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竹尾練路

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第一章 剣帝再臨

第14話 無礼講と戴冠式と

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 牡丹鍋、などと呼べる上品なものではないが、猪の肉は手っ取り早く塩茹でにして鍋にした。
 胡椒や生姜と似た風味の香辛料とひたすらに煮込み、灰汁を取る。
 出来れば、肉は寝かせて熟成させたかったのだが、贅沢は言っていられない。
 絵本に出てくる、魔女の大釜のような鍋で煮込むこと数時間。
 見るだに恐ろしい大猪は、香ばしい湯気を上げる肉の煮込みへと姿を変えていた。

 言外に苦言を呈して来そうな良識派のボジョレは、マルゴー王と共に一足先にレディコルカの王都スプリンツへ戻り、国を挙げての大本営発表の準備に追われている。
 貴人として敬われながらも、その実腫れ物扱いされている現状には飽き飽きしていた。
 仲を深めるには同じ釜の飯を喰らうのが一番――などと言うのは、余りに安易で古臭い考えかもしれない。だが、俺は元々そんな育ちの人間だ。
 付き合いは、主君と家来などという堅苦しいものではなく、共に鍋を囲んで一杯ひっかけるような気安い仲がいい。
 どれだけ祀り上げられようと、俺達はその程度の庶民で田舎者なのだから。

 焚火の上で湯気を上げる猪の煮込み。
 車座に加わる彼らの挙措からは、おっかなびっくりという印象が否めない。
 かしこみながら、恩賜の褒章でも受け取るかのように、猪の煮込みをうやうやしく受け取っていく連中が大半であるが、これまでの背景を考えれば無理も無いことだろう。
 猪のあばらの肉をごりごりとくらいながら、話が通じそうな奴が現われそうなのを待つ。
 ふと、視界の端に二つ並んだ黒い頭が目に留まった。

「今日は、世話になったな」

 昼間の礼に酒瓶と腹肉の皿を持って、無遠慮に肉を頬張っていたカベルネ達の隣に腰を下ろした。
 この女傑、レディコルカ軍の中に混じって度々不審の目を向けられながらも、まるで物怖じする様子もない。

【ど、どういたしまして……】

 ちびちびと杯を舐めていたピノが首を竦めるように頭を下げる。
 どうもこの子は人見知りの気があるようだ。
 大猪の頭を刎ねた時の伸びた背筋とは似ても似付かない、自信なさげな猫背。マンティコア相手の立ち回りを見るに、本番では強いタイプなのだろうか?

【気にせんでええで。お互い様や】

 ほろ酔いの桜色に染まった頬で、カベルネがひらひら手を振る。
 ――俺が抗魔力を試すに当り、彼女達の冒険者パーティー『ヤタガラス』の名前を借りて、駆除討伐依頼という形を取って魔物を退治してきた。
 費用はレディコルカ持ち、報酬は全額ヤタガラスの正規メンバーに支払うという話なので、彼女達にとっては濡れ手で粟の儲け話だろう。
 しかし、マルゴーから聞いた話によれば、これはレディコルカに全く益が無い話でも無いという。
 俺達をマレビトと認定した、『試の儀』。
 あれは派手なデモンストレーションではあったが、事前に示し合わせて行えば、見掛けだけ派手で殺傷力の無い魔術で、一般人をマレビトに見せかけることも出来る。
 つまり、エメンタールとレディコルカの両国が協力して行った、大きな捏造ではないかと、疑うことも可能なのだ。
 マルゴー王は言った。お気に召すまで、このエメンタールの地で魔物を狩られなされと。
 人足には地元の人間を使っている。彼らは俺が魔物を消し去る姿に恐れ慄き、伝え広めるだろう。
 ――本物だ、レディコルカに現われたマレビトは本物だった、と。
 抗魔力のテストを兼ねた魔物狩りを、体よくマレビトの威光を示す巡礼として利用しているのだ。
 タダ飯を食わせてもらっている身だ。別段、そのことについての不満は無い。

