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74 アデリーナ王女の企み
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恐怖のあまり思わず息を呑んで体を強ばらせていると、視線を逸らしたアデリーナ王女は、先ほどまで見せていた憎悪を綺麗に隠して、ディミトリ殿下の隣に腰を下ろす。
「花には花言葉が存在するように、その香りを纏う人物も、その性質が色濃く表れているのです。外見だけ取り繕ったところで、全てを見透かすエビリズの嗅覚を誤魔化すことは出来ませんわ」
アデリーナ王女は、猫のように大きくつりあがった目を細めて微笑んでいるけれど『見つけた』と囁いた彼女の声を思い出すだけで、身の毛がよだつ。
――もう誤魔化しようがない。
王女は、私がディミトリ王子の婚約者として晩餐会に参列した令嬢だと、完全に判っているのだ。
まさか、エビリズ王家に“香りで人物を特定する力”などと言うものが存在するとは思ってもみなかったせいで、油断していた先刻までの自分を罵りたい…‼
アデリーナ王女は一体どうするつもりなのだろう…そんな事をボンヤリと考えていた時、不意に彼女の真の目的が見えた気がして、その考えの恐ろしさに戦慄する。
…アデリーナ王女はディミトリ殿下が学術院に戻ると聞いて、彼と片時も離れまいと、一緒に編入する道を選んだのだと…そう勝手に思い込んでいた。
しかし、既に王宮内で半年以上もアプローチを続けている割には、二人の距離は縮まらず、彼女がそれに焦りを抱いていたのだとすれば…。
てっきり、殿下の傍に侍り、積極的に迫ることが彼女の目的だと信じていたけれど、よく考えれば彼の心を自分に向けるには、もっと簡単な方法があるではないか。
…今、ディミトリ殿下の心を占めている邪魔な存在を――婚約者の令嬢を探し出し、排除してしまえば良いのだ。
王妃殿下から、殿下の婚約者は他国の侯爵令嬢だと紹介を受けていたから、まさか王女が国内の、ましてや王立学術院に婚約者が通っていると、目星を付ける事が想像すらも出来なかった。
仮に、彼女が間諜を使い既に過酷の目ぼしい侯爵家に探りを入れていたのだとすれば、該当する令嬢がいないことは公然たる事実だろう。
王妃殿下の口から告げられた言葉が、偽りであると知った王女が次に目を付けるとすれば…それはアーデルハイド王国の貴族令嬢や令息が一堂に会する王立学術院であることに疑いの余地はない。
彼女にしてみれば、他国の王族に嘘偽りを吐いてまで婚約者の身を隠そうとする王妃殿下に不信感を募らせ、只守られているだけの存在である婚約者に益々憎悪を燃やすという悪循環なのだろう。
場所さえ特定できれば、縁談相手でもある王太子殿下の傍で親交を深める事を名目に、王立学術院の中へと入り込んでしまえばいい。
編入さえしてしまえば、後は自分の持つ王家の力を駆使し、憎い婚約者と同じ花の香りを纏う令嬢を見つけ出すのは容易いだろう。
その為の手段として、授業中であっても他学年の学級や女生徒の集う場に積極的に出向き、全学年の令嬢が集うダンス講習の場で、相手役を申し出た――そう考えれば、全ての行動の理由が付く。
王立学術院には貴族の令息、令嬢の身を守る為に強い結界が張られ、人の出入りも厳しく制限が設けられている。
その事は周知の事実の為、王宮に居ても文官から情報を得ることは容易だろう。
