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偶像の叫び声3
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普段は絶対に行わないような悪事を善良な人間が出来心で行う事を魔が差すと言う。
悪魔が心の中に侵入して判断を狂わせてしまったような状況を例えたことわざだ。陽子が普段なら使用しないだろう絶対命令権を怒りのあまり使用してしまったように、人間は悪意や激情と無縁ではいられない。そういう人間にとって逃れられぬカルマを擬人化したものが悪魔の始まりだ。他国の神を悪魔に貶めたのは単なる政治的な事情に過ぎない。悪魔とは元々は人間の内的存在なのだ。
故に、その男は実物の悪魔よりも或いは悪魔らしいのかもしれなかった。
「あれ陽子さんじゃないっすか」
「だれ?」
泣きはらしていた陽子は急に掛けられた声に慌てて目頭を拭った。背後の声に対応する為にスマホで聞いていた穂村と江利香の配信を止めて振り返る。
そこには革ジャンを着たワンダーランドのマネージャーである藤原史郎、通称ポンコツのポン太が佇んでいた。
「ポン太君、どうしてこんな所にいるの?」
「そりゃこっちの台詞ですって。ほらハンカチ」
未だに止まらない涙を見てポン太は陽子にハンカチを渡した。
陽子はそれを受け取って、偶然だねと笑って涙を拭いた。こんな真夜中に廃ビルの屋上で他者に出会うという不自然さを軽く考えて。
「レッスンにも顔を出さないし皆、心配してたっすよ。何があったんです?」
「うん……」
あっけらかんとしたポン太の態度に、陽子はこれまでの経緯を話すことにした。
そう陽子はまだ絶望しきってはいなかったのだ。ワンダーランドという陽子にとっての最後の聖域がまだ残っていた。ワンダーランドの皆なら、自分を受け入れてくれるんじゃないかという希望を抱いていた。だからこそ、ポン太にアイドルマインドのチートを含めて全ての事情を話してしまったのだった。
「うわ、マジっすか。絶対命令権で土下座をさせたって……」
「そうなの。最低だよね」
「本当にそうっすよ。何で土下座くらいで許したんすか」
「え?」
奇妙な言葉を聞いて、陽子はポン太を見返した。ポン太は不可解なものを見るような目で陽子を見ていた。
そこには純粋な疑問の感情しかない。心の底から陽子を理解出来ないでいるのだ。
「殺せば良かったじゃないっすか。自殺させれば殺した証拠は残んないっしょ?」
「な、何でそんな事を言うの。そこまでする必要はないじゃない」
「はぁ? 敵に何で配慮する必要があるんすか。わっかんねぇな」
ポン太は何故か苛立っているらしく、チッと舌打ちをした。陽子は宇宙人と会話をしているような奇妙な感覚を覚えていた。
何か、何かがズレている。自分は決定的な思い違いをしているんじゃないかと陽子は気付き始めていた。
「せっかくそんな便利なチート能力を貰ってんのに、全く有効活用しないなんて宝の持ち腐れじゃないっすか。アイドル事務所の人間を全員洗脳すりゃ仕事も独り占め出来るし、アイドル力とやらも金も幾らでも手に入るじゃないっすか。思い付きませんでした?」
「それをしてしまったら、もうアイドルじゃない。アイドルマインドは悪用したら問答無用でファンを幾らでも増やせてしまう。誰もアイドル本人を見なくなる。完全にアイドルとは別のナニカになっちゃう」
陽子だって考えない訳ではなかった。特にアイドルグループの仲間を這いつくばらせた時、このまま能力を悪用してアイドルとして上り詰めようかという誘惑に駆られもした。だが、そんな陽子を思い留まらせたのがワンダーランドの皆だった。
アリス姫は陽子とは比較にならない程の立場と力を持ちながら正攻法でVtuberをやっている。まだVtuberとしては中堅に過ぎないし、ひめのやは次々と問題が起こっており見ているだけで大変だというのは伝わって来たけれど、それでも楽しそうだった。青春を謳歌しているような華やかさがあった。
そんな風に陽子も輝きたかったのだ。青臭い程の青春のきらめきが欲しかった。
「変な拘りでチート能力に制限を掛けて行き詰まってたんじゃ意味ないでしょーに。ストーカーとやらも警察を操りゃ簡単に撃退できたし、謹慎することもなかった。分かってます? アンタ相当恵まれているんすよ。そもそもチート能力を持ってる奴すら貴重なのに、その中でも破格な影響力を発揮するチートを死蔵するって……」
