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■3.ずっとゾワゾワさせてやっから
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「おまえっ……しつこいっ」
「どうしても負けられないんだ、おれは……っ」
走りはじめて二十分。弾む息の合間に並々ならぬしつこさで並走し続ける翔琉に悪態をつけば、食いしばった歯の隙間から苦しそうな喘ぎ声が返ってきた。
翔琉の実力がどれくらいかわからない以上、康平は、一五〇〇メートルの持久走を四分五十九秒以下で走れば十点、というスポーツテストの得点を目安に走ることにした。体育で走ったとき、体育教師がそう言っていたのをふと思い出したからだ。
二十分ということは、今は約六キロ。五周目に入った序盤である。康平もだいぶ足や振り続けている腕に乳酸が溜まって息も苦しくなってきたが、翔琉ほどではなかった。
そう、康平にはまだ余力が残っているからこそつけた悪態だったのだ。
しかし、だいぶ前からすっかり息が上がりきっている翔琉も、ここにきて負けじと言い返してきた。言い返せるあたり、まだそこそこ体力が残っているという見方も、できることにはできるだろう。けれど、どう見ても翔琉に余力はありそうになかった。
――じゃあ、なぜ翔琉はこれだけの差がありながら康平と並走できているのか。
「正々堂々、康平を負かさないとっ。そのためにずっとっ。走ってきたんだから……!」
「根性だけでラスト一キロとか、どんだけなんだよっ」
「こんだけだよっ!」
ただ単に、バカの一つ覚えみたいな根性以外のなにものでもなかった。
「ぐぬわああぁぁ!」
途端、気合いの声を上げながら翔琉がスパートしていく。がむしゃらに首と腕を振り、その振り幅で動かない足を無理やり前へと進めるような、見るも無残なスパートを。
かなりふらついているくせに、よく根性だけでおれの前に出られたなと康平はうんざりする。もちろん、ラストスパート用に余力を残していた康平は、そんな翔琉の捨て身のスパートに余裕で追いつき、ついでだからと鼻で笑って抜き去り前へ出る。
「なっ⁉」
翔琉が心底驚いた顔をするのが、とても気持ちよかった。相手があの福浦翔琉なら、なおさらに。このまま一気に置いていくつもりだ。どれだけの根性を絞り出して必死で追おうにも、ただ離されていくだけなら、いくらでもその心を折ることができる。
完膚なきまでに打ちのめし、憧れや根性だけではどうにもならない現実を突き付けなければ。その気持ちだけでギアをどんどん入れ替え、トップスピードを上げていく。
だってそうだろう。翔琉には、凡人にはない才能がある。せっかくのその才能を短距離に本気でつぎ込まなくて、なににつぎ込めばいいというのだろうか。
ここまでお膳立てされてわからないなんてことはないよな? すぐに聞こえなくなった足音に少しだけ胸を締め付けられながら、康平はさらにもう一段階、ギアを上げた。
さすがにここまで本気で走ったことはなかったが、ランナーズハイか、ゾーンにでも入っているのか。体は悲鳴を上げるどころか脳からの指令に忠実についてきている。
これで翔琉ももう諦めるしかないだろう。残り、おそらく四百メートル弱だろうか。トップギアを維持したまま、どれだけ翔琉が後方で喘いでいるか怖いもの見たさで振り返る。
「……⁉」
しかしそこには誰もいなかった。急いで左右に目を走らせると、右斜め後ろ、目の端にきつく握り込まれた翔琉の左こぶしが見え、康平の口から「かはっ⁉」と息の塊が吐き出されていった。途端に猛烈な息苦しさに襲われ、酸素を求めて口が大きく開く。
このスピードについてこられることにも驚いたが、なにより脅威に思えたのは、翔琉のこの足音無き追従――ド素人のくせに康平のストライドをそっくりそのまま再現していることだった。これでは自分の足音と同調しすぎて聞き分けがつかない。
康平とまったく同じ歩幅、スピード、ストライド。……なんて気持ち悪いやつなんだ。