 カベルネは意地汚く空杯の内側に舌を這わせてから、ピノに次の酒瓶を取りに行くように命じた。

【……ほんま、あんたら一体、何者なにもんや? 
 マレビト様、いうのはよう分かった。せやけど、あんたら王家やの貴族やのいう、いけ好かん連中とは育ちが違うやろ?
 山刀で猪かっ捌いて鍋で煮込んだあんたの手際といい、トモエの料理や針仕事の腕といい、やんごとなき御方の仕事とは到底思えへん】

 カベルネは俺の手首を摑んで裏返す。

【でかいやなあ。あんたらの手は、苦労を知らん貴人の手やない。
 野良仕事や何やに馴れた、そこらのきこりや村娘みたいな手や。
 もうじきレディコルカで玉座に着こう、いう御方がそないな暮らしをしとるなんて、神国ニッポンいうのは一体どないな所や?】

 彼女は、レディコルカの貴族達でも尋ねるのを躊躇う、俺達の過去に平然と踏み込んだ。
 カベルネだけに伝わるよう、彼女の肩にそっと妖精ピクシーを置く。

「別に。魔道とやらが無いだけの、ごく普通の国だ。
 お察しの通り、俺は元々しがない憲兵、友枝は剣を齧っただけの村娘だよ」

 さよか、と漏らすと、カベルネは興味を失ったように再びピノから酒瓶を受け取り、手酌で呷り始めた。
 俺は、特級酒で満ちた銚子を、彼女の杯にそっと傾ける。

「これまで友枝が息災に過ごしてこれたのは、あんた達のお陰だ。感謝してる」

 彼女は澄んだ琥珀色の味に眼を丸くしながら、空を仰いだ。

【あの子、人懐っこいし世渡りも上手で器用なしっかりした子やけど――時々、夜中に独りで声を殺して泣いとったわ。
 トモエはほんまにええ子やから、あんた、大事にしてやらんとあかんで】

 俺は、返答の代わりに銚子をもう一献いっこん傾けた。


   ◆


【本音を言えば、我々は随分セギュールの兄弟に嫉妬していたんですよ】

 現在俺達の近衛を務めている元第三憲兵隊の面々とは、随分と肩の力が抜けた会話が出来るようになった。
 この世界に来てから、一番付き合いが長く親しい連中だ。
 俺達が肩肘張らぬ気安い会話を望んでいることを、ボジョレ達が伝えてくれたお陰でもあるだろう。

【バルベーラは上手い事やったもんだ、と悪口を叩くのが最近の我らの酒席の定番です。
 無論、本来なら一同打ち首となって当然の不敬を御寛恕ごかんじょ頂いた御恩、一日たりとて忘れてた日は御座いませんが、あの跳ねっ返りのじゃじゃ馬が今では陛下のお傍仕えとは。
 あの兄妹は分家の生まれとは言え、セギュール家は初代剣帝陛下の側近の家系。 
 巡り合わせというのはあるものですなあ】

 軽口が過ぎる、と背中をシグロにつつかれているこの男の名は、ロメラルだ。

「色々難しい状況が続いて、皆には迷惑をかけるな」
【何をおっしゃる。スプリンツへの凱旋帰国を目前にして、我ら一同意気昂揚の極みに御座ります。
 郊外で野盗の根城を潰し歩いていた我ら第三が、名誉ある陛下の近衛を仰せつかることになるとは。
 王都を我が物顔で練り歩いていた、第一や第二の連中を顔を思い出すと、笑いが止まりませんよ】

 下世話な話題を饒舌に語るロラメルに、周囲の隊士が苦い顔をするが、無礼講上等だ。
 これを逃せば、もうこんな機会は無いかもしれない。
 一人一人、雑談を交わしながら、ゆっくりと酌をして回る。
 酒の勢いもあってか、段々と会話にも弾みがついて談笑も進み出した。
 国の事。仕事の事。家族の事。果ては酒や喰い物の好みの話まで。普段居酒屋で同僚や友人達と話しているような話題に、とりとめも無く花を咲かせる。

