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■第四話
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それからほどなくして、陽史のスマホにみさきから連絡があった。最寄り駅に着いたとのことで、陽史はしばし芳二に茉莉を頼み、足早に駅へと足を向かわせた。
実際に会うとみさきは、喜多と並べば『美女と野獣』と例えてもほとんどの人がそうだろうと頷いてしまうほど綺麗な女性だった。淡いクリーム色のスーツ姿で、かっちりしてはいるが堅い印象はなく、後ろで一つに束ねたふんわり揺れる巻き髪と薄手のメイクが、彼女の持つ清廉で透明感のあるイメージに花を添えているようだった。
「初めまして、茉莉の母のみさきです」「こちらこそ初めまして、喜多さんの後輩の泰野といいます」なんてお互いに頭を下げつつ挨拶を交わしながら、これは喜多ならずとも惚れる男は多いだろう、などと陽史はどうにも邪推してしまう。
そんな彼女が十代で茉莉を産み、今は実家を出て一人で育てているのだから、改めて驚かされる。茉莉の母親だと知らなければ、うっかり一目惚れしてしまうかもしれない。とはいえ、きっと声なんてかけられないだろう。例えば道端ですれ違って、それっきりだ。
「喜多君の後輩の方なら心配はしていませんでしたけど、実際に会ってみると、ますます電話でお話しした通りの印象ですね。思いきって茉莉を頼んで本当によかったです」
「いえっ、そんな。とと、とんでもないですよ……っ」
芳二の家へ案内する道すがら、みさきが唐突に立ち止まり急に深々と頭を下げるものだから、陽史は大いに慌ててしまい、しどろもどろになる。こちらはただ、長い夏休みを持て余しているだけだ。そんなに改まって礼を言われると返す言葉に窮する。
「でも、本当なんですよ。喜多君から私の仕事、聞いてますか?」
「あ、はい。保険のセールスレディをなさってるって」
「そうなんです。こんな仕事柄だから、遅くまで茉莉を一人にしてしまうこともしばしばで。学童クラブだけじゃ間に合わないところがあって、喜多君にはいつも頼り切ってしまってたんです。それが今度は泰野さんや、今日は今からお伺いする桑原さんにも頼ることになってしまって……。茉莉ほど大事な存在はないのに、いつも日々の生活のほうにばかり優先順位が行ってしまって、本当に情けないばかりですよ」
言うとみさきは、はにかんだ笑顔を作った。その顔に、陽史はすぐには言葉が出てこない。顔こそ笑っているが、みさきはもう何年と葛藤を抱えているのだ。会ったばかりの、まして社会に出たこともない自分にかけられる言葉なんてあるはずもない。
――ただ。
「あの。一つ気になったことがあるんですけど」
「はい?」
「俺が言えることじゃないのは、わかってます。けど、『~してしまって』って、まるでみさきさん自身が悪いことをしてるみたいな言い方は少しずつやめていきませんか? 俺も喜多さんも、これから行く芳二さんだって、誰もみさきさんが茉莉ちゃんを大事にしてないなんてちっとも思ってないんです。むしろ頼ってもらえて嬉しいんですよ。茉莉ちゃんの成長を間近で見守ってきた喜多さんは、なおさらだと思うんです。人に何かしてもらったら『すみません』じゃなく『ありがとう』って言おうってよく言うじゃないですか。きっと喜多さんも、みさきさんの『ありがとう』が聞きたいんじゃないでしょうか」
思わず出しゃばったことを口走ってしまったが、でも、会って早々、陽史はみさきの言葉尻に多用される『~してしまって』がどうしても気になってならなかった。
