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101 災難を呼び込むのは大概他の誰か
しおりを挟む「探したぞ、ルウ」
もう二度と会えない…会う事は叶わないと半ば諦めの気持ちでいたはずの相手が私を見つめている。
いくつもの疑問が浮かぶもそれらは言葉にはならず、気付いた時には彼の―――ディミトリ殿下の胸へと飛び込んでいた。
ほんの数か月しか離れていないはずなのに、いっそ懐かしささえ覚える。しかし冷たい声が耳元で響いた刹那、そんな温かな想いは全て消え失せた。
「ずっと子供の様な無邪気さを装っていたが、随分と男を喜ばせる術を身に着けたようだな。そんな手管を何処で覚えた?」
とてもディミトリ殿下の口から出たとは思えない暴言の刃に呆然と見上げた顔は、温度の無い ―――否、怒りに燃えた双眸の前に言葉を失う。
そんな態度が気に入らなかったのか、舌打ちした彼に突き飛ばされよろめく私を睥睨すると、花顔を歪めた。
「私の前から逃げ出した分際で気安く触れるな。此処へ来たのは旧交を温める為ではない事ぐらいは貴女だって理解しているだろう」
もはや理解の及ばない私の前に差し出された一通の書状を、咄嗟に受け取り震える指で開く。そこには長ったらしい文章と、最後に妃殿下とディミトリ殿下の署名が成されていて、漸くこれは魔術誓約書だと気づいた。
一体何のために私にこれを読ませたのか。疑問を口にする前に書状を持ったままの手を重ねられ、思わず彼の顔を見上げる。するとその碧い瞳が私を見返して来た。
「アーデルハイド王国第一位王位継承者ディミトリ・アーデルハイドはこの誓約書で約定したルイーセ・ティーセル男爵令嬢との婚約を破棄するものとする。これは互いの意思における破棄であり、これをもって縛りは無効となる」
その言葉の意味を飲み込むより先に、彼が力を込めて引き裂いた書状は次々に青い炎を立ち上らせると見るまに文字を飲み込んでいく。固く握られた掌は不思議と熱も痛みも感じないままに、やがて全てを焼き尽くすまで離れる事はなかった。
全てが無に帰した時、漸く離された掌を寂しいと感じてしまうのは我が儘だろうか。
まるで悲しんでいるのは私だけのような晴れやかな笑みを浮かべたディミトリ殿下の言葉で、それは確信へと変わってしまう。
「魔術誓約書の縛りは強固なもので、一方のみでは破棄出来ないのだ。私がこんな異国まで貴女を追う羽目になったのもそれ故だが、全ての憂いが取り除かれ自由を得たのかと思えば、無駄ではなかったな」
私の人生に貴女は不要だ、そう言い捨て踵を返す背中に追い縋ることはもう出来ない。
不要だと切り捨てられても、私はその場に立ち竦んだまま一歩も動く事が出来なかった。
薄っすらと瞼を開きそこに漂うローズウォーターの甘く爽やかな香りに、彼の面影と夢の理由を知る。ディミトリ殿下の服からいつもこの香りがしていたからこそ、それが記憶の呼び水となりこんな夢を見たのだと納得する半面、苦いものが口に広がる。
別れを告げられても夢の中の私は彼を諦める事が出来なかった。しかもあれほど冷たい視線を向けられても尚、会えた嬉しさが勝ってしまうのだから恋煩いとは言い得て妙なものだと、持ってきたはずの鞄に手を伸ばしたのは殆ど無意識だった。
(―――っ⁈ な、い)
部屋を出る際、絶対に身に着けて出たはずの鞄がどこにも無い事に気付き、慌てて身を起こすとベッドの上を隅から隅まで見るも、影も形もない。
(まさか寝ている間に誰かに持ち去られたとか?! ああ…でもそんな事…)