 ――この国の憲兵隊は、王城近辺を警護する第一憲兵隊と、首都スプリンツの警戒を担当する第二憲兵隊が花形であり、この第三憲兵隊は元々スティルトンとの境となる、北の国境付近の警邏を担当する部隊だった。
 北の国境は過去幾度も小規模な戦闘が勃発した危険地域であり、国王にして師匠のマルゴーの愛弟子、隊長ボジョレ以下武闘派の面子を揃えている。
 焚き火に照らされた隊員達の面構えと体つき。成る程、底無しの体力と獣の敏捷性を兼ね、どれだけの傷を負っても戦い続けるタフで優秀な兵士達であることは一瞥にして見て取れる。
 そんなむくつけき男達の中に、赤い花が一輪。

「正義様、どどどどうぞご一献」
「バルベーラ、お前酒は飲めるのか?」
「は、はい、嗜む程度には」

 嘘だな。こいつは飲めないクチだ。
 彼女の手つきは、新歓コンパで見様見真似でビールを注ごうとする一回生のそれだった。
 危なっかしいその手から銚子を抜き取り、手酌で自分の杯を満たし、バルベーラの杯に無遠慮に注ぎ込む。

「き、恐縮です」

 コツン、と杯を合わせて一気に煽ると、バルベーラは意を決したように一息で流し込んだ。
 飛び交う口笛と手囃子。たった一杯で、彼女の頬が耳まで赤く染まる。

「イケるねえ。ほら、もう一杯」
「頂戴します……」

 再び杯を傾けると、バルベーラは熱い吐息を漏らして瞳を潤ませた。
 これは、あと、二、三杯で潰れるかな。

「もう一杯いけるかな?」
「コラ、何やってんの、このアルハラ上司!」

 頭部に衝撃。友枝はひょいと俺の手から銚子を抜き取り、桜色の唇をそっと寄せて、一気呵成に飲み干した。
 周囲から、おおーと歓声が上がる。
 手の甲で唇を拭う仕草には、子供っぽさと仄かな大人の色気が絶妙なバランスで同居していた。
 酒を水のように流し込んで顔色一つ変えない所は、流石はうわばみだった鉄也先生の孫という所か。
 いや、そんなことより。

「未成年者の飲酒は法律違反だぞ」
「はい、急に素に戻ってお巡りさんづらしない! こんな所で未成年者飲酒喫煙も無いでしょう! 自分はバルベーラさんに散々飲ませておいて」
「法律の問題だけじゃない。まだ子供のお前が酒を飲むのはまだ早い。……と言いたいが、その様子だと、もうとっくに酒の味は覚えちまったみたいだな」

 友枝に飲ませたのは、間違いなくカベルネの奴だろう。
 また子供扱いして、と友枝は口を尖らせるが、俺の立場としては、女子高生に酒を勧めるわけには行くまい。

「仕方ない、無礼講だから、今夜だけだぞ」

 一緒に鍋を囲んで飲むような気安い付き合いは、これが最後の機会になるかもしれないのだから。
 堅苦しいことを言って、場を冷ますのも無粋か。
 今日だけは、特別に目を瞑ることにした。

「正義さま」

 通訳として友枝に付き添っていたキヌも、酒気にてられたかのように頬を上気させていた。
 恐らく、酒宴を楽しむ酔漢達の心持ちを感得してしまったのだろう。
 キヌたちエルフには、生まれつき他人の感情を読み取る力が備わっている。
 詳細な思考までは読み取ることは出来ないが、彼らは時として、他人の感覚までも己のものとして感得してしまう。
 キヌは一滴の雫すら口に含まなかっただろうにも関わらず、充分に出来上がっていた。

