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    ある日、それは起きた。
「それじゃ、今日の感情教室はここまでにするね。おやすみなさい!」
私が悪天使の牢を出ようとした時だった。
「先生!」
 引き止められて振り返ると、そこには目を細めて口角を上げている悪天使の姿があった。
「今夜ノ感情教室、アリガトウゴザイマシタ!」
 幼気な瞳で私を見つめる悪天使の羽は、神秘的に輝いていた。
 その姿はまさに、変化途中の悪天使そのものだった。
「私タチ、分カッタンデス。喜ビトハ、心ガ満タサレテ、ドンナ苦痛モ乗リ越エラレル、強イ感情ノコト。命懸ケデ私タチニ感情ヲ教エヨウトシテイル、先生ノヨウニ。ソシテ、ソノ感情ニヨッテ、笑顔ハ生マレル。先生ノ感情教室デ笑エルコトヲ知ッタ、私タチノヨウニ。デスヨネ、先生!」
 涙がこぼれた。
 悪天使は少しずつ、自分たちの置かれている状況に気づき始めている。怒りや悲しみを感じやすい状況で、彼女たちは笑うことを選んだ。
 勿論、彼女たちが完全なる天使になるには、正の感情だけでなく、そもそも感じるだけで辛いような負の感情も教えなければならない。
 それでも今は、悪天使に宿った最初の感情が「喜び」であることが嬉しくて仕方がなかった。
「そうだよ、正解だよ。よくできました、三人とも!先生は喜びで満たされています!」
 私が泣いたまま笑うと、悪天使は首をかしげた。
「先生、質問!ドウシテ、先生ハ喜ビデ満タサレテイルノニ、目カラ水ヲ流シテイルノデスカ?」
  実に難しい質問だ。実のところ、私もよくわからない。夥しい数の感情を教えるというのは、一筋縄ではいかなそうだ。
 ある程度考えた私は、答えを述べた。
「これは水じゃなくて涙。水よりももっと温かく尊いもの。喜びで満たされているときの涙はね、笑顔の応用版なの。まだあなたたちには理解しがたいことだと思うけど、いずれ分かる時が来るよ」
 多分、悪天使の頭の上には、?マークが何個も浮かんでいることだろう。
 今はそれでいい。今はただ、笑っていればいい。今まで散々、虚無の時間を過ごしてきたんだ。せめて今だけは。夜の時間だけは、感情教室の間だけは、全てを忘れて笑えばいい。
 身体にこびり付いた血生臭さも、自らの運命も、この世界の不条理も、全て全て、全て……。
 
  スベテ。

    ドタドタドタドタ

 鉄の廊下に響き渡る、こちらに向かってくる足音。
 私は頭が真っ白になった。

     バン!

 勢いよく鉄格子の扉が開く。
 入ってきたのは二人の幹部。最も恐れていたことが起きてしまった。
「リュア。こんな時間にこんなところで何をしているのかしら?」
   アリスが冷徹な声で私に問いかけた。無表情ともいえるその表情が、私を蔑む。
「え、えと、悪天使のケアをしてい…」
「嘘をつくな!」
 クーデに胸ぐらを捕まれ、そのまま鉄の壁に打ち付けられる。
 どすの利いた声が耳に滲みる。
「ぐはっ!」
 背中に走る衝撃。古い傷がズキズキと、過去の惨めな記憶を解放する。暴力を振るわれたのはいつぶりだろうか。
 そのままクーデは、私に瞳の最も奥にある憤りの色を見せるように顔を近づけてくる。鬼の形相なんてものじゃなかった。この顔を悪天使に見せて上げられたら、恐怖という感情を与えられると確信したくらいだ。
   しかし私は、彼女を押しのけて悪天使の方へ振り向かせられるほどの腕力を持っていない。その弱さは、恐怖によって与えられた痙攣も相まってできたものでもある気がする。
「悪天使の羽が天使の如く輝きを放っている!これは、お前がこいつらに感情を与えたという、何よりの証拠だろうが!」
「っ!」
 しまった。
 悪天使が喜びを宿したことが仇となってしまった。なんて初歩的なミスだろう。対策の余地なんて、いくらでもあった筈なのに。
「お前には、『悪天使に感情は一切与えるな』と口を酸っぱくして言ったはずだろ!」
 私は、頭を打ち付けられて意識が朦朧とする中、悪天使をに目をやった。恐らく、悪天使を拝めるのはこれが最後だろう。
 悪天使は、その場にへたり込んでいた。美しい天使は、この汚い状況に呆れて帰ってしまったようだ。
さっきまであんなに神秘的に輝いていた羽は、完全に漆黒の悪天使のそれに戻ってしまっていた。
「リュア。貴女には失望したわ。貴女は他の偽善者と違って利口だと思っていたのだけれど。利口なフリをしてプロデスト軍を裏切ったのね。こんな結末になることを考えずに、のうのうと悪天使に感情を与えた、愚かな世話人よ。覚悟なさい」
     アリスは、冷淡な声で私に言い放った。

 バケモノは、悪天使じゃない。
 ヒトの皮を被って、何の罪もない私たちを縛り利己的に使う、アンタたちだ。

 私は、舌打ちしそうになるのを唇を嚙むことで抑え、何も出来ない無力な手の甲に爪で三日月の跡を作った。

 さようなら、悪天使。
 ダメな先生で、ごめんなさい。
 
 私は、二体のバケモノに腕を捕まれ、こことは違う、朝か夜かも分からない閉塞的な牢へと連れていかれた。




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