カタナクション

竹尾練路

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第一章 剣帝再臨

第17話 それは、魔王と呼ぶには余りにも――

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 白兎がこわいのです。
 そういうと、義太郎さまはしわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑いました。
 草を食べるおとなしい動物だから、何もこわがることはないと、義太郎さまは白兎をなでながらわたしの手を引きましたが、わたしはハチに刺された時のようにひどく泣いて、義太郎さまを困らせてしまいました。
 どうしても、白兎のその真っ赤な目が、おそろしくてたまらなかったのです。
 あの日わたしを見つめていた、ぶきみな赤い瞳にそっくりで――。

  ◆

 それは、わたしが、義太郎さまにキヌというお名前を頂く前のことでした。
 わたしは、暗い暗い部屋のかべに、冷たいくさりでつながれて毎日を過ごしていました。
 お部屋の中はサビと血のにおいしかなく、いつもどこからか、いたい、苦しい、助けて、というだれかの心の声が聞こえてきました。わたしはこわくてこわくて、いつも耳をふさいで目をとじて、毎日をじっと暗いやみの中で過ごしていました。
 がまんしてがまんして耳をふさいでいると、いつのまにか叫ぶような心の声は消えてしまうからです。
 どうして、わたしはこんなひどい目にあってるんだろう、と考えることもありました。あの青い目のこわい人たちがやってきて、目かくしをしてしばられて。
 わたしはエルフです。エルフは忘れることができない生き物です。
 これまでの出来事は、ぜんぶきちんと覚えています。まだ知らないことばもたくさんありましたが、みんなが話していたことは、全部、全部覚えています。
 でも、それはわたしが、この部屋でクサリにつながれているわけについては、何の説明もしてはくれませんでした。
 だれかが遠くで、いたい、いたい、と思うと、わたしもいたい、いたい、と思います。
 エルフの里では、だれかがいたい、苦しいと思うと、みんながいたい、苦しいと思います。だから、他の人がいたいと思うようなことは、ぜったいにしてはいけないとお父さんから言いつけられていました。
 なのに、わたしは、ずっと誰かのいたい、を感じています。
 どうしてわたしは、こんな所にいるのだろうと。わたしはわたしのことを、世界で一番かわいそうな女の子だと思っていました。
 ――頭にひびいてはきえてゆく、いたい、いたい、という声をさけんでいた、たくさんの人達の方が、こうして生きているわたしより、もっと、ずっとかわいそうな目にあっていたことを、わたしは知りもしませんでした。

 さいしょは、里でくらしていた時の、楽しかったことを思い出してすごすようにしました。
 でも、お父さんとお母さんとくらしていた時のことを思い出すと、いたくて苦しい毎日が、ずっとずっといたくて苦しくてさびしくなりました。
 わたしは一日中、いたい、苦しいと思いながら、自分をお人形さんだと思うようにしました。
 お人形さんは、いたくても、苦しくても、泣いてお母さんをよんだりしないからです。
 それは、楽しかったことを思い出してすごすより、ずっと楽なことでした。
 わたしはエルフです。お父さんとお母さんのことも、里での楽しかった思い出もぜんぶぜんぶおぼえていましたが、それは、わたしとは違う別の人の思い出だと思うようにしました。
 頭の中の思い出はきれいに残っているのに、それを思い出すわたしは小さく小さくなって、わたしはだれかのいたいと苦しいを聞くだけの、お人形さんになること――。
 わたしには、それができる、はずでした。


 もう思い出せなくなったはずの、温もりにふれて、わたしは目を覚ましました。
 久しぶりの光は、ずっと暗やみにいたわたしにはまぶしすぎて、すっかり目がくらんでしまいました。
 でも、まちがえるはずはありません。
 それは、お父さんとお母さんでした。お母さんの心は、あったかいオレンジ色で、お父さんの心はやさしい深緑です。エルフには、人の顔の見分けがつくように、心の色の見分けがつくのです。
 お父さん、お母さん、と呼ぼうとしましたが、のどがカラカラで、ひゅー、ひゅー、という音しか出ませんでした。
 でも、わたしはお父さんとお母さんがきてくれたのがうれしくて、自分がお人形になっていたことも忘れていました。
 
「ぉとぅさん、ぉかあ゛ざん……」

 何どめかで、やっとかすれた声を出して顔を上げると――。
 そこには、黒いローブを頭からすっぽり着こんだ、小さな人影が立っていました。
 まだ子どもぐらいの体つきでしたが、男の子とも女の子とも分かりません。
 何より不気味だったのは、誰からでも聞こえるはずの心の声が、その人からは聞こえないのです。
 深くかぶったフードの下では、兎のような真っ赤な目がらんらんと光っていました。
 お父さんと、お母さんは、その人の後ろにいました。
 いえ、おかれていた、と言う方が正しかったのでしょうか。
 二人とも、ミノムシのようにほうたいと、くさりでぐるぐる巻きにされて、ベッドの上にねかされていました。
 ローブの人影は、ピクニックでおべんとうを広げるような手つきで、かばんから色々な道具を取り出しました。
 ハサミや、ノコギリや、ペンチのような大工道具や、人間のおいしゃさんが使うような、するどくとがった道具です。
 そして、使い方を考えたくもないような、恐ろしいかたちをした、見知らぬたくさんの道具も。
 後ろのかまどでは、石炭が赤く赤くもえて、冷めた部屋の空気が夏のかげろうのようにゆれていました。
 わたしは、お父さんとお母さんに抱きつこうと走って行きましたが、不意に何かに足をひっぱられてころんでしまいました。当たりまえです。わたしの手足はかべにつながれたままだったのですから。