騒ぎを起こさず、間諜を紛れ込ませる事も難しい…それが、彼女自身が学術院に直接乗り込んで来た理由なのかもしれない。
アデリーナ王女自身が手を下す可能性は低いけれど、これだけの執念で婚約者を特定しようとしているのだから、事故を装って殺害…もしくは廃人にしようと考えている可能性は高いだろう。
あまりの恐ろしさにゴクリと唾を飲み込む。
――ここまでくれば、私一人が対処できる範疇を遥かに超えていることは明白だ。
(…考えすぎ…その可能性もあるけれど、王女の行動の全てに符号が合うのが恐ろしいわ…。一人で悶々とするくらいならば、ディートハルト先生に推論を話して、王妃殿下にもその旨を伝えていただく方が良い気がする…)
目眩がしそうなほどの恐怖に、ドクドクと心臓が早鐘を打ち、自分でも酷い顔色をしているだろうことは見なくても判る。
周りで楽し気に会話を続ける友人たちに、この顔を見せたくなくて、目の前に並ぶサーモンサンドイッチに俯きながら齧り付いた。
張り付けた笑顔と、何を話しているか判らず曖昧に微笑みながら咀嚼する食事は、味さえも感じられずに恐怖心と共に飲み下す。
――だから、感情の無い視線がジッと私を観察していた事にも、気が付くことは出来なかったのだった。
昼休み以降、全く授業に身が入らなかった私は、只管に授業が終わる事だけを祈っていた。
――少しでも早く、ディートハルト先生にこの事を相談し『お前の気のせいだよ。心配するな』と言われて安心したいという気持ちで一杯だったからだ。
しかし、授業が終わる直前に異変が起きた。
授業中にも関わらず、慌ただしく駆け込んできた教員の一人が学級担任に耳打ちすると、サッと顔色を変えた担任から授業の終了と、本日は速やかに帰宅するようにという言葉が告げられたのだ。
『どうやら盗難事件が起きた為に、臨時職員会議が開かれるらしい』
教員の会話を盗み聞きした生徒たちから、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえるのを他人事のように思いながら、周りの状況に目を配りつつそっと席を立つ。
アデリーナ王女もブルーノもディミトリ殿下との会話に夢中な様子で、こちらへは見向きもしない。
その事に安堵しつつ、素早く医務室のあるプティノポローン棟へと向かった。
何度も後ろを振り返りつつ進む足取りは重く、物音が聞こえるたびに体を強ばらせている自分の姿は傍から見れば滑稽以外の何物でも無いだろう。
誰も居ないプティノポローン棟では私の靴音だけがコツコツと響き渡り、その事にむしろ安堵を覚えながら医務室の扉へと手を掛けた。
【臨時の職員会議につき離席中。緊急を要する場合は、職員室へ申し出るように】
扉を開こうとした瞬間、施錠に阻まれたガチャガチャという音と、目の前に貼られた張り紙に思わずチッと舌打ちが出る。
臨時職員会議の話題は耳には入ってはいたものの、全職員が対象になっていると予想もしていなかった自分の詰めの甘さに苛立ちが募った。
(ああ最っ悪‼…何で今日に限ってこんな事件が起きるのよ⁈…出来れば早めに相談したかったのに。…此処で待ち続ける訳にもいかないし、あまり長い時間一人でいるのは不安だわ。一度、寮へ戻って、頃合いを見てから出直そうかしら…)
張り紙を見つめながら、考えに没頭するあまり、気配に気づくのが遅れたのは確かだ。
しかし僅かに感じたビリビリとした明確な殺意に、本能ともいうべきか、咄嗟に体が動く。