ない、と否定したくてもいつの間にか夜着に着替えさせられていることにさえ気付かなかったのだから不安ばかりが膨らんでしまう。転がるようにベッドを降り、天蓋を開くと広がっていた図書館のような光景に一瞬、目を奪われたものの奥の机の上に探していた鞄があることに気付きわき目もふらず駆け寄った。
書簡の奥底に隠しておいたビロードの小箱を見つけると、震える指で蓋を開く。
中に眠っていた宝物が誰にも奪われず、ここにあるのだとそれを目の当たりにした時、安堵と共にあの日の言葉が想い出として蘇った。
『ピンクマーガレットの花言葉は“真実の愛”だ』
言葉と共に贈られたその花を模したブローチは今も変わらず私の元で輝いているのに。想いだけが膨れ上がり、あの日重荷と感じた言葉がいつしか私の心に息づいてしまった。
名前も、性差も、身分さえも偽ったまま受けた寵愛の言葉を額面通りに受け止める事など到底出来なくて。嘘ばかりを積み重ねながら築いた想い出で心は雁字搦めになっている。
(もし最初からやり直せるなら、今度こそ嘘などつかず彼と向き合えるのに…)
それが叶わぬ願いであることも判っている。これが恋煩いだという事も。
やがて想いが風化し、全ては想い出へと変わるまで。時間薬以外に手の施しようが無いのだから、恋とはまるで難病のようではないか。
この気持ちが想い出に変わる日が来るまでは、幾度となくあの日の事を思い出すのだろうと、そっとブローチに指を這わせた。
気持ちが落ち着くにつれ、それまでなりを潜めていた空腹がキュルキュルと主張を始めるのだから我ながら現金なものだと苦笑いする。
目に付く場所に食べ物は置かれておらず、静まり返った室内には全くひと気が感じられない。
天蓋を開くなり、最初に目に飛び込んで来たのが三方の壁を覆う書棚だったからこそ図書館のようだと感じたが、執務机や応接用のソファーが置かれているところをみると、もしかすれば執務室なのかもしれないと思う。
興味本位で背表紙を眺めたものの、それら全てがリバディー公用語で書かれた経済論の専門書なのだから、一瞬で興味が失せた。だが少なくとも此処はリバディー王国なのだろうと推察できたのは収穫だろう。
如何にも鳴り止まない腹の虫を手で宥めつつ、誰かいないかと扉に手を掛け、ビクともしない事で漸く何かが可笑しいと思い始める。ドアノブには鍵穴さえ無いのだから、外鍵か何らかの方法で塞がれているのか…とボンヤリ思った時、この部屋には窓さえ無いのだと気づき、思わず息を呑んだ。
まさか ―――てっきり国境を越え、無事にリバディー王国のシャリマー邸に辿り着いたのだとばかり思い込んでいたけれど、それなら客人を部屋に閉じ込める理由などどこにあるというのか。
シャリマー家の迎えの馬車に乗り込み、ルツやイルマとやり取りした会話のあれこれを思い出しながら糸口を探っていくと、ルツが馬車を下りた後で程なくしてイルマに菓子を勧められ、そこから何も思い出せない事に思い当り、思わず頭を抱える。
(まさか、あの菓子に薬が混入されていたって事なのっ⁈)
この状況を鑑みるにその可能性は大いにある。しかし、シャリマー家から使わされた遣いの中に裏切り者が居るとは想像すらしなかった。
(もし仮にイルマが裏切り者だとして、私を何処かへ引き渡すなり売り渡すにせよ、それを手引きした人物が居るって事よね? 極秘裏に入国を果たしている以上、シャリマー家も公に動く事が出来ない事を見越しての誘拐にせよ、私自身に何の価値もない事ぐらいシャリマー家の間諜なら分かっているはずなのに…)
余程の大金が積まれたにせよ、そこまでして私を連れ出す理由が思いつかない。どうせ思いつかないのなら、と思い切り息を吸い込んで、屋敷中に響かんばかりの悲鳴を張り上げた。