 立ち上がろうとするわたしをローブの人影が優しくみつめ、赤い瞳が笑うように細まりました。
 

  ◆

「キヌ、おいキヌ」

 悪夢に魘されて震えている少女の肩を摑んで揺さぶると、彼女はゆっくりと泣き濡れた双眸を開いた。
 キヌは翠の瞳で縋るように俺の顔を見つめ、心底から安堵したように息を吐いた。
 されどその表情は晴れず、小さな肩を震わす姿は、極寒の野に置き去りにされた幼子のよう。
 伏せられた睫と合わせて、長い耳が力なく垂れた。
 元気付けるように、妖精ピクシーのアゲハがキヌの周囲を飛び回る。
 ケトルの中に残っていた煎茶はぬるま湯同然にまで冷めていたが、湯呑に注いで少しづつ含ませて落ち着くのを待った。

「悪い夢でも見たのか?」
「久しぶりに、少しだけ、昔の夢を見ました」

 そう言って、彼女は口を噤んだ。思い出したくも――口にしたくもないような忌まわしい過去であることは、血の気の失せた彼女の表情から容易に悟れた。
 キヌの様子は夕べから尋常ではなかった。彼女を俺の寝室に連れてきたのは友枝だ。凶報に怯える彼女を宥めて、腕枕で寝かしつけたのが5時間程前だったか。
 諸大臣と軍官が召集を受け、閣議が始まるまであと数時間はある。
 壊れ物を扱うように背中から抱きしめて、柔らかい髪を撫でていると、キヌはぽつりと漏らした。

「義太郎さまがブルソー要塞を攻め落とされたあの日、私は中身の無いがらんどうでした。
 人形にすらなれない、エルフの形をしただけの抜け殻でした。
 何も喋らず、何も思わず、ただ息を止めていないだけの、死体も同じでした。
 義太郎さまは、そんな私を拾いあげて下さりました。ばらばらだった私を繋げ合わせ、もう一度魂を吹き込んで下さりました――」

 何時も理路整然とこの世界の万象について教えてくれる彼女の言葉は、酷く抽象的で、その意を計りかねた。それは、俺ではなく自分自身に言い聞かせるようなか細い独白だった。
 
「明日の軍議は、私も列席させて頂きます」

 声を震わせ、戦慄く拳を握りながら、キヌは力強くそう告げた。
 そんなこと、する必要はないよ。
 そう声をかけようとしたが、彼女の翠玉の瞳に点った決意の強さに、俺の台詞は喉元で詰まってしまった。

『人の世のまつりごとに関わることなかれ』

 エルフの世界の不文律である。
 人の感情を自在に読み取れるエルフの能力は、人の世の均衡を崩すには十分な危険性を秘めている。
 キヌはレディコルカの大老という職に就きながらも、政治には不干渉を貫いてきた。
 その彼女が、軍議に参加する重さと意味。
 決意の理由。
 ――彼女は不安に搖れる瞳で俺を見上げる。

「何も心配しなくていい。俺が戦場に出ることになったとしても、それはこの国に迎えられた俺の義務だ。悪い魔道士をやっつけることは、レディコルカの王様の仕事だからな」

 安心させるように笑いかけると、キヌも唇を震わせながら口角を釣り上げて見せた。
 その不器用な作り笑いが愛らしく、子どものように頭を撫でてしまう。
 本当に、彼女は嘘をつけない。
 キヌは懼れている。怖がっている。スティルトンとの戦争を。
 俺が命を落とすかもしれないことを。
 
 自分が戦争に加担するかもしれないという事実を、俺は動揺なく受け入れた。
 火元としての責任感もあったし、身に覚えのない王様扱いに引け目を感じていたこともあった。
 もしかしたら、スタンフォード監獄実験の看守役のように、剣帝のすえを演じて振る舞ううちに、自分でもすっかりその気になってしまったという可能性も有り得るだろう。
 何より――武力を以て、理不尽な暴力より人を守る。それは、ずっと慣れ親しんだ俺の仕事だった。
 警察の初任科の時代に、初めて握ったニューナンブM60拳銃の重みを思い出す。
 掌に収まるような小さな鉄の塊が、20年以上培った剣の業を超える武力を秘めているという恐ろしさに、背筋が震える思いがしたものだ。
 俺の持つ抗魔力は、この世界では強力極まりない武力だ。
 
