」
「はは。そっか。そう言ってくれると、おれも嬉しい」
少しだけ目を瞠った翔琉は、それからすぐに康平以上に照れくさそうにジュースに目を落とす。どうやら翔琉は本当に変なところで気が弱いらしい。普段はヘラヘラ、キツいことを言われてもまるで気にも留めていないようなやつだが、意外な面もあるものだ。
「……ま、まあ、これで相手がめちゃくちゃ可愛い女の子だったら、なにも言うことはないんだけどな。でも仕方ないから、しばらくおまえで勘弁してやるよ」
そして康平も、またあからさまに照れてしまう。
「え、あ……じゃ、じゃあ……」
「んだよ。おまえと走っちゃいけないのか」
「! そんなわけないじゃん! この日が来るのをめちゃくちゃ待ってた‼」
ぱっと顔を輝かせる翔琉に、康平は無言で握った拳を突き出す。数瞬ののち、意味を理解したらしい翔琉も、満面の笑みで康平の拳に自分の拳を合わせる。
もう悔しいと思うこととは縁を切ったはずだったのに、不思議なものだ。
長距離をはじめたばかりとはいえ、相手はあの福浦翔琉。二つ名が付くほど遠い存在だった相手に、あんなにも腹の底から悔しいと思う心がまだ自分に残っていたなんて。そしてその翔琉は、康平に陸上に戻ってもらうためだけに、ここまでのことをした。
お膳立てをしていたのは一体どっちだろう? そう考えると、無性に腹立たしいやら、おかしいやらで、どういう顔をしたらいいか、まるで表情が定まらない。
でもきっと、それらはすべて翔琉が引き出してくれたものなのだ。
本当は、まだまだ陸上に未練があった。やりきったなんて少しも思っていない。ただ目を逸らしていただけ。本気になればなるだけダメだったときのことが怖くて、おれは陸上がもう嫌になっているんだと、無理やり思い込もうとしていただけだった。
「引き受けたからには死ぬほど本気でやるからな。覚悟しておけ」
「望むところだよ」
お互い、けっこう執念深いな。
心の中で完敗だと降参の白旗を上げつつ、康平はまた、翔琉と拳を突き合わせた。
やがて駅構内に下り線の電車を知らせるアナウンスが流れはじめた。そのすぐあとに続くようにして、上り線のアナウンスも流れはじめる。
ああ、もうこんな時間か。ふと壁の時計を見て、午後七時近いことに驚く。見ると外はすっかり夜だった。いつの間にか、あれだけたくさんいた他校生の姿もほとんどない。
顧問を誰に引き受けてもらうかや、部員の勧誘はどうするか。練習場所の確保のことなどを夢中になって話し込んでいたため、どうやら長居してしまっていたらしい。
「行こっか」
「おう」
翔琉に促された康平は、なんだか離れがたいような気持ちで待合室を出る。
まさかこんなふうに翔琉と肩を並べて歩く日が来ようとは……。まだだいぶ慣れない、この隣の存在にも、いつかめちゃくちゃしっくりくる日が来るんだろうか。
駅員に定期を見せ、ホームへ出る。康平が乗る上り線は、ホームに出てすぐだ。「おれ、こっちだから。じゃあ、また明日」と軽く片手を上げて連絡通路の階段を上っていく翔琉に「おう」と同じようにして応えながら、康平は不思議な感覚でその背中を目で追う。
「なあ、――翔琉」
翔琉が反対側のホームに着くと、康平は初めて翔琉の名前を呼んだ。電車到着の際に流れるメロディーや、続いて入る『線の内側までお下がりください』というアナウンスに掻き消えてしまわないよう、それぞれ数人の乗客が待っている中、声を張り上げて。
福浦と呼ぼうか、翔琉呼ぼうか、ずいぶん迷った末のことだった。ただ単に照れくさいだけなのだが、でも仕方ないだろと康平は口の端をへし曲げる。そっちは会って幾ばくもないときから馴れ馴れしく「康平」と呼んできたのだ、こっちだってフェアな呼び方をしないと気が済まない。それにそもそも、ついさっきまで、しつこくまとわりついてくる厄介な相手だと思っていたのに、そう簡単に照れずに名前を呼べるものか。
「なに、こーへー」
一瞬だけ驚きに目を瞠った翔琉は、しかしすぐに顔を綻ばせ、ニヤニヤする。なんでもわかっているような顔が、ほんっと気に食わないったらない。ちくしょー嬉しそうにしやがって。康平はさらに口の端がへし曲がっていくのを感じずにはいられなかった。
――でも、もういい。
そう思うと、自然と言葉が口から出ていった。
「初めておれが走ってる姿を見たとき、どう思った?」
聞きたいことはひとつだけ。たったこれだけだ。
「へ? めちゃくちゃ全身がゾワゾワしたけど。……え、それがなに?」
「いや。じゃあ、ずっとゾワゾワさせてやっから。そんだけ」
「ええー……」
翔琉は困ったように笑うが、康平はそれだけ聞ければ十分だった。
こいつなら。翔琉となら、これからの三年間を腐らずに全力で走れる――。
それからすぐに、ほぼ同時に電車がホームに滑り込んだ。さっきのお返しと言わんばかりにニヤニヤ笑う康平と、反して心底不思議そうな顔のままの翔琉を乗せて、鉄の塊がゆっくりと線路を滑っていく。徐々にスピードが上がり、翔琉の顔が瞬く間に遠ざかる。
具体的なことはまだなにも決まっていないが、不思議と不安はなかった。
そうだ、明日、おれも南波を勧誘してみようか。
ふと思いついて、ガラガラに空いた席に腰掛けながらふいに笑いが込み上げる。あれだけ頑なに嫌がっていたのに一夜にして寝返った康平を前にした南波が、どれだけ泡を食ったような顔をするか。康平は、その顔を見るのが今から楽しみで仕方がなかった。
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