ゆうきと森のおじさん

平田 鳩

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ゆうきと森のおじさん

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   ゆうきと森のおじさん   平田鳩

 「三番線ホームに電車がまいります。黄色い線まで下がってお待ちください」
 朝の駅の混み合ったプラットフォームに響き渡るアナウンスに続いて、少しずつスピードを落としながら電車が入ってきます。たくさんの人の列に紛れるように並んでいたゆうきは、そのまま列の流れに身を任せて吸い込まれるように電車に乗りました。いっぱいお客さんを乗せた電車は重たそうにゆっくりとスピードを上げながら走り出します。扉の近くの吊り革につかまって立っているゆうきは列に並んでいる時からずっとうつむいたまま。前髪が目にかかって、顔はよく見えません。
「つぎはー、えいらくちょうーえいらくちょうー」
 車掌さんのアナウンスが聞こえてきます。ゆうきは一瞬びくっとしたように見えましたが、何事もなかったようにまたうつむいたまま電車に揺られていました。それは、中学校に入学して電車で通うようになってから毎日のように聞いている音たちでした。学校のある駅まではまだもう少しあります。駅から学校までは歩いて十分くらいです。同じように電車で通っている子たちがおそろいの制服を着て学校までの道をおしゃべりしながら歩いて行きます。ゆうきは学校への道を歩くときも、電車に乗っているときと同じようにうつむいたまま歩いていました。校門を過ぎて下駄箱で靴を履き替え、教室の自分の席に着くまで、ゆうきは一度も顔を上げませんでした。そうしていないと、「あの音」が余計に耳に入ってきてしまいそうだったからです。四月に入学したばかりの頃、ゆうきは今のようにうつむいてばかりではありませんでした。初めて一人で乗る電車、自動改札機、まだなじみのない学校のある駅。小学校のときとは違うことばかりで、いつもきょろきょろしながら歩いていました。中学生になって三か月が経とうとする頃、「それ」は少しずつゆうきの周りを変えていったのです。
 いちばん最初に気がついたのは、英語の授業のときでした。ゆうきはあまり英語が得意ではありませんでした。CDの英文を聞き取るリスニングが特に苦手で、いつも何と言っているのかわからなくなります。この日もリスニングの時間があり、いつものように「よくわかんないや」と思いながら半分くらい適当にノートを埋めていました。リスニングの時間のあとは英文を読む時間になり、先生に当てられた子が立ち上がって教科書の英文を読み始めました。最初、ゆうきは英文を読んでいる子は風邪気味なのかな、と思いました。なんだか声がくぐもったようで、何と言っているかよく聞き取れないのです。普段なら大きな声で読んでいない子には「もっと大きな声で読みましょうね」と先生が注意をするのですが、先生は何も言いませんでした。ゆうきはちょっとだけ、「おかしいな」と思いましたが、「今日は先生が甘いだけかもしれない」と思ってそのときはそれほど深く考えないまま英語の授業が終わり、休み時間になりました。休み時間はいつも、クラスのみんながめいめい自由に話したり笑ったりするので、とてもにぎやかになります。しかし、その日の休み時間はいつもと違いました。いつもうるさいくらいに聞こえるクラスメイトたちの話し声が、さっきの英語の授業で英文を読んだ子の声のようにくぐもって聞こえるのです。周りを見回すといつもと変わりなく過ごしているはずのクラスメイトたちの話し声が、まるで水の中に潜ったときのようにこぽこぽとしか聞こえません。お笑い芸人のものまねをする子の声も、肩を寄せ合ってひそひそ話をしながらくすくす笑う子たちの声も、ゆうきの耳には水の中の音のようにしか聞こえませんでした。休み時間が終わり、次の授業の先生の「席着けー」という声が聞こえ、はっとして顔を上げました。
(先生の声は聞こえるんだ)

 その日一日、どの授業やホームルームでも先生の声だけが聞こえ、クラスメイトの声はこぽこぽとくぐもったままでした。学校からの帰り道、ほかの学年の先輩たちの話し声は聞こえるか、電車のアナウンスは聞こえるか、ゆうきは耳に入る音をひとつひとつ確かめるようにしながら家まで歩きました。
「おかえり、ゆうき。お風呂湧いているよ」
「ただいま。着替えてくる」
 台所でごはんの支度をしながら玄関のほうを覗いて声をかけるお母さんに短く返事をして、自分の部屋に入ると扉をぱたんと閉めました。今日学校であったことがずっと頭の中をぐるぐる回っていました。おかしな音に聞こえるのはクラスメイトの声だけで、先生の声や先輩たち、駅のアナウンスも電車に乗っているほかのお客さんたちの声もちゃんと聞こえました。しばらく考えていましたが、今日は自分の気のせいだったのかもしれない、明日は聞こえるかも。そう思いなおして制服を着替えてお風呂の準備をしました。
(さっき、お母さんの声は普通に聞こえたんだし)
そう自分に言い聞かせるようにしながら、お風呂場の天井をぼんやり眺めているとお父さんが帰ってくる音が聞こえてきました。いつもならちょっとうるさいと思うお父さんのたてる物音が今日は不思議とゆうきを安心させました。
(大丈夫。聞こえている)
重ねておまじないをかけるように軽く自分の胸をたたくと、今日のできごとも洗い流すようにいつもより念入りに髪や体を洗いました。
 その日の夕ごはんは、ゆうきの好きなバターのオムライスでした。ふわふわの黄色い玉子を少しずつスプーンで開けるとバターの香りがほわりとあふれるバターライスが顔を覗かせ、ライスに混ざった濃い緑色のパセリが「冷めないうちに早く食べて」と急かすようにこちらを見ていました。温かいバターと玉子の香りは昼間の不可思議なできごとを少しだけ忘れさせてくれました。夕食を食べたあとは苦手な英語の宿題が待っていましたが、どうにかこうにかやっつけることができました。明日は普通になりますように。ベッドに入って部屋の天井を見上げながらそう祈るように目を閉じてとろりと眠りに着きました。
 次の日。だいたいいつも通りの時間に起きて(中学に入ってから毎朝お母さんに起こされなくても起きられるようになりました)、スクランブルエッグとトーストの朝ごはんを食べて家を出て、電車に乗って学校の自分の教室へ行くまで、いつもと同じ朝でした。教室の扉を開けてすぐ、ゆうきは扉の向こうが「普通」ではないことに気がつきました。昨日の英語の授業のときから感じていたおかしな感覚が、今朝になってもまだ続いていたのです。まだ朝のホームルームが始まる前の自由時間、部活動の朝練習を終えてうっすら汗をかきながら走って教室に駆け込んでくる子。ベランダに通じるガラス戸の辺りで輪を作って話している子たち。昨日までは「おはよう」「また予鈴ぎりぎりかよ」「うるせ」と、いくつもの言葉が飛び交っていて、それは当たり前の朝の音たちでした。ですが今、ゆうきの耳に入ってくるのは昨日聞こえた「こぽこぽ」という音だけでした。水泳の授業のあと、耳に水が入ってしまったときのような、耳の中に一枚薄い膜が張り付いたようないやな感じです。まるで、教室の中で溺れているようでした。自分のロッカーにかばんを置くことも忘れて立ち尽くしたままクラスメイトたちの声を何とか聞き取ろうと必死で周りを見回していると、がらがらと扉の開く音がして担任の先生が入ってきました。
「ホームルーム始めるぞー。席着けー」
 それは、入学してから今日まで毎日同じ調子で繰り返される先生の声でした。ちょっとだるそうな先生の話し方はあまり好きではありませんでしたが、この時ばかりはゆうきを安心させました。昨日と同じで、先生の声はちゃんと聞こえます。しかし、クラスメイトたちの声がきこえないのもまた、昨日と同じでした。どうしてクラスの子の声だけ聞こえないんだろう。ホームルームの間中ずっとこの疑問がゆうきの頭の中でぐるぐると回り続けていました。結局その日一日中、授業中も休み時間も給食の時間も、放課後のホームルームが終わるまでずっと、ゆうきの耳に入るクラスメイトたちの声はこぽこぽとくぐもったままでした。学校が終わるとすぐさま駅に向かい、逃げるようにして家に帰りました。家に帰ればお父さんやお母さんの声はちゃんと聞こえます。会話もできます。でもゆうきは学校で起こっていること、すなわちクラスメイトたちの声が聞こえなくなったことをお父さんやお母さんには言っていませんでした。
 
 そんな日々が一週間続き、ゆうきは次第に朝起きられなくなりました。起きて学校に行ったらまた一日中あの「こぽこぽ」という音の中で過ごさなければならないからです。目覚まし時計が鳴って起きる時間をとうに過ぎてもゆうきは布団から出られません。掛け布団をかぶって亀のように丸くなっていると、階段の下からお母さんの声が聞こえます。
「ゆうきー、遅れるよー」
 ゆうきはお母さんの声にも耳をふさぐように、さらに布団を深くかぶりなおしました。そのうち、何度声をかけても起きる気配のないゆうきを見かねたお母さんが階段を上って部屋のドアを開けました。
「どこか具合でも悪いの?」
 ずる休みをするつもりはありませんでしたが、ゆうきは学校へ行くことが怖くなっていました。今までずっと言えずにいたけれど、さぼっていると思われて怒られるくらいなら思いきって言おうと思いました。
「聞こえ、ないんだ」
 のどの奥からしぼり出すように出たその一言は、ひどくかすれてとぎれとぎれでした。ゆうきが床に脱ぎ散らかしたままの体操服をたたみながら聞いていたお母さんはよく聞き取れなかったらしく、「ごめん、なに?」と聞き返してきました。布団にくるまったままもごもごと喋るゆうきの声はなかなか届きません。
「クラスの子たちの声、聞こえないの。何て話しているのかわかんない」
 今度はもう少し大きな声で言いました。お母さんは体操服をたたむ手を止めて、ゆうきがもぐりこんでこんもりした布団の山に向き直りました。
「聞こえないって、ゆうき、どういうことなの?耳が、聞こえないってこと?」
「ううん。耳は聞こえている。先生の声も、ほかの学年の先輩たちの声も聞こえるし、声以外の音もちゃんと聞こえる」
「今、お母さんの声、聞こえている?」
「うん」
 それから、ゆうきはお母さんに、今まで起きたことをはじめからそっくり全部話しました。英語の授業中、急にクラスメイトたちの話し声がこぽこぽとくぐもって聞こえるようになったこと、先生の声は今まで通り聞こえること。どうしたらいいかわからなくて、今まで誰にも言えなかったこと。お母さんは、驚いた顔をしつつもゆうきの話を最後まで聞いていました。全部話し終えると、お母さんは少しの間黙っていましたが、言葉を探すようにゆっくりと話し始めました。
「ゆうき。お母さんから、先生に話そうか」
「先生に、言うの?何て言うの?耳が聞こえません、て言うの?」
 学校のみんなに知られてしまうのはいやでした。担任の先生ともまだなじめていないし、信じてもらえるかもわかりません。
「ちゃんと、わかってもらえるようにお母さんから話すから。黙っていたら、ずっとこのままだよ」
「そうだけど」
 先生には知られたくないけれど、この先どうしたらいいかも自分だけではわからなくて、なんとなく気持ちのふんぎりがつかないままでしたがお母さんに話してもらうことにしました。お母さんに話すことができて、気のせいだと片付けられてしまわなかったことは少しほっとしましたが、いよいよお母さんが先生に電話をかけるというときになると、なんだか胸の真ん中あたりがもやもやとしてきて、リビングで電話をかけているお母さんの声が聞こえないように部屋のドアをしっかりと閉めて頭から布団をかぶり、すき間ができないように内側から布団の端を握りしめていました。十五分、三十分くらい経ったのでしょうか。再びお母さんが部屋にやってきて言いました。
「先生にお話したよ」
「何て言っていた?」
「入学して慣れてきた頃で、疲れが出たのかもしれませんねって」
「それだけ?ほかには?」
「今日は無理しなくていいけど、来られそうだったら午後からでもおいでって。どうする?」
「ちょっと考える」
「わかった。朝ごはん下にあるから、お腹空いたら食べなさいね」
 そう言うと、お母さんは部屋を出て行きました。自分一人だけになった静かな部屋でベッドに横になったまま、何度か寝返りを打ちながら考えていました。お母さんは先生に何と話したのか詳しくは言わなかったけれど、本当は何て言って話したんだろう。ほかの音は聞こえるのにクラスの子の声だけ変に聞こえるなんて、そのまま話して信じてもらえるのかな。先生は「疲れが出たんだろう」って言っていたらしいけど、そんな、熱が出たときみたいな返事だけだったのかな。
 お母さんが先生に話すと言ったとき、やめてほしいと止めることもせず、先生との電話を隣で聞くこともしなかったゆうきでしたが、今になっていろいろなことが気になりだしました。結局その日は途中から登校してクラスみんなの注目を集めてしまうのがいやで学校を休んでしまいました。午前十時を過ぎたくらいになってキッチンに降りてお母さんが用意してくれていた朝ごはんを食べましたが、焼いてからしばらく経ったスクランブルエッグはとろとろの半熟ではなくなっていて、冷めて固くなったトーストはバターを塗っても溶けてはくれず、飲み込むのにずいぶん苦労しました。ゆうきが学校を欠席したことをお母さんが怒ったり、午後からでも行くようにと急き立てることはありませんでしたが、その日の夜遅く、ゆうきが自分の部屋に戻ったあと、お父さんとお母さんが何やら話し込む声が階段の下のリビングのほうからぼそぼそと聞こえてきて、「お父さんにも話しているんだ」とわかりました。
 お母さんと、担任の先生、そしてお父さん。今まで誰にも言わずにいた聞こえない声のことを一日のうちに三人もの大人に知られてしまったことで、まるで自分の立っている足元がぬかるんだ水たまりのようにぐちゃぐちゃと頼りなく濁ったもののように思えてなりませんでした。明日学校へ行ったら、先生に何か言われるかな。クラスの子は知ってしまったかな。昨日までと学校の世界が変わってしまうことを怖いと思いましたが、欠席を続けてクラスに居づらくなることも同じくらい怖いことでした。明日は学校に行こう。水たまりの泥をはらうように強く思いながら、毛布をぎゅっと握りしめて目を閉じました。
 次の日の朝、ゆうきは重たい体をどうにか動かして学校に行きました。相変わらずクラスメイトたちの話し声は聞こえません。一日休んだくらいでは何も変わらないのだとがっかりしながら朝のホームルームを終えて一時間目の授業の準備をしていると、教壇から降りて教室を出るところだった担任の先生に声をかけられました。昨日欠席したこと、それからお母さんが電話で話したことについて聞かれるのだとすぐに思いました。
「体調どうだ」
「はあ」
 別に体の具合が悪くて休んだわけではなかったのでばつが悪くなり、はっきりとしない返事になってしまいましたが、口ごもるゆうきをよそに先生はさほど気にもしていない様子で言葉を続けました。
「まあ一学期ももう半分くらい過ぎたから疲れも出る頃だろう。無理はしないほうがいいけど期末テストも近いからあんまり休み過ぎるとついていけなくなるぞ」
「はい」
「それからなあ」
 なんだか話が長くなりそうだ、と目線を床に投げ、右足に預けていた足の重心を左に移して立ち直した瞬間、先生が話すのをやめました。というより、話すのをやめたように聞こえました。それまで唯一聞き取れていた先生の声がふっと止み、クラスメイトたちの水の中で聞くようなくぐもった音しか聞こえなくなったからです。聞く姿勢が良くないと気を悪くしたのかもしれないと思ったゆうきは顔を上げて先生の顔を見て目を見開きました。先生は、話すのをやめてなどいませんでした。おそらく、一学期の期末テストの範囲の広さについてとうとうと話し続けていたのでしょうが、ゆうきにはテスト範囲がどれほど広いのかを聞き取ることはできませんでした。入学したときからいつも調子の変わらなかった先生の低い声は、クラスメイトたちのそれよりも低いごぼごぼとした沼の底から響いてくるような音に変わってしまってゆうきの耳には届きませんでした。
 あのあと、どうやって学校で一日を過ごして家に帰ったのか、よく覚えていません。覚えているのは、目の前の先生の顔が、放っておいたアイスクリームのようにでろりと溶けていくような?実際にはもちろん溶けてはいないのですが?気味の悪い感覚でした。帰りの電車を待っている間の駅のホームもまるで溶けかけの板チョコのように心もとなく足元から傾いていきそうでした。なぜ心が不安なときに限って何でもお菓子に例えてしまうのか、自分でもよくわかりませんでしたが、子どもの頃からとくに食べるのが遅かったゆうきはいつも、アイスクリームやチョコレートを買ってもらっても食べている間に溶け出してしまうことが多く、その頃の追い立てられるような気持ちを思い出すからかもしれません。
 先生の声が聞こえなくなってから数日後、あと一週間で一学期の終業式、という頃でしたが、ゆうきは学校に行けなくなりました。
 
 七月が終わりに近づく頃、ゆうきのお父さんとお母さんは夕ごはんのあとのダイニングテーブルで相談をしていました。ゆうきのことについてです。
「学校はま、いいよ。一足早く夏休みをもらったと思えば。期末テストの結果も悪くなかったみたいだし」
「先生の話だと、授業中もおかしな様子はなかったって」
「同じ小学校からの子もいないし、いろいろ緊張していたんだろう」
 お父さんとお母さんは話し合いの結果、夏休みの間はゆっくり休ませよう、という考えに落ち着きました。夫婦の話はそこで終わるかと思われたのですが、お茶を淹れようと立ち上がりかけたお母さんの背中に、お父さんが声をかけました。
「昨日、あいつに電話してみた」
「あいつって。はるきさん?」
「ああ」
「帰ってきているの?ちっとも知らなかった」
「僕もだよ。あいつの携帯電話、繋がることのほうが珍しいから」
「それで、何を話したの?」
「ゆうきのこと」
 お母さんは一瞬言葉に詰まりました。ゆうきが生まれてから、いえ、お腹にゆうきがいるとわかったその日から、ゆうきに関することでお父さんがお母さんに黙って誰かに相談したりしたことは一度もなかったからです。お父さんもそのことを申し訳なく思っていたらしく、決まりが悪そうにしていました。
「黙って話して、ごめん。まさか、こんなに早くくるとは思わなくて」
「くる、って何のこと?」
「ママは、ゆうきから一番最初に聞いただろう。声のこと」
「それは、うん、聞いたわ」
「クラスの子の声が聞こえないって」
「最後には先生の声も」
「僕は直接ゆうきから聞いてはいない。ママから詳しいことは聞いていたし、初めて経験したときとママに説明したとき、いや、ママに話す前に自分で何度も思い返しただろう。何度も同じことを別々の人間に説明させて必要以上に記憶を繰り返させる必要はないと思ったからだ。その代わりママには一人で受け止めさせてしまった。ごめん」
「それは今はいいわよ」
 お母さんは実をいうと、自分で直接ゆうきに事情を聞こうとはしないお父さんにちょっともやもやしていました。この問題は母親の自分だけで背負うには大きすぎる。担任の先生も頼りにならないどころか「聞こえない側」の人になってしまった今、相談相手とはいえませんでしたから、お母さん自身、誰かに聞いてもらいたくてもてあましていました。そんな中で、父親としてゆうきの話も聞かずに勝手に電話で話してしまうなんて、と少々、いやかなり、お母さんのもやもやは大きくなっていましたから、先ほどのように少しつっけんどんな返事になってしまったのも無理はなかったのです。
 付け加えるように「ごめん」と謝ったお父さんはご機嫌を伺うように前髪のすき間からちらちらとお母さんのほうを見ていましたが、とりあえずお母さんが話を聞いてくれそうな様子だとわかると、ほっとした顔も隠さずに話の続きを始めようとました。これまでのやりとりでも薄々わかるように、ゆうきのお父さんは自分が良かれと思ったことはわりと一直線に突っ走ってしまう傾向のある人でした。お母さんは結婚する前からこの性格に苦労もしてきました。結果としてお父さんが突っ走った先に悪いことばかりでもなかったのでこれまでなんとか一緒に走ってきましたが、ことにゆうきのことに関してだけは別問題でした。人ひとりの人生がかかっているの、取り返しはつかないのよ、と何度も説明し、「ゆうきに関することは勝手に決めない。ちゃんと相談する」と約束してこれまでゆうきを育ててきたのです。この約束が十三年目にして破られたことに、お母さんはまだ納得がいっていませんでした。が、目の前で話の続きをしたくてうずうずしているお父さんをこれ以上黙らせておくことも時間の問題だと諦めて「それで?」と言葉を次ぎました。
 話をする許可をもらったお父さんは「おあずけ」のあとの犬のようにぱあっと顔を輝かせると、堰を切ったように話しだしました。
「ママから事情を聞いた時、実はわかっていたんだ。ゆうきに何が起こったのか。あ、ごめん、ごめんなさい。ちゃんと、それについても今から説明します。わかっていたのになんで黙っていたのかって、ママの言うことが正しいです。ごめんなさい。わかっていた、というよりは、初めてじゃなかったんだ。友達の声が聞こえないっていう話が。さっき、はるきに電話で話したって言っただろ?あいつがそうだったんだよ」
 