「大丈夫、明日のことは明日かんがえればいいさ」
  
 あと少しだけでも、眠っておこう。
 キヌと己を薄い毛布で繭のように包み、褥の中で暁の到来を待った。

   
  ◆
 

 お偉いさんの集まる会議にはありがちなことだが、数時間に亙る軍議はさしたる進展も見せずに堂々巡りを繰り返していた。
 スティルトンのエメンタールへの突然の侵攻。寝耳に水の報告であった。
 夜を徹して事実関係の確認を行い、エメンタールからの続報を待っているが、情報が錯綜しており、昨晩の第一報に次ぐ有力な情報はない。
 要石によって魔道が無効化されるレディコルカと違い、エメンタールではスティルトンの魔道士達が魔道の発動に支障をきたす惧れはない。
 けれども、エメンタールは険しい山岳の連なる天然の要塞。駐屯する傭兵ギルドも士気高く、レディコルカより遥かに好戦的な国柄である。
 エメンタールとスティルトンの間には細々した国交も存在し、リスクを犯してまで兵站へいたんに支障をきたすエメンタールへ侵攻を行うなど、到底考えられることではなかった。
 今日、この日までは。
 
 『魔王級』
 
 随分と大袈裟な俗称だが、この魔王級を筆頭に据えた僅か一個小隊の魔道士が、エメンタールの国家魔道士隊を30分足らずで殲滅したのは厳然とした事実だった。
 ボジョレによると、スティルトンの兵士は、魔道士としては高位だが、兵卒としての錬度はエメンタールに大きく劣っていると聞く。
 マンティコアを牽制ながら険しい山野を駆けたカベルネ達の足取りを思い出す――スティルトンの魔道士は強大な魔力を持つが、開けた平野に大都市を築き上げた彼らは、各々の魔道の研鑽にのみ執心し、実戦を前提とした魔道士は数少ない。
 魔道士としての級位は下でも、実戦経験豊富なエメンタールの魔道士達が、土地勘のある国境地帯で大敗を喫するとは俄かに信じ難い、とはマルゴーの言である。
 スティルトンの休戦協定の破棄と侵攻は、大国の決断とは考えられない程、性急で浅慮に過ぎた。
 レディコルカとスティルトン、300年の確執と言えば物々しいが、休戦が結ばれて250年。
 日本で言うなら、黒船来航よりも遥か昔の過去を口実に戦争をしかけるなど、狂気の沙汰である。スティルトンは鉱物資源に乏しく、農業生産力に劣る国だと聞く。確かにレディコルカとエメンタール両国に勝利し、かつてのように属国として従えることが出来れば、スティルトンの国力は大きく向上するだろう。
 だが、そんな画餅を本気で求める程、スティルトンも阿呆ではあるまい。
 
「しかし、スティルトンが魔王級の魔道士を擁していたなど、聞いたことも御座いませぬ」
 
 誰かが、頭を抱えて唸るように漏らした。
 魔王級。――ⅢS級をも超える魔道士に与えられる称号と聞くが、怪力乱神の逸話を残した神話の時代の魔道士の称号であり、その定義も曖昧である。
 強力な戦力が存在するなら、まず抑止力として扱うのが武力外交の常道である。スティルトンの過去の外交パターンからすれば、魔王級の魔道士の存在を諸国に喧伝しない筈がない。
 俺達と同期するように出現した魔王級。その共時性シンクロシニティに、一瞬だけ、あの海辺良太の顔が過ぎったが――あいつがこの世界に居るとすれば、恐らくは俺達と同じ抗魔力を持ったマレビトとしてだろうし、魔王級などと呼ばれて戦に加担するようなタマにはどうしても思えなかった。
 義太郎さんと一騎打ちをしたという、かつてのスティルトン最強のⅢS級魔道士、メドックも魔王と字されていたことから、マレビトの名に対抗して、国内の強力な魔道士に魔王の字を付けて神輿として担ぎ上げたと考えるのが、誰もが考える順当な予想だろう。
 ――そこに、今回の圧倒的な武力による侵攻が存在しなければ。

 日の丸と赤い狼を模した国旗の張られた最上座の席で、俺は遅々として進まない軍議を眺めていた。
 キヌは押し黙ったまま、不快げに眉根を寄せている。
 軍議の参加者に、俺達の存在を煙たく思うものが少なからず居るせいだろう。
 しかし、彼らの気持ちは尤もだろう。
 百万言を尽した軍議の結果を、名ばかりの皇帝の鶴の一声で覆されてはたまらない。
 無論、俺とて自分から無闇に口を挟む気は無かった。

「エメンタールは同盟国、早速我が国からも派兵を行いましょう」
「敵の兵力が未知数であるからには、派兵は慎重に行わなければなりません」
「このまま指を咥えて眺めていれば、我が国は諸国の笑い者です!」

 机を叩いた将軍の悲痛な叫びからは、『先日、大々的な戴冠式を行ったばかりなのに』という焦りの声が聞こえてくるようだった。
 スティルトンの侵攻の意図は、子供でも分かるような幼稚な挑発である。