背後に叩き込んだ肘内が、相手の腹部にグッとめり込んだことを感じると、すぐさま敵の動きを封じるべく腕へと手が伸びる。
ねじり上げようとした腕が空を掴み、逆に私の背中へと伸ばされた手が、そのまま私を扉へと激しい力で叩きつけられた。
「うっ…ガハッ」
急激な圧迫感と肋骨の軋む痛みに、注意力が僅かに逸れた瞬間、後頭部を掴み上げた手が、何度も私の額を扉へと打ち付ける。
「グッ…ガッ…ハッ…」
バッと眼に前に散る火花や燃えるように熱い痛みが私の抵抗を奪っていく。
繰り返される容赦ない攻撃と、溢れ出す鮮血が目を赤く染めた頃、ふらつく足を叱咤しながら、大きく体を捩じり、その勢いのままに回し蹴りを叩き込んでやった。
ドンッと激しい音を受け、よろける気配は感じたけれど、あの程度の攻撃では致命傷を与えることも、逃げ出す時間さえも稼げない。
倒れ込みそうになる体を奮い立たせ、振り返った先に居たのは黒髪とヘーゼルの双眸を持つ男の姿だった。
刹那、振り上げた拳が容赦なく私の腹へめり込むのが見え、それと同時に焼けるような痛みと、逆流する血の味が口内へと込み上げる。
やはり…と苦々しい思いだけを抱きながら、私は真っ暗闇に飲まれたのだった。
「起きろ…いつまで寝ているつもりなんだ」
わき腹をグリッと固いもので押され、ジクジクとした痛みに呻きながら目を覚ます。
視界に映るのは薄暗闇と天井の梁で、どうやら床に直接転がされているようだと状況なのを知る。
かなり高い位置に配置されている明かり取り用の小さな窓からは月が覗いていて、意識を失ってから数時間は経過しているのだとボンヤリ思った。
差し込む月明かりに照らされて、微かに見える室内には、乗馬用の鞍や剣術用のツーハンドソードを模した木剣などが乱雑に積み上げられていて、どうやら此処は学術院の外れにある用具室ではないかと覚る。
(痛っつ‼…手加減なしで殴られたみたいね。…どうやら額の血は止まったみたいだけれど、かなり酷い状態なのかしら…)
痛む箇所を確認しようとして、漸く自分が後ろ手に両腕を縛り上げられている事に気づくのだから、我ながら情けない。
(まあ…一先ずは命あっての物種というし、無事だったことを喜んでおきましょう)
それですら、いつ奪われるのかは神のみぞ知るだけれど…そう思うと、フッと自虐的な笑みが零れる。
「…カール・ティーセル、お前は何故笑う?これだけ痛めつけられれば男女を問わず、涙を流して命乞いをしてくるのが普通だろう」
…気配が感じられなかったので、すっかり忘れていたが、目覚めたのも彼――ブルーノ・テイラーに痛みを与えられたからだと思い出して、声のする方へと顔を向けた。
木箱の上に座り、ジッとこちらを見下ろす瞳には何の感情も灯ってはいない。
淡々と人を痛めつけ、只々任務を遂行する事だけを忠実に熟す姿は、彼が間諜や暗殺を担っていることを雄弁に物語っていた。
(彼が間諜ならばむしろ好都合だわ。私がターゲットだと確証が持てなければ、アデリーナ王女に指示を仰ぐかもしれないし、時間稼ぎが出来る)
「容赦なく痛めつけられたせいで、泣く余裕さえ無いよ。それに身代金目的の誘拐なら、貧乏男爵家ではなく、金持ちを狙えば良いのにと思うと、笑いが込み上げて来てね」
私だって、勿論これが身代金目的の誘拐だなどと本気で思っているわけでは無い。
何も知らない貴族令息ならば、こんな目に遭わされれば家絡みの怨恨か、金目当ての誘拐だと思うだろうという考えに基づいて発言したのだ。