 はるきーお父さんの弟ーには結婚式のときに一度顔を合わせたきり、お母さんは会ったことはありませんでした。その結婚式でさえも挙式の時間ぎりぎりにやってきたかと思えば披露宴が始まる頃には花束とカードを残していつの間にか姿を消してしまっていて、「昔からああいうやつで、ごめんな」と隣で申し訳なさそうに苦笑いをする白いタキシード姿のお父さんの姿ばかり目に焼き付いていて、弟のはるきのほうはおぼろげにしか覚えていませんでした。それ以降も気になっては何度かお父さんに弟のことを尋ねてみましたが、演奏旅行とやらで世界中を飛び回っていてほとんど国内にはいないことや、子供の頃から一人であちこち行ってしまうような男の子だった、というような話しか出てきませんでしたから、お母さんにとって義理の弟にあたるはるきが、今のゆうきと同じに友達の声が聞こえないことがあったなんて今の今までちっとも知りませんでした。
「そんな大事なこと、どうして今まで話してくれなかったの」
 お母さんはお父さんを責めるつもりはありませんでしたが、今まで夫婦として、家族として長い年月を一緒に過ごしてきた仲なのに、と寂しく思う気持ちが言葉を強くしてしまっていました。お父さんはそんなお母さんの気持ちを不器用ながらもどうにか受け止めようと一生懸命に言葉を選びながら話を続けました。
「今まで黙っていて、ごめん。本当に。それに、これから話すことはママをもっとびっくりさせてしまうかもしれない。あとでいくらでも僕を怒ってもらってかまわないから、聞いてもらえるかな。ゆうきのためなんだ」
 ゆうきのため。この言葉は、お父さんとお母さんの合言葉でした。お互いに気持ちが同じ方向に向かずにすれ違うことがあっても、ゆうきのためには何がいちばんなのか。いつもそのことを真ん中に置いて考えてきました。今、お母さんの中に納得のいかないことはたくさんありましたが、まずはゆうきのために最後まで話を聞くことにしました。
「わかった。聞く」
 お母さんはご機嫌がななめになればなるほど、言葉が短くなるくせがありましたから、お父さんはこの二つの言葉だけで今のお母さんの心の状態が手に取るようにわかりましたが、なんとか聞いてくれそうだとわかると話し始めました。
「ええと、僕も誰かに話すのは初めてっていうか久しぶりだから何て言えばいいか・・・うちの家族、厳密にははるきと僕らのじいちゃんだけど、その、動物と話せるんだ。話せるっていうか、言葉がわかる」
 ここまでの内容だけでお母さんをびっくりさせるには充分でした。聞きたいことも言いたいこともたくさんありましたが、びっくりするたびに言葉をはさんでいても話が先に進まないと半ば諦めたように、相変わらず前髪のすき間からこちらを伺い見るお父さんに無言で話の先を促しました。
「はるきが『そう』だってはっきりわかったのは、高校生のときだ。今のゆうきより少し年上。僕とあいつはひとつ違いだから、僕が高校二年で、あいつは高校に入ったばかりだった。年は違うけど時期は近い。『クラスの連中が何言ってるかわかんねえ』ってあいつが言ったのもちょうど七月が半分くらい過ぎた頃だった。中学まで僕とはるきは毎日一緒に通っていたから、高校生になって初めて兄弟で学校が分かれたんだ」
 お父さんは話しながら、時折懐かしそうに目を細めていました。そのまなざしは、少し寂しそうな、何かを悔やんでいるようにも見えました。いくつになっても子犬のようにむじゃきなお父さんがそんな顔をするのはとても珍しいことで、お母さんは話を聞きながらもお父さんの悲しそうな寂しそうな目がひどく心に残りました。
「はるきは昔から自由すぎるっていうか、まああんな調子のやつだったから、中学までずっと僕がついていてやらなきゃ、って思っていた。だから高校で学校が分かれたときも本当はちょっと心配だったんだ。同じ高校を受験しないか、って勧めたこともあったんだけど、『ガキじゃねえんだから』って断られたよ。今思うと過保護な兄貴だよね」
「仲良かったのね」
「うん。小さい頃はおもちゃを取り合ってけんかもしたけど、まあまあ仲の良いほうだと思う。ただ子どもの頃からはるきは突拍子もないことばかりするやつで、よく担任の先生から母さんが呼び出されていたのを覚えているよ。『なつきは一度も呼び出されたことないのに』ってよく母さんがこぼしていた」
 「なつき」というのはお父さんの名前です。「夏に生まれたからなつき、弟は春生まれだからはるき。単純だろ」とお父さんはちょっぴり茶化すように自分たち兄弟の名前の由来を話しましたが、生まれた日の季節をそのままきれいな結晶にしたみたいでとても素敵だとお母さんは思いました。のちに自分たちに子どもが生まれた時も、そっくり同じ名づけ方というわけではありませんが、夕暮れどきに生まれたので「ゆうき」と名づけたのです。
「はるきは問題もよく起こしていたけど、友達も多くて人気もあった。僕とは別の高校でもすぐ友達ができたみたいで、よく家にも連れてきて一緒にゲームとかしていたんだ。『兄ちゃんもやろうぜ』って言われて僕もよくはるきの友達とは遊んでいたんだけど、ある日を境にはるきが友達を家に連れてこなくなったんだ」
 それまで、自分や弟の高校時代を懐かしそうに振り返っていたお父さんの表情が急にけわしくなりました。ぴかぴかに晴れていた夏の青空が急にねずみ色の雨雲で覆われたように、あっという間に暗い面持ちに。お母さんはそれまで黙って聞いていましたが、いよいよお父さんの気持ちが心配になり、テーブルの上で固く組まれたお父さんの手に自分の手を重ねて尋ねました。
「ね、大丈夫?何も今日全部話さなくても」
 お父さんは重たい雨雲をはらいのけるようにぱっと前髪を振って言いました。
「大丈夫だよ。いつかはママに聞いてもらいたいと思っていたし、ゆうきのためにもこれは話しておかないといけないんだ。それにはるきのことは今はもう解決しているから」
 それならいいけど、とお母さんは心の中で気にしながらもお父さんの話を黙って聞き続けました。ときには話したくないことでも、ずっと心の中にしまっているより全部言葉にしてしまったほうがすっきりすることもあると知っていたからです。
「あの日はちょうど僕の高校の体育祭の日で、サッカーでぼろ負けしてすごく悔しかったから覚えているんだけど、最後の五分で点を入れられて・・・。ああ、ごめん。今関係ないよね。珍しくはるきが僕の部屋に来たんだ。小学生の頃はよくゲームとか漫画とか借りに勝手に入ってきていたのに、中学生になってからほとんど部屋に来ることなんてなかったからちょっと意外というか、びっくりした。でも思い返すと、あいつがゲームと漫画以外の目的で僕の部屋に来るときはたいてい何か悩んでいるときなんだ。そのときも部屋のドアにもたれてそっぽ向いたまま黙って立っているから、『どうしたんだよ』って聞いたんだ。そしたら」
 お父さんの言葉を最後まで聞かなくても、お母さんにはなんとなくわかりました。そのときの兄弟ふたりの部屋でのやりとりの様子は、つい最近お母さんとゆうきの間にあったものとあまりにも似ていたからです。
 お父さんの言葉は少し震えているようにも聞こえましたが、ここから先の「いちばん大事なこと」を言葉にしなければならないという決意がお母さんにも伝わってきました。
「ここから先は、だいたいさっき話した通りなんだけど、あいつが僕に言ったんだ」
 
 クラスの連中が何言ってるかわかんねえ
 
 それは一見、あの朝布団にくるまったままのゆうきから出たかすれ声の不安げな言葉とは似ても似つかないものに思えました。お父さんの話からも伝わるように、はるきという名の青年はきっと普段はぶっきらぼうな言葉づかいの、どこにでもいるような元気の良い男子高校生で、時には友達と意見がぶつかって相手の気持ちが理解できないこともあったでしょう。それまでずっと一緒に育ってきた兄弟でなかったら、そのサインは見過ごされていたかもしれません。
「最初は友達とけんかでもしたのかと思って聞いていたんだけど、どうも様子が違うんだ。家に遊びに来るような仲の良い子たちだけの話じゃないらしいってことが、だんだんわかってきた。そう、だいたいわかるだろ。男子も女子も、クラス全員の声が、あいつには聞こえなくなっていた。僕は最初、クラスでいじめられているんじゃないかと思った。無視されているんじゃないか、って。でも小さい頃から自分からトラブルの真ん中に突っ込んでいくようなやつだったし、けんかになったときは毎回自力で解決していた。だからたぶん、はるきならたとえ無視されるようなことがあってもむしろ自分から相手に無視する理由を問い正すと思った。あいつはそういうやつなんだ」
 なんかいろいろ長くなっちゃったけど、と肩をすくめてお父さんはそこから話をまとめに入りました。それまでお父さんの沈んだ表情が気がかりだったお母さんは急にさっぱりした調子でまるで仕事の連絡をするかのようにさくさくと話し出したお父さんを目の前になんだか拍子抜けしました。さっきまでどんよりしていたのは何だったのかしら。
「はるきもやっぱり、ゆうきと同じように一学期の途中で学校に行かなくなった。そのあと、夏休みの間中家に帰ってこなかった。あっ、ちがうちがう。家出じゃないから。大丈夫大丈夫。ちゃんと帰ってきたよ。二学期の始業式の前の日だったけど・・・。じいちゃんの家に行っていたんだ。さっきちょっと話したけど、僕らのじいちゃん、ゆうきにとってはひいじいちゃんか。はるきやゆうきと同じ体験をしているんだ。昔から何か感じていたのか、はるきは特にじいちゃんになついていたから、あの年の夏休みもずっとじいちゃんの家に泊まっていた。僕はその年の夏は夏期講習とかいろいろ忙しくてじいちゃんの家に行けなかったから、向こうの家であいつがどんなふうに過ごしたのか知らないんだけど、あいつにしては珍しく手紙をくれたんだ」
 たぶんこれを読んだほうが早いと思う、とお父さんが一通の手紙をお母さんに差し出しました。昔は白かったと思われる封筒は端のほうが黄ばんでいて、高校生だった兄弟が兄の部屋で短い会話を交わした夏から長い時間が過ぎていることがわかりました。そこには、十六歳のはるきの、今にも便せんからはみ出しそうな勢いの良い文字が並んでいました。読んでもいいの、と遠慮がちに尋ねるお母さんに、もちろん、と頷きながらお父さんが渡したはるきからの手紙には信じられないようなことが書いてありました。
 
 ~はるきの手紙~
 なつき、元気か。俺はばっちり元気だ。毎日森に行っている。じいさんはすごい。知っていたか?あのじいさん動物と話せるんだぜ。なんで今まで黙っていたんだ、って聞いたら「時が来るまでは」とかなんとか気取った返事しやがった。まあいい。俺、夏休み前に話したことがあっただろ。クラスの連中の声が聞こえないって。厳密には聞こえるんだけど何言ってるかわかんねえんだよ。センセーも同じだ。最初は聞こえていたけどしばらくしたらやっぱり何言ってるかわかんなくなった。そのことをじいさんにも話したんだ。そうしたら何て言ったと思う?「おまえもか、はるき」だと。最初マジでふざけてんのかと思ったぜ。「ローマ人かよ!」って突っ込みそうになった。世界史で習ったばっかだったからな。でも違った。じいさん大真面目な顔して言ったんだ。俺とじいさんはおんなじだ、って。じきに俺もじいさんみたいになるだろう、ってさ。意味がわからなかったけど、じいさんはただ、「森に行けばわかる」って言ったんだ。だから俺は毎日森に行くことにした。小学生の頃はよく森の中を歩いたよな。あの頃よりずいぶん大きくなっている。古くて倒れた木もある。その木からまた新しい芽が育っているんだ。生物の授業で習ったことは本当だったんだな。
 今俺はじいさんの家から少し森に入ったところにある小屋みたいなところにひとりで住んでいる。ちゃんと鍵もかかるししょっちゅう猟友会のおっちゃんたちがうるさいくらいに覗きに来るから心配はいらない、って母ちゃんに言っておいてくれ。というか、もう今の俺には鍵とか銃とか、そんなものはいらなくなった。ここまで書けばだいたいわかるか。幼稚園の頃読んだ絵本の中で金太郎がくまと相撲取っていただろ。あれと同じだ、たぶん。俺とじいさんは動物と話せる。クラスの連中やセンセーの言葉が聞き取れなくなったのはその前兆らしい。これはずっと続くものではないらしく、その「動物と話せる」能力とやらが自分の中で落ち着いたらまた人間とも普通に話せるようになるみたいだ。「個人差はある」ってじいさんは言っていたけどな。とにかくいっぺんに情報をくれないじいさんだ。俺は待ちきれないから自分で調べるために森の小屋に住むことにしたんだ。
 長く書きすぎた。二学期までには帰る。じゃあな。
追伸 彼女できたら紹介しろよな。

 前置きが長いわりにいちばん大事なところをさくっと済ませてしまうところが、この兄弟はそっくりだわ、と、手紙を読み終えたお母さんは思いました。お母さんが便せんを封筒にしまい終えるのを見届けたお父さんは待ちかねたように口を開きました。
「帰ってきたはるきは元のはるきだった、というかそれ以上だったかな。どこにもかげりがない、僕が昔から知っているあいつになって森から帰ってきた。あの日、僕の部屋に相談しにきたあいつとは別人みたいに」
「元気になって帰ってきたのね」
 早く話の続きを話したくてまたもうずうずしているお父さんから言葉を引き継いだお母さんは「あなたの弟が元気になったのはいいけれど今は私たちの子ども、ゆうきの問題なのよ」と無言で話の本題を戻しました。
「それで、なんだけど」
お母さんの無言の軌道修正のレールに飛び乗ったお父さんは「いいアイデアがあるよ」と言わんばかりの調子で打ち明けました。今、二階の自分の部屋でやっと眠りについたばかりのゆうきは知る由もない、すぐそこにある未来のことを。
「はるきに話したら『俺にまかせろ』って」
「まさかとは思うけど、何を?」
「ゆうきのこと。夏の間面倒見るって」
「パパ・・・」
「あれ、よくなかった?」
 お母さんは深い深いため息をつきました。この人は軌道修正した先にさえもまっすぐに突っ走る人だったのだ、と今さらながらに思い出しながら。

 当の本人が知らない間に、夏休みの予定がすっかり決まってしまっていました。お父さんとお母さんが長い話し合いをした次の日の朝、いつも以上に明るいお父さんと、いつも以上にお父さんにあきれ気味なお母さんから、この夏の予定を聞かされたときは思わず「えーっ」と声をあげてしまいました。
「だってひとりでなんて」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと駅まで迎えに来てくれるから」
「でも会ったことないし。その、パパの弟ってひとに」
「ゆうきー、おじさん、だぞ。はるきおじさん。たしかに会うのは初めてだけど、毎年年賀状でゆうきの写真を送っているから」
「そういう問題じゃないと思う」
ママからも何とか言ってよ、とお母さんに助けを求めましたが、お母さんは心配そうにしながらも「ひとりで不安だろうけど、きっといいこともあるから」とよくわからない理由でゆうきの背中を押しました。「いいことって何・・・」とつぶやきながらも、ゆうきに残された選択肢はもはやひとつしかありません。

 夏の間、パパの弟、はるきおじさんの別荘で過ごす。

 去年までの夏休みなら、お父さんとお母さんと一緒にお父さんの田舎のおばあちゃんのところに遊びに行くのが普通でした。お父さんの田舎はゆうきが住んでいる街よりもうんと北にあって、飛行機に乗って行きます。いつもならお父さんとお母さんの間にはさまれた座席に座るので飛行機がこわいと思ったこともありませんでしたが。
「別荘っていってもおばあちゃんの家からちょっと行ったところだし、時々おばあちゃんも様子見に来るって言ってくれているから」
「それならいつもみたいにおばあちゃんのおうちでよくない?」
 もっともな言い分です。行き先はいつもと同じなのに、泊まる場所と一緒に過ごす相手がいつもと違う理由。その本当の理由を今のゆうきに話すには早すぎると考えたゆうきの両親は、今年はお父さんの仕事で急な出張が入ってしまって、家族三人では行けなくなってしまったけれど、せめてゆうきだけでも空気のきれいなところでゆっくり休んでおいで、と目下説得中でした。
「普段ならパパが出張でもママは行っていたのに」とさらにごねているゆうきの頭に手を置いてお父さんが言いました。
「ゆうきは今年から中学生になっただろう?ひとりで旅行してみるのに早すぎる年じゃないと思うぞ」
「一学期の間、ひとりで電車通学だってちゃんとできていたじゃない。大丈夫よ」
 お母さんも続けて言いました。ひとりで飛行機に乗って旅に出ることからは逃げられなさそうだ、と半分受け入れ始めていたゆうきでしたが、最後の主張を試みました。
「でも、でも空港までは一緒に来てくれるんでしょう?」
 お父さんとお母さんは困り顔を見合わせました。最初はお父さんもそのつもりでした。空港までは車で送っていこう、と。ですが、はるきとの電話によってその予定がひっくり返されました。
「夏の間ゆうきのことは俺にまかせるって言ったよな。家から空港まで電車乗り継いで行かせろよ。こっちの空港から最寄り駅までも同じ。それが条件だ。中学生ならできないことじゃない。安心しろって、さすがにこっちの最寄り駅からは車でないとたどり着けないだろうから迎えに行ってやるよ」
 この提案を聞いたお母さんは、がぜん反対しました。
「はるきさんとゆうきは違うのよ、中学生っていってもまだ一年生だし、学校だって」
 そこまで言いかけてお母さんは口をつぐみました。お父さんは、お母さんの言いたかったことが手に取るようにわかりました。お父さんも同じようにゆうきのことを心配していました。本当なら自分たちも一緒について行って、おばあちゃんの家に泊まりながらゆうきを見守りたいと思っていました。しかし、はるきから持ちかけられた「条件」がただ意味もなく厳しい道のりを示しているわけではないこともわかりました。
「十六の夏、あいつはひとりでじいちゃんの森に行って、そして帰ってきた。ゆうきはまだ十三になったばかりであのときのはるきに比べたらまだ幼い。だけどゆうきにはもう『その時』がきているんだ。だから早すぎるということはないんだと思う。心配だけど、僕らはこの家からゆうきを送り出してやることしかできないんだ」
「私たち、あの子の親なのに、家族なのに、黙って見送ることしかできないの?」
「僕も十七のときに同じことを思ったよ」
 母親としてゆうきに何もしてやれない悔しさに瞳を潤ませていたお母さんは斜め上から聞こえるお父さんの少し悲しそうな声にはっとしました。お父さんは、二度めなのです。大切な家族に何もしてやれずに黙って森へと見送ることが。
「僕から話を聞いた母さんがはるきをじいちゃんのところへ行かせた。母さんはじいちゃんの『ちから』のことを聞いていたからすぐにぴんときたみたいで、その日のうちにじいちゃんに電話してはるきを森に行かせる相談をしていた。僕は隣で聞いていて、母さんが電話を切ってすぐに自分もはるきと一緒に行かせてくれって頼んだ。でもだめだって言われた。たとえ家族であっても、『ちから』を持たない人間がついていくことはできないって。前兆が表れてから?声が聞こえなくなるってことだけど?本格的に顕れはじめる『ちから』を安定させるためには、ひとりで森に行かないといけないんだ。自分で『ちから』を安定させることができないと、そのあと苦しむことになるのは『ちから』を持つ本人、ゆうき自身なんだ。つらいけど、これはゆうきのためなんだよ」
 ゆうきのため。夫婦ふたりの合言葉です。震える手を握りしめて涙をこらえていたお母さんは心を決めたようにぐっと顔を上げました。ふたりの間にそれ以上の言葉はありませんでしたが、気持ちはひとつになっていました。
 ゆうきの両親としてはるきの提案通りにゆうきを一人旅に出すことを決めたものの、目の前で膝を抱えてふくれているゆうきに今回の旅の行程を発表するのは大仕事でした。肝心なところでざっくりとした表現しか持ち合わせていないお父さんに代わり、お母さんが説明役を買って出ました。
「あのね、ゆうき、パパとママは、空港まで一緒に行ってあげられないの」
「どうして?」
「ゆうき、ひとりでお買い物したりお出かけするの苦手でしょう。お店の人やよその大人の人とお話したりするのも」
 空港まで一緒に行けないと言われ、「がーん」という文字が浮かび上がりそうなゆうきの目を見てお母さんが続けた言葉は、今回ゆうきに起こった『ちから』のこととは関係なく、これからゆうきがひとりの人間として生きていく上でとても大切なことでした。
「普段ママとお買い物するときはいつもママがレジに並んだり、お店の人とお話しているからゆうきは黙っているだけでも大丈夫だけど、ママはずっと一緒にはいてあげられないの。パパも同じ。いつかはひとりでお買い物をしたり、時には知らない人に道を尋ねなきゃならない時だってくるわ。今回はその練習だと思って、ね」
 残念ながら、お母さんの言うことは正しいと思いました。小さい頃から人見知りの激しかったゆうきはひとりでおつかいをすることはもちろん、幼稚園に通うときも毎朝お母さんと別れる時に大泣きしてしまい、朝の会が始まるまでずっと先生のエプロンの裾をつかんだまま泣いているような子でした。本当は電車で中学校に通うのもとても不安でした。初めて駅の窓口で通学定期券を作ってもらうときも、お父さんに一緒についてきてもらったほどです。幸い、数年前に新しくなった駅の改札口は定期券も全て交通系の電子マネーに変わっていたので、毎回改札を抜けるたびに駅員さんに定期券を見せなくても済むことだけが救いでした。といっても、自動改札機に交通電子マネーの定期券を「ピッ」と要領良くかざすタイミングを覚えるのもゆうきには一苦労だったのですが。
 とまあ、小さい頃からこういった調子のゆうきでしたので、どこかでしっかりしてもらわなければならない、とお母さんはつねづね思っていました。今回の一人旅はやや荒療治のような気もしますが、お父さんの言う通り、今まで以上に元気になって帰ってきてくれれば、と願うばかりです。
「ゆうき、家から空港まで、電車の乗り換えを調べてシミュレーションしよう。向こうの空港に着いてからも最寄り駅までは電車だから、一緒に調べような」
 ここまで聞いただけですでに半分涙目になっていたゆうきでしたが、お父さんとお母さんの両方が同じ考えで一致しているときはそれ以上いくら駄々をこねたり文句を言ってもその決定が覆ることはないとわかっていたので、しぶしぶですが小さく「うん」とうなずきました。それに、さすがに中学生になってまで駄々をこねるのはちょっと恥ずかしくなったので、正直なところ楽しみなことよりも不安なことのほうが多く浮かんできましたが、のろのろと旅行の準備を始めました。
 出発当日、ゆうきは朝からため息ばかりついていました。前の日の夜、リビングのソファにお父さんと向かい合わせに座り、飛行機の搭乗券と手帳に書き込んだ電車の乗り換え表を並べて最終確認をしました。
「いいか、まず渋谷駅に出る。そこから山手線に乗り換えたら、次は品川だ」
「そのあと京急本線エアポート急行で羽田空港」
 ゆうきはやる気のなさそうな一本調子でお父さんの言葉の後を受け継ぎました。おじさんの別荘に行く日が近づいてから何度となく繰り返されたやりとりですっかり覚えてしまっていました。去年までお父さんとお母さんの三人で乗っていた電車でしたが、実のところゆうきはお母さんのあとについて歩くだけでちゃんとした道のりはよくわかっていませんでした。「いつも乗り換えは私ばかり先頭切っているから、今回の乗り換えシミュレーションはパパ、よろしくね」とお母さんから命を受けたお父さんは大はりきりで電車の乗り換え表を作りました。
「はるきに何か聞かれたら『全部自分で調べた』って言うんだぞ」
「なんで」
「でないとパパが怒られるからだ」
 怒られるかもしれないことをしているのに、お父さんは何だか楽しそうです。まるで自分も一緒に旅に出るかのようにわくわくしている様子です。へんなの、とゆうきは思いました。まだ会ったことのない「はるきおじさん」とお父さんは、仲良しなのかな。きょうだいってどんなふうなんだろう。一人っ子のゆうきにはなかなか想像のつかない世界でした。そんな考えごとをしているゆうきをよそに、ひとりうきうきしているお父さんが盛り上がって最終確認は完了しました。
「忘れ物ない?酔い止めも一応飲みなさいね」
「今飲んだ」
 リュックサックの前のポケットから取り出した酔い止めの薬を飲み込んだら、あとはいよいよ玄関から出発するだけです。家から近くの駅までは歩いて十五分くらいです。ここまでは学校に行くときと変わりません。お父さんとお母さんが家の門の前まで出てきてくれました。
「暑くなりそうだな」
「こまめに水分とってね」
 まだ朝の七時台だというのにもうぎらぎらと照りつけ始めている太陽を見てまぶしそうに目を細めるお父さんの隣で、帽子は、タオルは、と再び持ち物チェックに入ったお母さん。大丈夫だよ、と言いたかったのですが、言葉が喉の奥に引っかかってうまく出てきませんでした。ただひとこと「行ってきます」とだけ言うと、くるりと背を向けて歩き始めました。
 クリーム色のTシャツに柔らかなデニム生地の半ズボン、紺色のスニーカーを履いて水色のリュックサックを背負った後ろ姿が小さくなっていきます。
「行っちゃったなあ」
 ぽかん、と力が抜けたようにつぶやきながら見送っていたお父さんですが、そんな余韻に浸る間もなく、一歩先に家の中に入ろうとしていたお母さんに呼ばれて慌てて戻っていきました。たった今ゆうきが家を出た、とはるきに電話で伝える役目がまだ残っていたからです。
 