自分がとやかく言える立場ではないことは重々承知している。けれどみさきには、与えてもらうばかりではないことに早く気づいてほしい。例えば、茉莉とメシを食べることで満たされていた喜多の心や、成長を見守ってこられたこと、一念発起して就職活動に励み始めた裏にある、みさき母子を思う気持ち。それらは喜多の中から自然と生まれたものであって、同時にみさきや茉莉が喜多に与えていたものでもあると陽史は思う。
「――あ、すみません、俺……」
「ううん。前に喜多君にも、『ごめんね』じゃなく『ありがとう』って言ったほうがいいって言われたことがあるんです。茉莉には気をつけてたんですけど、手を貸してくれる人たちにも『ありがとう』が大事なんだって、ちょっと失念しちゃってました」
はっと我に返って頭を下げると、みさきは笑って首を振ってくれた。その拍子に後ろで束ねた巻き髪が弾むように揺れ、彼女の華奢な肩越しにちらちらと見え隠れする。
そのとき陽史は、喜多に頑張ってほしいと切に願った。
自分で選んだ道とはいえ、みさきの肩にかかる負荷は計り知れないものだろう。そんな彼女をそっとそばで支える存在が喜多なら、どれほどいいだろうと思うのだ。
もちろん、みさきや茉莉にも選ぶ権利はある。でも、喜多はそのつもりだろうし、そのためにまずは自分の身を固めようとしている彼の頑張りがどうか報われてほしいと思う。
「……あ、あの、芳二さんのところまで、もうすぐですから」
「ふふ。そんな堅苦しくならなくて大丈夫ですよ。また私の悪い癖が出ているのに気づかせてくれて〝ありがとう〟ですから。少しずつ直していきます」
そうして二人は芳二の家へと向かった。着くと茉莉は寝ぼけ眼をこすりながらもすでに帰り支度を済ませていて、玄関先で芳二と手を繋いで待っていた。
母の姿を見つけるなりパッと目を輝かせて「ママ、お疲れさま!」と飛びつく茉莉を両腕で抱き留めつつ、みさきは芳二にも何度も何度も頭を下げる。
改めてお礼に伺いたいと言うみさきに「そんなことより早く慣れた布団で寝かせてやってくれ」と突っぱねる芳二は、やはり言い方こそぶっきらぼうだが、声色には茉莉が帰ってしまう寂しさがありありと読み取れ、陽史はくすりと頬を緩ませた。
芳二も芳二で、茉莉との時間が楽しかったのだろう。最後に茉莉と目線を合わせ、ぽんと頭に手を置きながら「またメシを食いにおいで」とお誘いをかける様子は、まるで自分の孫に接するように柔和で穏やかで、それまで恐縮しきりだったみさきも思わず芳二の厳めしい風体とのギャップにふふと口元を綻ばせてしまうほどだった。
案の定、茉莉にも「おじいちゃん、かわいい」と笑われ「ジジイが可愛いわけあるか」と不貞腐れ気味の芳二はもはやお約束として、陽史は母子を促し、駅まで送る。
改札をくぐる二人に手を振りながら、喜多同様、こんなふうに触れ合った人が温かな気持ちになることも、どうかみさきには心に留めておいてほしいと陽史は思う。
一人で全てのことをこなせるほど、人は万能なんかじゃない。それは男女の差も、重ねた歳の数も関係なく、例え親であったとしても、同じなんじゃないだろうか。
「さて。芳二さんのご機嫌取りに戻りますか」
誰にともなく言って、陽史は来た道を再度引き返す。
本当は機嫌なんて取らなくても芳二はちゃんとわかっていると思うが、陽史のほうがまだもう少し芳二と一緒に酒を飲んでいたい気分だった。それに一気に人が減ってしまっては、どこか拍子抜けというか、芳二も寂しいだろうと思うのだ。
そうしてものの十分で再び姿を現すと、芳二は「また来おって」と言いながらも陽史を家に上げ、お猪口に注いだ日本酒を「フン」と差し出してくれた。
二人で飲んではなんだからと陽史は飲まずにいたのだが、いつものようにマイペースに晩酌を楽しみながらも、芳二もその辺りのことは気に留めてくれていたらしい。
――こういうときに芳二さんがいてくれて本当によかった。
これから喜多を含め三人をどう手助けしていったらみんなが笑顔になれるだろうか。