「うっ。そうだけど。でも私だって頑張って」
「こりゃ駄目だな。努力と来たか。最後には自己弁護」
ゴミを見るような目でポン太は陽子を見た。お前には何の価値もないと心の底からポン太が思っているのが陽子にはダイレクトに伝わって来た。
「アイドルマインドっていう専用のチートの底上げがあってもアイドルとしては三流。才能がないのにチートに頼るのは嫌だって我儘でチートを死蔵。外敵から身を守る事も出来ず簡単に追い詰められて引き籠もる。やっとチートを意図的に使用したかと思えばチームメイトに無理矢理に頭を下げさせて終わる。ここで俺に経緯を話したのも慰めて欲しかったからっすよね? で、ワンダーランドに泣きついて移籍させて貰おうとしてたと。くっそゴミ屑じゃねえか」
チートの底上げがあろうとアイドルになれるだけの才能がないという陽子の絶望を、ポン太は何てことはないように言葉にした。
ジワジワと追い詰められていくような恐怖が、今、目の前に人の形をして鎮座していた。自分というものに陽子は何一つとして価値はないように思えてきて、ひゅーひゅーと陽子の喉から奇妙な呼吸音が響いた。過度な不安と緊張に過呼吸の症状が現れ始めているのだ。
「ここまで言われてチートを使用しようとも考えないんすか。ああ、もういいや」
「え?」
ふわっとした浮遊感に陽子は疑問の声を上げた。
身体が空中に浮いていた。いや、浮いているような錯覚をしただけだ。
陽子は廃ビルの屋上から落下していたのだ。ポン太に蹴り飛ばされて。
何で自分がこんな目に遭っているのか何一つとして分からないままに陽子は地面に叩き付けられて、その短い生涯を終えた。
「足が滑った」
飄々(ひょうひょう)とポン太は人をビルの屋上から蹴り飛ばしておきながら、そんな言葉を放った。人を殺害したことに何の感慨も抱いてはいない。
「ここ数日間の張り込み成果はちょっとした情報の収集で終わりかー。やってらんねー。はー、ラーメンでも食いに行くかな」
苛立たしげにポン太は溜息を吐くと帰路についた。
途中で新しく靴を調達しないと犯罪の証拠となってしまうかもしれないことに気付いて、もう一度チッと舌打ちをして、ポン太は陽子の存在を忘れた。
彼にとってこの事件は、その程度のイベントだった。
ポンコツのポン太。本名、藤原史郎。
何の異能も所持していない何処にでもいる普通の―――殺人鬼だ。
悪魔が心の中に侵入して判断を狂わせてしまったような状況を例えたことわざだ。陽子が普段なら使用しないだろう絶対命令権を怒りのあまり使用してしまったように、人間は悪意や激情と無縁ではいられない。そういう人間にとって逃れられぬカルマを擬人化したものが悪魔の始まりだ。他国の神を悪魔に貶めたのは単なる政治的な事情に過ぎない。悪魔とは元々は人間の内的存在なのだ。
故に、その男は実物の悪魔よりも或いは悪魔らしいのかもしれなかった。
「あれ陽子さんじゃないっすか」
「だれ?」
泣きはらしていた陽子は急に掛けられた声に慌てて目頭を拭った。背後の声に対応する為にスマホで聞いていた穂村と江利香の配信を止めて振り返る。
そこには革ジャンを着たワンダーランドのマネージャーである藤原史郎、通称ポンコツのポン太が佇んでいた。
「ポン太君、どうしてこんな所にいるの?」
「そりゃこっちの台詞ですって。ほらハンカチ」
未だに止まらない涙を見てポン太は陽子にハンカチを渡した。
陽子はそれを受け取って、偶然だねと笑って涙を拭いた。こんな真夜中に廃ビルの屋上で他者に出会うという不自然さを軽く考えて。
「レッスンにも顔を出さないし皆、心配してたっすよ。何があったんです?」
「うん……」
あっけらかんとしたポン太の態度に、陽子はこれまでの経緯を話すことにした。
そう陽子はまだ絶望しきってはいなかったのだ。ワンダーランドという陽子にとっての最後の聖域がまだ残っていた。ワンダーランドの皆なら、自分を受け入れてくれるんじゃないかという希望を抱いていた。だからこそ、ポン太にアイドルマインドのチートを含めて全ての事情を話してしまったのだった。
「うわ、マジっすか。絶対命令権で土下座をさせたって……」
「そうなの。最低だよね」
「本当にそうっすよ。何で土下座くらいで許したんすか」
「え?」
奇妙な言葉を聞いて、陽子はポン太を見返した。ポン太は不可解なものを見るような目で陽子を見ていた。
そこには純粋な疑問の感情しかない。心の底から陽子を理解出来ないでいるのだ。