「キャ―――――――――ッ‼」
判らないのなら、事情を知っている者に尋ねれば済むだけの話なのだから。
国は違えど、貴族の屋敷の構造自体はそう変わらない。この部屋がどこに位置するのかまでは流石に判らないけれど、人質に気付かぬうちに逃げられては監禁の意味が無い以上、逃げ出し辛い奥まった場所か日中も人目に付く場所にあると考えるべきだろう。
つまり、私の悲鳴を聞いていち早く駆けつけるのは屋敷で忙しく立ち働く侍女に違いないと中りをつけて扉の影で息を潜めている訳だ。
侍女では詳しい話を聞く事は難しいだろうが、そのお仕着せを奪い、侍女に扮して屋敷から抜け出すのも容易になる。しかし、何人もが駆けつけてきてしまった場合、一人を人質に屋敷を抜け出すには目に見えて分かりやすい凶器でもあった方が話しが早いだろう。
おあつらえ向きに暖炉脇に立て掛けられていた火かき棒を手に取り軽く振ってみればヒュンと風を切る軽やかな音がする。これなら片手でも十分に扱えそうだ。
ほくそ笑みながらそれを頭上に構えると、遠くの方で慌ただしい気配と共に足音が近づいてくる。
人生とは計画通りにいかないものだと、私が悟ったのはその暫く後だった。
「今迄患者を『注意散漫だから怪我を負うんだ』と叱ってきたが…不測の事態もあることは今後念頭に置くとしよう」
額を冷やしながら、痛そうに呻く壮年の男性はニコラスと言う名のお医者様らしい。
「普通は屋敷の中で令嬢に襲われる状況自体、起こり得ないものですからね」
長躯を苦し気に折り、前かがみでソファーで呻く執事服の男性、オスマンは何度も頷きながら溜息を吐く。
お察しのとおり、私が彼らにけがを負わせた犯人だ。でも怪しげな屋敷に囚われたのだとばかり思いこんでの暴挙なのだから、情状酌量の余地も与えて欲しい。
―――あの状況で、此処がリバディー王都のシャリマー家本邸だと察するのはどう考えても無理だと思う。
扉を開けて飛び込んで来たのが、まず壮年の男性だったことに驚いた。抑え込むべきかと一瞬の戸惑いが明暗を分け、目が合うなり火かき棒で殴ってしまったのも咄嗟の行動だ。
昏倒した体を飛び越え、扉に手を掛けた私の両腕を長躯の男性に掴まれたのもまずかった。火かき棒が使えない以上、私に残された攻撃方法は足しかないと、つい…彼の股間を思い切り蹴り上げた。
絶叫と共に男性も床に膝をつく。その隙をぬって出ようとした私の目の前に立ちふさがったのは侍女頭で。彼女に思い切り拳骨を食らいながら「いくらお客様と言えど、この様な暴挙は許しませんよ!アステリア奥様のご友人でも絶対にね!」と怒鳴られ、漸く彼女の口から事と次第が説明された。
此処は間違いなくシャリマー邸である事や、三日も寝続けていた私の容体を診る為に急いで駆け付けてくれたお医者様とシャリマー家の家令を倒してしまった事など、廊下で正座させられたままそれはもうこっぴどく叱られた。
いよいよ涙目になる私に同情したのか、それとも絶え間なく鳴き続ける腹の虫に根負けしたのかは判らないが、深い溜息を吐いた侍女頭が「空腹のお腹ですから、消化の良いお食事をご用意いたしますわ。部屋へお戻りいただけますわね?」とニッコリ微笑む様がどれだけ恐ろしかったか。
すごすごと部屋へ戻り、目の前で治療を施されていく男性二人を眺めながら、程なくして運ばれてきたパン粥をお腹いっぱい食べた…と言うのがあの後起こった出来事なのだが。
「この食欲旺盛さなら過鎮静はまず無いね」
パン粥を三杯ほどお代わりした私にそう言うニコラス医師曰く、過鎮静とは薬が必要以上に効き過ぎる現象を指すそうだ。