 帰省ラッシュの人ごみに流されながらなんとか無事に空港まで着いたものの、空港の中は思っていたよりもずっと広く、これから乗る飛行機が一体どこから飛んでいくのか、まるで見当もつきません。早速行く当てをなくしかけて搭乗券と辺りを交互に見回しながら搭乗口を探していると、手帳の隅のほうに何やらお父さんの字がギザギザの吹き出しの中に並んでいました。
 〈困ったときは上を見ろ!〉
 ゲームに出てくるヒントみたい、と、お父さんらしいメモにくすっとしながら目線を上げると、ずらりと並んだ電光掲示板にそれぞれの便の行き先が表示されていました。
「え、と・・・しん、せんさい・・・?」
『しんちとせ。新千歳空港だ』
 え、と思わず辺りを見回しました。お父さんの声が聞こえた気がしたからです。ゆうきが漢字の読み方がわからなくて違った読み方をしていると、いつもちょっと上から覗き込んで正しい読み方を教えてくれるお父さんが、まるでそこにいるかのようでした。もちろんそんなはずはなく、ゆうきはひとりで空港のターミナルに立っています。不思議な感覚を覚えながら、新千歳空港行きの搭乗口を目指して歩き始めました。ゆうきの旅は、まだ始まったばかりです。
 羽田空港発、新千歳空港行きの飛行機は無事にゆうきを乗せて離陸しました。どんよりと不安げなゆうきをよそに、八月の空はこれでもかというほど良い天気です。高度を上げた飛行機の窓からは真っ白な雲海が見えます。今までお父さんとお母さんの間の真ん中のシートにしか座ったことがなく、離陸と同時にすぐ寝てしまっていたゆうきにとっては初めて見るに近い風景でした。もっとも、毎年乗っているはずの飛行機の外の景色を見て「ほらゆうき、雲海だぞ。ママも見てみて、ほら」と言いながら窓を独り占めするお父さんの子どものようなはしゃぎっぷりを別にすればの話ですが。
 一面の雲と青空ばかりの景色が少しずつ上のほうに遠ざかっていき、代わりに下のほうに見えてきたのはさまざまに濃い緑色や薄い緑色を集めた緑色だけの色図鑑のような広い大地でした。こまこまとした建物や背の高いビルに囲まれて育ったゆうきにとっては何度見ても見慣れない景色で、見るたびに違う濃さの味の入った抹茶アイスの詰め合わせを思い出しました。どこまでも広がる緑色の大地は、十三歳の一人旅を静かに歓迎しているようにも見えました。
「せめて札幌駅まで迎えに来てくれればいいのに」
 新千歳空港を降り立ってから、まだ顔も知らない親戚のおじさんに対していささかずうずうしいお願いを抱きながら、なじみのない駅の広い地下通路を歩いていました。お父さんのヒントに従い、時折上のほうにある案内表示を探しながら。お父さんの育った家、今はゆうきのおばあちゃんがひとりで暮らしている家のある町までは新千歳空港から電車をいくつか乗り継いでだいたい二時間くらいかかります。ひとりで飛行機に乗ることもそうでしたが、これほど長い時間ひとりで電車に乗ることもまた、ゆうきにとっては初めてのことでした。ひとつ、またひとつと町の建物が少なくなっていき、代わりに視界に映る木々や山の割合が高くなっていきます。それは文字通り、森に「近づいている」光景でした。ゆうきのまだ知らない「森」が、ゆうきを待っています。
 時たまがたごとと揺れながら走り続ける電車の窓から外を眺めながら、七月の半ば辺りから今日までのことを考えていました。担任の先生の声が聞こえなくなったあの日、給食とお昼休みをはさんで放課後になるにつれて、ゆうきの耳に学校の人たちの声は届かなくなりつつありました。クラスの子だけでなく移動教室ですれ違う同じ学年の子や先輩たち、それぞれの教科の先生。ひとり、またひとりとその声はくぐもっていき、帰りの電車を待っている頃には駅のホームにいる同じ制服を着た子たちの声はすっかり聞こえなくなっていました。電車を乗り換えて同じ中学の制服が見えなくなったときは一度はほっとしましたが、電車を待っている列に並んでいる知らない制服の高校生たちの声もまた「こぽこぽ」と水の中でしゃべっているように聞こえたとき、ゆうきは耳をふさいでその場から駆け出したくなるのをぐっとこらえました。夕方の帰宅ラッシュで混みつつある電車の中でなるべく人の少ないところを選び、ぎゅっと固く目をつぶって降りる駅に着くのを待ちました。駅に着いて電車のドアが開くまでずいぶん長い時間がかかっているような気がしました。電車を降りてから階段を上って改札機を抜け、一気に家まで走って帰りました。背中のかばんの中で教科書や筆箱がかたかたと鳴る音だけが妙に響いて聞こえます。どんどん息が上がり、足も疲れて立ち止まりたくなりましたが、一瞬でも走るのをやめてしまうと周りの人たちのあの「声」が聞こえてきそうで、額から流れ落ちる汗もぬぐわずにひたすら走り続けました。それはまるで、たまに見るこわい夢のようでもありました。何かとてつもなく恐ろしいものに追いかけられて一生懸命に逃げるのだけど足はちっとも速く動いてはくれず、「助けて」と叫ぶ声もうまく言葉にならない。そんな悪夢を見ているような少し前までの日々を思い出しながら、「これから自分はどうなるんだろう」と考えました。夏休みの間は学校の人に会わなくて済みますが、二学期が始まればまた同じ毎日が始まるのです。そう思うだけで気が重くなりました。
 いくら考えても答えは出ないまま、ゆうきを乗せた電車はおばあちゃんの住む町に到着しました。グレーの床とグレーの壁でできた駅は人影もまばらで、少しさみしげな雰囲気でした。
「人が少ないな」
 朝からたくさんの人ごみの中を移動してきたゆうきにとっては、このがらんどうの駅や静かな駅前のロータリーの雰囲気がなんだか落ち着きました。夏真っ盛りの八月ですが北の町の空気は涼しげで、さっぱりとしています。道沿いに植えられた大きな木の葉っぱが風に揺れてさわさわとふるえています。その光景は、「ずいぶん遠くまで来たんだ」とゆうきに思わせるのには充分でした。見慣れない駅前の風景をゆっくりと眺めているうちに、乗ってきた電車を降りてからすでに二十分が過ぎていました。先ほどからゆうきのそばを通り過ぎていく人たちは駅に向かうか駅から出てくるか、または近くのバス乗り場に歩いて行く乗客たちがほとんどです。駅の正面入口から少しずれたところに立っているゆうきにちらりと視線を向けてくる人はいても、声をかけてくる人はいません。「まだ着いたばっかりだし」とのんびり構えていたゆうきもだんだん心配になってきました。そうなのです。駅に迎えに来てくれることになっているおじさんが、一向に来る気配がないのです。
 
 おじさんは来ない。そんな予感がゆうきの頭をふっとよぎりました。よくわからないけどそんな気がする。これこれこういう理由だからとかちゃんとした根拠があってそう思うわけではないけれど、「なんとなく」というにはあまりにはっきりとしてむしろ確信に近い感覚。こういうのを「直感」といいます。ゆうきは普段からこれといって直感がはたらくほうではありませんでしたが、なぜかこのときばかりはあまりにくっきりとした輪郭で予感してしまいました。できれば外れてくれたほうが嬉しい直感なんて、ぴんときても嬉しくも何ともありません。
 しかし、今回の夏休みの計画が決まってから、お父さんから聞いていた「はるきおじさん」という人の性格などを思い出すと、一度も会ったことのないゆうきですらなんとなく「約束の時間ぴったりになんて絶対に来ない」という予想のほうがしっくりきてしまうのです。最寄りの駅までは迎えに行くと言っていたのに。
「おじさん、ひどい」
 今度ばかりは泣きたくなりました。もともとおじさんのほうからゆうき一人で別荘に泊まりに来るように誘っておいて、これはないんじゃないか。おじさんに言われた通り家から空港までも、空港からこちらの駅までも一人でやってきたのに。今朝家を出てから今までの道のりを思い出すと、しだいに迎えに来てもらえない心細さよりも、なんだかおじさんにからかわれているような気がして頭がかっかしてきました。むかむかとした気持ちを持て余しているうち、ひとつの考えにたどり着きました。
 おじさんの迎えなんて待たずに行ってしまおう。去年まではおばあちゃんが車で駅まで迎えに来てくれていました。駅からおばあちゃんの家まではロータリーからまっすぐ伸びる大きな道路をずっと行けばそのうちに家の手前の畑に出るのだったはず。おばあちゃんの運転する車の窓から見た広い道路の景色をなんとなく覚えていました。ずっと駅前に立っていても仕方がないし、日が暮れてからでは辺りがすっかり暗くなって道がわからなくなってしまいます。去年までの記憶に残っている明るい時間帯の道を歩けるうちに前に進むことにしました。普段のゆうきなら、ほとんど知らない町を一人で歩こうなどとは思わなかったはずです。おとなしい性格のゆうきにしては珍しく、約束の時間に来ないおじさんへのいらだちが思いがけないエネルギーになり、朝からさんざん歩きっぱなしで重たいはずの左右の足を動かしていました。時刻は午後二時半を回り、太陽は真上から少し傾き始めましたがまだまだこれからが一番暑い時間帯です。ずんずん歩くゆうきのかかとから真っ黒な濃いかげぼうしが伸びてゆらゆらと右に左に頼りなく揺れながら後をついていきました。
 駅をあとに歩き始めてからまだ十五分くらいしか経っていませんが、ゆうきは早くもちょっと不安になっていました。まっすぐ歩けばいいと思ってはいたものの、あまりにまっすぐで大きな道がずうっと続いているので本当にこの道で合っているのか自信がなくなってきていたのです。もうちょっと地図の見方を勉強しておけばよかった。迎えに来てもらえるから道がわからなくても大丈夫、とたかをくくっていた数日前の自分に言ってやりたくなりました。頼りになるのは今ある自分の頭の中の記憶だけです。去年の夏休み、おばあちゃんの家の前を流れている川原でお父さんと川遊びをしました。いつもならなにかハプニングを起こすのは決まってお父さんなのですが、このときは珍しくお母さんが冷たい川の水にはしゃいで小さな女の子みたいにワンピースの裾を持ち上げて裸足で川に入ったかと思うと、水草や藻でぬるついた川底の石に足を滑らせて転んでしまったのです。お母さんは川の真ん中でしりもちをついて、淡い水色のワンピースはびっしょりと濡れて重たそうでした。慌てたお父さんはすぐさまお母さんを助けに行こうとざぶざぶ川の中を大股で歩いたのですが、「大丈夫かあっ、ママ!今行くから・・・あっ」と言うが早いか、やっぱりお母さんと同じように足を滑らせて転んでしまいました。ふたり揃ってびしょぬれになりながら顔を見合わせて吹き出したお父さんとお母さんを見ていたら、ひとり離れた川原にいて最初は?然としていたゆうきもだんだんおかしくなって一緒に笑い出しました。三人の笑い声を聞いて何事かと思って様子を見に来たおばあちゃんが大慌てで「なつきー!なにやってんのあんたは!みさこさん助けにいってあんたまで転んでどうすんのかねー」とお父さんを??りながらバスタオルを取りに戻ったのでした。みさこさん、とおばあちゃんが呼んだのはお母さんの名前です。本当の名前は「みさ」なのですが、「それだと『みささん』になっちまって呼びにくいから『みさこさん』って呼んでもいいかい」と、ちょっとよくわからないおばあちゃんなりの理由で、おばあちゃんだけがお母さんのことを「みさこさん」と呼びます。おばあちゃんの時代の女の人は、たいてい名前の最後に「こ」がつくことが多かったそうで、お父さんとお母さんが結婚する前に初めておばあちゃんに挨拶をしに行ったとき「まああ、ハイカラな名前だねええ」と感心したそうです。お母さんとしては本当の名前と違う名前で呼ばれることは特に気にならなかったらしく、それどころか、都会育ちで、田舎の自然に囲まれた家で大勢の親戚と過ごすことなどほとんどなかったお母さんにとって土地の訛り言葉で話すおばあちゃんとのやりとりは「あったかくて心地いいの」だそうです。ほかの親戚のおじさんやおばさんたちは皆お母さんのことを「みさちゃん」と呼びますが、おばあちゃんは「みさちゃんなんてちいせえ子どもみたいだ。なつきの大事な嫁さんだもの、『みさこさん』って呼ぶんだ」と独自のスタイルを貫いています。
 去年の思い出をたぐりよせているうち、少しずつ目的地の風景が鮮明になってきました。おばあちゃんの家の前には川が流れている。だから橋を渡って川沿いを行けばいいんだ。幸い、目の前に立派な橋が見えてきました。川をまたぐ橋の両端には左右それぞれにオブジェがついていて、なにやらポーズをとる子どもの銅像と、反対側には「まる」や「さんかく」やいろいろのかたちが繋がったよくわからないものが建っていて、「ゲイジュツテキな人の考え方って変わっているんだな」とゆうきは思いました。「ゲイジュツテキ」というのは最近覚えた言葉です。美術館に飾られているような絵は上手いとか下手とかではなく「ゲイジュツテキな作品」なのだ、と美術の先生がうっとりと話していたのを思い出しました。
 橋を渡り終える頃には午後四時を過ぎており、山の近くの川沿いの辺りは薄暗くなってきていました。心なしか、ゆうきの住んでいる街よりも暗くなるのが早いような気がします。辺りを見回すと、ゆうき以外に通りを歩いている人はいつの間にかすっかりいなくなっていました。橋の手前側には薬局や小さなスーパー、歯医者さんなどがぽつりぽつりと建っていましたが、橋を渡り終えた途端にお店の数はめっきりと減り、川沿いの木々が覆いかぶさるように茂っていました。幼稚園の頃から、ゆうきは暗闇の中で見る木が苦手です。暗いところで見ると葉の影に何が隠れているかわからなくって、風でゆれる枝がまるで「おいでおいで」をしているようで、ぼんやりしているとそのうちそちらに連れて行かれてしまうのではないか、と考えてしまうからです。連れていかないでください、となるべくそちらに目をやらないように早足で歩いていると、川べりのほうから聞き覚えのある声が聞こえました。
「あれえ、ゆうきちゃん?なあにしているの、そんなとこでえー」
 見ると、畑仕事をほっぽり出したおばあちゃんが土のついた手をエプロンでぬぐいながらびっくりした様子でゆうきのほうによたよたと走ってくるところでした。
 