『マレビトを連れて攻めて来い』

 俺達を失うような事態だけは、絶対に避けたいと考えているレディコルカとしては、易々とそんな挑発に応じる訳には行かなかった。

「はは、剣帝陛下のご加護を得た我がレディコルカならば、魔王級など何ぞ恐れることがありましょう。陛下のお手を煩わせるまでも無く、抗魔剣士隊の5個中隊もあれば、容易に誅することができましょう」
「キュイロン伯爵、まだ見ぬ敵を安く見積もると、手酷い火傷を追いかねぬぞ」

 軽率な軽口を叩いた貴族を、マルゴーが戒めた。
 敵の戦力は全くの未知数。重要なのは、

「その魔王級の魔道でも、私達の抗魔力を破ることは出来ないんだな?」
「と、当然でございます。切畠の御血筋の抗魔力は唯一無二、例え神話の魔王であっても――」

 立ち上がって弁解した男の声は、俺の視線を受けて尻すぼみに小さくなっていった。
 マルゴーと同感だ。まだ出会っても無い敵の、何が分かるというのか。
 敵も、先の戦争からマレビトの能力など知悉ちしつしているだろう。
 万策を尽して、俺達を殺しにかかってくる筈だ。
 深遠な罠のようでもあり、子供の駄々のような無謀な侵攻にも見える。
 計りきれないスティルトンの真意を掴めるものは居なかった。
 
「それでも、もしも魔王級が俺達でしか抗えないような敵ならば、私が相手を務めよう。
 それが、マレビトであり、剣帝切畠義太郎の血族である、私の責務だ」

 俺と友枝だけがスプリンツの王城に籠り続けても、戦況は好転しない。
 スティルトンはレディコルカを包囲し、要石の破壊に取り掛かるだろう。
 レディコルカを覆う破邪の加護が消え去れば、今度こそこの国は蹂躙し尽される。
 東西の冷戦のように、スティルトンとレディコルカは仮想敵に抗う為の武力を拡充し過ぎた。
 全面戦争となれば、流れる血は計り知れない。
 勝ち目が失せてから緩慢な囲碁の勝負を行うより、序盤は将棋の勝負を仕掛けて相手の王の動きを見極めたかった。
 
 意図したことではない。何一つ望んだ事ではないにせよ、俺達の存在が人に累を及ぼし、血が流れたのだ。魔王級の首を俺が討ち取り、不可避の戦争の流血を最小限に抑えることは、俺のけじめであるように思えた。
 
 
  ◆

「……マサ兄、カベルネさん達は?」
「さあ、まだ分からない」

 ボジョレは、あの女なら生き延びている可能性はあると言ったが、エメンタールの受けた甚大な被害から考えれば、生存は絶望的だろう。

「マサ兄、戦争に行くんだね」
「ああ、それが、レディコルカの王様の仕事だからな」

 友枝は、少しだけ床を見つめ、

「ねえ、レディコルカが良い者の国で、スティルトンが悪者の国、そういうことでいいの?」

 背伸びをした黒い瞳が、俺の眼を覗き込んで問いかけていた。
 一瞬だけ、返答に窮した。
 友枝は時折、心臓を射抜くような的確な問いを浴びせてきて、背筋が寒くなるような思いをすることがある。
 
「休戦協定を破って攻めて来たんだから、今回は間違いなく向こうが悪者だ。
 それに、レディコルカは今は俺達の国でもあるんだから。戦わなきゃな。義太郎さんみたいに」
「嘘。マサ兄は、いつも背負わなくていい責任まで背負いたがる。
 戦争なんて、したくなければしなければいいのに」
「したくないことでも、しなきゃいけないのが、大人のお仕事だからな」

 苦笑しながら、友枝の頭を撫でた。昨日のように手を振り払われると思ったが、彼女は唇を噛んで、悔しそうに俯くだけだった。

「マレビトを二人同時に失うリスクは、絶対に避けたいって偉い人達は判断する筈。
 私はここで、マサ兄が帰るまでお留守番だね」

 本当に、頭の回転の速い娘で、見守っていて嬉しくなる。

「残念、予想が外れたな。お前とキヌは、エメンタールまでは同行して貰うことになった。
 敵さんもお前程度は予想してるだろうと、軍議を尽した上での結論だ。
 勿論、戦場からかなり離れた野営地で待機だけどな。
 キヌは敵意に関してはレーダー並だ。身の安全は保障できると思う」

 友枝は一瞬顔を輝かせたが、訝しむように俺を見つめた。

「私はいいけど――キヌさんまで連れていくの……?」
「私なら、とっくに覚悟は出来ております」

 キヌはたおやかに一礼して入室した。

「私は、いつも戦に赴かれる義太郎さまを城で待つばかりでした。
 そんな私が、何かお役に立てることがあるなら、無上の幸いでございます。
 御身に累が及ぶこと無きよう、このエルフの耳を持って、友枝さまに害をなさんとする者の悪しき声を必ずや聞き届けてご覧にいれます」
「だってだって、キヌさん、怖いの苦手なのに、痛いの苦手なのに――」
「心配しなくても、戦場からは遥か後方だ。戦いの痛みをキヌが感得することはない」
「今の私に、正義さまと友枝さまがお亡くなりになること以上に、恐ろしいものはございません」
「だって――戦争だよ? 人が死ぬようなところだよ?」