「何も知らないフリか?王太子の婚約者とやらは、随分と愚かな女なのだな」
ブルーノは態々、私の目の前まで来ると片膝をついて顔を覗き込んでくる。
そこには微かな苛立ちと、気持ちの揺れが見て取れた。
「おや、その様子だと私の推論はハズレのようだね。金目当ての誘拐じゃないのなら、無抵抗の相手を殴って憂さ晴らしをするのが目的かな?」
「…そうやって煙に巻くのがお前のやり方か?だが、王太子の婚約者は左胸に碧薔薇の紋章を持つ。まさか、その意味を知らぬわけでもあるまいし、此処で脱がせてソレを確認すれば、別人だという言い逃れは出来ないだろう」
――ちょっと待て‼紋章の意味をアンタは知っているのか⁈
(ディミトリ殿下に“共鳴紋”とかいう名前なのは聞いたけれど、あれに意味があるなんて一言も聞いていないよ⁈…知っているんだったら、教えて欲しい‼)
…そんな気持ちはグッと堪えて、取り敢えず情報を引き出すために会話を続けることにする。
…本音では聞きたいけどね⁈
「…肌に薔薇の模様を描くことなんて簡単だ。付け黒子と同様に、染料を付け絵筆で描けばいくらでも増産出来る。社交界で流行れば多くの女性が胸に描くだろう?」
「既に社交界で流行しているなどの事実が無い事は、間諜により調べが付いている。それにアーデルハイド国王曰く、『碧薔薇の紋章は、正当な王位継承者が、自身の伴侶に授ける大切な証の為、王族の色と同様に薔薇を模した肌への装飾を社交の場で禁じている』そうではないか」
ええ~っ…そんな話は聞いたことすら無いんですけれど…⁈
(王位継承者が伴侶に授けるって…授けられた覚えが無いんですが⁈王位継承者って言うと、ディミトリ殿下の事よねぇ?…私はずっとティーセル領で暮らしていたんだから、会う機会すらない相手にどうやって授けられろっていうのよ⁇)
全く意味の分からない事ばかりで、悶々と悩んでいると『まあ良い…』とブルーノが無表情で懐からサボタージュ・ナイフを取り出した。
「こんな議論をするより、直接確認すれば良い話だ。さっさと済ませてしまおうか」
体の動きを封じるように馬乗りになると、ブルーノは先ずクラヴァット、そして麻のシャツをいとも簡単に引き裂いていく。
今は布切れになったシャツだったものを開くと、いきなりブルーノがクツクツと笑う声が聞こえた。
「お前が女だという事は証明されたが、まさかこんな防具を腹に仕込んでいたとは思わなかった。俺が本気で殴りつければ、内臓に損傷を与えるほどの威力があるというのに」
そう言うと、ブルーノが私の体から引きはがした“コルセット”を目の前にぶら下げる。
麻キャンバス地で作られたコルセットには、張り骨で補強が成されていたのだが、今はこぶし大にべコリとへこみ、内部の木も真っ二つに折れているようだ。
防御目的では無く、男性の体格に似せるためだけに使用していたコルセットが、まさか自分の命を救ってくれるとは想像もしていなかった。
(おかげで命拾いしたよ…君の尊い犠牲は忘れない‼ありがとうコルセット…)
私が感謝している間に興味を失ったのか、ブルーノはコルセットを放り投げると、今度は私の左胸に視線を移す。
(あー…いきなり碧薔薇が消えて只の青痣に戻ってくれないかしら…。そうすれば言い逃れが出来そうなのに…)
ボンヤリと、そんな事を考えていると、何故かブルーノの瞳が困惑に揺れている。
「…なあ、お前は…その、本当に王太子の婚約者とは別人、なのか…?」
んん⁈…いきなりどうしたんだ?