いつからだ? いつからこいつはついてきていた? 翔琉に代わって今度はみっともなく喘ぐ番になった康平は、翔琉の潜在能力の高さやバカみたいなド根性に、それからこの得も言われぬ気持ち悪さや、負けるかもしれない恐怖の中で必死に頭を働かせる。
しかし、考えるまでもなく抜き去る瞬間だとしか思えなかった。翔琉はあの一瞬でギアを入れ替えたのだ。なんて精神力。なんて執着。全身の毛がザワザワと総毛立つ。
けれど康平だって、この何百メートルかで目まぐるしくギアを引き上げていったのだ。さすがにここまで本気で走ったことはなかったほど、急激に。それに現についてきているところを見ると、やはり翔琉には短距離と同等か、もしかしたらそれ以上に長距離にも才能があったのかもしれないと、どうしても思わされてしまうところがある。
――どれだけこいつは〝陸上〟に愛されているんだ……。
必死にしがみついても花開かなかった才能に加え、長距離でも当初の予定を大きく狂わされてしまった現実に、康平はまるで目の前に靄がかかっていくようだった。
そんな康平に反して翔琉は、康平が驚いたことに気をよくしたらしい。ニヤリと口角を持ち上げるとスッと横に並んだかと思うと、このまま前に出ようとさえしているようだった。康平に負けず劣らずみっともなく喘いではいるが、気分が乗っているのだろう。
そうして、残り三百メートル。
お互いにトップギアを保ったまま、再び並走がはじまった。
そこからはふたりとも、どちらが先にゴールするかだけを考えた。
つま先の差でいい。胸の差でもいい。鼻の差でもなんでもいいから、とにかく相手より先にゴールしたい。その一心で残りの距離を文字どおりがむしゃらに走った。
「ああっ……‼ はあっ、はあっ、キッつ……っ‼」
「ああああっ――! くっそ苦しいっ! マジ死ぬっ、こんなの……っ‼」
やがて三百メートルを全力疾走したふたりは、荷物を置いてスタートとゴールの目印にしていた地点になだれ込むと、そのままアスファルトの硬い地面に体を投げ出した。そう言ったきり、しばらくの間、酸素を貪る息遣いだけが辺りに荒々しく響く。
第三者の目があるわけではないから正確にはわからないが、康平個人の感触としては同着だと思う。しかも、こちらがなんとか同着に持ち込んだ、というような。
まったく、なんつー根性なんだよ、こいつ……。
隣に寝転ぶ翔琉に恨みがましい視線を向けながら、どこか少しでも気持ちに緩みがあったら完全に負けていたとゾッとする。こっちは毎日走っているという怠慢や傲りがあったのは認めざるを得ないとは思う。けれど、誰が翔琉の実力がここまでだと想像できただろうか。康平と駅伝をしたい――その執念深さに気が狂ってしまいそうだ。
まだなお整わない呼吸を繰り返しながら、康平は翔琉の横顔から空へ視と線を投げた。
春の夕暮れ時の三十分は、空の色があっという間に変化する。ついさっきまで沈みかけだった太陽は西の山の向こうへ完全に消え、そのわずかな残陽と東から迫る夜の色が溶け合った真上の空には、せっかちな星がひとつ、薄闇の中で弱々しく光っていた。
ようやく息も落ち着いてくると、はぁ、とひとつ息を吐き出した康平は緩慢な動きで起き上がった。それにつられて翔琉ものっそりと体を起こす。翔琉の額からはボタボタと玉の汗が滴り落ちていた。康平の額からも、同じ量の汗がとめどなく流れている。
目が合うと、康平は覚悟を決め、ゴクリと喉を鳴らして口を開く。
お互いに今ある実力を本気でぶつけ合ったからこそ、わかってしまった。康平は翔琉に負けたのだ。ここまでの本気を見せられたら、素直に負けを認めるしかない。
「勝負のことだけど……おれの完敗だ」
そう言った声は、けれど自分でも驚くほど悔しさが滲んでいた。もっとライトに。ニュートラルに〝負けた〟事実を認めたかったのだが、気持ちがそこについてこなかった。
そこでようやく康平は気づく。きっと心はずっと隣り合わせだったんだと。