献杯を受けつつ考えるのは、芳二が言ってくれた言葉に込められた思いと、それを受けた自分が起こすべき行動とは何だろうかという、その二つだった。
実際に会うとみさきは、喜多と並べば『美女と野獣』と例えてもほとんどの人がそうだろうと頷いてしまうほど綺麗な女性だった。淡いクリーム色のスーツ姿で、かっちりしてはいるが堅い印象はなく、後ろで一つに束ねたふんわり揺れる巻き髪と薄手のメイクが、彼女の持つ清廉で透明感のあるイメージに花を添えているようだった。
「初めまして、茉莉の母のみさきです」「こちらこそ初めまして、喜多さんの後輩の泰野といいます」なんてお互いに頭を下げつつ挨拶を交わしながら、これは喜多ならずとも惚れる男は多いだろう、などと陽史はどうにも邪推してしまう。
そんな彼女が十代で茉莉を産み、今は実家を出て一人で育てているのだから、改めて驚かされる。茉莉の母親だと知らなければ、うっかり一目惚れしてしまうかもしれない。とはいえ、きっと声なんてかけられないだろう。例えば道端ですれ違って、それっきりだ。
「喜多君の後輩の方なら心配はしていませんでしたけど、実際に会ってみると、ますます電話でお話しした通りの印象ですね。思いきって茉莉を頼んで本当によかったです」
「いえっ、そんな。とと、とんでもないですよ……っ」
芳二の家へ案内する道すがら、みさきが唐突に立ち止まり急に深々と頭を下げるものだから、陽史は大いに慌ててしまい、しどろもどろになる。こちらはただ、長い夏休みを持て余しているだけだ。そんなに改まって礼を言われると返す言葉に窮する。
「でも、本当なんですよ。喜多君から私の仕事、聞いてますか?」
「あ、はい。保険のセールスレディをなさってるって」
「そうなんです。こんな仕事柄だから、遅くまで茉莉を一人にしてしまうこともしばしばで。学童クラブだけじゃ間に合わないところがあって、喜多君にはいつも頼り切ってしまってたんです。それが今度は泰野さんや、今日は今からお伺いする桑原さんにも頼ることになってしまって……。茉莉ほど大事な存在はないのに、いつも日々の生活のほうにばかり優先順位が行ってしまって、本当に情けないばかりですよ」
言うとみさきは、はにかんだ笑顔を作った。その顔に、陽史はすぐには言葉が出てこない。顔こそ笑っているが、みさきはもう何年と葛藤を抱えているのだ。会ったばかりの、まして社会に出たこともない自分にかけられる言葉なんてあるはずもない。
――ただ。
「あの。一つ気になったことがあるんですけど」
「はい?」
「俺が言えることじゃないのは、わかってます。けど、『~してしまって』って、まるでみさきさん自身が悪いことをしてるみたいな言い方は少しずつやめていきませんか? 俺も喜多さんも、これから行く芳二さんだって、誰もみさきさんが茉莉ちゃんを大事にしてないなんてちっとも思ってないんです。むしろ頼ってもらえて嬉しいんですよ。茉莉ちゃんの成長を間近で見守ってきた喜多さんは、なおさらだと思うんです。人に何かしてもらったら『すみません』じゃなく『ありがとう』って言おうってよく言うじゃないですか。きっと喜多さんも、みさきさんの『ありがとう』が聞きたいんじゃないでしょうか」
思わず出しゃばったことを口走ってしまったが、でも、会って早々、陽史はみさきの言葉尻に多用される『~してしまって』がどうしても気になってならなかった。
自分がとやかく言える立場ではないことは重々承知している。けれどみさきには、与えてもらうばかりではないことに早く気づいてほしい。例えば、茉莉とメシを食べることで満たされていた喜多の心や、成長を見守ってこられたこと、一念発起して就職活動に励み始めた裏にある、みさき母子を思う気持ち。それらは喜多の中から自然と生まれたものであって、同時にみさきや茉莉が喜多に与えていたものでもあると陽史は思う。