「殺せば良かったじゃないっすか。自殺させれば殺した証拠は残んないっしょ?」
「な、何でそんな事を言うの。そこまでする必要はないじゃない」
「はぁ? 敵に何で配慮する必要があるんすか。わっかんねぇな」
ポン太は何故か苛立っているらしく、チッと舌打ちをした。陽子は宇宙人と会話をしているような奇妙な感覚を覚えていた。
何か、何かがズレている。自分は決定的な思い違いをしているんじゃないかと陽子は気付き始めていた。
「せっかくそんな便利なチート能力を貰ってんのに、全く有効活用しないなんて宝の持ち腐れじゃないっすか。アイドル事務所の人間を全員洗脳すりゃ仕事も独り占め出来るし、アイドル力とやらも金も幾らでも手に入るじゃないっすか。思い付きませんでした?」
「それをしてしまったら、もうアイドルじゃない。アイドルマインドは悪用したら問答無用でファンを幾らでも増やせてしまう。誰もアイドル本人を見なくなる。完全にアイドルとは別のナニカになっちゃう」
陽子だって考えない訳ではなかった。特にアイドルグループの仲間を這いつくばらせた時、このまま能力を悪用してアイドルとして上り詰めようかという誘惑に駆られもした。だが、そんな陽子を思い留まらせたのがワンダーランドの皆だった。
アリス姫は陽子とは比較にならない程の立場と力を持ちながら正攻法でVtuberをやっている。まだVtuberとしては中堅に過ぎないし、ひめのやは次々と問題が起こっており見ているだけで大変だというのは伝わって来たけれど、それでも楽しそうだった。青春を謳歌しているような華やかさがあった。
そんな風に陽子も輝きたかったのだ。青臭い程の青春のきらめきが欲しかった。
「変な拘りでチート能力に制限を掛けて行き詰まってたんじゃ意味ないでしょーに。ストーカーとやらも警察を操りゃ簡単に撃退できたし、謹慎することもなかった。分かってます? アンタ相当恵まれているんすよ。そもそもチート能力を持ってる奴すら貴重なのに、その中でも破格な影響力を発揮するチートを死蔵するって……」
「うっ。そうだけど。でも私だって頑張って」
「こりゃ駄目だな。努力と来たか。最後には自己弁護」
ゴミを見るような目でポン太は陽子を見た。お前には何の価値もないと心の底からポン太が思っているのが陽子にはダイレクトに伝わって来た。
「アイドルマインドっていう専用のチートの底上げがあってもアイドルとしては三流。才能がないのにチートに頼るのは嫌だって我儘でチートを死蔵。外敵から身を守る事も出来ず簡単に追い詰められて引き籠もる。やっとチートを意図的に使用したかと思えばチームメイトに無理矢理に頭を下げさせて終わる。ここで俺に経緯を話したのも慰めて欲しかったからっすよね? で、ワンダーランドに泣きついて移籍させて貰おうとしてたと。くっそゴミ屑じゃねえか」
チートの底上げがあろうとアイドルになれるだけの才能がないという陽子の絶望を、ポン太は何てことはないように言葉にした。
ジワジワと追い詰められていくような恐怖が、今、目の前に人の形をして鎮座していた。自分というものに陽子は何一つとして価値はないように思えてきて、ひゅーひゅーと陽子の喉から奇妙な呼吸音が響いた。過度な不安と緊張に過呼吸の症状が現れ始めているのだ。
「ここまで言われてチートを使用しようとも考えないんすか。ああ、もういいや」
「え?」
ふわっとした浮遊感に陽子は疑問の声を上げた。
身体が空中に浮いていた。いや、浮いているような錯覚をしただけだ。
陽子は廃ビルの屋上から落下していたのだ。ポン太に蹴り飛ばされて。
何で自分がこんな目に遭っているのか何一つとして分からないままに陽子は地面に叩き付けられて、その短い生涯を終えた。
「足が滑った」
飄々(ひょうひょう)とポン太は人をビルの屋上から蹴り飛ばしておきながら、そんな言葉を放った。人を殺害したことに何の感慨も抱いてはいない。
「ここ数日間の張り込み成果はちょっとした情報の収集で終わりかー。やってらんねー。はー、ラーメンでも食いに行くかな」
苛立たしげにポン太は溜息を吐くと帰路についた。
途中で新しく靴を調達しないと犯罪の証拠となってしまうかもしれないことに気付いて、もう一度チッと舌打ちをして、ポン太は陽子の存在を忘れた。
彼にとってこの事件は、その程度のイベントだった。
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