「晩餐会に参列していた婚約者の左胸にあったのは碧薔薇だったし、国王も明言していた。そして、アデリーナ様も確かにお前と婚約者は同一人物だと…」
ブツブツと動揺した声で呟くブルーノを見るに、どうやら本気で碧薔薇の紋章は青痣に戻っているようだ。これはツイている‼
「だから別人だと言っただろう?私の胸には碧薔薇の紋章なんて無いんだよ」
「…では、お前の左胸にある金薔薇の紋章は何なんだ?これには何の意味がある?」
「ほえっ⁈」
思わず変な声が出て焦る。
(いやいやいや、金薔薇って?!…今度は色まで変化したって言う事なのか⁈)
何故自分の体だというのに、こんなにも儘ならないのか…カールは只管に困惑する羽目になったのだった。
「花には花言葉が存在するように、その香りを纏う人物も、その性質が色濃く表れているのです。外見だけ取り繕ったところで、全てを見透かすエビリズの嗅覚を誤魔化すことは出来ませんわ」
アデリーナ王女は、猫のように大きくつりあがった目を細めて微笑んでいるけれど『見つけた』と囁いた彼女の声を思い出すだけで、身の毛がよだつ。
――もう誤魔化しようがない。
王女は、私がディミトリ王子の婚約者として晩餐会に参列した令嬢だと、完全に判っているのだ。
まさか、エビリズ王家に“香りで人物を特定する力”などと言うものが存在するとは思ってもみなかったせいで、油断していた先刻までの自分を罵りたい…‼
アデリーナ王女は一体どうするつもりなのだろう…そんな事をボンヤリと考えていた時、不意に彼女の真の目的が見えた気がして、その考えの恐ろしさに戦慄する。
…アデリーナ王女はディミトリ殿下が学術院に戻ると聞いて、彼と片時も離れまいと、一緒に編入する道を選んだのだと…そう勝手に思い込んでいた。
しかし、既に王宮内で半年以上もアプローチを続けている割には、二人の距離は縮まらず、彼女がそれに焦りを抱いていたのだとすれば…。
てっきり、殿下の傍に侍り、積極的に迫ることが彼女の目的だと信じていたけれど、よく考えれば彼の心を自分に向けるには、もっと簡単な方法があるではないか。
…今、ディミトリ殿下の心を占めている邪魔な存在を――婚約者の令嬢を探し出し、排除してしまえば良いのだ。
王妃殿下から、殿下の婚約者は他国の侯爵令嬢だと紹介を受けていたから、まさか王女が国内の、ましてや王立学術院に婚約者が通っていると、目星を付ける事が想像すらも出来なかった。
仮に、彼女が間諜を使い既に過酷の目ぼしい侯爵家に探りを入れていたのだとすれば、該当する令嬢がいないことは公然たる事実だろう。
王妃殿下の口から告げられた言葉が、偽りであると知った王女が次に目を付けるとすれば…それはアーデルハイド王国の貴族令嬢や令息が一堂に会する王立学術院であることに疑いの余地はない。
彼女にしてみれば、他国の王族に嘘偽りを吐いてまで婚約者の身を隠そうとする王妃殿下に不信感を募らせ、只守られているだけの存在である婚約者に益々憎悪を燃やすという悪循環なのだろう。
場所さえ特定できれば、縁談相手でもある王太子殿下の傍で親交を深める事を名目に、王立学術院の中へと入り込んでしまえばいい。
編入さえしてしまえば、後は自分の持つ王家の力を駆使し、憎い婚約者と同じ花の香りを纏う令嬢を見つけ出すのは容易いだろう。
その為の手段として、授業中であっても他学年の学級や女生徒の集う場に積極的に出向き、全学年の令嬢が集うダンス講習の場で、相手役を申し出た――そう考えれば、全ての行動の理由が付く。
王立学術院には貴族の令息、令嬢の身を守る為に強い結界が張られ、人の出入りも厳しく制限が設けられている。
その事は周知の事実の為、王宮に居ても文官から情報を得ることは容易だろう。