イルマが菓子に仕込んだ睡眠剤程度なら一日程度で目覚める量だったからこそ、過鎮静や何らかの原因が疑われたらしい。
他に何の原因も見当たらない以上、持病かもしれないと態々往診しやすい一階の第二執務室を客間代わりにしたというから、あの書棚の理由もそれで分った。二階の客間は南向きに窓が採光を取り込むので、過鎮静の患者にとって錯乱を引き起こしかねないというのもあの部屋を選んだ理由らしい。
気まずげに謝罪の言葉を述べる私を手で制すると、ニコラス医師は「しかし」と言葉を続ける。
「私の見立てでも薬の量は薬に慣れた貴族なら一日程度で目覚める量だったとしか思えない。しかし、お嬢さんは三日三晩眠り続けた。過鎮静でも、持病が原因でも無いとすれば残った可能性はただひとつ…お嬢さんが本当は平民で薬の耐性を持っていない事ぐらいなんだが」
どうなんだね、と問い詰められ、思わず答えに窮してしまった。
ニコラス医師の指摘通り、身分の高いものほど常に暗殺や誘拐の脅威に晒されているものだ。
中にどんな薬物が仕込まれているか判らないからこそ、食事の際は万全の注意を払うし、出来るだけ口をつけないらしい。しかし、全てを断るというのもまた難しい問題で、自衛の為に幼少期から我が子に敢えて微弱毒を服毒させるのが貴族社会の慣習となっていた、のだが。
それを知ったのは私が王宮で働き始めた頃の事で、当然何も知らない私は一度たりとも服毒などした事がない。
幼少期から慣らしているなら兎も角、既に体は大人へと変わっているのに今更真実を口にするのは憚られ、その場は知ったかぶりで誤魔化した。
貴族社会で揉まれ続けている両親がそんな常識を知らないとも思えないので、恐らく私が領地へ行った事が原因でそのままになったのだろうと推察したものの、兄様は不治の病を患い、妹は王太子殿下から目をつけられていたのだから、正直言ってそれどころではなかったというのが本音かもしれないが。
そんな複雑な事情を他人にどう話せばいいというのか。
悩んだ挙句「不治の病を患っていた兄の静養の為に、私もずっと田舎の領地暮らしをしていたので、それが常識だとは王都へ出て来るまで知らなかったのですわ。両親も兄の事で手一杯でしたから…」と自分の事情だけをキレイに切り取って話したものの、どうやら彼らの琴線に触れてしまったらしい。
「そんな事情があったとは。お兄さんは―――あ、いや。これ以上辛い話をさせるのは酷だね。ウッ…それなら薬に体が不慣れなのは当然だよ」
「グッ……いざという場合に備えて護身術を仕込まれていたからこその身のこなしだったのですね。ご両親もお辛い思いをされた事でしょう」
………完全に誤解を受けていることは分かるが、だからといって詳しい事情を明かせない以上誤解を解く手立ては無い。気まずい思いで何故か感極まっている二人を見るともなしに眺めていると、漸く少し落ち着いたらしきニコラス医師がハンカチで目元を拭う。
「気位ばかり高い貴族令嬢なら話すつもりはなかったが。お嬢さんならイルマの事情を聞いても蔑むような真似はしないと思える。気分を害するかもしれないが……イルマが何故あんな行動を取ったのかを知りたくないかね?」
如何やら彼らの信用を得る事にも成功したようだ。起きてしまった事実は覆らないのだから、話を聞いたところでイルマの心証が変わるとも思えないが。
それでも好奇心のなせる業か、私はコクリと頷いたのだった。
「まず…ご説明申し上げる前に誤解を解かせて頂きたいのですが、イルマの本来の役職は薬師でございます。間諜はあくまでも仮の姿でございます故」
オスマンの言葉に瞠目する。