 一年ぶりに会うおばあちゃんと一緒に川沿いの道を歩きながら、ここに来るまでのことを話しました。約束の時間を過ぎてもはるきおじさんが迎えに現れなかったことを話すと、それまで優しい表情でゆうきの話を聞いていたおばあちゃんは「なあんてことだろうね、はるきは。ゆうきちゃんに心細い思いをさせるなんて。ばあちゃんに任せて、こってり??ってやっから」とぷりぷり怒ってしまいました。ついさっきまではゆうきもおばあちゃんと同じようにおじさんに対して怒っていたのですが、やっと知っている人、しかもおばあちゃんに会えたということと、久しぶりに会うおばあちゃんが変わらず元気そうなことに安心して、おじさんのことはなかばどうでもよくなっていました。
「ひとまず一緒におばあちゃんの家に行こうねえ。まずは一休みしてお茶でも飲んで。あらあ、ゆうきちゃんはジュースのほうがいいかねえ」
 お茶でいいよ、と言いましたがおばあちゃんはにこにこしながら「通り道の商店さんで好きな飲み物でも買っていこう」と、ゆうきよりも楽しげに言いました。そこから先はさっきまでの道のりとはまるで違って少しも怖くはなく、初めて入る古い小さな商店で飲み物を選ぶときもお店のおばさんに「こんにちは」と挨拶をしました。最近耳の遠くなり始めたお店のおばさんにとってはだいぶ小さな声でしたが。
 おばあちゃんが一人で暮らす家は昔からの造りの古い家で、二階はありません。代わりに一階はとても広く、お盆やお正月には親戚みんなが集まっても全員が泊まれるくらいの部屋があります。夜におトイレに行きたくなってしまったときなどもちろんゆうきはひとりでは行けなくて、いつもお母さんについてきてもらっていました。お父さんは大いびきです。
「お盆までまだ日があるからねえ。親戚連中だあれも来とらんのよ」
 と話すおばあちゃんはゆうきを茶の間に案内して座布団を出して座らせると、いそいそと台所に向かいました。丸い木彫りのお盆にお菓子とコップを乗せて戻ってくると、まだ背中にリュックサックを背負ったままのゆうきを見て「あれまあ」と声を上げました。
「よっぽど、疲れたんだねえ。東京からひとりでここまで来たんだものねえ」
 おばあちゃんがさっき寄った商店で買ったオレンジソーダのペットボトルのふたを開け、ぷしゅっ、しゅわしゅわ、と炭酸のはじける音をさせながら氷を入れたコップに注いでくれるのを見ながら、ゆうきはまだぼうっとしていました。透明なガラスのコップの中を鮮やかなオレンジ色のソーダが埋めていきます。固まっていた氷が溶けては、ぱき、と小さな音をたて、オレンジソーダを注ぎ終わって少しすると今度は、かろん、ころん、とソーダの中で氷が転がる音がしました。オレンジソーダってこんなにいろんな音がするんだったっけ、と考えながら眺めていると、横からおばあちゃんの手がにゅっと伸びてきてコップにストローを入れてくれました。水色の透明なプラスチックできたそのストローはいつも行くファミリーレストランやテイクアウトのお店でもらうようなまっすぐなのではなく、うねうねと曲がりくねって不思議な形を作っていました。真ん中のところでぐるぐると渦を巻いていて、ぴょこん、とはねたしっぽのようなかたちで終わっているそれは「ト音記号っていうのよ」とお母さんが教えてくれました。
「これ、去年おばあちゃんに買ってもらったやつ」
「覚えていた?帰るときに荷物に入れ忘れた、って電話があって、来年ゆうきちゃんが来るときに、って大事にしまっておいたんだよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
 一年越しに使うト音記号のストローを吸うと、コップの底から吸い上げられたオレンジソーダが水色の透明な管の中を通って上ってくるのが見えてとても面白いのですが、ストローの長さが長いので飲むまでにずいぶん時間がかかり、やっと一口吸い上げる頃には息切れしそうになっていました。
「ぷはあ」
 水泳の息継ぎをしているようなゆうきを見ておばあちゃんはくすっと笑い、「汗かいたもんねえ、ストローじゃまだるっこしいよねえ」と言いながらそっとストローを抜いてお菓子を乗せたお皿の端に置きました。じりじりと照りつける陽射しの中を歩いてきたゆうきには一口では足りなくて、「ありがと」と言うが早いかごくごくと喉を鳴らしてオレンジソーダを飲み干しました。「まだあるからねえ、お菓子も。お腹空いたでしょう」と勧めてくれるおばあちゃんに促されるままにジュースのおかわりとお菓子に手を伸ばそうとした、その時?
「ばあちゃん。あんまりゆうきを甘やかすなよ」
 初めて聞くはずなのに間違えようもない声がしました。せっかくおばあちゃんと会って休憩していたゆうきを休ませる間もなく急き立てるようなその声の持ち主こそ、ここ数日ゆうきの周りをばたつかせていた張本人、はるきおじさんその人でした。
「はるきっ、あんたはっ、連絡もしないでゆうきちゃんを駅で待たせて」
 おじさんを見るや否や片膝を上げて??りつけようと構えるおばあちゃんを気にするでもなく、「話はあとだ。行くぞゆうき」とおばあちゃんが止めるのも構わず玄関に向かおうとしました。
「待ちなさい、はるき。ゆうきちゃんをどこへ連れていくつもりなの」
 一瞬前までかあっと燃えるように怒っていたおばあちゃんでしたが、?みたいに静かになっておじさんの前にすっと立ちました。なんだかいつも知っているおばあちゃんと違う人みたいで、ゆうきは座ったまま少し後ずさりました。おじさんはそんなおばあちゃんの迫力すら慣れっこのようで、にや、と口の端っこだけを持ち上げて笑ってみせました。まるでこれから手品でもご覧に入れましょう、と言い出しそうな不敵な笑みです。
「決まっているだろ、俺の別荘、だよ」
 別荘、のところだけ妙に区切って言う言い方がなんとなくいやな予感を感じさせます。案の定、おばあちゃんはあきれたように目を見開いて「別荘だなんて、あんなのただの隠れ家じゃないの」とため息交じりに言いました。
「なに、隠れ家って。ここからちょっと行ったところにあるおじさんの別荘に行くんじゃないの」
「お、ちゃんとわかっているじゃないか。その通り、これから俺とお前がひと夏過ごすのにもってこいのとびきりの別荘さ」
 おじさんとおばあちゃんの顔を交互に見比べる戸惑いでいっぱいのゆうきの質問におじさんはなぜか気をよくしたらしく、歌うように返事をしました。
「なつきは知っているの?みさこさんはなんて言っているの」
 おばあちゃんから見てはるきおじさんは全く信用に足らない人物らしく、ゆうきの両親の了解をきちんと得ているのか、とおじさんを問い詰めましたが、そんなことはどこ吹く風、とおじさんはまだ歌うような調子で話し続けます。
「当たり前だろ、いくら俺だって兄貴夫婦の子どもを勝手に連れ去るようなまねはしないよ。ちゃんと電話で話したって」
「何て言って話したの」
「別にいいだろ」
「よくないから聞いているの」
「めんどくせえなあ。なつきから聞いて俺が言ったんだよ。夏の間ゆうきの面倒見るって」
 そこまで話すと、おじさんは一瞬言葉を区切っておばあちゃんのほうを見ました。その間、ゆうきは全然関係ないことを考えていました。さっき茶の間に現れてからというものこのはるきおじさんという人はあまりにマイペースすぎるというか唐突というか、なんだか「台風みたいなひと」だとゆうきは思っていて、この台風のようなひとが本当にお父さんの弟なのだろうか、と少し疑いの目を持って見始めていたところでした。が、ゆうきの目の前で小柄なおばあちゃんに問い詰められて決まりが悪そうに前髪の間から伺い見るちょっと情けないその様子は、何か突っ走るたびにお母さんに??られているときのお父さんとそっくり同じだったので、ゆうきはちょっとおかしくなって小さく吹き出してしまいました。
「おまえ、なに笑ってんだよ」
 さっきまで自分の足元で小さくなっていたゆうきが急に笑い出したのを見たおじさんはさらにばつが悪そうになりました。ずいぶん背の高いおじさんを下から舐めるように見上げて問い詰めていたおばあちゃんもきょとんとした顔でゆうきのほうを見ています。ゆうきはおじさんに言われてはっとしましたが、笑い出すとなかなか止まらないくせがあり、説明しようとしても思い出し笑いがこみあげてきてうまくしゃべれません。
「だ、だっておじさん、パパにそっくりなんだもん。気まずいときに前髪の間から見るところなんて特に。あは、あははは・・・あ、でもおじさんの髪はウェーヴがかかっていてきれいだね。パパの髪はサラサラストレートだから、そこだけ違うね」
「気まずいときって、どんなとき?」
 おばあちゃんがいたずらっぽく笑いながら聞きました。
「ママに怒られているとき。だいたいパパがなにかやらかして、ママに怒られるの。でもパパは悪気があってしたわけじゃないからママは思いきり怒れなくってストレスたまるんだって」
「なつきも、どうしようもないわねえ。みさこさんに申し訳がたたないよ」
 はあ、とため息をついて肩を落としながらおばあちゃんが言いました。
 さっきまでの勢いはどこへやら、今はもう怒る気にもならない、といった感じです。おじさんから目線を外し、膝をついてゆうきを覗き込みながらこう言いました。
「ゆうきちゃん、さっきここへ来てから初めて笑ったねえ」
 やっと笑いがおさまったところで気の抜けたような顔をしているゆうきをしみじみ眺めながら、まだ半分くらい納得できていない感じですが、いつものおばあちゃんの調子に戻って話し始めました。
「朝から一日かけてここまで来て疲れたせいだろうと思っていたのだけどさすがに気になってねえ。去年みんなで川遊びをしたときはよく笑っていたから。だけどさっきはるきを見て笑ったゆうきちゃんはたしかにいつものよく笑うゆうきちゃんだったよ。あんたでも役に立つことがあるんだねえ」
 最後の一言は明らかにおじさんに向けられたものでしたが、やっとおばあちゃんの追及から逃れたおじさんの耳には届いていないようで「人の話を最後まで聞きなさい」と耳を引っ張られているおじさんを見て、またゆうきは笑い出しそうになるのをぐっとこらえていると「我慢しなくていいのよ」とおばあちゃんが言いました。
「誰にも気兼ねなんてしないで、思いきり笑っていいんだよ、ゆうきちゃん。このおじさんはめちゃくちゃであてにならないけど、少なくともゆうきちゃんを笑わせることに関しては見込みがありそうだね」
 おばあちゃんは何か決意をしたように真剣な面持ちではるきおじさんに向き直り、引っ張られて赤くなった耳をさすっていたおじさんもつられて背筋を伸ばしました。
「はるき。夏の間、ゆうきちゃんをあんたにまかせるよ。この意味、わかるね」
「最初からそのつもりだって言ってるだろ」
 おじさんはまた口の端っこだけ上げてかっこよく笑ったつもりでしたが、おばあちゃんには全く通用せず「あんたには説得力ってものがまるでないのよ」とか「もうちょっと信頼される人間になりなさい」とか新たなお説教が始まりだしたのを聞いたおじさんは「長くなる前にずらかるぞ」と小声でゆうきに耳打ちするが早いか、さっと立ち上がって早口で言いました。
「じゃあ、俺たち行くな。暗くなるといけないし」
 おばあちゃんはまだ何か言いたそうでしたが、ふん、と鼻を鳴らすとゆうきのほうを見て言いました。
「おばあちゃんも様子を見に行くから、大丈夫よ。困ったことや、何か足りないものがあったら遠慮しないで言ってね。このおじさんじゃそこまで気が回らないだろうからね」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ゆうきが本気にするだろ」
「本当のことを言っただけよ。ゆうきちゃん、本気にしていいのよ」
 おばあちゃんとおじさんのかけあいは放っておくと一晩中でも続きそうです。おばあちゃんは、ゆうきに対するときとおじさんに対するときとで感じが違っていて、おじさんと話しているときはしゃきしゃきしています。今までゆったり構えた雰囲気のおばあちゃんしか知らなかったので、なんだか新鮮な感じでした。おばあちゃんとおじさんのやりとりを聞きながら玄関で靴を履いているとおじさんが後ろからだだだ、っと走ってゆうきの隣でスニーカーに足を突っ込み、駆け出しながら言いました。
「車つけるからスタンバっとけ」
 後ろからゆっくり歩いてきたおばあちゃんは「相変わらずせわしない子だねえ」とあきれたように言いながらゆうきの隣に座りました。
「はるきはあんな感じだから、ゆうきちゃんも思ったことははっきり言っていいんだからね。おじさんだからって遠慮なんてしなくていいから」
「うん」
「案外、ゆうきちゃんとはるきは相性がいいかもねえ」
「そうかなあ」
 腑に落ちない顔のゆうきを見て、おばあちゃんは顔をしわくちゃにして笑いました。「はるきのことも、こっちでの暮らしも少ししたらきっと慣れてくるから」と言いながらゆうきの頭を撫でるおばあちゃんの手はあたたかくて分厚い、安心する手でした。おばあちゃんの手が置かれていた辺りがいつまでもじんわりとあたたかいのを感じながら、ゆうきはおじさんの車に乗り込みました。玄関の門のところでいつまでも手を振っているおばあちゃんの姿がだんだん小さくなるのを車の後ろのガラスから眺めていました。
 おじさんの運転する車の後部座席に乗っておばあちゃんの家を出発してから、車は思ったよりも長い距離を走り続けています。出発前のお父さんの話では、おじさんの「別荘」(おばあちゃん曰く「隠れ家」)はおばあちゃんの家から「ちょっと行ったところ」でしたが、「ちょっと」というには行き過ぎている気がします。ゆうきは自分からおじさんに話しかけるのはあまり気が進みませんでしたが、おそるおそる口を開きました。
「あのう、おじさん?あとどれくらいで着きそう、ですか」
 まだ出会って数十分のおじさんにどういう言葉遣いで話せばいいのかわからず、ぎこちない感じになりましたが、おじさんは気にするでもなくハンドルを握ったまま答えました。
「もうすぐだよ」
 その「もうすぐ」がどれくらいなのか知りたくて聞いたんだけど。と、ゆうきは思いました。「ちょっと」とか「すぐ」とか、その人によって加減が変わる表現ではなく「何キロくらい」とか「あと何分」とか、数字で知りたかったのです。そんなゆうきの気持ちを知ってか知らずか、おじさんは運転席の窓枠に肘をかけてもたれかかりながら付け加えました。
「俺のハイスピードで街道ぶっ飛ばせばあっという間だ」
 またよくわからない説明。さっきおばあちゃんの家におじさんがいきなり現れてゆうきと衝撃的な対面を果たしてから、このはるきおじさんという人に対してだいたいの印象が出来上がってきていました。
 なんかもうめちゃくちゃ。一言で表すとそんな感じです。言っていることもやっていることも全然予測がつかなくて、何を考えているのかよくわからない。まさに「予測不能なハリケーン」が人間になったみたいだ、と思いました。ゆうきのお父さんがどちらかというと、こうと決めた方向に一直線に突っ走る人なのに対して弟のはるきおじさんは突っ走る方向もスピードも、まるで見当がつきません。のんびりしていたかと思えば急に駆け出したり、まっすぐ進んでいるのかと思えばとんでもない回り道をしていたり。駅に迎えに来るのはすっぽかしたくせに、別荘に向かうときの車の準備は猛ダッシュだったのがその証拠です。
「それって結構距離ありませんか」
 おじさんの性格の分析を延々と続けていても納得のいく結果が出そうもないと思ったゆうきは次の質問をしました。車が走り出してからすでに十五分が過ぎてもまだ目的地の別荘が見える気配がないのでそろそろ心配になってくる頃です。
「おまえさあ、そのかたっくるしい話し方、なんとかならねえの」
 おじさんはゆうきの質問には全く答えようともせず、自分の言いたいことだけ話し続けます。
「敬語とかいいだろ、べつに。一応親戚なんだし。知っていると思うけど、俺おまえの親父の弟だよ。まあ会ったのはついさっきだけどさ」
 はい、と思わず返事をしたゆうきにおじさんは「だからそれ」と苦笑いをしながら突っ込みました。先生みたいに「何度も同じことを言わせるな」と注意されるかと思いましたが、おじさんの続けた言葉は意外にも肩の力を抜くようなものでした。
「まあ中学生くらいの頃って大人に敬語使いだす頃だよな。俺は違ったけど。無理にとは言わねえけど、ずっとその調子だと明日からもたねえぞ」
 明日から何が始まるっていうんだ?両親からはただ夏休みをおじさんのところで過ごす、としか聞かされていないゆうきは不思議に思いました。
「明日から何かあるんで・・・あるの?」
 丁寧語で聞きかけて途中で言い直したゆうきに対して、おじさんは一瞬はっとした様子でしたが、すぐに何事もなかったように返事をしました。
「ああそうか。まだ何も聞いていないんだよな。まあ何かあるかどうかは、明日からのおまえ次第だな」
 運転席と後部座席に分かれて話していたおじさんが話す顔は見えませんが、どう考えてもにやりとしながら話していることが声の調子でわかります。いたずらっ子が悪だくみをしているときの声です。これからどうなるんだろう。自分次第ってなに。別荘に着く前からあまり前向きとはいえない明日への疑問でゆうきの頭の中がいっぱいになりかけていると、おじさんが急にハンドルを切ったので車が大きく揺れました。
「な、なに?」
 シートベルトのおかげで投げ出されずに済んだものの、左右に揺さぶられてびっくりしたゆうきのとっさの言葉は敬語が抜けていました。
「ああ、悪い。ちょっとな。おーい、気を付けろよー」
 おじさんはゆうきに返事をしながら運転席の窓を開けて外に向かって叫びました。
「外に誰かいるの?」
 たまに、横断歩道を渡るお年寄りや小さい子に向かって「早くしろ」と怒鳴ったりゆっくり走る車にいらいらとこわい運転をする人がいますが、今のおじさんの行動はそれとは少し様子が違いました。怒ったりいらいらしている感じは全くなく、むしろ知り合いを見かけて声をかけたときのような雰囲気です。誰か知っている人が道路を歩いていたのかな、と思ってゆうきも窓を開けて外を見ましたが、日暮れから時間が経ってとっぷりと暮れた外の景色は街灯もまばらで、暗くてほとんど何も見えません。
「もういないよ。あいつら足が速いからな」
 窓に顔を近づけているゆうきには風の音にまぎれてよく聞こえませんでしたが、おじさんの返事はなんとも不思議なものでした。
「もしかしたら、おまえの顔を見に来たのかもしれないな」
 運転席の窓から入ってくる夏の夜の風を頬に受けながらひとりごとのように話すはるきは、遠い昔を思い出すようなまなざしでハンドルに預けた両腕に顎をつくとフロントガラスを覗き込むように夜空を眺めていました。
 結局、おじさんの「別荘」に着いたのはおばあちゃんの家を出てから四十分も経った頃でした。車を停めた空き地(おじさんは「立派な駐車場だろうが」と言い張りました)から、荷物を担いだおじさんががさがさと足元の草をかき分けて目の前の木立に入って行くのを見たゆうきは思わず「どこいくの?」とおじさんに尋ねました。森の中へと大股で歩き出していたおじさんはゆうきの声に足を止めて振り返ると、まだ車の横に立ったままのゆうきに、荷物を持っていないほうの手の親指をぐっと後ろの森の中に指し示して答えました。
「どうした、そんなところで突っ立ったままで。この先真っ暗だからはぐれないように付いて来いよ」
 急に風が強く吹いて、あたりの木々がざわ、と音を立てました。おばあちゃんの家の周りの木よりも背が高く、葉の重みで枝がしなってゆうきを見下ろすようにカーブを描いて揺れています。「ま、待って」と小走りでおじさんを追いかけてこわごわ夜の森へと入って行きました。
 木立の中はごつごつとした木の根がそこらじゅうに出っ張っていて、つま先で確かめるように歩かないとあっという間に転んでしまいそうです。夜の空気は夜露を含んでしっとりと重く、夏だということをうっかり忘れそうになるくらいひんやりとしています。あとどれくらい歩くんだろう。おじさんは慣れているみたいだから、まさか遭難するなんていうことはないよね。おじさんの白いシャツの背中だけが真っ暗な闇の中でぼうっと浮かび上がって見えます。夜露で湿った草が半ズボンから出たふくらはぎを濡らして冷たくなってきた頃、前を歩くおじさんの足が止まり、「着いたぞ」と声が聞こえてゆうきも立ち止まりました。あたりに街灯もないので建物全体の様子は暗くてわかりませんが、あまり大きくないことだけはなんとなくわかります。
「ほんとに隠れ家だね」
 目の前の建物を見上げ、思わず頭に浮かんだことがそのまま口に出ていました。
「おまえ、おとなしそうに見えて結構言うよな」
 おじさんの表情は暗くてよく見えませんでしたが、声の調子はおばあちゃんに問い詰められているときに少し似ている気がしました。
「ほら、中に入るぞ。ずっとそこにいるとくまが出るぞ」
「く、くま」
 おじさんはゆうきを脅かすように言ったあと、その効き目が充分あったことを確信すると「出る、かもな」と付け加えてゆうきの背中をぽんと叩きながら部屋に入るように促しました。
 おじさんの家はこぢんまりとしていて決して広くはありませんでしたが、部屋の中はあたたかい色の明かりで照らされていて、ほんのりと木のにおいのする、思っていたよりも居心地のよさそうな場所でした。床も壁も天井も木でできていて、「ちょっとサウナみたい」とゆうきは思いました。玄関口で靴を履いたまま部屋の中を見渡しているゆうきを見ておじさんは言いました。
「結構いい家って思っただろ」
「べつに、最初からよくないって思っていたわけじゃないよ」
 おじさんに思っていることを見透かされているような気がしてあわててごまかしましたが、おじさんはなぜか満足そうにしていました。
「その奥がキッチン。洗面台はないから、流し台で顔も洗うし飯も作る。冷蔵庫に入っているものは好きに食っていいぞ。白飯も炊いてあるから適当に食って寝ろ。ちなみにそこの鍋の中は俺の特製ビーフシチューが食べごろだ」
 おじさんが料理をすることを意外に思いながら聞いていると、「お前の部屋はこっち」とおじさんが顎でぐっと天井のほうを示しました。その先には木でできたはしごがかかっていて、上に上がれるようになっています。
「ええと、それじゃあ、荷物置いてくる」
 お腹も空いていましたが、同時に眠気も襲ってきていたゆうきはおじさんの案内にぼんやりと返事をするととろとろとはしごを上りました。「寝ると落ちるぞー」と面白そうに言うおじさんの声を後ろに聞きながらはしごを上り終えると、そこは斜めの天井の下にベッドと机、それに小さな木の椅子が置かれた屋根裏部屋でした。ベッドの上にはパッチワークのカバーがきれいにかかっていて、今日一日移動しっぱなしでくたくたになったゆうきを「おいでおいで」と優しく呼んでいるようでした。「おじさんの部屋にしてはずいぶんかわいいな」と気になりつつも、この部屋がおじさんの部屋なのかどうか確かめる前にリュックサックを背中から降ろしてぼすん、と床に置くとそのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだまま、ゆうきはねじの切れたゼンマイ仕掛けの人形のようにぱたりと眠ってしまいました。
 キッチンでコーヒーを淹れていたはるきは、屋根裏部屋からゆうきが起きている気配がなくなったことに気づき、ブラックコーヒーの入ったマグカップを口に運びながら天井のほうに目をやり、そのあと窓ガラスのほうに向かって小さくつぶやきました。
「よろしく頼むな」
 窓の外ではさやさやと夜風が吹き、夜の森もしっとりと眠りにつこうとしていました。
 