 そう言う友枝自身、その重みを未だ掴みきれていないようだった。
 エメンタールで数多の魔物を狩った友枝。だが、どれだけ異形の魔物を狩り、血を浴びることに慣れ親しもうと、人を殺すことは彼女の価値観からは有り得ない禁忌である。
 無論、俺も友枝の手を血で汚す気はない。
 城への敵襲も考慮して、友枝とキヌをエメンタール入りさせる案には、賛否両論飛び交った。
 最終的な判断が俺に委ねられたのは、マルゴーの配慮だ。
 俺も彼女達を戦争に近づけたくはないが――。

「正義さま、友枝さま。私には――人を殺した経験がございます」

 唐突な告白に、俺の思考は中断された。
 友枝もキヌの言葉の意味が掴めないといったように、首を傾げた。

「295年前、ブルソー要塞にて、私は自分の父母を殺しました。
 この手で殺めたわけではございませんが――両親を死に至らしめたのは、間違いなく私の決断でした。私の言葉でした。
 わたしのせいで、お父さんとお母さんは死んだんです――」

 翠の瞳が印象的な光を失い、悔恨と悲痛の翳りを帯びた。
 キヌは、それっきり口を噤み、何の説明もしようとはしなかった。
 彼女の心に刻まれた、300年経っても消えない深い疵痕きずあとを見た気がした。

   ◆

 結論から言うならば、俺が友枝達をエメンタールを同行させたのは誤りだった。
 IFの選択肢を確かめることが出来ない以上、本当にそれが悪手だったのかは確かめようも無いが、その時俺達が追い込まれた状況は、最悪とか言い様の無い窮地だった。
 情報不足。見通しの甘さ。後知恵で語るなら、俺達の不手際は枚挙に暇ないだろう。
 しかし、勝負の天秤を一瞬で傾けたのは、やはり場に伏せられていたカードの枚数、何如ともしがたい絶対的な戦力の差に他ならなかった。
 
 前兆は、遥か彼方を滑空する皮翼だった。
 深緑の鱗が陽光に反射して輝き、空力的には空を飛ぶのが有り得ないサイズの巨大な爬虫類が、王者の風格を伴って威風堂々と我が物顔で蒼穹を闊歩していた。

「凄い、竜だよ! 本当にいたんだ! 狩ったら幾らぐらいになるかな!?」

 飛行機を見つけた子供の無邪気さで、友枝は天を指す。
 俺達も、エメンタールでも珍しい魔物をみかけた程度の印象しか抱かず、目を細めて魔物の王のシルエットを眺めていた。
 
「あれ……あの竜、上に誰か人が乗っていないか?」
「何を馬鹿な――」
 
 遠目の利くゼドの言葉を、誰も本気にはしなかった。
 最初の、数十秒間だけは。

「いけません!」

 キヌの悲痛な叫びに、親衛隊に緊張が走り抜けた。

「悪意を乗せた大きな翼が――」

 遥か天空の竜は隼を思わせる挙措で身を沈め、放たれた矢のように加速しながら急降下し、地面の直前で大きく羽ばたいてその速度を殺して着地した。
 隊列前方の地が爆発を起こしたかのように砂塵を舞い上げ、嵐のような旋風が襲いかかった。
 歩兵は蹈鞴たたらを踏んで留まり、馬は狂乱のいななきを上げる。
 俺達の乗った馬車も横転しかね無い程に横風に煽られ、車輪は二度、三度と浮き上がって軋みを上げて、地面に出鱈目なわだちを刻みつけた。

 暴風が収まると、浅くクレーター状に抉れたその中心に、お伽噺から抜け出したきたような、黒い竜が傅くように頭を下げていた。
 ささくれ立った古木の樹皮のような表皮。炎の如く燃える瞳。従順に頭を垂れていても、隠しきれない獰猛さが総身から迸っていた。
 誰かが、その威容に唾を飲んだ。
 齢経た鱗に覆われ、乱杭歯の並ぶその巨大な竜頭を、駿馬でも愛でるかのように撫でる男が傍らに一人。
 竜の背の鞍から察するに、この男がその騎手と見て間違いない。
 男が顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
 その風貌も、跨る竜に劣らぬ異形異様。腰まで伸ばした銀色の長髪。大柄な長身痩躯を、禍々しい漆黒の甲冑で鎧っていた。実用性よりも華美な装飾性に重きを置いた――そんな奇怪な甲冑である。
 何より目を引くのは、高い鼻梁を跨る、両眼の輝きだった。左目は金、右目は赤の虹彩異色ヘテロクロミア。冷たく怜悧な美貌の持ち主だったが、その麗貌は整いすぎてどこか作り物じみた印象を受けた。
 黒髪の小柄な従者が傅き、うやうやしく一振りの大剣を差し出した。
 無造作に鞘から抜かれたその剣は、刀身に至るまで漆黒に染まり、脈動する赤い光が血管の如く縦横無尽に絡みついている。
 男は満足げに頷くと、芝居がかった仕草でその剣を一振りし、鞘に納めて背に担いだ。