騒ぎを起こさず、間諜を紛れ込ませる事も難しい…それが、彼女自身が学術院に直接乗り込んで来た理由なのかもしれない。
アデリーナ王女自身が手を下す可能性は低いけれど、これだけの執念で婚約者を特定しようとしているのだから、事故を装って殺害…もしくは廃人にしようと考えている可能性は高いだろう。
あまりの恐ろしさにゴクリと唾を飲み込む。
――ここまでくれば、私一人が対処できる範疇を遥かに超えていることは明白だ。
(…考えすぎ…その可能性もあるけれど、王女の行動の全てに符号が合うのが恐ろしいわ…。一人で悶々とするくらいならば、ディートハルト先生に推論を話して、王妃殿下にもその旨を伝えていただく方が良い気がする…)
目眩がしそうなほどの恐怖に、ドクドクと心臓が早鐘を打ち、自分でも酷い顔色をしているだろうことは見なくても判る。
周りで楽し気に会話を続ける友人たちに、この顔を見せたくなくて、目の前に並ぶサーモンサンドイッチに俯きながら齧り付いた。
張り付けた笑顔と、何を話しているか判らず曖昧に微笑みながら咀嚼する食事は、味さえも感じられずに恐怖心と共に飲み下す。
――だから、感情の無い視線がジッと私を観察していた事にも、気が付くことは出来なかったのだった。
昼休み以降、全く授業に身が入らなかった私は、只管に授業が終わる事だけを祈っていた。
――少しでも早く、ディートハルト先生にこの事を相談し『お前の気のせいだよ。心配するな』と言われて安心したいという気持ちで一杯だったからだ。
しかし、授業が終わる直前に異変が起きた。
授業中にも関わらず、慌ただしく駆け込んできた教員の一人が学級担任に耳打ちすると、サッと顔色を変えた担任から授業の終了と、本日は速やかに帰宅するようにという言葉が告げられたのだ。
『どうやら盗難事件が起きた為に、臨時職員会議が開かれるらしい』
教員の会話を盗み聞きした生徒たちから、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえるのを他人事のように思いながら、周りの状況に目を配りつつそっと席を立つ。
アデリーナ王女もブルーノもディミトリ殿下との会話に夢中な様子で、こちらへは見向きもしない。
その事に安堵しつつ、素早く医務室のあるプティノポローン棟へと向かった。
何度も後ろを振り返りつつ進む足取りは重く、物音が聞こえるたびに体を強ばらせている自分の姿は傍から見れば滑稽以外の何物でも無いだろう。
誰も居ないプティノポローン棟では私の靴音だけがコツコツと響き渡り、その事にむしろ安堵を覚えながら医務室の扉へと手を掛けた。
【臨時の職員会議につき離席中。緊急を要する場合は、職員室へ申し出るように】
扉を開こうとした瞬間、施錠に阻まれたガチャガチャという音と、目の前に貼られた張り紙に思わずチッと舌打ちが出る。
臨時職員会議の話題は耳には入ってはいたものの、全職員が対象になっていると予想もしていなかった自分の詰めの甘さに苛立ちが募った。
(ああ最っ悪‼…何で今日に限ってこんな事件が起きるのよ⁈…出来れば早めに相談したかったのに。…此処で待ち続ける訳にもいかないし、あまり長い時間一人でいるのは不安だわ。一度、寮へ戻って、頃合いを見てから出直そうかしら…)
張り紙を見つめながら、考えに没頭するあまり、気配に気づくのが遅れたのは確かだ。
しかし僅かに感じたビリビリとした明確な殺意に、本能ともいうべきか、咄嗟に体が動く。
背後に叩き込んだ肘内が、相手の腹部にグッとめり込んだことを感じると、すぐさま敵の動きを封じるべく腕へと手が伸びる。
ねじり上げようとした腕が空を掴み、逆に私の背中へと伸ばされた手が、そのまま私を扉へと激しい力で叩きつけられた。
「うっ…ガハッ」