「――あ、すみません、俺……」
「ううん。前に喜多君にも、『ごめんね』じゃなく『ありがとう』って言ったほうがいいって言われたことがあるんです。茉莉には気をつけてたんですけど、手を貸してくれる人たちにも『ありがとう』が大事なんだって、ちょっと失念しちゃってました」
はっと我に返って頭を下げると、みさきは笑って首を振ってくれた。その拍子に後ろで束ねた巻き髪が弾むように揺れ、彼女の華奢な肩越しにちらちらと見え隠れする。
そのとき陽史は、喜多に頑張ってほしいと切に願った。
自分で選んだ道とはいえ、みさきの肩にかかる負荷は計り知れないものだろう。そんな彼女をそっとそばで支える存在が喜多なら、どれほどいいだろうと思うのだ。
もちろん、みさきや茉莉にも選ぶ権利はある。でも、喜多はそのつもりだろうし、そのためにまずは自分の身を固めようとしている彼の頑張りがどうか報われてほしいと思う。
「……あ、あの、芳二さんのところまで、もうすぐですから」
「ふふ。そんな堅苦しくならなくて大丈夫ですよ。また私の悪い癖が出ているのに気づかせてくれて〝ありがとう〟ですから。少しずつ直していきます」
そうして二人は芳二の家へと向かった。着くと茉莉は寝ぼけ眼をこすりながらもすでに帰り支度を済ませていて、玄関先で芳二と手を繋いで待っていた。
母の姿を見つけるなりパッと目を輝かせて「ママ、お疲れさま!」と飛びつく茉莉を両腕で抱き留めつつ、みさきは芳二にも何度も何度も頭を下げる。
改めてお礼に伺いたいと言うみさきに「そんなことより早く慣れた布団で寝かせてやってくれ」と突っぱねる芳二は、やはり言い方こそぶっきらぼうだが、声色には茉莉が帰ってしまう寂しさがありありと読み取れ、陽史はくすりと頬を緩ませた。
芳二も芳二で、茉莉との時間が楽しかったのだろう。最後に茉莉と目線を合わせ、ぽんと頭に手を置きながら「またメシを食いにおいで」とお誘いをかける様子は、まるで自分の孫に接するように柔和で穏やかで、それまで恐縮しきりだったみさきも思わず芳二の厳めしい風体とのギャップにふふと口元を綻ばせてしまうほどだった。
案の定、茉莉にも「おじいちゃん、かわいい」と笑われ「ジジイが可愛いわけあるか」と不貞腐れ気味の芳二はもはやお約束として、陽史は母子を促し、駅まで送る。
改札をくぐる二人に手を振りながら、喜多同様、こんなふうに触れ合った人が温かな気持ちになることも、どうかみさきには心に留めておいてほしいと陽史は思う。
一人で全てのことをこなせるほど、人は万能なんかじゃない。それは男女の差も、重ねた歳の数も関係なく、例え親であったとしても、同じなんじゃないだろうか。
「さて。芳二さんのご機嫌取りに戻りますか」
誰にともなく言って、陽史は来た道を再度引き返す。
本当は機嫌なんて取らなくても芳二はちゃんとわかっていると思うが、陽史のほうがまだもう少し芳二と一緒に酒を飲んでいたい気分だった。それに一気に人が減ってしまっては、どこか拍子抜けというか、芳二も寂しいだろうと思うのだ。
そうしてものの十分で再び姿を現すと、芳二は「また来おって」と言いながらも陽史を家に上げ、お猪口に注いだ日本酒を「フン」と差し出してくれた。
二人で飲んではなんだからと陽史は飲まずにいたのだが、いつものようにマイペースに晩酌を楽しみながらも、芳二もその辺りのことは気に留めてくれていたらしい。
――こういうときに芳二さんがいてくれて本当によかった。
これから喜多を含め三人をどう手助けしていったらみんなが笑顔になれるだろうか。
献杯を受けつつ考えるのは、芳二が言ってくれた言葉に込められた思いと、それを受けた自分が起こすべき行動とは何だろうかという、その二つだった。
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