 次の日の朝、ゆうきはお腹が空いて目が覚めました。昨日は電車の中でサンドイッチを食べたきり、あとは夕方におばあちゃんの家でジュースを飲んだだけで、おじさんの家に着くやいなや晩ごはんも食べずに寝てしまったのです。ベッドから体を起こして屋根裏部屋を見回しました。昨日の夜はとても疲れていて眠かったので大して部屋の中も見ずに寝てしまいましたが、改めて見ると狭いながらもきちんと整えられた部屋であることにすぐ気がつきました。ゆうきが寝ていたベッドとその横に置かれた机と椅子は全部同じこげ茶色の木でできていて、よく使いこまれて丸みをおびています。古いものに見えますがなめらかでつやがあり、それぞれ手入れをされていることがわかります。パッチワークのベッドカバーは水色と淡い黄色、それから薄紫色の三色の布をつなぎ合わせてあり、椅子の背もたれになっているクッションカバーとおそろいでした。机の上には小さな電気スタンドが置かれていて、壁に備え付けになった本棚にはゆうきの知らない題名の本が何冊かありました。ベッドと机の間に細長い窓があり、朝の光が差し込んで床に白い筋を伸ばしています。昨日の夜、ゆうきが床に降ろしたままになっているリュックサックの下には楕円形のマットがあり、これもパッチワークでできていました。ベッドカバーとクッションカバー、それに床のマットのパッチワークはすべて同じ模様の六角形の小さな布を組み合わせて作られていて、新しい感じはしませんがほこりっぽさもなく、ちゃんと洗濯されていることがわかります。この部屋はたぶん、昔子どもが使っていた部屋だ、とゆうきは思いました。はるきおじさんが子供の頃使っていたのかな、と思いましたが、おじさんが子どもの頃に使っていた部屋はおばあちゃんの住んでいる川辺の大きな古い家にあるのをお父さんに見せてもらったことがあるので、それならこの屋根裏部屋は一体誰の部屋だったんだろう、と気になり、そのうちおじさんに聞こうと思いながらベッドから出てはしごを下り、台所に顔を洗いに行きました。
 一階のスペースもまた、昨日はほとんどよく見ないまま眠ってしまったので、タオルで顔を拭きながら昨日のぶんまでゆっくりと見渡しました。ゆうきの寝ていた屋根裏部屋の反対側の天井は吹き抜けになっていて、丸い天窓から日が差しています。左右の壁にも大きな窓がそれぞれあり、カーテンの向こうから透ける光のおかげでこの家の日当たりの良さがわかります。部屋の中を見ているうちに、ゆうきはあることに気がつきました。普段ゆうきがお父さんとお母さんと住んでいる家やおばあちゃんの家と、このおじさんの家が決定的に違うところ。それは、部屋のどこまでが居間で、どこまでが寝室、という区切りがないことでした。部屋の真ん中には屋根裏部屋の床にあるのと似た模様ですがもっと大きなパッチワークのマットが敷いてあり、大きなソファがひとつ置いてあります。ソファの前には背の低い木のテーブルがあり、ここまではゆうきの家のリビングとだいたい同じ感じですが、ソファのほかには部屋の隅に肘掛け椅子が一脚置かれているだけで、奥まで見渡してもベッドが見当たりません。おじさんはどこで寝ているんだろう、と思ってきょろきょろしていると、ソファの上のクリーム色の毛布のかたまりがもそ、と動き出したのでゆうきはびっくりして思わず「うわっ」と声をあげて二、三歩後ろに下がりました。ソファの上に無造作に置かれている毛布の中からおじさんのくせっ毛が顔を覗かせ、続けてまだほとんど寝ているようなとぼけた声が聞こえてきました。
「おー、起きたか」
 肩にかかっていた毛布がずり落ちると、昨日着ていたのと同じ白いシャツがしわくちゃになって出てきました。ゆるゆると伸ばした足元のジーンズも見覚えがあります。
「おじさん昨日の服のまま寝たの」
「おまえもだろ」
 言われてからはじめて気がつきました。ゆうきの着ている服も昨日着ていたTシャツと半ズボンのままです。いくら疲れていたからといって、一日着ていた服のまま寝てしまったことと、おじさんに言われるまで気がつかなかったことに二重に驚きました。「外から帰ってきたらまずは手洗いとうがい。それから服を着替えるか、そのままお風呂に入りなさい」とお母さんがいつも口ぐせのように言っていたのに。ゆうきはなんだか悪いことをしたような気になりました。ゆうきが後ろめたそうにしていることに気づいたのか、おじさんはけろりとした口調で言いました。
「べつにそんなに困ることでもないだろ。まあ手ぐらい洗ってもいいんじゃないかとは思ったけどな、衛生上。学校とか家じゃそういうふうに言われているんだろ?」
「ごめんなさい」
「俺に謝ることじゃないよ。俺は気になることははっきり言うタイプだから、されたら困ることは前もって言う。それ以外のことは特に気にする必要はないよ」
 夜に風呂に入りそびれたなら朝に入ればいいだけの話だろ、と説得力があるのかないのかわからないおじさんの言葉を聞いてどこかの国の王妃様の台詞みたい、と世界史の授業を思い出しているゆうきの隣を、裸足のままキッチンに向かうおじさんが髪をぐしゃぐしゃにかきながら通り過ぎます。俺は起きたらまずコーヒーを飲まないと起動しないから、というよくわからない理由でゆうきが先にシャワーを浴びることになりました。屋根裏部屋のリュックサックからお風呂セットとバスタオルと着替えを取り出し、台所の横のお風呂場に向かいました。キッチンからはコーヒーの香りがします。昨日までの朝とはまるで違う時間の流れ方です。家ではだいたいいつもお母さんが先に起きていて、ゆうきはお母さんの作る朝ごはんの香りや音で目を覚まします。お父さんは朝寝坊でいちばん遅くまで寝ているので、「パパを起こしてきてー」ときりきりと動くお母さんに言われるのがゆうきが小さい頃の毎朝の光景でした。ゆうきが小学校の高学年になる頃には、お母さんに言われなくてもお父さんを起こしに行くようになっていました。ゆうきの家ではブラックコーヒーを飲む人はいません。お父さんが「僕はカフェオレ派」と言いながらどぼどぼとカップのコーヒーに牛乳を入れて飲むので、お母さんはいつも「それはカフェオレというよりコーヒーの牛乳割りね」と言いながら自分も牛乳たっぷりのミルクティーを飲みます。両親がそういう飲み方なのでゆうきはてっきりカフェオレやミルクティーは牛乳たっぷりの飲み物なのだと思っていましたが、お店で頼んだカフェオレが思ったより苦かったり、紅茶に添えられたミルクが小さなミルクピッチャーで出てくるのを見て家との違いに驚きました。今は家とおじさんの違いに驚いています。ばしゃばしゃと顔を洗ってすぐコーヒーを淹れ始めたおじさんの朝の過ごし方は、お父さんともお母さんとも違っています。「なんか、自由だな」とゆうきは思いました。タオルで髪を乾かしながらお風呂場を出ると、おじさんが「ほらよ」と言いながら備え付けの木目のカウンターの上にどん、と白いお皿を置きました。分厚い陶器のお皿の上にはきつね色のホットケーキがほかほかと湯気をたてています。ミルクでいいか、と聞くおじさんに「うん」と返事をしながらカウンターの前に置かれた背の高い丸椅子によじ登るようにして腰かけました。
「バターとはちみつは好きなだけかけていいぞ。胸やけしない程度にな。で、食べ終わったら家の周り散歩でもしてくれば」
 使い終わったフライパンを流し台に下げると、おじさんもカウンターの反対側に腰かけてコーヒーを飲みながら言いました。ゆうきはまだいろいろと目新しいことが多く、バターが溶け出したホットケーキを一口大に切りながらおじさんに尋ねました。
「昨日も思ったけど、おじさんって意外とお料理できるんだね」
「意外とは余計だ」
 おじさんのほうも昨日からのやりとりでゆうきとの遠慮のない会話に慣れてきたらしく、半分面白がっているような調子で答えました。大きなマグカップで口元が隠れて見えませんが、目の奥がいたずらっぽく光っているのがわかります。
「この家の周り、ぐるっと周ってこいよ」
 おじさんはさっきゆうきが答えなかった問いをもう一度投げかけ、反応を見るようにゆうきの言葉を待ちました。一枚めのホットケーキを半分くらい食べ終わったゆうきは口をもぐもぐさせながらおじさんに尋ねました。普段なら、お母さんに「食べながらしゃべらないの」と注意されるところですが、おじさんの自由な雰囲気につられて言葉が先に出るようになっていました。
「昨日も言っていたけど、森に何があるの?」
「それはおまえ次第だな」
「それも昨日聞いたよ」
「実のところ、俺にもわからないんだ。おまえが森に行って何が起こるか。大丈夫だって、取って食われたりしないよ」
「昨日くまが出るって言ったじゃん」
「出るには出る。たまにだけどな。出るのと食われるのとは違うさ」
 何がどう違うっていうんだ。のどの途中まで出かかった言葉をホットケーキと一緒に飲み込みながらおじさんのほうを横目で見ました。おじさんはゆうきの疑るような目線をものともせず、くっきりとした目元を細めて頬杖をつきながら言いました。
「どうでもいいけどさ、おまえ食べるの遅いな」
「ほっといてよ」
 切り分けた二枚めのホットケーキを口いっぱいにほおばりながらくちびるをとがらせたゆうきの顔を見ておじさんは思わず吹き出しました。
「その顔、怒ったリスそっくりだぞ」
 からかわれてむきになったゆうきは残りのホットケーキをぱくぱくと立て続けに口に入れると「ごちそうさま」と言いながらミルクを一気に飲み干しました。おじさんは「食器はそのままでいいから」と言いながらもまだ笑いがおさまらないようで、体を折り曲げて笑っています。笑いすぎてこぼれた涙をぬぐっているおじさんは相手にしないことに決め、かばんを取りに屋根裏部屋のはしごを上りました。屋根裏部屋の真下のキッチンで洗い物を始めたおじさんのよく通る声が屋根裏部屋の床を伝わって聞こえてきます。なにやらゆうきの知らない外国の歌をうたっているようです。リュックサックの中からいつも休みの日に出かけるときに使っている肩かけかばんを取り出すと、ハンカチとティッシュ、それから手のひらにおさまるくらいの小さな手帳とボールペンをかばんに入れて肩から斜めにかけ、帽子をかぶってはしごを下りました。下りてきたゆうきの出で立ちを見たおじさんは「お、ばっちりだな」と満足そうにうなずいてからこう付け加えました。
「昼めしの時間とか気にしなくていいからな。いたいだけいればいいし、帰りたいときに帰ってくればいい」
 おじさんは気にしなくてもお腹は空くもん、と思いましたが、さっき食べ終わったばかりのホットケーキはお腹の中でしっかりと腰を据えたようで、これは当分腹ぺこになる心配はなさそうだと思いました。玄関で靴を履いているとおじさんも出てきて柱に肩を預けながら「じゃ、行ってこい」と短い言葉で見送りました。おじさんがなぜやたらと森に行かせたがるのか不思議に思ったまま、朝の日の光が差し込む森の中へと歩き出しました。
 東の空から顔を出した太陽が斜め上へと昇り始めたばかりの森は昨日の夜とは全く違う顔をしています。朝露を含んだ地面はふかふかと柔らかく、木の葉にたまったしずくが陽の光を反射してきらきらと銀色に光って見えます。一歩踏み出すたびに足の裏の地面がぎゅ、ぎゅ、と沈むのがわかりました。いつも歩いているアスファルトや学校のグラウンドの地面とは違う感覚に最初は戸惑いながらも、「ちょっと面白いな」と思いながらひんやりとした空気の中を進んでいきました。おじさんの家はあたり一面ぐるりと白樺の木に囲まれています。少し遠くのほうには白樺以外の背の高い木々が空に枝を伸ばしているのが見えました。昨日の夜は真っ暗でこわいと思いながら下を向いて歩いていましたが、木の葉を黄緑色に透かして照らしている朝日はまぶしいくらいに明るく、思わず見上げたくなりました。
「もうちょっと奥まで行ってみようかな・・・」
 いつの間にかおじさんの家からはだいぶ離れたところまで進んでいましたが、それほど心細い気持ちにはなりませんでした。平らだった地面が少しずつでこぼこと波打つような起伏を見せ始め、近くの木の幹につかまりながらよじ登るようにして歩みを進めました。無意識に触れた木の幹でしたが、触ってみると思いのほかあたたかく、表面はごつごつとしていましたがぽこんと飛び出した木のこぶはまるでゆうきの手のひらに合わせたようにしっくりとなじみました。てっきり木の幹というものは冷たいものだと思っていたゆうきはもっとほかの木にも触れてみたくなり、行く先に生えている木々に手を触れながら歩いていきました。
 しばらく歩いていくとひときわ大きな木がどっしりと根を張っていました。ゆうきの両腕を回しても到底届かないくらい太くて立派な木です。植物の名前に詳しくないゆうきでしたが、この木だけはなにか違うな、と思いました。帰ったら屋根裏部屋の本棚にあった植物図鑑で調べてみようと思ってかばんから手帳とボールペンを取り出してメモを取ろうとしたその時、ざあっと音をたててゆうきの後ろから突然とても強い風が吹きました。手帳のページがぱらぱらとめくられ、風に背中をあおられた勢いで思わずボールペンを落としてしまいました。
「あっ・・・」
 かぶっていた帽子も飛ばされそうになり、片手で頭を押さえながらボールペンを拾おうとしましたが、木の根の下がゆるやかな下り坂になっていて、ボールペンは苔の上を滑ってころころと転がっていきます。あのボールペンは中学校の入学祝いにおばあちゃんが贈ってくれた大切なボールペンです。夢中で追いかけるゆうきの背中にまた強い風が吹きつけ、下り坂を駆け下りていたゆうきの体が前につんのめって柔らかな苔の生えた窪地に転がり落ちました。
「うう・・・」
 地面の上でもみくちゃになり、体育のマット運動で失敗したときのような中途半端な格好になりました。頭の中がぐるぐるしてしばらく言葉が出てきません。揺れていた視界がまっすぐ落ち着いてくると、ボールペンを探していたことを思い出してあわててあたりを見渡しました。
「えっ、ない。どこ」
 一緒に転がり落ちたはずのボールペンの姿がどこにも見えず、ゆうきは膝をついたまま必死に探しました。近くの地面ばかり気にして探すあまり、今自分がいる場所の様子もよくわからないまま四つん這いになって移動していると、ふいに頭の上がゆらりと暗くなるのがわかりました。日が陰ったわけでもないのに急に暗くなったことを不思議に思って目線を少し上げると、茶色くて太い何かが二本並んで立っているのが見えました。ゆっくりとなぞるように顔を上げるとそこには、まるで大木のように大きなくまが一頭、のっそりと後ろ足で立っていました。
 「あ、あ・・・」
 ゆうきは言葉が出ないまま、しりもちをついて両手で移動して後ろに下がりました。膝から下がしびれたように力が入らず、立ち上がることもできません。あとになって、これこそ「腰が抜けた」状態なのだとゆうきは思いました。呼吸は浅くなり、まばたきをしたくてもまぶたが張り付いたようにいうことを聞かず、こわくて見たくないのに目の前の大きなくまから目が離せません。くまに出くわしたときはどうすればいいんだっけ。死んだふりは逆効果だってテレビの特集番組でやっていたし。おばあちゃんかおじさんか、誰でもいいから聞いておくんだった。そんなことを考えながら動けないままでいると、くまの足元のほうからぴょこん、と薄茶色のなにかが顔を出しました。
「ほらあ、やっぱりびっくりしているじゃないか」
 しゃべった?何が?すぐには信じられないことが、目の前で起こっていました。ゆうきはいよいよ自分の耳がおかしくなったのだと思いました。クラスメイトや先生の声が聞こえなくなったかと思ったら、今度は聞こえるはずのない声が聞こえるようになってしまった。ゆうきの目線よりも低い位置で真っ黒な目をくりくりさせながら「ねえ、大丈夫?」と首をかしげて尋ねているのは、薄茶色の小さなうさぎでした。うさぎの問いかけに答えられないままゆうきが硬直していると、後ろ足二本で立っていたくまが体をかがめてゆうきの顔の前にその毛むくじゃらの大きな顔をのぞかせました。
「ごめんねえ、驚かすつもりは、なかったんだけど」
 その声はお寺の鐘のようにこだまして聞こえました。目と鼻の先に黒く塗れたくまの鼻があり、話すたびに動く大きな口からはとがった歯が見え隠れしています。
 こわい。逃げたい。目の前にくまが現れたときからずっとそう思って今すぐこの場から駆け出してしまいたいと思っていましたが、どうやら聞き間違いや気のせいではなく自分に話しかけてきているうさぎとくまから、関わりたくないと思うのに目が離せなくて動くことができません。そんなゆうきの様子を見かねたのか、うさぎのほうが言葉を続けました。
「つもりはなくても驚くに決まっているじゃんか。いきなり目の前にでっかいくまが現れたらさ。普通は『食われる』って思うさ。そうだよな?」
 最後の一言はたぶん自分に向けられたのだろうと思いましたが、まだゆうきは返事をすることができず、体の小さいうさぎに言われて申し訳なさそうに背中を丸めて「悪気はないんだよう」と頭をかくくまとのやりとりを黙って見ていました。
「それにぼく、人間の子どもなんて食べないよう。知っているでしょう?」
「おれたちは知っていても、人間は知らない。だから毎日のように銃を持って森の中をうろうろしているんだよ」
 うさぎとくまの会話を黙って聞いているうちに、混乱していたゆうきの頭は少しずつ冷静さを取り戻していました。ただ一つわかっていること、それは「自分には目の前の動物たちの声が聞こえている」こと。少しずつ状況がつかめてくると今度は目の前で親しい友達同士のような会話を続けているうさぎとくまのことが気になりだしました。大きな体のわりにおどおどと自信なさそうに話すくまに対して、くまよりもうんと体の小さいうさぎはずいぶん偉そうというか、強気な態度で接しているように見えます。人間である自分より先に食べられてしまいそうなのはこの小さなうさぎなのではないか。そう思ったゆうきは思わずうさぎに話しかけていました。日本語で通じるのかとか、そもそも自分は動物の声は聞こえるけれどこちらから話すことはできるのか、などといったことは頭からすっかり抜けてしまっていました。
「あのう、君は、大丈夫なの?食べられちゃったりしないの、その、くまさん、に」
 くまに、と本人、いえ、「本くま」を前に呼び捨てにするのはちょっと失礼な気がして「くまさん」という間の抜けた呼び方をしたゆうきを見てうさぎはこらえきれないといった様子でお腹を見せてころころと笑い転げました。
「くまさん、だってー!くまさん、くまさん・・・ひゃはははは!」
 自分で何度も繰り返しては笑い続けるうさぎを見て、誰かに似ていると思いました。悪気がないのはわかるけれどちょっと無神経なこの感じ。「このうさぎ、なんだかおじさんに似ている」。数分前までならうさぎと人間のおじさんが似ているなんて考えもしないことでしたが、目の前で自分と同じ言葉で話す動物たちを見ているうちにいつのまにかゆうきの中で人間たちと動物たちが近い存在になりつつありました。かなりの笑い上戸のようで、相変わらず仰向けに転がって笑ったままのうさぎとゆうきとを交互に見比べて申し訳なさそうに「失礼だよう」とあたふたしているくまの大きな背中の向こうから、ちょっと鼻にかかった高い声が聞こえました。
「あんたたち、そんなところで何やってんのよ。リハーサルに遅れるわよ」
 声の持ち主はくまの背中の影に隠れているゆうきに気がつくと、ぴょんぴょんと弾むように駆け寄ってきました。近寄ってきた「それ」はまぎれもなく、ふさふさとした長いしっぽを持ったきつねでした。今朝食べたホットケーキのような黄色味がかった薄い茶色のまさしく「きつね色」のきれいな毛並みをしています。つんとしたつり目の目元はまるで人間の女の人のお化粧をしたように長いまつ毛で縁取られています。くまの横に立ったきつねはまだ地面に座ったままのゆうきを見ると三角にとがった耳をぱたぱたさせて言いました。
「ちょっとやだ、人間?なんでこんなところにいるのよ」
言葉のすみずみに迷惑そうな感じが漂っています。どことなく、小学校のクラスにいた気の強い女の子を思い出しました。誰に対しても思ったことを遠慮なく言う性格の人ってどこにでもいるんだな。今いるのは人じゃなくてきつねだけど。ずけずけとした物言いのきつねに気圧されているゆうきを見たきつねは腰に手を当てて「ふん」と鼻を鳴らしました。
「どうでもいいけど、早く行かないと遅れちゃうじゃない。人間なんかにかまっている時間ないわ」
 人間なんか、と今出会ったばかりのきつねに言われてたじろいでいるゆうきの首の後ろに、つん、と何かが当たり、思わず「ひゃあっ」と声をあげて飛び上がって振り返ると、そこにはもこもことした毛に覆われた白いひつじが立っていました。ひつじは鼻先をくんくんとゆうきの背中のそこかしこに当ててにおいをかぎながらきつねに言いました。
「出会い頭にそんなこと言うもんじゃないわよ。かわいそうにこの子、怯えているじゃないの。ああ大丈夫よ、そんなに怖がらなくても。根は悪い子じゃないの。大目に見てやって」
 ひつじの声はかなり低い声でしたが話し方は柔らかく、「近所のおばさん」という感じがしました。少し固くて生暖かい鼻先をゆうきの背中に押し当てたまま、「うふっ」と笑いました。
「なかなかかわいいじゃない、あーた。そうだ、いいものあげるわ」
 そう言って首をくるりと後ろに向けると、自分のお腹の辺りをごそごそと探り、お目当てのものを取り出して口にくわえるとゆうきの頭に乗せました。
「ほら、やっぱり似合うわ。見込みあるわねえあーた」
 満足そうに口をもぐもぐさせながら言うひつじがゆうきの頭に乗せた何かに対して、うさぎとくま、そしてきつねはそれぞれ全く違った反応を見せました。「ぶっははは、ケッサクー」とさらに笑い転げるうさぎの隣であきれたように横目で見ながら「また変なもの作って」とため息をつくきつね。くまは分厚い両手を胸の前で合わせて「わあほんと、かわいい」と小さく拍手をしています。かわいいと言われたり笑われたり。鏡など持っていなくて自分の様子がわからないゆうきは「なに、何なの」両手で頭の上を触って確かめようとすると、「雑に触るんじゃないの。アタシの自信作なのよ」とひつじに頭の後ろを小突かれました。
仕方ないわね、とひつじに背中を押されるまま立ち上がって窪地の真ん中にある湖まで歩いて行って覗き込むと、青く澄んだ水に自分の姿が映りました。
「な、なにこれ」
 ゆらゆらと揺れる湖面に映ったゆうきの頭の両脇に白いひつじの耳がちょこんとくっついていました。ゆうき自身の耳は髪に隠れて見えないので、まるで本当にひつじの耳が生えているように見えます。
「気に入った?お近づきのプレゼントよ」
 小さなしっぽをぱたぱたさせて尋ねるひつじに「いらない・・・」と言いかけてあわてて口をつぐみ、「ど、どうも」とだけ返事をしました。雑に触るとひつじに怒られるので指先でそっと触れると、頭の上に細いつる草で編まれたカチューシャのようなものが乗っていて、ひつじの耳はカチューシャの両端についているようです。いつのまにか後ろに立っていたきつねが言いました。
「ひつじの抜け毛とつる草で作った変なカチューシャなんてもらって喜ぶわけないじゃない」
「失礼なこと言わないでちょうだい。流行りの羊毛アートよ」
 いつの流行りよ、と頭を抱えるきつねの横でようやく笑いがおさまったうさぎは「いいじゃん、なかなか似合っているぜ」と目をくりくりさせながら言いました。へへ、と笑うと大きな前歯が覗いてやんちゃな雰囲気がより増して見えます。
「そういえば、さっき会ったとき、ずっと下を見ていたけど、何か探していたの?」
 それまで口を開かず黙ってにこにこしていたくまがおもむろにゆうきに話しかけました。見た目はこわいけれど四匹の動物たちの中で一番ゆうきに親切なくまの様子に最初抱いていた恐怖心は薄れていき、おっかなびっくりでしたが返事をしました。
「あ、はい。ええと、さっき風が吹いた拍子にボールペンを落としてしまって、探しているうちに転んじゃって」
 言った後で「ボールペンと言ってわかるのかな」と思いましたが、くまの反応は想像以上に慣れた様子で「ボールペンかあ。ちょっと見なかったなあ」という返事が返ってきました。やりとりを聞いていたうさぎが横から「おれも。木の実を探しながら歩いていたけど見なかったぜ」と口をはさみました。
「一緒に探してやりたいけど、おれたちこのあと行くところがあるしなあ」
「困ったねえ」
「アタシたちについてきなさいよ。どうせみんな集まるんだし、そこで聞けば早いじゃない。一匹くらい知っているのがいるかもよ」
「ちょっと、本気で言っているの?人間を連れていくなんて。しかもまだ子どもじゃない」
 顔を見合わせているうさぎとくまのうしろで毛づくろいをしながら言うひつじの提案にきつねが目をつり上げます。
「アタシの遠縁ってことにすればいいわよ。かわいいからそれで通じるでしょう?耳もついているし、ね」
 自信作のカチューシャが役に立つわ、と嬉しそうなひつじ以外のみんなが「遠縁というのはさすがに無理がある」と思いました。みんなしばらく考え込むように黙っていましたが、うさぎの元気のいい声が沈黙を破りました。
「ま、いいんじゃねえ?このままここにいたって仕方ないしさ。リハに遅れちまうぜ」
「さっきからそう言っているじゃない」
「じゃあ、とりあえず、行こうか。続きは歩きながら話すとして」
「行きましょ」
 いつのまにか考えがまとまって歩き出そうとしている動物たちに促されるように背中を押されたゆうきはなにがなんだかさっぱりわからず、四匹の顔をかわるがわる見ながら尋ねました。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこへ行くの」
 まだ一緒に行くなんて言っていないし、そもそもなにがあるのかもわかっていない。「知らない人について行っちゃいけない」って学校で言われたじゃないか。動物だけど。混乱しているゆうきをよそにうさぎがとことこと歩きながら話します。
「今夜は音楽会があるんだ。今から行くのはそのリハーサル。おれたちみんな出演者なんだ」
「あ、ぼくは出演者じゃなくて、出店者だけどね。お店出しているから、よかったら食べに来てねえ」
「こいつの料理はうまいぞう、おれのお墨付きだ。へへっ」
「あーたたち、説明になっていないわよ。仕方ないからアタシが教えてあげる。この森では月に一度、満月の夜に音楽会があって、楽器を演奏したり歌を歌ったりして一晩中お祭り騒ぎなの。森のいきものたちのほとんどが集まるから、あーたの落としたボールペンとかいうのの在りかを知っている子もいるかもしれないってわけ。で、これからあーたはアタシの自信作のひつじ耳カチューシャをつけて潜入するって作戦よ。名案でしょう?」
 ひつじはわくわくした様子を隠しきれないとばかりにおしりを振りながら自信たっぷりに説明しました。突拍子のない展開についていけずにぽかんとしているゆうきの後ろからきつねの不機嫌そうな声がしました。
「あたしたちに迷惑だけはかけないでよね。人間を連れて来たなんてばれたら、なんて言われるか。せっかく今日はワンステージもらえそうなのに」
「困っている子には親切にする、これもオンナの度量が試されるポイントよ。面倒見てあげなさい」
「ちょっと、あたしに押し付けないでよ!もとはと言えば、あんな趣味の悪いカチューシャなんてつけるから・・・」
「趣味が、なんですって?」
「な、何でもないです」
 ひつじの言葉はごく柔らかい口調でしたが、きつねを黙らせるには充分な迫力でした。あまり逆らわないほうがよさそう、とゆうきは思いました。ひつじはゆうきの隣をゆったりと歩きながら、カチューシャの下にあるゆうきの本物の耳のあたりにそっとささやきました。
「ちょっときついけど本当は優しい子なのよ。恥ずかしがり屋さんなだけなの」
 白い毛の下から覗くたっぷりとしたまつ毛を震わせて優雅にウィンクするひつじはどこか謎めいた雰囲気で、思わず「はい」と言ってしまいそうな底力を感じます。どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と空を仰ぎながらも、ボールペンを見つけるためにこの奇妙な動物たちについて行くことにしました。
 