「義太郎さまも、お酒がお好きで、良くお酒を飲んでは色んな御唄を歌われていました」
「尋常小学校の唱歌や、戦時歌謡を教えて貰ったそうだね」
「はい。義太郎さまは『露営の歌』や『愛国の花』のような勇ましい御唄が特に御好きでしたが、私は『春が來た』や『ゐなかの四季』のような優しい御唄を歌うのも大好きでした」

 雪膚せっぷに紅を交えて嬉しげに語るその顔は、純真無垢な少女そのものだ。
 その表情からは、300年の歳月の重みなど微塵も読み取れない。
 キヌと過ごして、気付いたことが幾つもある。
 彼女は――嘘をつかない。その性は、彼女の人格の清廉さに由来するものではなく、エルフという種族に拠る性質なのだろう。恐らくだが、相互の感情を詳らかに読み取る事が出来るエルフの社会では、意図的に嘘をついて相手を騙す、という行為が意味をなさない。
 俺達人間は、他人の表情を覗い、その言葉の真偽を疑い、ノンバーバルなコミュニケーションの中で、相手の真意を読み合おうとする。だが、エルフはそんな世知辛いことをする必要もなく、ただありのままに在るだけで、互いの感情を伝え合うことが出来る。
 それだけではない。

他人ひとの痛みが分かる人間ひとになりましょう』

 そんな道徳授業のお題目を、キヌはその身で体現している。彼女は文字通りに、他人の痛みや苦しみを、我が物として受け取ることが出来る――否応無しに、受け取ってしまう存在なのだ。
 屈託の無いキヌの笑顔。彼女の表情には、虚偽も虚飾も虚勢すら無い。嘘偽りの無い感情を鏡のように映し出すキヌの表情は、コミュニケーション・ゲームの中で感情を駆け引きをすることに馴れきってしまった人間にとっては、どうしようもなく純粋で侵し難い神聖なものに思えるのだ。
 今でこそキヌは崇敬の対象だが、義太郎さんがキヌを引き取った当時、レディコルカはスティルトンとの戦争の真っ最中。敵国の人間と同じ特徴を持つ顔貌のキヌは、忌み子として人々の憎悪を一身に浴びたという。
 彼女は、何も知らぬ無知な子供ではない。その長い人生で、一体どれ程の人間の闇を覗き込んできたことだろう。
 それでいて、彼女の頬に浮かぶのは、未だ無垢な子供のような微笑みである。
 全く、人間では有り得ない超越した精神性。ヒトでは持ち得ない、エルフだけの高貴なる純性ノーブル・イノセンス。 
 友枝も、敏感な独特を感性で、それに勘付いていた。

「やっぱりキヌさん可愛いぃ! 一緒に歌おうよ! じゃあ、『どんぐりころころ』!」

 キヌの笑顔が、寂しげに曇った。

「あれ? キヌさん『どんぐりころころ』知らないっけ?」
「いえ、よく存じております。とても、素敵な御唄です。
 ……ただ、少しだけ、寂しい御唄ですので」

 俺は、友枝と顔を見合わせた。『どんぐりころころ』は軽快な童謡では無かったか。
 唱歌など碌に知らない俺でも、未だ暗誦できるような簡単な歌だ。
 俺達の疑問に答えるように、キヌは夜空を見上げながら、小鳥が囀るような美声で歌いだした。


 どんぐりころころ ドンブリコ
 お池にはまって さあ大変
 どじょうが出て来て 今日こんにちは
 坊ちゃん一緒に 遊びましょう

 どんぐりころころ よろこんで
 しばらく一緒に 遊んだが
 やっぱりお山が 恋しいと
 泣いてはどじょうを 困らせた


 宴もたけなわとなった無礼講の喧騒が消えた。
 焚き火を車座で囲んでいた男たちの輪に静寂が広がり、キヌの歌声だけが、炎に乗って舞い上がるように、星空へと消えていく。
 僅か1分少々で終わってしまう、短い唱歌。
 これの一体何処が、寂しい歌なのだろうか――?