あの福浦翔琉と勝負をして勝てるはずがないという気持ちと、宝の持ち腐れを起こしているこいつを短距離に戻してやるんだという意地との間で、ずっとずっと揺れ動いていたのだ。最終的に同着に持ち込めたのは、ゴール寸前でわずかに後者の思いが体を突き動かしたからだと思う。ただそれだって一時的に意地が落ちこぼれ感情を上回ったからに過ぎなかった。それがどうしようもなく康平の中にある悔しさを搔き立ててならない。
例えばそれは、翔琉と自分の本気度の違いに。敵うはずがないと心のどこかで諦めていた自分に。翔琉がどれだけの思いで自主練をしてきたかに。それを想像しようともしなかったことに。いかに自分が速く走れないことを他人のせいにしてきたかに。
体の中からまるで堰を切ったように溢れ出す〝悔しい〟という感情は、歯を食いしばり硬くこぶしを握って必死に押さえ込まなければ、翔琉に向けて爆発しそうだ。
「でも、同着だったでしょ。っていうより、最後の最後で康平に同着にさせてもらった感じだった。だから、今度はマラソン大会でリベンジだって思ったよ、おれは」
すると翔琉は、康平の感触と同じことを言う。
〝なんとか同着に持ち込んだ〟康平と比べて明らかに謙虚なのが、なんとなく鼻につくものの、康平の完敗宣言に遠慮したり情けをかけている様子もないところを見ると、本心で言っているのだろう。空気の読めないやつだとばかり思ってきたが、存外、日本人らしい感覚的な部分も持ち合わせているらしい。……それがまた鼻につく気もするけれど。
「マラソン大会って……。まだ諦める気はないのかよ」
「ないよ。今回はなんとか同着にさせてもらって、めちゃくちゃホッとしてる」
苦笑を漏らしつつ言うと、ニッと笑って即答され、また苦笑が浮かぶ。
本当にこいつは……。そう思ってるんなら、この勝負ももともと命がけだったんじゃねーか。負けたらどうするつもりだったんだろうと思うと、言葉も出ない。
こうなれば、南波が揶揄した『高松の池の決闘』も、あながち間違いじゃないかもしれない。首の皮一枚の状態で、よくもまあ「潔く短距離に戻る」なんて言えたものだ。
やっぱこいつバカだわ。いろいろ考えたが、それしか頭に浮かばなかった。
「……ほんとはさ、勝負を申し込むのはまだ早いかもって思ってたんだよ」
それからすぐに後ろ手に手を付くと、どこか観念したように翔琉は言う。
「は? あんだけ自信満々な顔しといて?」
「いや、あれは自分を追い込むためっていうか、そうでもしないと康平が勝負に乗ってくれないと思って。正直、勝てる見込みはゼロだった。――誓って嘘じゃない」
軽く睨むと、前半部分の言い訳に近い言い方とは違い、最後の一言に康平に対する確かな尊敬と、それを本物だと思わせるだけの強い眼差しが返ってきた。思わずわずかに体を引いてしまうと、康平って自己評価が低すぎるんだよ、と翔琉は静かに笑う。
――こんなにおれが憧れて、追いつきたいって思ってるのに。
そんな声が聞こえてきそうな静かな笑みに、またなにか癪に障るようなことを言ってきたらバカにしてやろうと身構えていた康平の気も、途端に削がれる。
「でも、だからこそ今が勝負どきなのかもな、とも思ったんだよ」
「勝負どき?」
「そう。このままじゃきっと埒が明かないし、おれがどれだけ本気かを知ってもらう機会も、五月までない。それに、どんなに練習しても自分じゃ自分のレベルがわかんないじゃない? 毎日走る中で少しずつ、距離を走っても息が落ち着いてきたなーとか、走り終わったあと、息が整うのが早くなったなーくらいしか、実感らしい実感がなくてさ。しかもひとりでやってるから、どこまでいっても完全に自己評価じゃん。タイムは縮むけど、自己流でどこまで行けるかもわかんない。……走りながら、ずっと不安だったんだ」
「……まあな。それはおれも、わかるわ。けっこう孤独なんだよな。タイムの上では速くなってるのもわかるし、自分の体でもわかるけど、ひとりはだいぶ……キツい」
「そうなんだよ。走ってみなきゃわかんないことだらけだった」
