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■第三話
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それから三週間――。
二ヵ月の長い夏休みもそろそろ折り返し地点かという頃、どんな顔をして会ったらいいかわからない張本人の喜多を介して緒川から連絡を受けた陽史は、何度か行ってすっかり道を覚えた緒川の住むマンションへと、手土産を携え足を運ばせていた。
蝉が盛んに鳴く昼間のうだるような暑さは、八月後半に入っても相変わらずだ。今年は例年以上に猛暑だ酷暑だと言われているが、本当にその通りだと思う。頭上からの白い太陽光とアスファルトの照り返しのダブルパンチで体中が溶けてしまいそうだ。
けれど陽史の足取りはすこぶる軽かった。だって手には、以前、緒川の部屋で見たのと同じような男の子向けのおもちゃの袋が握られている。最初は食べ物をと考え、八ヵ月の赤ちゃんは何が食べられ何がまだ早いのかを事前に調べたものの、やはり月齢に合ったものでもアレルギーや成長の度合いなどのことも考えた結果、おもちゃにしたのだ。
気に入ってくれるかどうかは別にしても、せっかくお招きいただいたのに手ぶらでは、ちょっと格好が悪い。この三週間、夜間ビルの警備のバイトをして得た給料だ。もともと何かプレゼントを持って行きたいと考えてもいたし、この前の弾丸帰省もあって、陽史の財布は押し潰した食パン状態だったのだ。週払いなのが本当にありがたかった。
――というわけで、夫婦仲はどうにか丸く収まったらしい。
妻の明日香と息子の大翔君は緒川が取った有休最終日にこちらに戻り、それからの約二週間は、二人で育児に取り組みながら空いた時間を使ってこれからのことを話し合ったという。まだ少しのわだかまりは残っているそうだが、明るいニュースに間違いない。
「ごめんな、こんな昼間から。予定とか大丈夫だった?」
「いえいえそんな。これといった予定もないですし、全然ですよ」
「そう。ならよかったよ。喜多君も就活中なのに申し訳なかったね」
「そんな。俺のことはどうだっていいんです。よかったです、二人が戻って」
「……そうだね、本当に二人のおかげだよ。これしか言えないけど、本当にありがとう」
玄関先で出迎えた緒川とそんなやり取りをしながら、「二人はこっちで待ってるんだ」と嬉しそうに案内する彼に続いて、陽史と喜多も廊下を進んでリビングに向かう。
喜多とはマンションの下で待ち合わせていた。喜多は、そうなんじゃないかとなんとなく予想した通り手ぶらではあったけれど。でも身なりだけはきちんとしていた。ちゃんとお招きいただいたことを自覚しているのだろう、今日は無精ひげも綺麗に剃られている。
そんなお出かけ仕様の喜多と廊下を進みながら、陽史は赤ちゃんがいる家はこんなにも胸の中がほっこりと和らぐものなんだということを初めて知る。この家からは隅々に至るまで空気の明るさ、温かな温度や匂いが感じられて、とても居心地がいい。
自分が生まれたときも、そうだったのだろうか。二十歳にもなって親に聞くのも気恥ずかしいものがあるが、夫妻に招かれた報告がてら聞いてみるのもいいかもしれない。
と同時に、再び〝家族〟になっていくことを決めた夫妻に、なんとも言えない感慨深さをひしひしと感じた。温かく優しさで包まれた空気には、それと同等か、それ以上の決意も感じられる。この子を育てていくのは自分たち二人だ――その決意がほっこりと心和らぐ空間をよりいっそう際立たせているようで、ちらと窺った喜多の顔にも、万感の思いに満ちたような表情が浮かび、なんなら目元に光るものがあるような気さえする。
やはり喜多も思うところは一緒らしい。