「なんだか、ゲームのラスボスみたいな格好……」

 友枝の呟き。
 ――俺は、この男が海辺では無かったことに、小さな安堵を覚えていた。
 二個大隊の規模に及ぶレディコルカ軍の眼前に、従者ただ一人のみを従え、竜にて舞い降り立ちはだかったこの男の正体は、誰の目からも明らかだった。

卒爾そつじながらお尋ね致す」

 斬り込み隊の隊長を務める、バルザック師匠が誰何の声を上げた。
 レディコルカの七師匠の中で、最も若く剛剣に長けた猛者である。

「スティルトンの魔王級魔道士殿とお見受けするが、相違無いな?」

 どこからか、笑いを噛み殺す声が聞こえた。
 魔道士が竜に騎乗するなど聞いたこともない。
 芝居がかった挙措といい、あるいは『いかにも魔王』なこの男を囮として、本物の魔王級が奇襲を仕掛けてくる可能性も案じたが、キヌが別の敵の接近を察知した様子は無い。

「我らレディコルカ抗魔剣士隊に、昔語に伝え聞く、魔王級の魔道なるものを、一手御指南」

 失笑が漏れた。如何に強大な力を持とうと、二個大隊の抗魔剣士相手に、たった二人でどう戦おうというのか。竜は強大な戦力だったが、マレビトにかかれば張り子の虎も同然である。
 そして、それはこの眼前の魔王級も同様だった。
 斬り込み隊が一斉に刀を抜き払う。誰もがこの思いあがった魔王の首級しるしを上げてやろうと戦意に逸っていた。
 魔道の発動には、着火した魔力で空中に魔法陣を描いて発動させるという行程が必要である。
 描く魔法陣は熟達者ほど小さく、S級を超えると握り拳大に近い程に縮小が可能である。
 しかし、発動には数秒の時間を要し、そこが抗魔剣士のつけ入る隙となる。
 眼前の男は、魔道士の戦闘姿勢である杖も構えず、背後の剣も抜く様子は無い。
 一手御指南とは、バルザック師匠の諧謔に過ぎない。魔王級がその力を発動させる前に、総員がこの男を百度殺して余りある程まで斬り刻む、それが、彼らの描いた数秒後の未来だった。

「いいよ」

 素っ気無い返事と共に、ぽっ、とカンテラに火が燈るような音が響いた。
 隊列の先頭で魔王級に刃を向けていたバルザック師匠の姿が、忽然と消失していた。

「スティルトンの魔道剣士、ヴァインガルトが相手をしよう。
 魔王なんて呼ばれるのは、俺としては甚だ心外だけどね」

 バルザック師匠に続いて、前列に控えていた十数人が続いて消失した。
 彼らの存在していた空隙からは、白い灰が棚引くように風に吹き散らされていく。
 刹那に燈った炎の赤き残照だけが、カメラのフラッシュのように網膜に焼きついていた。
 それが魔術による攻撃であり、バルザック師匠以下十数人が一瞬にして命を失ったこと理解するまで、数拍の猶予を必要とした。

「あれは、火属性魔道か――? 詠唱も魔法陣も無しに、なんという速度、なんという熱量」

 ボジョレの台詞には、戦慄の響きが混じっていた。
 出鼻を挫かれた斬り込み隊が、己を鼓舞するように叫びながら斬りかかろうとする。
 瞬間、地面から突き出した無数の氷柱に貫かれ、液体窒素の実験のように砕け散った。
 兵士達の亡骸が、赤きダイヤモンドダストとなってゆっくりと舞い落ちる。
 続いて、落雷が幾人もの兵士を完全に炭化するまで焼き焦がし、0、1mm単位の風の刃が、果実ジュースでも絞るかのように兵士を地に引かれた一筋の朱線へと貶めた。
 
「引け!」

 ものの数秒で斬り込み隊は完全に瓦解し、背を向けて撤退しようとした後続部隊が巨人の腕で薙ぎ払われたかのように消え去った。
 人の形を保っている骸は、唯の一つとしてない。
 彼らは、この世に存在した痕跡すら残さず、くなってしまったのだ。
 そこに死の実感はまるでなく、同胞の死を悼もうとする気持ちすら去来しない。
 断末魔の叫びも飛び散る血肉も残さない彼らの死は、俺の知る死という概念から遥か遠い隔絶を感じた。
 魔王級――ヴァインガルトは、特に俺達を追撃する様子も無く、鬼ごっこで逃げる子供を見るような傲慢な表情でこちらを睥睨している。
 解せないのは、ヴァインガルトの顔つきだった。
 瞬く間に大殺戮を行った忌むべき魔王は、にやにやと薄笑いを浮かべるばかり。
 人の命を奪うなら、それを担うだけの覚悟と責任が必要であると、俺は常々思っていた。
 だがこの男は、あるいは人を殺めたという事実すら無自覚なのかもしれない、と思わせるほどの、軽薄な笑いを顔面に貼りつかせている。