そう言って苦笑する翔琉に、康平の顔にも思わず苦笑が浮かんだ。きっとこいつは、本当の本当に、本心からおれと走りたいんだろう。そのとき、ふっと腑に落ちたのだ。
「どうしても負けられないんだ、おれは……っ」
走りはじめて二十分。弾む息の合間に並々ならぬしつこさで並走し続ける翔琉に悪態をつけば、食いしばった歯の隙間から苦しそうな喘ぎ声が返ってきた。
翔琉の実力がどれくらいかわからない以上、康平は、一五〇〇メートルの持久走を四分五十九秒以下で走れば十点、というスポーツテストの得点を目安に走ることにした。体育で走ったとき、体育教師がそう言っていたのをふと思い出したからだ。
二十分ということは、今は約六キロ。五周目に入った序盤である。康平もだいぶ足や振り続けている腕に乳酸が溜まって息も苦しくなってきたが、翔琉ほどではなかった。
そう、康平にはまだ余力が残っているからこそつけた悪態だったのだ。
しかし、だいぶ前からすっかり息が上がりきっている翔琉も、ここにきて負けじと言い返してきた。言い返せるあたり、まだそこそこ体力が残っているという見方も、できることにはできるだろう。けれど、どう見ても翔琉に余力はありそうになかった。
――じゃあ、なぜ翔琉はこれだけの差がありながら康平と並走できているのか。
「正々堂々、康平を負かさないとっ。そのためにずっとっ。走ってきたんだから……!」
「根性だけでラスト一キロとか、どんだけなんだよっ」
「こんだけだよっ!」
ただ単に、バカの一つ覚えみたいな根性以外のなにものでもなかった。
「ぐぬわああぁぁ!」
途端、気合いの声を上げながら翔琉がスパートしていく。がむしゃらに首と腕を振り、その振り幅で動かない足を無理やり前へと進めるような、見るも無残なスパートを。
かなりふらついているくせに、よく根性だけでおれの前に出られたなと康平はうんざりする。もちろん、ラストスパート用に余力を残していた康平は、そんな翔琉の捨て身のスパートに余裕で追いつき、ついでだからと鼻で笑って抜き去り前へ出る。
「なっ⁉」
翔琉が心底驚いた顔をするのが、とても気持ちよかった。相手があの福浦翔琉なら、なおさらに。このまま一気に置いていくつもりだ。どれだけの根性を絞り出して必死で追おうにも、ただ離されていくだけなら、いくらでもその心を折ることができる。
完膚なきまでに打ちのめし、憧れや根性だけではどうにもならない現実を突き付けなければ。その気持ちだけでギアをどんどん入れ替え、トップスピードを上げていく。
だってそうだろう。翔琉には、凡人にはない才能がある。せっかくのその才能を短距離に本気でつぎ込まなくて、なににつぎ込めばいいというのだろうか。
ここまでお膳立てされてわからないなんてことはないよな? すぐに聞こえなくなった足音に少しだけ胸を締め付けられながら、康平はさらにもう一段階、ギアを上げた。
さすがにここまで本気で走ったことはなかったが、ランナーズハイか、ゾーンにでも入っているのか。体は悲鳴を上げるどころか脳からの指令に忠実についてきている。
これで翔琉ももう諦めるしかないだろう。残り、おそらく四百メートル弱だろうか。トップギアを維持したまま、どれだけ翔琉が後方で喘いでいるか怖いもの見たさで振り返る。
「……⁉」
しかしそこには誰もいなかった。急いで左右に目を走らせると、右斜め後ろ、目の端にきつく握り込まれた翔琉の左こぶしが見え、康平の口から「かはっ⁉」と息の塊が吐き出されていった。途端に猛烈な息苦しさに襲われ、酸素を求めて口が大きく開く。
このスピードについてこられることにも驚いたが、なにより脅威に思えたのは、翔琉のこの足音無き追従――ド素人のくせに康平のストライドをそっくりそのまま再現していることだった。これでは自分の足音と同調しすぎて聞き分けがつかない。
康平とまったく同じ歩幅、スピード、ストライド。……なんて気持ち悪いやつなんだ。
いつからだ? いつからこいつはついてきていた? 翔琉に代わって今度はみっともなく喘ぐ番になった康平は、翔琉の潜在能力の高さやバカみたいなド根性に、それからこの得も言われぬ気持ち悪さや、負けるかもしれない恐怖の中で必死に頭を働かせる。