 四匹の動物たちについて森の奥へと進んで行くと、おじさんの家がある辺りとはずいぶん感じの違う木がたくさん生えている場所に出ました。この辺りの木は枝から幾重にもつる草が垂れ下がっていて、細かい葉がのれんのようにあちこちの枝からおりています。背の高いくまは垂れ下がったつる草の下を通るたびに背中をかがめて通ります。時折、「足元、滑るから気をつけてねえ」とゆうきに声をかけてくれ、高い岩場を登るところでは「よいしょっと」と軽々とゆうきを持ち上げてくれました。きつねはそのたびに「甘やかしたら本人のためにならないじゃない」と小言を言いました。その頃のゆうきは最初の不安はどこへやら、「このくまさんがいちばん話しやすい」とずいぶんくまを信頼するようになっていました。
 ボールペンを落とした窪地からずいぶん離れたところまで歩いた頃には、昼間だというのにうっそうとした木の陰で薄暗くなってきていました。なぜか動物の言葉がわかるとはいえ、人間は自分ひとり。家まで帰れるか不安に思って何度も来た道を振り返っていると、足元で長い耳をぱたぱたさせながらうさぎが言いました。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。初めてのお客さんは責任を持って送り届けるのが決まりだからな。さあ、もうすぐ到着だぜ。その岩場の向こうがおれたちのステージ!」
「一名様、ごあんなーい」
 ひつじの妙なかけ声につまずきそうになりながら大きな岩場のすき間を通り抜けるとそこには、見たこともない景色が広がっていました。
 ゆうきたちが立っている岩場から扇状に広がった地面の両脇に並ぶようにして生えている背の高い木と木の間には細いつる草が結ばれていて、濃いオレンジ色のほおずきの実がいくつもくくり付けられています。正面の平たい岩の上はなめらかで、うさぎの言葉通り「ステージ」という呼び方がしっくりきます。まだステージの上は誰もいない状態で、その周りではいろいろな動物たちが慌ただしく準備をしたり、中には発声練習をしている者もいます。ほおずきの飾りのついた木のそばには色とりどりのテントが並んでいて、エプロンをしたたぬきやきりりとはちまきを巻いたいたちなどが大きなお鍋や鉄板の前で忙しそうに下ごしらえをしています。
「本当にお祭りみたい」
「みたいじゃなくて、お祭りよ」
 ひとりごとのようにつぶやいていたゆうきの隣でひつじが言いました。出店者だと話していたくまは「それじゃあ、あとでねえ」とそばを離れ、くまのお店のものと思われるひときわ大きなテントのほうにのしのしと歩いていきました。
「さあて、アタシたちも仕度しなくちゃね」
「おれはまだ順番が先だから、一緒に聞き込みしてくるよ。行こうぜ」
ひつじと別れたうさぎはそこまで言うと、「えーと」と首をかしげてゆうきを見上げました。目が合って「な、なに?」と尋ねたゆうきにうさぎは続けて聞きました。
「おまえの名前、教えてくれよ。人間ってひとりひとり違った名前をつけるんだろ?」
「あ、うん。そうだけど」
「いいなあ、名前。なあ、おまえも名前、あるんだろ?」
 な、な、と小さな前足をゆうきの膝に乗せてせがむように名前を聞くうさぎに戸惑いながらも、自己紹介をしました。
「えっと、村本ゆうき、です」
「むらもと?もしかしてはるきのところの子か?」
「おじさんのこと、知っているの?」
 まさかうさぎの口から出てくるとは思ってもいなかったおじさんの名前にびっくりして聞き返すと、「もちろん知っているぜ」とうさぎは当たり前のように答え、納得したようにうなずきました。
「そうかあ、はるきの親戚かあ。どおりでな」
 何に納得したのか聞くよりも先に「ゆうきって呼んでいいか?」と聞かれて反射的に「うん」と答えてしまい、にかっと笑ったうさぎから「よろしくな、ゆうき」と小さな前足を差し出されてそっと握手をしたゆうきは、とうとうおじさんのことを聞きそびれてしまいました。
 それからしばらく、うさぎと一緒に音楽会の会場を歩きながらボールペンのことを知っている動物はいないか聞いて回りましたが、残念なことに手がかりは見つけられないままリハーサルの時間が終わってしまいました。ゆうきはうさぎと一緒にくまが出店しているテントの前で休憩することにしました。うさぎは出演者と出店者、それから出演者の「出待ち」をしているファンと思われるおそろいのリボンをつけた一団にまで聞き込みをしてくれましたが思うような情報が得られず、長い耳をうなだれて申し訳なさそうにゆうきに言いました。
「ごめんな。なんの手がかりも見つけられなくて」
「ううん。こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
 ボールペンの手がかりが見つからなかったことは残念でしたが、うさぎが一生懸命聞いて回ってくれたことが嬉しく、ついさっき出会ったとは思えないくらいに言葉を交わすようになっていました。
「あっ、そういえば、きみはリハーサルしなくて大丈夫なの、聞き込みをしている間に終わってしまったみたいだけど」
 ボールペン探しですっかり忘れていましたが、たしかうさぎは自分も出演者だと言っていたはず。思い出して尋ねたゆうきの言葉に、うさぎはちょっと困ったように間を空けてから気まずそうに答えました。
「ああ、うん。実はおれ、さっきは出演者って言ったけど、本当はプログラムには載っていないんだ」
 どういうこと、と黙って首をかしげるゆうきに、うさぎは続けてぽつりぽつりと話し出しました。
「音楽会の出演者はエントリー制でさ。毎月オーディションで決まるんだ。オーディションに受かったら森でいちばんのバンドと共演できる。実力でチャンスをつかみ取るってわけ。もちろんおれも毎月エントリーして、この間のオーディションも受けたんだけど、結果はまあ見ての通り。落選したんだ」
「そうだったんだ」
「おまえに会ったとき、かっこつけたくってあんなことを言っちゃったんだ。ごめんな」
 切り株に腰掛けて足をぶらぶらさせながら笑ったうさぎの顔はなんだか無理やり笑っているように見えました。
「結構厳しいんだね。誰でも出られるわけじゃないんだ」
 なにか励ますような言葉をさがしましたが気の利いた言い方もできずにうつむきながら声をかけると、うさぎは沈んだ気持ちを払い去るように言いました。
「ところがどっこい、そうでもないんだ。ライブの最後にはいちばん人気のバンドがトリを飾るって決まっているんだけど、なんとそのトリの前に飛び入りコーナーがあるんだ!オーディションに落ちてもそこで名乗りを上げればステージに上がることができる。まあ度胸はいるけどな。プログラムに載っていないから『誰だあいつ』って顔でみんなに見られるし、下手なパフォーマンスなんかしようものなら客席からどんぐりやら栗のいがやらが飛んでくる」
 慣れた口ぶりを聞く限り、このうさぎは飛び入りコーナーの常連のようです。「とちの実を投げられたときはさすがに痛かったな」と感慨深げに語るうさぎの様子はどこかあっけらかんとしていて、一緒にいるとこちらまで明るくなるようでした。
「でも悪いことばかりじゃないぜ。飛び入りだって立派なチャンスだし、過去には飛び入り枠からアンコールの嵐で一夜にして人気ナンバーワンにまでなったやつだっていたって話だ。そいつのことはこの音楽会の伝説になっていて、未だに記録を塗り替えたやつはいない。共演したバンドメンバーもすっげえやつだって言っていたらしい」
 いつかおれも伝説のステージに立ってみんなをあっと言わせるんだ、と黒い瞳をきらきらさせながら話すうさぎはとても楽しそうで、「がんばってね」と返すと「おうっ」と前歯を見せて笑いました。
 ゆうきが森に入ってからいつのまにか太陽が空の真上に昇り、薄暗い森の中にも光が差し込んできました。立て続けに起こった不思議なことのせいですっかり忘れていましたが、もうお昼ごはんの時間です。「腹へったなあ」と切り株の上にに寝転んでお腹をさするうさぎの横でゆうきのお腹の虫も鳴りそうです。リハーサルを終えた動物たちは本番前の腹ごしらえをしています。野菜を煮込んだスープや木の実の入ったパイなど、そこかしこで美味しそうな食べ物の香りがします。いいなあ、と思いながら眺めていると、後ろから「さしいれだよう」とくまの声がしたかと思うと、目の前に木彫りの深皿に盛られたカレーが運ばれてきました。
「うっまそー!いいのか?」
「新作の夏野菜カレー。味見してみて」
 あつあつのカレーからはスパイスの香りがして、とても食欲をそそられます。食べてみたい気持ちはやまやまだけれどお財布を持ってこなかったゆうきはおずおずとくまに尋ねました。
「あのう、お金は・・・」
「いいよう、そんなの。気にしないで」
 くまはにこにこと気のいい笑顔で返し、「冷めないうちに召し上がれ」と付け加えてカレーのお皿と同じ木でできたスプーンを手渡しました。スプーンを受け取ったもののもじもじしているゆうきの隣では遠慮なく食べ始めたうさぎが「うっめえ!」と舌鼓を打っています。うさぎのまねをするように一口食べると、ほどよい辛さとまろやかな甘みが口の中に広がりました。ごろごろとしたなすやかぼちゃ、ズッキーニなどの夏野菜は柔らかく煮込まれてとろりと溶けてしまいそうですが、決して煮くずれることはなく絶妙な火加減で丁寧に下ごしらえをされていることがわかります。
「おいしい・・・」
 うさぎと並んでぱくぱくとカレーを食べるゆうきの様子を、くまが横にしゃがんでにこにこしながら見守っていると、カレーのにおいにつられたほかの動物たちもやってきて「おーい、こっちにも一杯くれよー」「三匹ぶん予約しておいてくれない?」と注文が殺到し、瞬く間にくまのテントは大忙しになりました。音楽会の開場前から売り切れてしまいそうな勢いのくまのカレー屋さんの端っこのほうで残りのカレーを食べていると「あらあら、大?盛じゃない」という低い声が聞こえました。声のしたほうを見ると、ばっちりステージメイクをしたひつじときらきらした衣装に身を包んだきつねがこちらにやってくるのが見えました。
「す、すごく、すごいですね・・・」
「それ、どういう意味?」
 とっさに出てしまった率直な感想を聞き逃さなかったひつじに追及され、ゆうきはたじろぎながら「すごくきれいって意味です」とごまかしました。褒められたのだと前向きに受け取ったひつじは満足そうに「うふん、ありがと」とごきげんそうでした。ゆうきはひつじのうしろでうつむきがちに衣装の裾をつまんだり離したりしているきつねのほうを見ると「きみも、きれいだね」と声をかけました。きつねはさっと頬を朱く染めると「べつに、無理に褒めてくれなくたっていいんだからねっ」とそっぽを向きました。「素直じゃないオンナはもてないわよ」と口をはさむひつじに「よけいなお世話よ」と言い返しながらも、きつねの頬はそれほど濃いお化粧をしているわけでもないのにほんのり染まっています。きれいなつやのある毛並みにきらきらした銀色の繊細な衣装はとてもよく似合っていて、お世辞抜きにきれいだとゆうきは思いました。
「メイク直しが手間だから、アタシたちはあとでいただくわね」
 と、お店の?盛具合だけを覗くとひつじときつねはその場を後にしました。カレーを食べ終えたうさぎも「おれたちもそろそろ席に行こうぜ」とゆうきを誘い、売れ行きのピークを過ぎて一段落したくまと一緒に客席を確保しにステージの前のほうに向かいました。
「まだ夜になっていないけど、もう始まるの?」
「明るいうちは鳥たちのパフォーマンスなんだ。連中、鳥目だからな。日が暮れてからだと夜目が効かなくて大変なんだ」
 ふうん、とうさぎの説明に納得していると、頭の上でピーヒョロロロ、という声がしました。とんびです。客席に座っていた動物たちから歓声が沸き立ちます。うさぎも座席の上に立ち上がって興奮した面持ちで見上げています。
「やあ、始まったな。とんびの鳴き声が、音楽会の開演の合図なんだ」
 と、くまが教えてくれました。のんびりとしたくまもどこかわくわくしているように見えます。
 そこから先は、目まぐるしくもとても華やかなステージの幕開けでした。正面のステージの端に据えられた木のマイクスタンドには早口のきつつきの司会者がコココココ、とくちばしで木をつつきながら出演者の紹介をし、時折面白いのかよくわからないジョークを交えては観客席を沸かせたり静まりかえらせたりしました。鳥たちのパフォーマンスは団体でのものがメインで、中でも雁の群れたちのぴったりと息の合ったフォーメーションは会場の空いっぱいに広がってさまざまな図形を描き、観客たちを大いに楽しませました。三羽の鳩たちはとぼけたやりとりが笑いを誘うトリオ漫才を披露し、最後は首を前に突き出しながら歩く鳩特有のポーズでステージを後にし、舞台の袖にはけるまで笑いを取り続けていました。
 音楽会の前半、鳥たちのパフォーマンスが終わる頃には少しずつ日が陰り始め、薄暗い森の中に設営された会場には灯りがともり始めました。木々に張り巡らされたつる草とほおずきの飾りがちらちらとオレンジ色の光を放ち、夕暮れ時のロマンチックなムードを演出しています。カアカアとからすが鳴き始めると、一通りパフォーマンスを終えて休憩していた鳥たちはそれぞれの巣に帰っていきました。鳩のトリオ漫才のものまねをして遊んでいた子りすの三兄弟たちは、お母さんりすに「早くしなさい」と急き立てられながらも鳩歩きをしながらぴょこぴょこと会場を後にしました。
「途中で帰る子たちもいるんだね」
「子どもは日が暮れたら帰るんだ。なにかあってからじゃ遅いからな」
 と答えるうさぎは一見幼く見えるのでてっきりまだ子どもなのかと思っていましたが、日暮れが迫っても帰らないところを見るとどうやらおとなのうさぎのようです。屋台のいたちのおじさんに「よう坊主、帰っておねんねしなくていいのかい」とからかわれて「うるせえ」とむきになっていましたが。
「赤い月が顔を出したら、オトナの時間、よ」
 ふっと客席の照明が暗くなり、ステージにスポットライトが当たり、マイクを通して低い声が会場に響き渡りました。ステージの後ろの西の空からは大きな赤く丸い月が覗いています。満月の晩にしか見られない、ちょっと妖しくも美しい月です。ステージでマイクを手にしているのは誰だろう、と身を乗り出したゆうきは声の主を見てびっくりしました。そこには、さっきくまのお店を見に来た時よりもさらに気合いの入ったヘアメイクを施したひつじが赤い月を背に立っていました。白いもこもこの毛は丁寧にカールされ、何かで染めたのか、収穫間近の麦畑のような黄金色に見えます。長いまつ毛も朝焼けのようなうっすらとした紫色に染まって見え、さっき見たメイクが完成形ではなかったことがわかりました。
「メイク直しが手間ってこういうことだったのか」
 ひつじが本番前にカレーを食べなかった理由に納得していると、一度観客に背を向けたひつじがくるりと正面に向き直ったのを合図に、バックバンドの演奏が始まりました。ゆったりとした伴奏に合わせてマイクを握りなおしたひつじが歌いだしたのは、シャンソンでした。テレビの歌番組に出てくる歌手くらいしか見たことのないゆうきにはなじみのない音楽でしたが、ひつじの低い声で歌われる外国の歌詞のメロディーはどこか物哀しく、それでいて包み込むような優しさに満ちていて、このままずっとこの音楽に身をゆだねていたい、と思いました。一曲ソロで歌い終えたひつじが舞台袖に向かって合図をすると、しゃらん、と衣装についた銀の飾りを鳴らしてきつねが歩いてきました。「あ、あの子」と言いかけたゆうきに答えるようにうさぎが小声で教えてくれました。
「あの二匹はコンビで歌っているんだ。メインヴォーカルがひつじで、きつねはコーラス。まだコンビを組んで日は浅いけど、結構評判いいんだぜ」
「なんだかんだ言って、相性がいいんだろうねえ」
 くまの言葉通り、ひつじときつねのステージはなかなか好評でした。本番前はあんなに照れくさそうにしていたきつねはステージの真ん中に出てきた時こそ緊張した顔をしていましたが、ひとたび歌い始めるとまったく別の世界に入ったかのように透き通った声でひつじの歌声にハーモニーをかぶせました。ときどきひつじと目くばせをしながら歌う様子は出会ってから会場に向かうまでのつんつんとした様子とはまるで違っていて、音楽と、そしてひつじを心から信頼して歌っているのが伝わってきます。
「今夜はあのコンビが誕生して初めてのステージなんだ。先月のオーディションで最終選考まで残ったんだけど、あと一歩ってところで落選してさ。今月のエントリーでやっとチャンスをものにしたんだ」
 手拍子をしながら話すうさぎは二匹の初舞台を喜びながらも少し寂しそうな様子でした。ゆうきはうさぎになんと声をかけていいかわからず、「そっか」と短い返事をして黙ってひつじの歌を聞いていました。
「みんなどうもありがとう。これが最後の歌よ。よかったら一緒に歌ってちょうだい」
 ひつじの声で始まった曲は、ゆうきにも聞き覚えがありました。コーラスのマイクを横に移動させたきつねがステージの少し後ろのほうに下がってキュートなダンスを踊って演奏に花を添えました。知らないうちに足でリズムをとっていたゆうきに気づいたうさぎに「ゆうき、この曲知っているのか?」と声をかけられて初めて自分がメロディーを口ずさんでいたことに気がつきました。
「あ、うん。おばあちゃんが好きなんだ」
 何年か前の夏休みにおばあちゃんと一緒に見た歌番組で紹介されていた曲です。前奏を聞いたおばあちゃんは台所から小走りでテレビの前に駆け寄り、「懐かしいわねえ」と言いながら嬉しそうに聞いていました。小学生のゆうきにはまだ歌詞の意味はよくわからず、真っ赤なドレスで歌う歌手の女の人や演奏の雰囲気を「大人っぽいな」と思ったのを覚えています。
「へえ」
 うさぎは何か思いついたように相づちを打つと、そのまま曲が終わるまで黙っていました。
 ひつじときつねのデュオの演奏が好評のまま幕を閉じると、きつつきの司会者のアナウンスがありました。
「ココココ、続きましてはお待ちかね、今夜の大トリを飾るバンドの登場、の前に、恒例の飛び入りコーナーだー!惜しくもオーディションには漏れたが、我こそはと思うエンターテイナーはいるかー?」
 ほとんどの観客たちは最後のバンドが目当てらしく、飛び入りに名乗りをあげる者はいませんでした。バンドのファンと思われるリボンをつけた動物の少女たちは「いいから早くラストの紹介をしてよー」とじれったそうな声をあげました。それぞれがばらばらな反応を見せる中で、ゆうきの隣ではうさぎが椅子の上に飛び乗って大声で叫びました。
「はいはーい!飛び入り、やりまあっす」
 そう言ったうさぎの片方の手はゆうきの左手をしっかりとつかまえていて、気がついたゆうきが手を引っ込めるより先に空中へと掲げられていました。
「今夜はとびきりのゲストと一緒だぜ!」
「え、ええっ」
 ちょっと待って、聞いていないよ、と手を下げようとするゆうきと「今言った」とにやりと笑ううさぎのもみ合いにくまがおろおろしている客席の一角に会場中の視線が集まりました。うさぎの声を聞いて客席に目をむけたきつつきは「えー、おほん」とひとつ咳払いをすると、こう続けました。
「それでは今エントリーのあった、茶色いうさぎの少年と、ええと、ひつじの、子?前へどうぞ」
 アナウンスを聞いて飛び上がりそうになったゆうきでしたが、ひつじのくれたカチューシャをつけておいてよかったと思いました。人間だとばれてしまったときのことはあまり考えたくありません。せっかくこれまで目立たないようにしていたのがうさぎのせいで水の泡です。意気揚々とステージに向かううさぎに手を引っ張られてもなお、「無理だよ、歌なんて。こんなに大勢の前で歌ったことないもん」と食い下がりましたが、うさぎはけろりとした調子で答えました。
「そうなのか。じゃあ今日が記念すべき初舞台ってことだな!」
「そういうことを言っているんじゃないよ」
 全く話を聞かないうさぎにゆうきもいらいらし始め、握られた手を振りほどこうとしました。うさぎは立ち止まってゆうきを見上げて言いました。
「おれ、ゆうきとならいいパフォーマンスができそうだ、ってさっき思ったんだ。な、一緒に歌ってくれないか」
 そう話すうさぎの姿に、先ほどひつじの歌を聞いているときに見せた寂しそうな様子が重なり、思わずゆうきは手を止めました。今日会ったばかりのゆうきのために会場中を走り回ってボールペン探しを手伝ってくれたうさぎ。思うように探せずに耳をうなだれて謝るうさぎ。いつか自分もステージに上がってみんなに聞いてもらうのだと目を輝かせて話していたうさぎ。そんなうさぎの夢が叶えばいいのにな、とゆうきも思っていました。
「本当に、自信なんてないからね」
 それは、夏休み前のゆうきからは想像もつかない一言でした。幼稚園でも小学校でもみんなの前で目立つことは苦手で、学芸会でも目立たない役ばかり選んでいました。運動会や音楽会の本番も、とにかく失敗しませんように、早く終わりますように、とそればかりを考えながら過ごしていました。しかし、今日一日の森での不思議な体験がゆうきをそうさせたのか、赤い月の音楽会のちからなのか、それはゆうき自身にもわかりませんでしたが、今は上手く歌えるかどうかやみんなにどう思われるかという心配よりも、うさぎにも音楽会を楽しんでもらいたい、という気持ちが先に立っていました。うさぎにしか聞こえないくらいの小さな声でつぶやかれたゆうきの返事は、その黒い瞳を輝かせるのには十分でした。
「おれにまかせろ!最高の初舞台をプレゼントするよ」
 弾む足取りでステージに乗ったうさぎに比べて、ゆうきはこわごわ岩の上に片足を乗せました。夜の風をはらんでひんやりとした硬い岩のステージは、ゆうきをこの上なく緊張させました。正面に向き直って目の前を見ると、大勢の動物たちが一斉にこちらを見ています。みんなくちぐちに「誰、あの子」「知らない」「見たことない種類じゃない?」とささやき合っています。バンドの追っかけの女の子たちが明らかに不満そうなのが伝わってきます。どんぐりを投げられたらどうしよう。昼間のうさぎの体験談を思い出して青くなっていると、舞台袖のほうから声がしました。
「やあ、今夜はずいぶんかわいいお客さんだね」
「久しぶりに、楽しめそうです」
「チューニングは済んでいるよ」
 余裕たっぷりにステージへと歩き出した声の主たちは、それぞれ自分の担当楽器が置かれているところで立ち止まると、声をそろえて言いました。
「ようこそ、俺たちのステージへ」
 一瞬の間をおいて、客席からきゃあ、と黄色い声があがりました。どうやら彼らが噂に聞いていた人気ナンバーワンのバンドメンバーのようです。ステージの真ん中に立っているうさぎとゆうきを後ろから取り囲むようにピアノ、ドラムセット、ウッドベースが並んでいます。楽器を携えてにっこりしているのは、立派な角を生やした三頭のしかでした。バンドマンたちの雰囲気に圧倒されているのはゆうきだけではありませんでした。ついさっきまでやる気まんまんで飛び跳ねていたうさぎは、憧れのバンドメンバーに見つめられてすっかり縮こまっていました。
「大丈夫?」
 ゆうきがそっと耳打ちすると、うさぎは「大丈夫、じゃないかも」と震え声で答えました。
「い、いつもは飛び入りコーナーが終わってからトリの演奏って、決まっているんだよ。い、今『ようこそ』って言った?おれの聞き違いだよな?」
「おいおいそりゃあないぜ。そのふわふわの長い耳は飾り物かい?」
「あんまりからかっちゃかわいそうですよ」
「なあ、あいさつは後でもいいじゃないか。そろそろ始めようぜ」
 三頭のしかはそれぞれ性格も異なるようで、最初に声をかけてきたウッドベース担当のしかはいちばん大きな角を持っていて、体の色も濃く、リーダー格のようです。ピアノの前に腰かけたしかは少し薄めのクリーム色のような色の毛並みをしていて、話し方もおっとりとしています。ドラムスティックをくるくると器用に空中に投げ上げてはキャッチしている赤みがかった毛並みのしかはほかの二頭よりも少し若い雰囲気で、演奏するのが待ちきれないと言いたげです。ウッドベースを構えたしかが言いました。
「それじゃあ、始めようか、飛び入りくんたち。適当にコードを弾くから、しっかりついてきてくれよ」
 演奏が始まった瞬間、周りの空気が震えたような気がしました。風など吹いていないのに、前髪がさらりと吹き上げられた感覚です。ステージの真ん中に立ったままのゆうきの様子を見たうさぎが心配そうに「おい、大丈夫か?」とかける言葉も、今のゆうきには届いていませんでした。バンドの演奏を聞いているうちに、体の中に今まで味わったことのない感覚が芽生えているのがわかりました。「適当に弾く」と言われて始まったコード進行は聞いたこともない旋律でしたが、今、ゆうきの中にははっきりとした輪郭で縁取られた言葉が、メロディーに乗って流れ出すのを待っているのです。大きく息を吸い込むと、心のままに歌いだしました。