――よかった。本当によかった……。
それしか言葉が浮かばない。
でも、この空気を全身に浴びれば、そうとしか言いようがなくなるのも仕方がないことではないだろうか。その手助けができたことに、陽史は言いようのない安堵を感じる。
「改めて紹介するよ。妻の明日香と、息子の大翔」
「初めまして、明日香です。その節は夫婦共々、ご迷惑とご心配をおかけしまして」
リビングに通されると、その幸せな空気がいっそう濃く感じられた。
カーテンを開け放し、陽の光を取り込んだ明るい部屋の中央――そこに今までは話に聞くだけだった大翔君と、彼を愛おしそうに抱いた明日香さんの姿があり、入ってきた陽史と喜多とそれぞれ目を合わせると、彼女は手で大翔君の頭を支えつつ深々とお辞儀する。
「は、初めまして、俺――あ、いや僕は喜多秋成といいます。こっちが泰野陽史で、もうご存知かと思いますが、之弥さんとは偶然立ち飲み居酒屋で知り合いました。それをきっかけに、こうして男二人でお邪魔させていただくことになりまして……。すみません、ご家庭のことにズカズカと踏み込んでしまって。本当に、本当によかったです……」
その途端、喜多がガバリと腰を折った。その横で陽史も慌てて頭を下げるものの、喜多は相当感極まっているのだろう。陽史の紹介だけ、なんだかぞんざい極まりない。
でも構わない。それも喜多という男だ。
だって、そもそも喜多は、一人で食べるメシの寂しさを抱えた人たちに一時でも心満たされる時間を作ってやりたくて《派遣メシ友》なんていう突飛なことを始めたのだ。そこに疑問を呈したこともあったが、逆を言えばメシ友たちはバイト代を払ってでも誰かとメシを食いたいほど寂しさを持て余していたわけで、喜多や陽史にしても、そうしてメシをともにしなければ、彼らが抱えている根本的な寂しさを垣間見ることもなかった。
行動だけ見て取れば喜多は破天荒だが、なんだかんだと言っているうちに付き合いも半年近くになってくれば、熱く正義感に溢れた男だということがよくわかる。そんな喜多にぞんざいな紹介をされたところで、怒る気にもならないというものだ。
しかし打って変わって、夫妻が大いに慌てる。
「いえっ、どうか頭を上げてくださいっ。二人のおかげで今日の私たちがあるんです。主人からお二人のことを聞いたときは正直あまりいい気はしませんでしたけど。でも、他人の私たち家族のことをこんなにも思ってくれる人がいるんだって思ったら、この子のためにももう一度頑張らなきゃいけないなっていう気持ちに自然とさせてもらったんです」
「そうだよ、喜多君。泰野君も。君たちがいなかったら、騒がしくて目が回りそうなほど忙しくて、でもだからこそ一日一日が尊いものだってことを、こんなにも身に染みて実感できる毎日にはならなかった。今日があるのは君たちのおかげなんだよ」
だから、もう顔を上げて大翔を見てくれ。
困ったようにそう言うと、緒川は陽史と喜多の肩に手を添え、顔を上げるよう促した。
「あーう!」
すると大翔君が可愛らしい声を上げた。一斉にそちらを見ると、明日香さんの胸に抱かれながらぷにぷにとした小さな手を必死に緒川のほうに伸ばし、彼に抱っこをせがんでいた。「あーう」は〝パパ〟と呼んでいるのだろうか。とにもかくにも、大翔君の可愛らしい行動に場の空気が一気に和み、ぱっと花が咲いたようにカラフルに彩られていく。
「あはっ、はははっ」
みんなで笑ってしまいつつ、明日香さんの胸から緒川の胸へと移り満面の笑みを咲かせる大翔君に、陽史も喜多も、もう目尻が下がって下がって仕方がない。
マシュマロみたいに柔らかくミルクの甘い匂いがする頬を触らせてもらったり、手のひらに収まって十分に余りある小さな小さな手を握らせてもらったりしているうちにすっかり打ち解け、その後は明日香さんが振る舞ってくれた手料理に舌鼓を打つこととなった。