しかし、考えるまでもなく抜き去る瞬間だとしか思えなかった。翔琉はあの一瞬でギアを入れ替えたのだ。なんて精神力。なんて執着。全身の毛がザワザワと総毛立つ。
けれど康平だって、この何百メートルかで目まぐるしくギアを引き上げていったのだ。さすがにここまで本気で走ったことはなかったほど、急激に。それに現についてきているところを見ると、やはり翔琉には短距離と同等か、もしかしたらそれ以上に長距離にも才能があったのかもしれないと、どうしても思わされてしまうところがある。
――どれだけこいつは〝陸上〟に愛されているんだ……。
必死にしがみついても花開かなかった才能に加え、長距離でも当初の予定を大きく狂わされてしまった現実に、康平はまるで目の前に靄がかかっていくようだった。
そんな康平に反して翔琉は、康平が驚いたことに気をよくしたらしい。ニヤリと口角を持ち上げるとスッと横に並んだかと思うと、このまま前に出ようとさえしているようだった。康平に負けず劣らずみっともなく喘いではいるが、気分が乗っているのだろう。
そうして、残り三百メートル。
お互いにトップギアを保ったまま、再び並走がはじまった。
そこからはふたりとも、どちらが先にゴールするかだけを考えた。
つま先の差でいい。胸の差でもいい。鼻の差でもなんでもいいから、とにかく相手より先にゴールしたい。その一心で残りの距離を文字どおりがむしゃらに走った。
「ああっ……‼ はあっ、はあっ、キッつ……っ‼」
「ああああっ――! くっそ苦しいっ! マジ死ぬっ、こんなの……っ‼」
やがて三百メートルを全力疾走したふたりは、荷物を置いてスタートとゴールの目印にしていた地点になだれ込むと、そのままアスファルトの硬い地面に体を投げ出した。そう言ったきり、しばらくの間、酸素を貪る息遣いだけが辺りに荒々しく響く。
第三者の目があるわけではないから正確にはわからないが、康平個人の感触としては同着だと思う。しかも、こちらがなんとか同着に持ち込んだ、というような。
まったく、なんつー根性なんだよ、こいつ……。
隣に寝転ぶ翔琉に恨みがましい視線を向けながら、どこか少しでも気持ちに緩みがあったら完全に負けていたとゾッとする。こっちは毎日走っているという怠慢や傲りがあったのは認めざるを得ないとは思う。けれど、誰が翔琉の実力がここまでだと想像できただろうか。康平と駅伝をしたい――その執念深さに気が狂ってしまいそうだ。
まだなお整わない呼吸を繰り返しながら、康平は翔琉の横顔から空へ視と線を投げた。
春の夕暮れ時の三十分は、空の色があっという間に変化する。ついさっきまで沈みかけだった太陽は西の山の向こうへ完全に消え、そのわずかな残陽と東から迫る夜の色が溶け合った真上の空には、せっかちな星がひとつ、薄闇の中で弱々しく光っていた。
ようやく息も落ち着いてくると、はぁ、とひとつ息を吐き出した康平は緩慢な動きで起き上がった。それにつられて翔琉ものっそりと体を起こす。翔琉の額からはボタボタと玉の汗が滴り落ちていた。康平の額からも、同じ量の汗がとめどなく流れている。
目が合うと、康平は覚悟を決め、ゴクリと喉を鳴らして口を開く。
お互いに今ある実力を本気でぶつけ合ったからこそ、わかってしまった。康平は翔琉に負けたのだ。ここまでの本気を見せられたら、素直に負けを認めるしかない。
「勝負のことだけど……おれの完敗だ」
そう言った声は、けれど自分でも驚くほど悔しさが滲んでいた。もっとライトに。ニュートラルに〝負けた〟事実を認めたかったのだが、気持ちがそこについてこなかった。
そこでようやく康平は気づく。きっと心はずっと隣り合わせだったんだと。
あの福浦翔琉と勝負をして勝てるはずがないという気持ちと、宝の持ち腐れを起こしているこいつを短距離に戻してやるんだという意地との間で、ずっとずっと揺れ動いていたのだ。最終的に同着に持ち込めたのは、ゴール寸前でわずかに後者の思いが体を突き動かしたからだと思う。ただそれだって一時的に意地が落ちこぼれ感情を上回ったからに過ぎなかった。それがどうしようもなく康平の中にある悔しさを搔き立ててならない。