 星のない夜にだって そうさぼくは歌う   
 よ
 君に届けたくって 空に願ったんだ
 あの日の時の静寂(しじま)に 埋もれてしまう前に
 さあゆこう 黒い海の向こうへ

 取り戻す道の途中に 見つけた羽の欠片
 ぼくらは鳥になって 波の谷間を翔ぶ
 きらめく風に乗って あの街へ帰るため
 に

 鈍色の雨の彼方 そうだ覚えているかい
 君もきっと見ていた 雲の切れ間の光
 その指先に宿る あえかな優しい響き
 時はきた 春の芽吹きを待って

 見つけだす何があっても 今日の旅の記憶
 キャラメルの包み紙に 包んだ魔法の種
 さざめく波の音が あの峰にこだまする

 自転車のペダル止めて 見上げた茜雲
 きっと会いに行くから 風を追いかけて

 だからぼくは歌うよ 月のない夜の森で
 ざわめく木々の羽音に 君への想いのせ 
 て

 バンドメンバーたちは最初こそいきなり歌いだしたゆうきにきょとんとした表情を見せましたが、すぐにおたがいに「おもしろい」と目くばせをし合い、ゆうきの歌声をかき消さないように伴奏に徹しました。ゆうきが緊張で固まってしまったのだと思ったうさぎの表情は隣で歌声を聞いているうちにぱっと明るくなり、たまりきれずに得意のタップダンスを踊りだしました。小さな後ろ足で懸命にリズムを打ち鳴らしながら時折高くジャンプをしたり宙返りをするうさぎのタップダンスはとてもアクロバティックで、つまらなければ投げつけてやろうといが栗やとちの実をつまんで待ち構えていた観客たちも、「ちょっと、よくない?」「あんなタップ、見たことない!」「いいぞ、茶色いの」と声援を送り始めました。歌っているゆうきも途中何度か踊っているうさぎと目が合い、おたがいにっこりと笑い合いました。今顔を合わせたばかりのバンドメンバーたちともいつのまにかすっかり呼吸が合うようになり、言葉を交わさずとも、「今自分たちは最高に楽しんでいる」という気持ちで通じ合っていました。最後のフレーズを歌い終わり、うさぎがフィニッシュのターンを決め、ウッドベースの合図で伴奏が締めくくられてからしばらく、会場はしんと静まったままでした。肩で息をしているゆうきははっと我に返りました。いきなり何をやっているんだろう。途端にこわくなってぎゅっと目をつぶりました。ところが?
「最高ー!」
「アンコール!」
「かわいいー」
 一瞬の間ののち、ゆうきたちに降りそそいできたのは客席からの惜しみない拍手の嵐でした。
「やったぜ!おれたちの最高の初舞台だ!」
 まだ状況が飲み込めずにぽかんとしているゆうきの首の辺りにうさぎがジャンプして抱きつきました。
「おまえ、すっげえなあ。どうやったらあんな声が出るんだ?」
 自分がどんな声で歌ったのかもよくわからず、うさぎにされるがままに揺さぶられていると、しかのバンドマンたちが近づいてきました。
「ブラボー。素晴らしかったよ。ひつじ耳のおちびさん」
「透き通るような歌声でしたね」
「久しぶりにいいものを聞かせてもらった。サンキューな」
 ウッドベースを弾いていたリーダーのしかが客席に向かって声を張り上げました。
「会場のみんな、こひつじのヴォーカリストに今一度盛大な拍手を!」
 わあ、と再び拍手と歓声が沸き上がり、ゆうきは頬が熱くなるのを感じました。ちょっと恥ずかしい。でも嬉しい。こひつじじゃないけど。複雑な感情を整理しきれずにいると、ピアノを弾いていたクリーム色のしかがゆったりとした声で話しかけました。
「素敵な歌をありがとう。僕たちはこの後も演奏するんだけど、よかったら一緒にどうですか?」
 まだぽかんとしているゆうきのかわりにうさぎがあわてて返事をしました。
「すみません、まだこいつぼーっとしているみたいで。今日が初舞台だったもんですから。ちょっと向こうで風に当たらせてきます。ほら行くぞゆうき。ちゃんとお礼を言えよ」
「あ、あの、ありがとうございました」
 こちらこそ、と柔らかく微笑んだクリーム色のしかと別れたゆうきとうさぎはくまのテントの前まで戻ってきました。切り株にすとんと座ったゆうきはまだ体中が熱を持っているみたいで、なんだか手足のちからも抜けてしまったようです。
「おつかれさま。はいこれ、ほてったのどに優しいよ」
 ひんやりとした黄色い液体の入ったグラスが頬に当てられ、びっくりして隣を見るとエプロン姿のくまがお盆を片手に心配そうに覗き込んでいます。
「はちみつ入りレモネード。おいしいよ」
「ありがとう」
 グラスを受け取って一口飲むと、レモンのさっぱりとした酸味とはちみつの優しい甘さが溶け合って、放心状態だったゆうきを落ち着かせてくれました。隣でまだ興奮した状態のまま早口で話し続けているうさぎを「どうどう」と落ち着かせながら聞いているくまとの会話を聞いていましたが、次第にはちみつ入りレモネードの甘さも手伝って、ことん、とねじが切れるようにそのまま眠ってしまいました。メイクを落としたひつじときつねが一杯飲みにくる頃には、「しいーっ」と片手の指をたてたくまがもう片方の手でゆうきを背負い、くるみの殻で作ったランタンを掲げたうさぎを先頭にして音楽会の会場を後にしていきました。

 森の中の音楽会。昨日のことは全部夢なんだ。目を覚ましたときはそう思いました。起きるとそこはおじさんの家の屋根裏部屋のベッドの上で、昨日の朝と何も変わったところはありません。今朝も朝の光が枕元の窓から差し込んでいます。ずいぶん中身の詰まった夢だったな、と思いながらベッドの横の机を見て、昨日のことが夢ではなかったことを思い知らされました。そこには、昨日ひつじからもらったひつじ耳のカチューシャが乗っていたのです。あわててはしごをつたって下の部屋に下りると、そのまま玄関まで飛び出して外の森の様子を見ました。外には誰もおらず、小鳥たちのさえずりだけが聞こえてきます。先に起きていたおじさんがキッチンのほうから声をかけました。
「よう、昨日はずいぶん充実したみたいだな」
「お、おはよう。あの、昨日は帰りが遅くなってごめんなさい」
 夜まで連絡もなしに出かけていたことを怒られるかな、とおそるおそるおじさんのほうを見ました。おじさんはコーヒーを淹れながら答えました。
「言っただろ、帰りたいときに帰ってくればいいって。かなり意外な帰り方だったけどな」
 おじさんが妙に気になる言い方をするので、ゆうきが尋ねると、いたずらっぽく笑って言いました。
「聞きたいか?」
「やめておく」
 おじさんが面白がっているのがわかったゆうきはそこで会話をやめることにし、はやばやと森に出かける支度をしました。「ずいぶん急ぐんだな」と言うおじさんに「確かめたいことがあるんだ」と早口に返事をし、玄関から転がり出るように森に向かいました。念のためにひつじ耳のカチューシャをつけて行きました。
 昨日ボールペンを落とした大木の辺りまでくると、動物たちがどこかに隠れていないか見回しては近くのしげみや木陰を覗いて回りました。どこにいるのか見当もつかないまま声をかけました。
「おはよう。誰もいないの?昨日、家まで送ってくれたんだよね。ありがとう」
 しばらく待っても返事はなく、もうあきらめて帰ろうかとしげみに背中を向けたそのとき、「おっはよー。待っていたぜ、おれの相棒」と聞き覚えのある声がして、茶色い耳が飛び出しました。へへへ、と鼻をこすりながら笑う姿は間違いなく、昨日一緒に音楽会のステージに立ったあのうさぎです。ゆうきはほっとしてしげみに駆け寄りました。
「昨日、途中で寝ちゃったみたいで。ちゃんとあいさつできなくてごめんね。ほかのみんなにも」
「いいっていいって。気にするなよ。ほかの連中もみんな、楽しかったって言っていたぜ」
「家までおんぶしてくれたの、くまさんだよね。お礼を言いたいんだけど」
「それなら、今からあいつの店に行かないか?おれ朝めしまだなんだ。ついでに何か食べさせてもらおうっと」
 ちゃっかりした調子でぺろりとちいさな舌を出すうさぎの案内で、くまのお店まで行くことになりました。くまのお店は昨夜の音楽会の会場よりも西にずれたところにあり、桜の木がたくさん生えた日当たりの良い場所にありました。大きな切り株の表面にふっくらとした文字が彫られています。
 
 くまカフェ〈ハニーオーブン〉すぐそこ
 
 切り株から少し歩いた先にとても太い桜の木があり、根本のほうに木の扉が付いています。背の届かないうさぎのかわりにドアノブをひねると、ちりん、と扉についた鈴が鳴り、奥のほうから「いらっしゃいませえ」とのんびりした声がしました。お店の中は甘くて香ばしい香りでいっぱいです。ゆうきは急いで出てきたので朝ごはんを食べてこなかったことを思い出してお腹をさすりました。奥の厨房から出てきたくまはエプロンで手を拭きながらゆうきとうさぎを見ると目じりを下げて笑いかけ、「いらっしゃい。よく来たねえ」と言ってカウンター席に案内しました。太い丸太を半分に切って丁寧にやすりをかけたすべすべのカウンターの板は木の年輪が縞模様に重なっています。背もたれのついた椅子には手作りと思われるクッションカバーが乗っていて、その大きさはゆうきが座っても体が埋まりそうになるくらいです。隣を見ると、うさぎはクッションをふたつ重ねて座り、ようやく頭がカウンターから覗くくらいです。
「なあ、なにか食べさせてくれよう。なんでもいいからさあ」
「なんでもいい、っていうのがいちばん困るんだよねえ」
 とりあえずこれでも飲んでいて、とくまがゆうきとうさぎの前に差し出したのはほかほかと湯気の立ったマグカップでした。
「はちみつ入りホットミルク。ほっとするよう」
「おまえって本当にはちみつ好きだよなあ」
 ゆうきも同じことを思いました。昨日のはちみつ入りレモネードといい、くまの作る食べ物や飲み物がどこか優しい味がするのはきっとはちみつが入っているからなのだろうと思いました。あたたかいホットミルクにふうふうと息を吹きかけて一口飲んでから、くまに昨日のお礼を言わなければと思い出し、カウンターの奥で大きなお鍋に火を通しているくまの大きな背中に向かって話しかけました。
「あ、あの、昨日は家まで送ってくれてありがとう」
「ああ、ちゃんと眠れた?ずいぶん疲れているみたいだったけど」
「レモネードを持ったまま、こてん、って寝ちまったよなあ。帰り道も全然起きなかったし」
 道案内はおれがしたんだぜ、といううさぎにもお礼を言い、「お待たせしました。モーニングハニースペシャルです」と言ってくまが出してくれた朝ごはんを一緒に食べました。「ハニースペシャル」というだけあって、ふかふかのパンケーキには生地にもはちみつが練りこんであり、ヨーグルトとはちみつが混ざったソースは甘すぎずさっぱりしていて、分厚いパンケーキもぺろりと平らげました。カリカリに焼いたベーコンにはハニーマスタードがかかっていて、今まで食べたことのない味でしたがとてもおいしいと思いました。
 ボリュームのある朝ごはんを食べ終えたあと、「森の中を案内してやるよ」とうさぎに誘われて、くまカフェをあとにしました。森の東側にはくぬぎやこなら、ぶなの木など、どんぐりの実る木が数多く生えていました。木の上のほうを見ると小さな丸い穴が開いています。
「この辺りはどんぐりみたいな木の実もたくさん採れるし、背が高くて堅い木が多いからりすたちがこぞって巣を作る人気の場所なんだ」
 うさぎの説明を聞きながらふと木の上を見ると、木の幹の真ん中辺りで何かがきらりと光るのが見えました。何だろう、と思って目をこらして見ていると、一匹のりすがするすると木の幹をつたって下りてくるのが見えました。背中に何か細長いものを背負っています。りすは、ゆうきの目線の高さと同じくらいの枝まで下りてくると、はあはあと小さく息を切らしながら言いました。
「あなた、昨日の音楽会で飛び入り参加した子よね?わたしは家で子どもたちを寝かしつけなきゃならなかったから聞けなくて残念だったわ。今朝になってご近所さんから聞いてもうびっくり。飛び入りで歌った子が会場で探しものをしていたって聞いて、昨日からうちの玄関にあるものを見てもしかして、と思って。さっきあなたが来るのを見てあわてて持ってきたのよ」
 そう言って背中に背負っていた荷物を外したりすが見せたのは、間違いなく昨日ゆうきが落としたボールペンでした。
「これ・・・」
「ゆうきが落としたボールペンで間違いないのか?」
「うん。ここのところにおばあちゃんが名前を入れてくれたんだ。イニシャルだよ」
 ゆうきが指差したボールペンの先の部分には、「村本ゆうき」の頭文字のアルファベットが刻まれていました。
「見つかってよかったな。でもなんでこんな東の外れにあったんだろうな。落としたのはもっと南のほうだったろ?」
 うさぎの何気ない言葉に、りすはちょっぴり決まりが悪そうに「それが・・・」と話し出しました。
「あなたの落としものをここまで持ってきたのはうちの子どもたちなの。昨日の昼間、南の湖のほうに遊びに出かけていて、わたしがちょっと目を離したすきに。まったくあの子たちときたら」
 りすのお母さんは見慣れないボールペンを持ってきた子どもたちを家まで連れ帰り、まさかゆうきが探しているとは夢にも思わずそのまま玄関に置いておいたのでした。「本当にごめんなさいね」と申し訳なさそうに頭を下げるりすのお母さんはどこか見覚えがありました。昨夜の音楽会の鳥たちのパフォーマンスのあと、鳩の漫才のものまねをしながら帰る子りすの三兄弟を??りつけながら帰っていた、あのお母さんりすでした。
「見つけてくれて、ありがとう」
 ゆうきはりすにお礼を言い、どんぐりの木立をあとにしました。森の南にあるはるきおじさんの家に戻る途中、うさぎが「おれのひみつの場所に案内してやる」というのでついて行くことにしました。「ひみつの場所」というだけあり、うさぎくらいの小さな動物でなければ通れないのではないかというようなせまい道をいくつもくぐり抜けました。ゆうきはなんとか肩をすくめて通り抜けたものの、シャツの背中が草だらけになりました。
「着いたぜ。ここがおれのとっておきの場所」
 先を歩くうさぎの声に前のほうを見ると、細い小道の先はぽっかりと開けた小高い岩場になっていました。体中についた草や葉っぱを払ってから辺りを見回すと、気持ちのいい風が通り抜けていきました。
「いいところだね」
「だろ?ここでいつも、ダンスの練習をしているんだ」
「昨日のダンス、すごかった。誰かに習ったの?」
「習う?まさか。おれのは全部自己流。小さい頃、うまが蹄を打ち鳴らして踊るタップダンスを見たんだ。そりゃもうかっこよくてさ。おれも絶対やってやるって思った。けどタップダンスをやろうなんてうさぎは周りに誰もいなくてさ。初めてオーディションにエントリーしたときなんて『そんなちっぽけな足で何ができるんだ』って門前払い。大勢の観客の前で最後まで踊ったのはおれも昨日が初めてだったんだ」
「全然、そんなふうには見えなかったよ」
 へへへ、と照れるように笑ったあと、うさぎはなにかを思いついたようにゆうきのほうに向き直って言いました。
「なあ、ゆうき。おれに名前をつけてくれないか?おれたちはさ、人間みたいに一匹一匹を呼ぶ名前ってものがないんだ。茶色いうさぎ、とかでっかいくま、とかそんな呼び方しかなくて。おれ、ずっと名前がほしかったんだ。な、おれの名前を考えてくれないか」
 いきなり一緒に歌おうと言ったかと思えば、今度は名前をつけてくれとせがんだり。この薄茶色の小さなうさぎはいつも、ゆうきが想像もしないようなことばかり言います。戸惑ったり困ったりもしましたが、そんなうさぎのペースに振り回されることがそれほどいやではない自分の気持ちに気づいていました。「誰かの名前なんて考えたことないよ」と言うゆうきに「いいんだ、ゆうきが決めた名前なら」とわくわくした様子で待っているうさぎを見て、ゆうきは少し考えて間をおいてから思いついた名前を告げました。
「きみはこれから、何にでもなれる、きっとなる。だからきみの名前は、『ナル』。『きっとなる』の、ナル」
「ナル・・・きっとなる。必ずなる。おれの名前はナル、ナルだ!」
ゆうきから名前をもらったうさぎのナルは、くるくると回りながらゆうきのそばを飛び跳ねて即興のダンスを踊りました。ゆうも手拍子をしながらナルのダンスをまねしました。ひゃっほう、と最後に宙返りをして着地したナルが思い出したようにゆうきに尋ねました。
「そういえば昨日歌った歌、いい歌だよな。なんていう歌なんだ?」
「ああ、ええと、実はあの歌、昨日行き当たりばったりで歌った歌なんだ。バンドの音楽を聞いていたら、なんとなく歌詞が浮かんで」
「なんとなくで歌詞って浮かぶものなのか?すげえな」
「わかんないよ、作詞なんてしたことないし。適当だよ」
「昨日の歌詞、覚えているか?」
「たぶん」
 かばんから手帳を取り出して、さっきりすに返してもらったボールペンで昨日歌った歌詞を書き留めていきました。全部書き終えると、ナルがゆうきの膝に前足を乗せて手帳を覗きながら言いました。
「この歌にも、名前をつけようぜ」
「ナルは名前をつけるのが好きだね」
「名無しはかわいそうじゃんか」
 耳を低くさせて口を尖らせるナルにゆうきは笑って言いました。
「それじゃ、今度はナルがこの歌に名前をつけて」
「いいのか?」
 ぱっと顔を輝かせるナルに「もちろん」とゆうきが答えるとそれからしばらくナルは「うーん」と考え込んだままぱたりとしゃべらなくなりました。手持ちぶさたになったゆうきはナルが名前を考えている間に昨日の歌のメロディーをハミングで歌いながら思い出していました。三番の歌詞まで三回メロディーを繰り返した頃、ようやくナルが顔を上げました。「決まった?」と聞くゆうきに、ナルは歯切れの悪い口調で答えます。
「笑わないか?」
「場合によっては笑うかも」
「なんだよそれ。やっぱり教えるのやめた」
「冗談だよ。自分で考えた名前を初めて言うのって緊張するでしょう?さっきナルに名前をつけて、って言われたときがそうだった」
「そうか。名前をつけるのって、こんなにどきどきするんだな」
 一呼吸おいてから「じゃあ言うぞ」と姿勢を正したナルが口を開き、小さく息を吸い込んでから言いました。
「『森の旅の詩(うた)』。おれはこの森から出たことがないから、ゆうきの歌に出てくる知らない街や海や深い山にすごく行ってみたくなった。ゆうきの歌を聞いていると、まるで自分も旅をしているみたいな感じがしたんだ」
 『森の旅の詩』。初めて聞いたのに、とてもしっくりくる気がしました。ゆうきは自分でも何度も繰り返して言うと、ナルのほうに向き直って言いました。
「とってもいい名前だよ。ずっと前からこの名前だったみたいにぴったりだ。ありがとう、ナル」
 そんなにいいか?と耳のうしろをかいて照れるナルの前でもう一度手帳を開き、歌詞のいちばん上のところに『森の旅の詩』と曲名を書き足しました。タイトルのついた歌は、ジグソーパズルの最後のピースがぴたりとはまったときのように格好良く見えました。
 それから、ナルと一緒にもう一度『森の旅の詩』を歌いました。ナルはゆうきにタップダンスの基本のステップを教えてくれました。太陽が空の真上に昇った頃、ゆうきはそろそろ家に帰ることをナルに伝えました。ナルは来た道より少しは広く通りやすい道を案内して、森の南にあるおじさんの家まで送ってくれました。別れ際にしげみの前で「明日もこいよな」と言うナルと約束をし、ナルの丸いしっぽがしげみに隠れるのを見送って家に入りました。
 玄関に入って「ただいま」と言いましたが、おじさんの返事がありません。おかしいなと思って靴を脱いで部屋に入ると、どことなく家の中ががらんとしているような気がしました。ソファの前のテーブルの上に紙きれが置いてあるのを見つけました。こう書かれています。