「つまんないなあ。NPCなんて幾ら狩っても、全然面白くないじゃないか。
 少しは骨のあるキャラがいる、って言ったのは嘘だったのかい、エデン」

 剣に限らず、何かを極めた人間は、その面相に独特の深みが宿る。
 職人、料理人、スポーツマン、僧侶――少なくとも、俺の尊敬する多くの人々は、その道を歩む間に、人生について何かしらの自分なりの哲学を得ていたように思える。
 だが、眼前の魔王の面相からは、底浅く安っぽい軽薄な印象しか覚えない。
 魔王級と呼ばれるに至るまでには、相応の魔道の修業が存在した筈なのだが。
 まるで、分不相応な玩具を与えられた子供のようなはしゃぎようで、次々と人を殺めていくばかり。
 感覚は未だ眼前に広がる光景から現実感を掬いかねていたが、理性的な思考はその意義をしっかりと認識し、俺の感情は瞬時に怒りと呼べる温度まで沸騰しつつあった。
 俺は刀を握り、馬車の扉を開けた。

「正義さま――」
「俺が出る。手出しはするな。これは、上意だ」

 制止するキヌ達にそう言い捨てて、兜をかぶって馬車を飛び出した。
 重苦しい緋色鉄ヒヒイロカネの大鎧。俺が歩兵として動くことなく、大将として最後方に坐すことを前提とした兵装だった。
 ――思えば、最初から俺が矢面に立てば良かったのだ。俺はレディコルカの「玉」に当たる。先陣切って斬り込むわけには行かないことは分かっていたが、これだけの人命が失われることになるならば、横車を押してでも俺が先頭に立つべきだった――。
 
「お、今度はもうちょっと楽しめるかな」

 人間をペースト状になるまで粉砕した風の刃が襲いかかるが、抗魔圏に触れるとそよ風の如く掻き消えた。

「お……?」

 落雷が、氷柱が、火球が、土石流が、次々と襲い掛かるが、全て俺の間合いを境に忽然と消滅してしまう。あの試の儀をなぞるかのように。
 抗魔力。この力の前では魔と呼ばれる力は、一切の例外無く、平等に消失する。
 例えそれが、魔王級と呼ばれる神話のレベルの力でも。

「お、凄い、お前凄いよ! じゃあ、こんなのはどうだ?」

 俺を囲むように巨大な魔法陣が走り、地面が赤熱化した。
 火山の噴火口並みの熱量によって、砂礫の地面はねっとりと溶けた飴のような溶岩に変わり、陽炎が俺を包んで視界を搖らした。

 俺の後を追って援護を行おうとしていた親衛隊が顔色を変えて後退した。

「退け! 手出しは許されぬ! これは神々の戦いである――」

 ボジョレ、いい口上だ、と内心で褒めた。心の底じゃそんなことは欠片も思っちゃいないだろうが、誰も近付けるなという俺の意を見事に汲んでくれている。
 一歩、また一歩と進むたびに、赤熱化した大地が元の砂礫に戻り、巨大な魔道の傷痕が跡形も無く消え去っていく。

「お前、一体何者――っっっ!?」

 誰何すいかの声が途切れた。
 俺を、遠くより歩みよる一兵卒としか認識していなかったヴァインガルトが、兜の下の俺の相貌を覗きこんだ瞬間だった。
 金と赤の虹彩異色ヘテロクロミアの瞳が、驚愕に歪む。

「なんで、お前が、こんな所に」

 人を小馬鹿にしたような不敵な笑みを浮かべていた整った美貌が、何かを怖れるのように引き攣り、卑屈な怯懦の表情を形作った。
 それは、魔王と呼ばれるには全く似つかわしくない、コンプレックスに塗れた小心で臆病な男の顔だった。
 そして、俺はその表情に覚えがあった。

 ――シリンダー錠の回る音。アニメ調の破廉恥な少女のポスター。
 パソコンに向って、己の世界に沈溺する青年。
 彼が振り返り、心地よい己の世界への闖入者に築いた時の、恐怖と驚愕の表情だった。

「海辺、良太、なのか――?」

 その名を告げると、ヴァインガルトはヒィ、と短く声を漏らし、卑屈な上目遣いで俺を見上げた。

「違う、俺は違う、俺はこの世界に転生した、勇者ヴァインガルトだ、お前なんて知らない、お前なんて――」

 背負った黒い大剣を右腕で引き抜き、俺を一刀両断にしようと大きく振りかぶる。
 だが、そこまで。癇癪と共に振り上げたキーボードのように、手元を押えて制止するのはごく簡単なことだった。
 何が魔道剣士だ。魔道に関しては魔王級かもしれないが、剣については素人以下なのは、さっきの一振りで十分に見て取れていたのだ。
 俺が抑えたヴァインガルトの手元に、奇妙な変化が起きた。
 サロンパスが水を吸って膨らむように、細く引き締まった形の良い腕が、ぶよぶよと肉を得て膨らみ出したのだ。
 脂肪で膨れた腕は、黒いガントレットを結わえる紐を圧迫し、ハムのような醜形を晒した。
 変化は右腕に留まらなかった。
 二の腕から、脇、首、横腹と這い上がり、赤い凶眼輝く右顔面までを侵食した。
 キメラのように肥大化したその半身は、どう見ても俺の見知った海辺良太で――。