何故薬師が間諜の真似事をするのかが全く判らない。そんな私の心中を察したのか、オスマンは一度頷くとイルマの過去の話をし始めた。
「身上調査書によりますと、イルマの両親はリバディー王都で店を営む腕のいい薬師だったようでございます」
貴族向けの高価な医者の薬に頼れない平民にとって、薬師は心強い存在だ。
しかも症状に併せ調合を変える薬はたちどころに効くと評判も上々で、そのままならイルマも市井で両親と共に薬屋を営んでいただろう。
「…しかし、他国から流れて来た所謂流れ者が持ち込んだ薬が状況を一変させました。腹痛や嘔吐を訴える患者が増えてきた事で気づいた両親が患者を問い詰めたところ、“天国”と言う名の薬を全員が服用していた事が分かりました」
成分を分析してみれば、錯乱や多幸感を一時的に上げる薬物ばかりがいくつも見つかり、両親の手で憲兵に届けられたおかげでその薬の流通はそれ以上増える事はなかったのだが。
逆怨みした残党に真昼間から店は襲撃され、お遣いに出ていたイルマが両親の血塗れの遺体を発見したというのだからあまりにも惨い。
凄惨な事件は店から人を遠ざけ、最初は親身に世話を焼いてくれた近所の住民もやがて去って行った。虚ろなイルマだけを残して。
そんな最中に偶然慰問の為に市井を訪れていたアステリアが、教会の司祭からその話を耳にしたというのだから、縁とは異なものだ。
両親の人柄を尊敬していたのなら尚の事、いつかは店を再興するぐらいの気概を持てとイルマをグリード家に引き取り、両親を説得して薬学の勉強を続けさせたらしい。
アステリアが国を飛び出した後も顔色一つ変えずに新薬の研究に勤しんでいた彼女が、いざ婚姻が整う段になり初めて言った我が儘が『アステリア様のお傍でお仕えしとうございます」だったのだから、彼女にとってアステリアがどれだけ心の支えだったのかが分かる。そうして、共にシャリマー家へとやってきたものの、イルマにとっては不幸の始まりでしかなかった。
話し終えたオスマンが少し疲れて見えるのも決して心の問題だけではなかろう。
そんな辛い境遇を抱えて生きて来たイルマにこれ以上の不幸が訪れるのかと思うと、気持ちが沈んでしまう。
すると柔らかく微笑みを浮かべたオスマンに「リバディー王国では、下級貴族の令嬢が行儀見習いの為に侍女として貴族の屋敷に仕える慣習はご存じでしょうか?」と突然問われる。
あくまでも耳学問でしかないが、他国の婚期が迫った貴族令嬢は出会いを求めて王都の高位貴族の屋敷で侍女として働くものだと聞いたことがある。
アーデルハイド王国には王立学術院があり、若き貴族が一堂に会するせいで今一つピンと来ないが、確かに舞踏会や紹介をただ待つより、自ら出会いを求めて働きかけた方が効率が良いことは間違いない。
頷きながらも意図が分からず眉を顰める私を一瞥すると、オスマンは溜息交じりに口を開いた。
「その事情をご理解頂いた上でないと話が進みませんので。つまりシャリマー家に勤めるべきは貴族の爵位を持つ者のみで、平民の孤児が何故優遇されるのか、イルマには己の立場を理解させ解雇するべきだと進言する侍女が複数いたという事です」
「………は?」
「勿論、奥様のお決めになった事に一使用人が何故口を挟むのかと一蹴致しました。しかし、呆れたことに侍女らは怒りの矛先を直接イルマに向けただけだったのです」
品位も教養も、ましてや爵位すら持たない者がシャリマー家にお仕えするなど恥ずべき行為だ。奥様に恩を感じているならば尚の事、黙ってお傍を離れるのが当然ではないか。
そんな誹りを受け続け、それでもイルマはじっと耐え続けた。しかし、アステリアの妊娠の知らせで喜びに沸く屋敷の空気の中で、誰もイルマの孤独には気付かず、少しずつ彼女は疲弊していったらしい。