急激な圧迫感と肋骨の軋む痛みに、注意力が僅かに逸れた瞬間、後頭部を掴み上げた手が、何度も私の額を扉へと打ち付ける。
「グッ…ガッ…ハッ…」
バッと眼に前に散る火花や燃えるように熱い痛みが私の抵抗を奪っていく。
繰り返される容赦ない攻撃と、溢れ出す鮮血が目を赤く染めた頃、ふらつく足を叱咤しながら、大きく体を捩じり、その勢いのままに回し蹴りを叩き込んでやった。
ドンッと激しい音を受け、よろける気配は感じたけれど、あの程度の攻撃では致命傷を与えることも、逃げ出す時間さえも稼げない。
倒れ込みそうになる体を奮い立たせ、振り返った先に居たのは黒髪とヘーゼルの双眸を持つ男の姿だった。
刹那、振り上げた拳が容赦なく私の腹へめり込むのが見え、それと同時に焼けるような痛みと、逆流する血の味が口内へと込み上げる。
やはり…と苦々しい思いだけを抱きながら、私は真っ暗闇に飲まれたのだった。
「起きろ…いつまで寝ているつもりなんだ」
わき腹をグリッと固いもので押され、ジクジクとした痛みに呻きながら目を覚ます。
視界に映るのは薄暗闇と天井の梁で、どうやら床に直接転がされているようだと状況なのを知る。
かなり高い位置に配置されている明かり取り用の小さな窓からは月が覗いていて、意識を失ってから数時間は経過しているのだとボンヤリ思った。
差し込む月明かりに照らされて、微かに見える室内には、乗馬用の鞍や剣術用のツーハンドソードを模した木剣などが乱雑に積み上げられていて、どうやら此処は学術院の外れにある用具室ではないかと覚る。
(痛っつ‼…手加減なしで殴られたみたいね。…どうやら額の血は止まったみたいだけれど、かなり酷い状態なのかしら…)
痛む箇所を確認しようとして、漸く自分が後ろ手に両腕を縛り上げられている事に気づくのだから、我ながら情けない。
(まあ…一先ずは命あっての物種というし、無事だったことを喜んでおきましょう)
それですら、いつ奪われるのかは神のみぞ知るだけれど…そう思うと、フッと自虐的な笑みが零れる。
「…カール・ティーセル、お前は何故笑う?これだけ痛めつけられれば男女を問わず、涙を流して命乞いをしてくるのが普通だろう」
…気配が感じられなかったので、すっかり忘れていたが、目覚めたのも彼――ブルーノ・テイラーに痛みを与えられたからだと思い出して、声のする方へと顔を向けた。
木箱の上に座り、ジッとこちらを見下ろす瞳には何の感情も灯ってはいない。
淡々と人を痛めつけ、只々任務を遂行する事だけを忠実に熟す姿は、彼が間諜や暗殺を担っていることを雄弁に物語っていた。
(彼が間諜ならばむしろ好都合だわ。私がターゲットだと確証が持てなければ、アデリーナ王女に指示を仰ぐかもしれないし、時間稼ぎが出来る)
「容赦なく痛めつけられたせいで、泣く余裕さえ無いよ。それに身代金目的の誘拐なら、貧乏男爵家ではなく、金持ちを狙えば良いのにと思うと、笑いが込み上げて来てね」
私だって、勿論これが身代金目的の誘拐だなどと本気で思っているわけでは無い。
何も知らない貴族令息ならば、こんな目に遭わされれば家絡みの怨恨か、金目当ての誘拐だと思うだろうという考えに基づいて発言したのだ。
「何も知らないフリか?王太子の婚約者とやらは、随分と愚かな女なのだな」
ブルーノは態々、私の目の前まで来ると片膝をついて顔を覗き込んでくる。
そこには微かな苛立ちと、気持ちの揺れが見て取れた。
「おや、その様子だと私の推論はハズレのようだね。金目当ての誘拐じゃないのなら、無抵抗の相手を殴って憂さ晴らしをするのが目的かな?」
「…そうやって煙に巻くのがお前のやり方か?だが、王太子の婚約者は左胸に碧薔薇の紋章を持つ。まさか、その意味を知らぬわけでもあるまいし、此処で脱がせてソレを確認すれば、別人だという言い逃れは出来ないだろう」