「あ」

 己の失言を恥じるかのように、友枝は口元を押えた。
 続いて、俺の脳裏にも弾けるように理解が広がっていく。

 ――やっぱりお山が 恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた

 それは、義太郎さんが生涯抱いていた、そして、俺と友枝が胸に秘め続けている、望郷の念を歌い上げた唄だった。
 キヌは歌い終えると草の上に腰を下ろし、架空の酒気に酔い潰れたのか、細い体を横たえて、やがて小さな寝息を上げ出した。
 夜空に輝く満月と同じ色をした細絹の髪が、淡く燐光を発するように輝いて見える。
 この美しい泥鰌どじょうは、池に嵌ったどんぐりのような俺達のことを随分と慕ってくれていることは分かっている。

「本当に、可愛い人だよね、キヌさんって。こんなピュアなコがいるなんて、信じられない」

 友枝は、少しだけ悔しそうにそう呟いて、キヌの頬を小さく突つついた。

「バルベーラさんも寝ちゃってるし。女の子をお酒で潰すなんて、良い趣味じゃないよ、マサ兄」
「そいつはいいんだよ。気付いてないだろ。バルベーラは最近無理な稽古や不寝番ばかりして、目の下に隈まで出来てる。間違ったスポコン根性でつっ走ってオーバーワークで故障する典型のような性格をしてるからな。
 休める時には休ませてやりたい」
「尤もらしいこと言ってるけど、随分楽しそうにお酒を勧めてたように見えるけどな。
 いつも紳士ぶってる癖にいじめっ子なんだから」

 咎めるような友枝の視線にも、落ち着いた優しげな色が混じっていた。

「これからどうしようか?」
「レディコルカに戻ったら、藤原道長の真似でもしてみるか?」
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば――ねえ。
 ん~、ガラじゃないなあ。
 マサ兄こそ、ルイ15世の真似でもしてみる?」
「よせよせ、俺が女を囲う最愛王なんて呼ばれる人間に見えるか?」

 友枝はけらけらと笑った。

「それにしても、面白いよね、この世界。夜は魔物が出て、妖精がいて、エルフがいて――。
 何だか、ゲームの中の世界みたい」
「ん? 最近のゲームって、こんなのなのか?」
「あー、マサ兄ってゲームしない人だけど……でもでも、全然したことないの?
 ドラクエも、マリカーも、スマブラも、ぷよぷよも、全然?」

 いくら田舎育ちとは言え、俺とて電気も通らない山奥で育ったわけではでない。
 俺が子供の時分にも、もう充分にテレビゲームは普及していたし、小学生の時分には、教室で交される雑談も、ゲームの話題がかなりのウェイトを占めていた気がする。
 友達の家に遊びに行った折には、誘われるままにコントローラーを握った事もあった筈だ。
 もう、その感触も、友人達が画面の中の何に熱狂していたのかも、思い出せないけれど。

「友枝、お前だって、あまりゲームなんてやってるようには見えないけどな」
「わ、私はマサ兄と違って普通の現代っ子だもん! ちょっとはゲームで遊ぶこともあるよ!
 ポケモンもモンハンも持ってるし、スマホのアプリでキノコを育てるゲームもしてるもん!」