部屋で倒れているイルマを見つけたのはルツだったそうだが、元々研究で部屋に籠りがちだった彼女は下手をすれば命を落としかねない危険な状態だった。
アステリアの説得にすら耳を貸さず「私の様な者がお傍に居ればご迷惑が掛かりますから」と口を噤んでしまう。
屋敷中の使用人から話を聞き終え、漸く分かったのは件の侍女らが言葉巧みに周囲からイルマを孤立させ、誰も頼れない状況を作り出していた事だった。
勿論、それについても侍女らを問い詰めたものの厚顔無恥な彼女らは一貫して罪を認めず、イルマも口を閉ざしたままで事態は膠着状態が続いていた。
「何で侍女たちがそこまでイルマを毛嫌いするのかが判らないのだけれど…シャリマー家は余程すごい家格なのかしら」
そんな当然の疑問が口をつくも、オスマンの「シャリマー公爵家は前王様より直々に爵位を賜りましたので」の一言で呆気なく納得できた。
王族に一番近い家といっても過言では無いのだから、確かに件の侍女らも意地でも辞めさせられたくない気持ちは分かる。まあ、だからといって許されざる行為であることは変わらないが。
「…そんな重苦しい空気の中で、ルツに任務が申し渡されたのです」
アーデルハイド王国に奥様のご友人を迎えに行くだけの簡単な任務だが、少々工作が必要故に一人では務まらない。だからイルマを一緒に連れて行きたいと彼は申し出たそうだ。
このまま屋敷に居てもイルマの心が晴れる事はない。それなら多少の荒療治でも外へ連れ出し、気分を変えた方が彼女の為にもなるし、お客様を安心して屋敷へお連れできる ―――そう説かれ、悩みながらもアステリアは頷いた。
だが結局イルマは事件を起こし、今は部屋で半税の日々を送っているそうだ。
そこまで聞いて、私はふと気になった事を訪ねてみた。
「もしかして、件の侍女に顔が似ていたのかしら? イルマが怯える様な顔に見えたとか」
自分の頬を摘まんでみたが、もし彼女の恐怖を煽ったのなら謝るべきはこちらだろうと、オスマンを見つめると微妙な表情を浮かべている。
何度か口を開いては閉じた後、意を決したように告げられた言葉は
「………大変申し上げにくいのですが。馬車に乗り込んで来たお嬢様がシャリマー家のお仕着せ姿だったことが一番の原因だと………」
―――だったのだから唖然とするしかない。
しかも続けて「出発前にも緊張をほぐすためにだと思いますが『あの娘なら、貴族令嬢らしくない令嬢だから大丈夫よ。なにせ馬に乗って王宮を逃げ出した事まであるじゃじゃ馬ですもの』とイルマにお話しになっていらっしゃいましたから…イルマにしてみれば、馬術まで嗜むじゃじゃ馬令嬢と聞いてより怯えたのではないか、と……」と語尾を濁すのだから、いっそ目眩まで覚える。
(そんな破天荒な令嬢だと吹き込まれて、しかも嫌がらせした侍女と同じ服装の女が同じ空間でおしゃべりしていれば、恐怖の対象でしかないわよね…)
全ての事情を知った今、もうイルマを責める気持ちは微塵も起きないが、それでも沸いた怒りは抑えきれない。
「侍女のお仕着せを送って来て着替えさせたのも、イルマの不安を煽ったのも全部アステリアの仕仕業じゃないのっ! 信じられない………アステリアの馬鹿~~~っ‼」
国を出る手助けをして貰った恩は感じていても、全てが許されると思ったら大間違いだ。
地団太を踏みながら叫ぶ私に、二人の憐みの視線だけが空しく感じられたのは言うまでもない。
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