――ちょっと待て‼紋章の意味をアンタは知っているのか⁈
(ディミトリ殿下に“共鳴紋”とかいう名前なのは聞いたけれど、あれに意味があるなんて一言も聞いていないよ⁈…知っているんだったら、教えて欲しい‼)
…そんな気持ちはグッと堪えて、取り敢えず情報を引き出すために会話を続けることにする。
…本音では聞きたいけどね⁈
「…肌に薔薇の模様を描くことなんて簡単だ。付け黒子と同様に、染料を付け絵筆で描けばいくらでも増産出来る。社交界で流行れば多くの女性が胸に描くだろう?」
「既に社交界で流行しているなどの事実が無い事は、間諜により調べが付いている。それにアーデルハイド国王曰く、『碧薔薇の紋章は、正当な王位継承者が、自身の伴侶に授ける大切な証の為、王族の色と同様に薔薇を模した肌への装飾を社交の場で禁じている』そうではないか」
ええ~っ…そんな話は聞いたことすら無いんですけれど…⁈
(王位継承者が伴侶に授けるって…授けられた覚えが無いんですが⁈王位継承者って言うと、ディミトリ殿下の事よねぇ?…私はずっとティーセル領で暮らしていたんだから、会う機会すらない相手にどうやって授けられろっていうのよ⁇)
全く意味の分からない事ばかりで、悶々と悩んでいると『まあ良い…』とブルーノが無表情で懐からサボタージュ・ナイフを取り出した。
「こんな議論をするより、直接確認すれば良い話だ。さっさと済ませてしまおうか」
体の動きを封じるように馬乗りになると、ブルーノは先ずクラヴァット、そして麻のシャツをいとも簡単に引き裂いていく。
今は布切れになったシャツだったものを開くと、いきなりブルーノがクツクツと笑う声が聞こえた。
「お前が女だという事は証明されたが、まさかこんな防具を腹に仕込んでいたとは思わなかった。俺が本気で殴りつければ、内臓に損傷を与えるほどの威力があるというのに」
そう言うと、ブルーノが私の体から引きはがした“コルセット”を目の前にぶら下げる。
麻キャンバス地で作られたコルセットには、張り骨で補強が成されていたのだが、今はこぶし大にべコリとへこみ、内部の木も真っ二つに折れているようだ。
防御目的では無く、男性の体格に似せるためだけに使用していたコルセットが、まさか自分の命を救ってくれるとは想像もしていなかった。
(おかげで命拾いしたよ…君の尊い犠牲は忘れない‼ありがとうコルセット…)
私が感謝している間に興味を失ったのか、ブルーノはコルセットを放り投げると、今度は私の左胸に視線を移す。
(あー…いきなり碧薔薇が消えて只の青痣に戻ってくれないかしら…。そうすれば言い逃れが出来そうなのに…)
ボンヤリと、そんな事を考えていると、何故かブルーノの瞳が困惑に揺れている。
「…なあ、お前は…その、本当に王太子の婚約者とは別人、なのか…?」
んん⁈…いきなりどうしたんだ?
「晩餐会に参列していた婚約者の左胸にあったのは碧薔薇だったし、国王も明言していた。そして、アデリーナ様も確かにお前と婚約者は同一人物だと…」
ブツブツと動揺した声で呟くブルーノを見るに、どうやら本気で碧薔薇の紋章は青痣に戻っているようだ。これはツイている‼
「だから別人だと言っただろう?私の胸には碧薔薇の紋章なんて無いんだよ」
「…では、お前の左胸にある金薔薇の紋章は何なんだ?これには何の意味がある?」
「ほえっ⁈」
思わず変な声が出て焦る。
(いやいやいや、金薔薇って?!…今度は色まで変化したって言う事なのか⁈)
何故自分の体だというのに、こんなにも儘ならないのか…カールは只管に困惑する羽目になったのだった。
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