 取り繕って胸を張っているが、友枝も世間一般から見れば、十分にゲームなどやらない部類の人間なのだろう。
 ゲーム、という言葉を呼び水にして、俺の脳裏に暗い部屋の記憶が蘇った。
 海辺良太が引き篭っていた、あの部屋の記憶が。
 暗い部屋で唯一人、密閉型のヘッドフォンで世界を閉ざし、肥満体を窮屈に縮めてパソコンのモニタを凝視していた海辺の姿。
 彼が没頭していたのも、ネットゲームの類だったか。
 一昔前、『ゲーム脳』という言葉が流行したことがあった。曰く、ゲームに熱中しすぎると、脳波が認知症を示す異常な状態となり、脳の前頭葉がダメージを受けて情動抑制力や判断力が低下する、という理論である。
 無論、大した科学的裏づけも無い、噴飯ものの擬似科学理論だ。
 俺はそんな古い言説を唱える程の年寄りではないが、あの時のゲームに没頭する海辺の姿――アレは、どう見ても常軌を逸脱していた。
 猫背でモニタに向かい、小声で何事かを悪し様に罵りながら、痙攣のように指先をゲームパッドに走らせる異様。何十時間も睡眠をとらずに血走った瞳。
 海辺は一体どうなっただろう? あの男の安否も、意識の端に引っかかってはいたのだ。依然レディコルカでは捜索が続けられていたが、発見の報は未だ届かない。
 そも、友枝が漂着したのはレディコルカではなく、このエメンタールだった。ならば、海辺もどこか遠い異国に漂着したかもしれない。かもしれないが――生存は、絶望的だろう。母親ともまともにコミュニケーションが出来ないようなあの青年が、この異郷の地で生計たつきを立てることが出来るとは、到底思えない。俺や友枝がこうして再会できたことすら、奇跡のようなものなのだ。
 それでも、俺は海辺がどこかで生き延びていることを願ってやまない。

「ゲームみたいかどうかは分からないが……確かに、常識じゃ考えられない奇想天外な体験が出来たのは確かだな。世界旅行なんて目じゃないぞ。
 それでも――俺は、やっぱり日本に帰りたい。この世界は、落ち着かない」
「そうだね。テレビも無いし携帯も通じない。お蕎麦もお味噌汁も無いもんね。
 カベルネさんたちと毎日魔物を狩って回るのも結構楽しかったけど、やっぱり、」

 かえりたい。

 星空を見上げながら、友枝は自分の感情を確かめるように、静かに呟いた。
 この世界の酒は独特だ。野趣溢れるとでも言うのだろうか、度数はそう高くない筈なのに、妙に酔いが回るが早い。異国の酒精に心地よく身を任せて、キヌの隣にごろりと寝そべった。

「ねえ、マサ兄。私達の抗魔力なんて力があるのは、この世界を嫌っているから、元の世界に戻りたがってるからじゃないか、って言ったことあるようね」
「そう言えば、そんなことも言ったかもな」

 魔力なんて無い世界から来た俺達の、世界を故郷の常識に沿わせんとする意志。
 無意識の郷愁こそが、抗魔力の源ではないか? 
 ――虚言である。全く事実無根の、根も葉も無い妄想だ。
 しかし友枝は、飲み屋の与太にも等しい俺の仮説の上に、もう一段煉瓦レンガを積み上げた。

「この世界を嫌ってるから抗魔力があるんならさ、こんなゲームみたいな世界が好きで好きで堪らない人が、この世界に来たらどうなるのかな?」

 瞳を好奇心に輝かせて、友枝は寝そべる俺を逆さに覗き込む。
 彼女の背後で煌めくのは、満天の星空と、煙をくゆらせる幾多の篝火。

 ――酒席の座の冗興に過ぎない友枝の問いを、後に俺は幾度となく苦々しい思いで回想することになる。


  ◆


 エメンタールとレディコルカの国境沿いには、仮組みの見世物小屋が幾つも設えられ、紅毛のレディコルカの民が談笑を交しながら足を運んでいた。
 中で展示されているのは、アルケニーの肢やコカトリスの翼、マンティコアの尾などの、俺達が仕留めた魔物の骸の一部――らしい。
 要石の内側に持ち込むと完全に崩れ落ちてしまうので、原型を保ったままレディコルカの民に見世物にするためには、こうやって国境沿いに店を開くしかないのだ。

「さあさあ紳士淑女の皆様、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、こちらに坐ましますは正義親王陛下、御手狩りのケルベルロスの牙!
 地獄の門前より逐電し、エメンタール山中に巣食って畜獣を爪裂くこと200年、暴虐の限りを続けてきたケルベロスを破邪の一刀にて見事斬り伏せられた正義陛下のその御手並みぃ!
 陛下の草履持ちとしてお傍でしかと見届けた、このペリキータが一部始終の顛末を、とくと語って聞かせよう! 
 さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい――」