例えばそれは、翔琉と自分の本気度の違いに。敵うはずがないと心のどこかで諦めていた自分に。翔琉がどれだけの思いで自主練をしてきたかに。それを想像しようともしなかったことに。いかに自分が速く走れないことを他人のせいにしてきたかに。
体の中からまるで堰を切ったように溢れ出す〝悔しい〟という感情は、歯を食いしばり硬くこぶしを握って必死に押さえ込まなければ、翔琉に向けて爆発しそうだ。
「でも、同着だったでしょ。っていうより、最後の最後で康平に同着にさせてもらった感じだった。だから、今度はマラソン大会でリベンジだって思ったよ、おれは」
すると翔琉は、康平の感触と同じことを言う。
〝なんとか同着に持ち込んだ〟康平と比べて明らかに謙虚なのが、なんとなく鼻につくものの、康平の完敗宣言に遠慮したり情けをかけている様子もないところを見ると、本心で言っているのだろう。空気の読めないやつだとばかり思ってきたが、存外、日本人らしい感覚的な部分も持ち合わせているらしい。……それがまた鼻につく気もするけれど。
「マラソン大会って……。まだ諦める気はないのかよ」
「ないよ。今回はなんとか同着にさせてもらって、めちゃくちゃホッとしてる」
苦笑を漏らしつつ言うと、ニッと笑って即答され、また苦笑が浮かぶ。
本当にこいつは……。そう思ってるんなら、この勝負ももともと命がけだったんじゃねーか。負けたらどうするつもりだったんだろうと思うと、言葉も出ない。
こうなれば、南波が揶揄した『高松の池の決闘』も、あながち間違いじゃないかもしれない。首の皮一枚の状態で、よくもまあ「潔く短距離に戻る」なんて言えたものだ。
やっぱこいつバカだわ。いろいろ考えたが、それしか頭に浮かばなかった。
「……ほんとはさ、勝負を申し込むのはまだ早いかもって思ってたんだよ」
それからすぐに後ろ手に手を付くと、どこか観念したように翔琉は言う。
「は? あんだけ自信満々な顔しといて?」
「いや、あれは自分を追い込むためっていうか、そうでもしないと康平が勝負に乗ってくれないと思って。正直、勝てる見込みはゼロだった。――誓って嘘じゃない」
軽く睨むと、前半部分の言い訳に近い言い方とは違い、最後の一言に康平に対する確かな尊敬と、それを本物だと思わせるだけの強い眼差しが返ってきた。思わずわずかに体を引いてしまうと、康平って自己評価が低すぎるんだよ、と翔琉は静かに笑う。
――こんなにおれが憧れて、追いつきたいって思ってるのに。
そんな声が聞こえてきそうな静かな笑みに、またなにか癪に障るようなことを言ってきたらバカにしてやろうと身構えていた康平の気も、途端に削がれる。
「でも、だからこそ今が勝負どきなのかもな、とも思ったんだよ」
「勝負どき?」
「そう。このままじゃきっと埒が明かないし、おれがどれだけ本気かを知ってもらう機会も、五月までない。それに、どんなに練習しても自分じゃ自分のレベルがわかんないじゃない? 毎日走る中で少しずつ、距離を走っても息が落ち着いてきたなーとか、走り終わったあと、息が整うのが早くなったなーくらいしか、実感らしい実感がなくてさ。しかもひとりでやってるから、どこまでいっても完全に自己評価じゃん。タイムは縮むけど、自己流でどこまで行けるかもわかんない。……走りながら、ずっと不安だったんだ」
「……まあな。それはおれも、わかるわ。けっこう孤独なんだよな。タイムの上では速くなってるのもわかるし、自分の体でもわかるけど、ひとりはだいぶ……キツい」
「そうなんだよ。走ってみなきゃわかんないことだらけだった」
そう言って苦笑する翔琉に、康平の顔にも思わず苦笑が浮かんだ。きっとこいつは、本当の本当に、本心からおれと走りたいんだろう。そのとき、ふっと腑に落ちたのだ。
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