 ~はるきの手紙 その二~

 悪い。急な仕事が入っちまってしばらく帰れない。留守は頼んだ。ばあちゃんに様子を見に来るように頼んであるから心配するなよ。じゃあな。
 
 手紙というよりもメモに近い短い文章はゆうきの知りたいこと全てには答えてくれませんでしたが、少なくとも今日からしばらくの間この家に自分ひとりになるのだということだけははっきりとわかりました。夏休みの間ゆうきを預かると約束したはずのおじさんが二日めにして家を留守にしたことをお母さんが聞いたらひどく心配したあと「全く無責任なんだから」と怒り出すでしょう。おばあちゃんも同じく、それ以上に怒りそうだと安易に想像することができました。一方的な手紙を読んだ直後は「おじさんのばか。自分勝手」とふつふつと怒りがわいてきましたが、そのうち「おじさんだから仕方ないか」という諦めにも似た気持ちが浮かんできて徐々に納得していきました。思えば最初の出会いから、いえ、出会う前から迎えに来る約束をすっぽかして悪びれもしなかったおじさんです。昨日の朝ホットケーキを焼いてくれたことのほうが意外なくらいでした。
「おばあちゃんも来てくれるみたいだし、まあいいや」
 昨日の朝からびっくりすることの連続で頭の中がごちゃごちゃになっていたゆうきにとって、ひとりになって静かに考えごとができる空間にいられることはちょっとラッキーだと思いました。とはいえ、動物たちとのやりとりについておじさんに聞きたいこともあったのでその部分は残念だと思いました。ナルに自己紹介をしたとき「はるきのところの子か」とおじさんを知っている口ぶりだったことについてです。帰ってきたら質問攻めにしてやる、とささやかな反撃計画を立てました。
 キッチンに行って手洗いとうがいを済ませたあと、くまカフェで朝ごはんを食べてからずいぶん時間が立っていることに気がつきました。ナルと一緒に森の中を歩き回ったのでお腹がぺこぺこです。何かないかと冷蔵庫の中を探ると、牛乳と卵とバター、それにバスケットの中には食パンがありました。調味料棚にはお砂糖もあります。はるきがああ見えて料理をするのは気まぐれというわけでもなさそうだと思いました。
「フレンチトーストを作ろう」
 くまカフェでモーニングハニースペシャルを食べ終えて食後のデザートに採れたてのラズベリーを食べていたゆうきにくまが「これ、おみやげ」と言って瓶詰めのはちみつと白樺の木の皮に書いたレシピを持たせてくれました。レシピには「くまカフェ特製フレンチトースト~自家製はちみつでもっとおいしく~」というタイトルに続き、くまご自慢のはちみつを使ったフレンチトーストの作り方が書いてありました。「よかったらおうちで試してみてねえ」と言っていたくまのレシピをこんなに早く実践することになるとは思わず、面倒見の良いくまに心の中でお礼を言いました。
「ええと、卵と牛乳とお砂糖を混ぜて、パンをひたす。あ、その前にはちみつを入れるのかあ」
 普段はお母さんの作るお料理を食べることがほとんどで、学校の調理実習くらいでしか料理らしい料理をいたことがないゆうきにとってはなかなか苦戦しながらの調理になりました。卵と牛乳を混ぜた卵液が思うようにパンにしみこまなかったり、バターをひいたはずのフライパンに乗せたパンがこんがりとこげてしまったり。たぶんくまカフェ特製フレンチトーストはもっとおいしいのだろうな、と思いながら生まれて初めて作ったちょっと固めのフレンチトーストを食べました。
 フレンチトーストとミルクでお昼ごはんを済ませたあとはソファに寝転んで少しうとうとと昼寝をしました。一昨日の夜にこの家に来てから、ぐっすりと深い眠りについていることに気がつきました。一学期の終わり頃にクラスメイトの声が聞こえなくなり始めた頃はなかなか夜に寝付くことができず、朝も起きられないことが増えていきましたが、今はそんな日々が遠い昔のことのように思えます。あれほどこわいと思っていた薄暗い森の中でさえも、今のゆうきにとってはもっと知りたくてたまらないわくわくした場所になっていました。明日はどんなことが起こるかな。ナルと何をして遊ぼうかな。今日行かなかったところへ行ってみよう・・・
 そんなことを考えているうちに、どれくらいの間眠っていたでしょうか。目を覚ますと日が陰っていて部屋の中が薄暗くなっています。「ずいぶん寝ちゃった」とあくびをしていると、玄関のほうで物音がしました。誰かいる?まさか。くまかな。もしそうだったらフレンチトーストの作り方のコツを聞こう。とのんきに考えていたゆうきの予想に反して物音の主は玄関の鍵を開けるとひどく慌てた様子で部屋に入ってきました。
「ゆうきちゃん、いるの?お部屋が真っ暗だし呼んでも返事がないし・・・ああもう、はるきはなんだってこんなところでひとりぼっちにして」
 ゆうきの予想通り、おばあちゃんはひどく怒っていました。そして、それ以上にとてもゆうきのことを心配してくれていました。おじさんからの電話はお昼を過ぎた頃にかかってきたことを説明し、街に買い出しに出ていて来るのが遅れたことを何度もゆうきに謝ったあと、おばあちゃんは持ってきた包みを取り出しました。
 おばあちゃんが持ってきてくれた食べ物は温めればすぐ食べられるような野菜たっぷりのスープや、スライスしたパンに銀紙で包んだチーズなど、日持ちがして栄養のありそうなものばかりでした。「これは使わないかもしれないけれど、防腐剤代わりに持ってきたの」と言っておばあちゃんが取り出したパセリの葉を見たゆうきは、あることを思いつきました。
「おばあちゃん、バターライスの作り方、教えて」
 それから、キッチンに行っておばあちゃんに教わりながらバターのオムライスを作りました。お鍋におじさんが作ったビーフシチューが残っているのを見たおばあちゃんが「これでデミグラスソースを作りましょう」と言って、持ってきたきのこを刻んで煮込み、こってりとしたデミグラスソースを作ってくれました。とっぷりと日が暮れる頃にはキッチンからおいしそうなにおいがただよってきていました。
 その日の夕ごはんはおばあちゃんと一緒に食べました。普段大きな古い家にひとりで暮らしているおばあちゃんは「誰かと一緒に食べるのはおいしいねえ」と嬉しそうに言いました。ゆうきも、大好きなバターのオムライスを大好きなおばあちゃんと一緒に食べるといつもよりもっとおいしく感じられました。  
夕ごはんの後、おばあちゃんの手作りのシナモンクッキーを食べながらはちみつ入りの紅茶を飲んでいるとおばあちゃんがテーブルの向こうから心配そうに覗き込みながら言いました。
「ねえ、ゆうきちゃん。もしよかったら、おばあちゃんの家に来ない?はるきは勝手に行ってしまうし」
 もともとはおじさんの家よりもおばあちゃんの家で過ごしたいと思っていましたが、この二日間でゆうきの気持ちが少し変わっていました。もう少しこの森の中の家で過ごして確かめたいことがありました。ゆうきはおばあちゃんの申し出に対してとても嬉しく思っていること、自分はこの家でひとりでも大丈夫だということをひとつひとつ言葉を選びながら伝えました。おばあちゃんは心配そうに聞いていましたが、一日おきに様子を見に来るという条件つきで認めてくれ、戸締まりと火の元に気をつけるようにと何度も繰り返して帰って行きました。帰る前におばあちゃんは、「これからごはんもひとりで作るのなら役に立ちそうだね」と言ってご近所の牧場でわけてもらったのだというハムやベーコン、燻製のソーセージをくれました。その牧場にはゆうきも小さい頃から何度か行ったことがあり、牧場主のご夫婦の手作りハムはゆうきの大好物でした。
 次の日から、ゆうきのほぼひとり暮らしの生活が始まりました。と言っても、ほとんどの日のお昼ごはんをくまカフェでごちそうになり、日暮れまでナルや動物たちと過ごすことが多く、あまりひとりで暮らしているという感じはしませんでした。朝ごはんだけは自分で作りました。おばあちゃんの置いていってくれたハムやベーコンをフライパンでカリカリに焼いて、その日の気分によって目玉焼きやスクランブルエッグにした卵と一緒にパンに乗せて食べました。一日おきに様子を見にきてくれるおばあちゃんは夕ごはん用にと作り置きのおかずを持ってきてくれました。おばあちゃんがきてくれた日には、必ず二人で夕ごはんを作って一緒に食べました。おばあちゃんは「毎日パンばっかりじゃ飽きちゃうでしょう」と、お味噌汁の作り方や簡単な煮物の作り方も教えてくれました。お味噌汁に使うお味噌はおばあちゃんのお手製で、普段食べているスーパーで売られているお味噌とはひと味もふた味も違うものでした。

 昼間は家から持ってきた夏休みの宿題をやらなければなりませんでしたが、毎年手を焼いていた自然観察の宿題が面白いくらいにはかどりました。ナルが教えてくれる食べられる木の実や毒きのこの見分け方のほかに、子りすの三兄弟のおかげでどんぐりの種類にもずいぶんくわしくなりました。ナルの案内で森の端から端まで歩き回り、森の中で知らない名前の木はなくなりました。
 くまカフェの庭では毎日三時のおやつの時間にしかのバンドの演奏があり、森中の動物たちが集まりました。毎日ファンの女の子たちが手作りのさしいれを持って聞きにきているのを見たナルは「ちぇっ、角が生えているだけじゃんか」と負け惜しみを言いました。ゆうきもときどきバンドに混じって歌をうたいました。音楽会の翌日に会えなかったひつじが興奮気味に「あーた、なかなか筋がいいじゃない」となかば無理やりシャンソンを教えてくれました。ひつじはシャンソンだけではなく、基礎的な声の出し方も教えてくれました。ボイストレーニングの合間に語るひつじの過去の恋の物語は妙にドラマチックで、毎回違う相手が登場するたびにこっそりナルと顔を見合わせました。
 こんな調子で森での暮らしが過ぎていき、気がつけば八月も半ばを過ぎていました。短い北の夏は終わりが近いことを告げ、風は日に日に秋めいていきました。いつものようにナルのひみつの場所で歌の練習をしていると、ふいにナルが話題を変えました。
「なあ、人間には夏休みっていうのがあるんだろ。夏休みが終わったらゆうきは元の家に帰るのか?」
 それはいつか訪れる瞬間でした。ナルの言う通り、二学期が始まる前にはゆうきは東京の家に帰らなくてはなりません。本当のことを伝えるのがこわくて黙っていると、ナルが前足をゆうきの膝において堰を切ったように話し出しました。
「なあ、夏休みが終わってもここにいられないのか?ガッコウっていうのは、この辺りにもあるんだろ?あの家で暮らして、そこから近くのガッコウに通えばいいじゃんか。そうしたら、今までみたいに毎日会えるだろ。な、おれ、ゆうきと離れたくないよ。ずっと一緒にいたいよ」
 ナルの言葉は最後のほうになればなるほど震えているように聞こえました。ゆうきもナルと同じことを思っていました。このままずっと夏が終わらなければいい。二学期になってもその先もずっと一緒にいられたらどんなにいいか。ここのところ毎晩のように考えていましたが、悩みながらもゆうきは自分なりの答えを出し、そっとナルの頭に手を置いて言いました。ゆうきの返事を待つうちにしゅん、と耳をうなだれていたナルがはっと顔を上げました。
「本当はそうしたい。このままずっとここにいたい。だけど今はまだ、帰らないといけない家があるんだ。パパとママのいる家に帰って、向こうの学校にも行かなきゃならない。こわいけど、その先に新しい自分が待っている気がするんだ」
 ゆうきの言葉も、震えていました。ナルは瞳を潤ませたまま黙ってゆうきの話を聞いていました。
「冬になったらまた長い休みになるから、会いに来るよ。また冬の森で一緒に遊ぼう」
「冬毛のおれは見違えるくらい男前だぞ」
「期待はしないでおくね」
 いつものようにお互いちょっとふざけたやりとりをしてひとしきり笑い合ったあと、ゆうきはナルの小さな体をぎゅっと抱きしめ、ぴょこん、と動く長い耳のあたりに顔を寄せて言いました。ふわふわの毛並みからはおひさまの香りがします。小高い岩場にさらりと秋風が吹き抜けました。

「大好きだよ、ナル。世界でいちばん、大好きだ」

 ナルと分かれて家に戻ると、灯りがついていました。そこに誰がいるのか、一目でわかりました。数週間ぶりに会うおじさんはどことなくくたびれて見えました。ひげも生えています。ですが、初めて会ったときのようにけろりとした調子は変わりません。
「よう。元気そうだな」
「おじさんは全体的にほこりっぽいね」
 おじさんは出かける前に比べて日焼けした肌から白い歯を覗かせてははは、と笑いました。
「それで、森はどうだった」
 単刀直入に聞くおじさんの様子に「やっぱり何か知っているんだ」と確信したゆうきも遠慮せずいちばん知りたかったことを尋ねました。
「おじさんも、聞こえるの」
「ああ」
「どうして言ってくれなかったの」
「最初に言っていたらおまえは信じたか?それでも森に行ったか?こういうのは自分でつかみ取るしかないんだよ。うちの家系には時たまこういう『ちから』を持ったやつが生まれる。思春期ー今のおまえくらいの年頃だな。その時期に顕れ始める『ちから』を安定させる方法はひとつしかない。自分の目で確かめることだ。こればっかりは誰かに教わってどうにかなることじゃないんだよ」
「おじさんは、普通に学校に通うのがいやにならなかったの」
「なったよ。しんどかった。おまえも感じただろう。あの何とも言えない気持ち悪い感覚。ある日突然、自分の言葉が周りに通じなくなって、誰にもわかってもらえない世界に入っちまったみたいな気分になる。逃げたい、隠れたい。でもそれが本来の姿なんだ。もともと、自分のことをそっくりそのままわかってもらえる世界なんて最初からどこにも存在しないんだよ」
 今のゆうきにはおじさんの言っていることを全部理解することはできませんでした。おじさんに言われた言葉がぐるぐると頭の中を回り始めました。そんなゆうきの様子を見かねたおじさんは「まあ座れよ」とソファに促し、黙ってキッチンに行くとしばらくしてマグカップをふたつ持って戻ってきました。
「とりあえずそれ飲んで落ち着け」
 目の前に置かれたマグカップの中身を見たゆうきはびっくりして顔を上げました。真っ白なほかほかのミルクの中にほんのりと香る黄金色のはちみつ。優しいくまを思い出して、じんと目の奥のあたりが熱くなりました。
「飛び入りで歌ったんだってな。なかなかやるじゃないか」
 ゆっくりと冷まして飲んでいたはちみつ入りホットミルクを吹き出しそうになり、あわてておじさんのほうを見ると案の定、口の端っこだけをきゅっと上げていたずらっぽく笑っていました。
「バンドの連中が言っていたよ。俺以来の伝説を見た、ってな」
 ゆうきは音楽会の夜にナルが教えてくれた飛び入り枠から人気ナンバーワンになった伝説のパフォーマーの話を思い出しました。目を白黒させているゆうきの前でおじさんはソファの陰から楽器ケースを取り出し、古びたバイオリンを構えました。
「答え合わせの時間だ」
 そう言っておじさんが奏で始めた旋律は、ゆうきがこの夏ナルと一緒に繰り返し歌った『森の旅の詩』のメロディーだったのです。
「歌えるんだろう?今頃森のどこかで聞き耳をたてているだろうさ」
 おじさんのバイオリンに答えるように、ゆうきは歌い始めました。あの赤い月の夜のように、バイオリンの音色とゆうきの歌声が響き渡りました。遠くのほうで軽やかなタップダンスのリズムが聞こえたような気がしました。
 
 明日から新学期がはじまります。



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青井青/堀由美(drop_glass)
児童書・童話
憧れのあの子の声を聴きながら、『僕』が人として生きていた中学三年の春、世界は崩壊した。この世から生き物はいなくなったのだ。 神様は、新しい世を創造した。次の世の支配者は人ではない。動物だ。 『僕』は人間だったころの記憶を僅かに持ち、奇妙な生き物に生まれ変わっていた。 しかしほかの動物とは違う見た目を授かって生まれたことにより、生まれてすぐにバケモノだと罵られた。 動物は、『僕』を受け入れてはくれない。 神様は、心無い動物たちの言葉に一粒の涙を流した。そして動物の世には、終わらない冬が訪れるのだった。 『僕』は知っている。 神様を悲しませたとき、この世は崩壊する。雪が大地を覆い、この世は再び崩壊へと歩んでしまった。 そんな時、動物に生まれ変わった『僕』が出会ったのは、人間の女の子だった。そして『僕』はかけがえのない小さな恋をした。 動物の世でバケモノと呼ばれた世界崩壊世代の『僕』は、あの子のために、この世の崩壊を止めることを決意する。 方法は、ただひとつだけある。

ハロウィーンは嫌い?

青空一夏
児童書・童話
陽葵はハロウィーンの衣装をママに作ってもらったけれど、芽依ちゃんのようなお姫様じゃないじゃないことにがっかりしていた。一緒にお姫様の衣装にしようと約束していた芽依ちゃんにも変な服と笑われて‥‥でも大好きな海翔君の言葉で一変した。

【もふもふ手芸部】あみぐるみ作ってみる、だけのはずが勇者ってなんなの!?

釈 余白(しやく)
児童書・童話
 網浜ナオは勉強もスポーツも中の下で無難にこなす平凡な少年だ。今年はいよいよ最高学年になったのだが過去5年間で100点を取ったことも運動会で1等を取ったこともない。もちろん習字や美術で賞をもらったこともなかった。  しかしそんなナオでも一つだけ特技を持っていた。それは編み物、それもあみぐるみを作らせたらおそらく学校で一番、もちろん家庭科の先生よりもうまく作れることだった。友達がいないわけではないが、人に合わせるのが苦手なナオにとっては一人でできる趣味としてもいい気晴らしになっていた。  そんなナオがあみぐるみのメイキング動画を動画サイトへ投稿したり動画配信を始めたりしているうちに奇妙な場所へ迷い込んだ夢を見る。それは現実とは思えないが夢と言うには不思議な感覚で、沢山のぬいぐるみが暮らす『もふもふの国』という場所だった。  そのもふもふの国で、元同級生の丸川亜矢と出会いもふもふの国が滅亡の危機にあると聞かされる。実はその国の王女だと言う亜美の願いにより、もふもふの国を救うべく、ナオは立ち上がった。

見習い錬金術士ミミリの冒険の記録〜討伐も採集もお任せください!ご依頼達成の報酬は、情報でお願いできますか?〜

うさみち
児童書・童話
【見習い錬金術士とうさぎのぬいぐるみたちが描く、スパイス混じりのゆるふわ冒険!情報収集のために、お仕事のご依頼も承ります!】 「……襲われてる! 助けなきゃ!」  錬成アイテムの採集作業中に訪れた、モンスターに襲われている少年との突然の出会い。  人里離れた山陵の中で、慎ましやかに暮らしていた見習い錬金術士ミミリと彼女の家族、機械人形(オートマタ)とうさぎのぬいぐるみ。彼女たちの運命は、少年との出会いで大きく動き出す。 「俺は、ある人たちから頼まれて預かり物を渡すためにここに来たんだ」  少年から渡された物は、いくつかの錬成アイテムと一枚の手紙。 「……この手紙、私宛てなの?」  少年との出会いをキッカケに、ミミリはある人、あるアイテムを探すために冒険を始めることに。  ――冒険の舞台は、まだ見ぬ世界へ。  新たな地で、右も左もわからないミミリたちの人探し。その方法は……。 「討伐、採集何でもします!ご依頼達成の報酬は、情報でお願いできますか?」  見習い錬金術士ミミリの冒険の記録は、今、ここから綴られ始める。 《この小説の見どころ》 ①可愛いらしい登場人物 見習い錬金術士のゆるふわ少女×しっかり者だけど寂しがり屋の凄腕美少女剣士の機械人形(オートマタ)×ツンデレ魔法使いのうさぎのぬいぐるみ×コシヌカシの少年⁉︎ ②ほのぼのほんわか世界観 可愛いらしいに囲まれ、ゆったり流れる物語。読了後、「ほわっとした気持ち」になってもらいたいをコンセプトに。 ③時々スパイスきいてます! ゆるふわの中に時折現れるスパイシーな展開。そして時々ミステリー。 ④魅力ある錬成アイテム 錬金術士の醍醐味!それは錬成アイテムにあり。魅力あるアイテムを活用して冒険していきます。 ◾️第3章完結!現在第4章執筆中です。 ◾️この小説は小説家になろう、カクヨムでも連載しています。 ◾️作者以外による小説の無断転載を禁止しています。 ◾️挿絵はなんでも書いちゃうヨギリ酔客様からご寄贈いただいたものです。

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