 俺は呼び込みをするペリキータなる男には見覚えは無かったし、ケルベロスを退治した記憶もない。
 しかし、講談を思わせる、独特の拍子をつけた誘い文句の謡い回しは実に見事。
 友枝による魔物の乱獲で、実質的に魔物の討伐報酬を支払えなくなったエメンタールの冒険者ギルドだが、どうやら賢い金策を思いついたらしい。
 立ち並ぶ見世物小屋の数々は、俺達が仕留めた魔物の肉を全て運び込んでも足りないだろう。
 肝心の中身であるが、随分と真贋入り乱れているようだ。
 道端には、『親王陛下を御守りした名誉の負傷』と書かれた看板を掲げた傷痍兵しょういへい達が、施しを求めて皿を並べていた。

「……全く、浅ましいことです」

 バルベーラは憤慨したが、俺はエメンタールの民の商魂の逞しさを感じていた。
 足を運ぶレディコルカの民の瞳に宿るのは、好奇と憧憬の煌めき。平民は要石の一歩外に出るだけでも、関所の通行料と面倒な手続きが必要な筈なのに、これだけの数の民が、怪しげな見世物市のために国境を越えたのだ。
 それは、どこか祭りの熱狂にも似ていた。誰もがまだ見ぬ浪漫に思い馳せ、出会ったことの無いマレビトの活躍に胸を躍らせていた。

 彼らも夢にも思うまい。別の関所を経由して帰国する御用馬車を囮にし、安物の古馬車で関所を越えるマレビト一行が、この市の喧騒を興味深げに眺めていようとは。


  ◆


 即位の儀は、俺達がレディコルカに帰国してからの約一月後に、晴れた吉日を選んで挙式された。
 式典の準備はマルゴー王とキヌによって、迅速に、滞り無く進められた。
 300年のレディコルカの国史を紐解いても、過去に例無きマレビトの即位。
 奢侈華美を嫌い質実剛健を美徳するレディコルカに於いても、国威掲揚の為に豪華絢爛な式典が催される運びとなった。

 祝砲が鳴り響く。
 遠雷の如く響き渡る祝砲の音に、俺と友枝はやや強張った面持ちで耳を傾けていた。
 俺達は緋色の毛氈の敷かれた豪奢な椅子に腰を下ろし、この日の為に誂えられたレディコルカ最高位の正装に身を包んでいた。
 俺達を飾るのは、濃紺絨の肋骨服。両肩には毛足の長い肩章エポーレットが金毛を伸ばし、首元からは立襟の5つボタン。胸元を襷掛けに横切る飾帯は、美しい金と赤に彩られている。
 星章は黄地に三ツ星。レディコルカのものと思われる徽章きしょうは幾つも胸元に輝いていたが、菊花紋章の類は見当たらない。剣帝などと言う諡号で呼ばれながらも、義太郎さんは己を故郷の皇族と同列に並べようなどとは思わなかったのだろう。
 腰に佩用する国宝の刀は、この日の為に軍刀仕立てに組み直してある。
 この正装、義太郎さんが初代国王に就任時に、レディコルカの仕立屋に命じて作らせたものだという。
 日露戦争大勝の立役者として有名な、あの東郷平八郎の有名なポーレートを想起させるデザイン。その由来が、旧日本軍の礼装にあることは言うまでも無い。
 だが悲しいかな、義太郎さんはノモンハンに於いては一兵卒に過ぎず、服飾の専門家でも有り得なかった。義太郎さんはガリ版刷りに載った乃木大将や東郷大将の写真の朧な記憶を元に指示したのだろうが、俺達が身に纏うこの正装は、今日こんにち写真で目にすることが出来る、本物の旧陸軍礼装とは随分と趣を異にしている。
 当時の職人が懸命に義太郎さんの語るイメージを再現しようとしたのは理解できるが、全体としては、不出来なコスプレのような印象が拭えない。
 だが、どうしてそれが笑えよう。
 使用されている生地も、それを誂えた針子の腕も最高級。
 欠けた細部をイメージで補い、全体の調和を崩さぬようレディコルカ風の意匠を各所に施したこの礼装は、威厳と気品を併せ持ち、俺達に合わせて完璧にコーディネートされた、正真正銘の『正装』だった。