二ヵ月の長い夏休みもそろそろ折り返し地点かという頃、どんな顔をして会ったらいいかわからない張本人の喜多を介して緒川から連絡を受けた陽史は、何度か行ってすっかり道を覚えた緒川の住むマンションへと、手土産を携え足を運ばせていた。
蝉が盛んに鳴く昼間のうだるような暑さは、八月後半に入っても相変わらずだ。今年は例年以上に猛暑だ酷暑だと言われているが、本当にその通りだと思う。頭上からの白い太陽光とアスファルトの照り返しのダブルパンチで体中が溶けてしまいそうだ。
けれど陽史の足取りはすこぶる軽かった。だって手には、以前、緒川の部屋で見たのと同じような男の子向けのおもちゃの袋が握られている。最初は食べ物をと考え、八ヵ月の赤ちゃんは何が食べられ何がまだ早いのかを事前に調べたものの、やはり月齢に合ったものでもアレルギーや成長の度合いなどのことも考えた結果、おもちゃにしたのだ。
気に入ってくれるかどうかは別にしても、せっかくお招きいただいたのに手ぶらでは、ちょっと格好が悪い。この三週間、夜間ビルの警備のバイトをして得た給料だ。もともと何かプレゼントを持って行きたいと考えてもいたし、この前の弾丸帰省もあって、陽史の財布は押し潰した食パン状態だったのだ。週払いなのが本当にありがたかった。
――というわけで、夫婦仲はどうにか丸く収まったらしい。
妻の明日香と息子の大翔君は緒川が取った有休最終日にこちらに戻り、それからの約二週間は、二人で育児に取り組みながら空いた時間を使ってこれからのことを話し合ったという。まだ少しのわだかまりは残っているそうだが、明るいニュースに間違いない。
「ごめんな、こんな昼間から。予定とか大丈夫だった?」
「いえいえそんな。これといった予定もないですし、全然ですよ」
「そう。ならよかったよ。喜多君も就活中なのに申し訳なかったね」
「そんな。俺のことはどうだっていいんです。よかったです、二人が戻って」
「……そうだね、本当に二人のおかげだよ。これしか言えないけど、本当にありがとう」
玄関先で出迎えた緒川とそんなやり取りをしながら、「二人はこっちで待ってるんだ」と嬉しそうに案内する彼に続いて、陽史と喜多も廊下を進んでリビングに向かう。
喜多とはマンションの下で待ち合わせていた。喜多は、そうなんじゃないかとなんとなく予想した通り手ぶらではあったけれど。でも身なりだけはきちんとしていた。ちゃんとお招きいただいたことを自覚しているのだろう、今日は無精ひげも綺麗に剃られている。
そんなお出かけ仕様の喜多と廊下を進みながら、陽史は赤ちゃんがいる家はこんなにも胸の中がほっこりと和らぐものなんだということを初めて知る。この家からは隅々に至るまで空気の明るさ、温かな温度や匂いが感じられて、とても居心地がいい。
自分が生まれたときも、そうだったのだろうか。二十歳にもなって親に聞くのも気恥ずかしいものがあるが、夫妻に招かれた報告がてら聞いてみるのもいいかもしれない。
と同時に、再び〝家族〟になっていくことを決めた夫妻に、なんとも言えない感慨深さをひしひしと感じた。温かく優しさで包まれた空気には、それと同等か、それ以上の決意も感じられる。この子を育てていくのは自分たち二人だ――その決意がほっこりと心和らぐ空間をよりいっそう際立たせているようで、ちらと窺った喜多の顔にも、万感の思いに満ちたような表情が浮かび、なんなら目元に光るものがあるような気さえする。
やはり喜多も思うところは一緒らしい。
――よかった。本当によかった……。
それしか言葉が浮かばない。
でも、この空気を全身に浴びれば、そうとしか言いようがなくなるのも仕方がないことではないだろうか。その手助けができたことに、陽史は言いようのない安堵を感じる。