「お前、お前、何で――」
「……お前、俺の名前も覚えてなかったんだな。
 もう一度名乗っておく。俺は切畠正義。そして、お前は海辺良太だ。
 どうやって魔王に化けてヴァインガルトなんて名乗ってるのか知らないが――。
 報いは、受けて貰う」

 思い出したくない過去を、思い出した。

『良太は、昔はあんな風に閉じこもる子じゃ無かったんです。中学生ぐらいの時までは、もっと明るくていい子で――』 

 こんな男でも、死ねばあの母親は泣くのだろう。
 同じ日本人、顔も見知った相手だった。
 もしかしたら、俺がレディコルカの大義を背負ったように、こいつにもスティルトン側の大義があったのかもしれない。だが、それを語らう必要が今あるようには思えなかった。
 葛藤と感傷を捨て、刀の柄に手をかけた――。
 煩悶するのは、この手を汚した後でいい。
 この男がたった今行った虐殺は、そう断ずるには十分だった。
 鯉口を切り、座り込んだこの男の喉笛を裂く。百万回は繰り返した抜き付けの一太刀で叶う――筈、だった。

「お母さん」

 その一言に、一瞬だけ腕が止まった。
 奥歯を固く噛み締め、再び、柄を握り直し、次の瞬間こそ首を刎ねる――。
 刹那、細い銀弧が俺の首筋を撫でた。
 影のように隣に控えていた従者の、順手に握ったナイフの一振り。反応が僅かでも遅れていれば、頚動脈が裂かれていただろう。
 抜く瞬間まで、殺意も挙措の欠片さえ感じさせない、恐るべき技である。
 銀のナイフを握りしめた黒髪の従者は、俺が微かに仰け反った瞬間に、ヴァインガルト――海辺の長髪を掴み、一瞬にして引き剥がした。
 俺の抗魔圏から抜け出た海辺が、魔王としての端整な姿を取り戻す。

「今です、ヴァインガルト様!」

 従者の言葉に弾かれるように、海辺は地に巨大な魔法陣を描写した。
 しかし、怖れるには至らない。いかな魔道であれ、それはマレビトである俺を害するものでは有り得ないのだから。
 だが。
 瞬間、周囲の世界が凄まじい速度で前方に流れ出した。
 後ろに引きずられている? どうやって?
 回答はすぐに出た。
 足元に描かれた魔法陣。それが、ブルドーザーのように、俺の抗魔圏ごと地面を掬い上げて、そのまま動く歩道のように後方に移動させているのだ。 

「っ、このっ!」
 
 刀を抜き、地に突き立てると、ピタリと地は移動を止めた。
 しかし、時すでに遅し。俺は撤退した自軍のすぐ側まで押し戻され、海辺とは相当の距離が開いてしまっていた。
 土属性の単純極まりない魔道だが、実現するには無尽蔵に近い魔力と、俺の抗魔圏に対する理解が必要だ。海辺が即座にこの離脱方法を思いついたとは考え難い。恐らくは、あの従者の策か。
 ナイフで俺の首筋を狙ったあの動きといい、只者ではない。

「正義さま――」

 キヌが、青褪めた顔を俺に向ける。

「左右から、沢山の殺意の群が――」

 街道を挟む森の間から現れたのは、粗末な武具に身を包み、剣やメイスを携えた兵士達だった。
 その頬はこけ、目は血走り、尋常な貌ではない。
 汚れた身なりに痩せこけた体躯。兵士としてとても優秀な部類とは思えないが、ヤニ汚れた歯を剥いて、殺意を隠そうともしない形相はどこか餓えた手負いの獣を想像させた。
 彼らは特徴的な相貌を持つハーフエルフではない。多くの人種の兵士達の混成部隊だった。
 その背中に魔杖を向けて、スティルトンの魔道士が嗤う。

「マレビトと言っても、所詮は刀で斬りかかるしか能の無い山猿。
 我ら魔道士が相手をするまでもありませんわ。
 さあ、喰らいなさい、賤しき剣奴達よ。今日は一人につき首二つ。
 集められなかった者は、明日の朝日は拝めぬものと思いなさい」

 キヌにも気取られぬ距離に伏兵を配置し、今の小競り合いの隙に一気に攻め寄せたのか。
 元より、奴らもマレビトに魔道士が挑む不利など熟知していた。
 この布陣を作り上げるために、魔王級さえ囮にして――。

 俺は、数百メートル先の海辺を見据える。
 あの魔王モドキは確かに強大な力を持っているが、稚気に任せて暴れるだけの阿呆だ。
 ……魔王級は、単なる駒の一枚に過ぎないのか。
 魔王級。飛竜。剣奴。癖の強い駒を使って俺達を追い詰めている奸智に長けた指し手が、どこか盤上の向こう側に立っているような錯覚を抱いた。

 黒髪の従者が、不意に此方を振り向いた。
 小柄な体。男とも女とも知れぬ、中性的な顔立ち。
 その両目が白兎のように赤く輝き、笑いかけるように細まった。
 




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