「改めて紹介するよ。妻の明日香と、息子の大翔」
「初めまして、明日香です。その節は夫婦共々、ご迷惑とご心配をおかけしまして」
リビングに通されると、その幸せな空気がいっそう濃く感じられた。
カーテンを開け放し、陽の光を取り込んだ明るい部屋の中央――そこに今までは話に聞くだけだった大翔君と、彼を愛おしそうに抱いた明日香さんの姿があり、入ってきた陽史と喜多とそれぞれ目を合わせると、彼女は手で大翔君の頭を支えつつ深々とお辞儀する。
「は、初めまして、俺――あ、いや僕は喜多秋成といいます。こっちが泰野陽史で、もうご存知かと思いますが、之弥さんとは偶然立ち飲み居酒屋で知り合いました。それをきっかけに、こうして男二人でお邪魔させていただくことになりまして……。すみません、ご家庭のことにズカズカと踏み込んでしまって。本当に、本当によかったです……」
その途端、喜多がガバリと腰を折った。その横で陽史も慌てて頭を下げるものの、喜多は相当感極まっているのだろう。陽史の紹介だけ、なんだかぞんざい極まりない。
でも構わない。それも喜多という男だ。
だって、そもそも喜多は、一人で食べるメシの寂しさを抱えた人たちに一時でも心満たされる時間を作ってやりたくて《派遣メシ友》なんていう突飛なことを始めたのだ。そこに疑問を呈したこともあったが、逆を言えばメシ友たちはバイト代を払ってでも誰かとメシを食いたいほど寂しさを持て余していたわけで、喜多や陽史にしても、そうしてメシをともにしなければ、彼らが抱えている根本的な寂しさを垣間見ることもなかった。
行動だけ見て取れば喜多は破天荒だが、なんだかんだと言っているうちに付き合いも半年近くになってくれば、熱く正義感に溢れた男だということがよくわかる。そんな喜多にぞんざいな紹介をされたところで、怒る気にもならないというものだ。
しかし打って変わって、夫妻が大いに慌てる。
「いえっ、どうか頭を上げてくださいっ。二人のおかげで今日の私たちがあるんです。主人からお二人のことを聞いたときは正直あまりいい気はしませんでしたけど。でも、他人の私たち家族のことをこんなにも思ってくれる人がいるんだって思ったら、この子のためにももう一度頑張らなきゃいけないなっていう気持ちに自然とさせてもらったんです」
「そうだよ、喜多君。泰野君も。君たちがいなかったら、騒がしくて目が回りそうなほど忙しくて、でもだからこそ一日一日が尊いものだってことを、こんなにも身に染みて実感できる毎日にはならなかった。今日があるのは君たちのおかげなんだよ」
だから、もう顔を上げて大翔を見てくれ。
困ったようにそう言うと、緒川は陽史と喜多の肩に手を添え、顔を上げるよう促した。
「あーう!」
すると大翔君が可愛らしい声を上げた。一斉にそちらを見ると、明日香さんの胸に抱かれながらぷにぷにとした小さな手を必死に緒川のほうに伸ばし、彼に抱っこをせがんでいた。「あーう」は〝パパ〟と呼んでいるのだろうか。とにもかくにも、大翔君の可愛らしい行動に場の空気が一気に和み、ぱっと花が咲いたようにカラフルに彩られていく。
「あはっ、はははっ」
みんなで笑ってしまいつつ、明日香さんの胸から緒川の胸へと移り満面の笑みを咲かせる大翔君に、陽史も喜多も、もう目尻が下がって下がって仕方がない。
マシュマロみたいに柔らかくミルクの甘い匂いがする頬を触らせてもらったり、手のひらに収まって十分に余りある小さな小さな手を握らせてもらったりしているうちにすっかり打ち解け、その後は明日香さんが振る舞ってくれた手料理に舌鼓を打つこととなった。
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