「う~ん、こんな服を着ている所を後輩に見られたら大変なことになるなあ」

 友枝は、しきりに肋骨服の飾り紐や肩章を引っ張って気にしている。
 上背もあり、どこかボーイッシュな外見の友枝は、同姓の後輩達から絶大な人気があるのだという。
 宝塚の男役のようにでも思われているのだろうか?
 だが、細身の体に肋骨服の礼装を端整に着こなした友枝には、凛々しさと可憐さが奇跡的な比率で釣り合い、独特の中性的な色気を釀し出していた。

「ふん、どーせ私は胸も無いし、男物の服の方が似合ってますよーだ」
 
 不貞腐れたように頬を膨らませる彼女の頭をぽむぽむと撫でる。

「お前は十二単でも着せられるものかと思っていたが、そっちの方が動き易くていいじゃないか。
 それにほら――似合ってるぞ」
「服のセンスの欠片も無いマサ兄に褒められてもなあ」

 そうは言いつつも、満更ではなさそうだ。
 今袖を通している服が、今まで着ていたものとは格の違う最高級品であることは、文字通り肌で感じ取っているのだろう。
 軽口を叩き合いながらも、俺達の顔はどこか強張っていた。
 部屋の向こう、王城の前庭では、王や諸大臣の口上や、来賓の挨拶が続いている。
 更に向こう側には、マレビトの顔を一目見ようと集った人々の群れ、群れ、群れ。

 高見櫓から外を覗けば、稜堡式りょうほしきの城砦の遥か向こう側まで、黒山の人だかりが埋め尽くしているのが分かる。
 試の儀の時とは比べ物にならぬ、果て無き大群衆。一体何十万の人間がこの王都スプリンツに集まっているのか、見当もつかない。

「さあ、正義さま、友枝さま、御出番に御座います」

 しずしずと歩み出たキヌが、恭しく頭を下げた。

「行こうか」

 毛足の長い絨毯に靴先を沈めながら、緊張に身を震わせる友枝の三歩前を先導するように歩き出した。

【抜刀、捧げ、刀】

 号令の元に、義太郎さんの弟子の末裔たる衛士らが、一斉に捧刀の礼を行った。
 背筋を伸ばした剣士たちは微動だにすることなく、林立する白刃の群れは揺らぎもせずに整然と立ち並ぶ。
 これほど見事な捧刀の礼を受けることがあろうとは、想像だにしなかった。
 視界の端に、真剣な瞳にどこか誇らしげな表情を浮かべた、バルベーラの姿もあった。
 己の役割。分不相応の敬礼を当然のものであるかのようにして、悠然と玉座の前まで歩み寄る。

【控えよ】

 マルゴーの大号令と共に、近衛の兵士達が、列席している貴族来賓が、そして眼下の数十万の群集が、一斉に膝を折って跪いた。
 それは、俺でさえも鳥肌が立つような、常軌を逸した光景だった。
 水を打ったような沈黙の発する圧力プレッシャーは、試の儀の万雷の喝采を遥か凌駕して余りある。
 背後で、友枝が戸惑うように足を止めた。その心情を察するのは容易かった。

 とんでもないことになってしまった。
 否――己は、とんでもないものになってしまった、と怯えているのだろう。
 だが。

「それは違う、友枝」

 ゆっくりと、言葉を選んで諭す。

「どんな地位に就こうと、どれだけの人間にかしずかれようと、お前は、何も変わらない。
 ここには、お前が自分の力で手にしたものは、何一つとない。
 全部、奇縁の巡り合せによって運ばれてきたものばかりだ。
 俺も、お前も、何一つ変わらない――この群集が望んでいるものは、この国の皇室の復活――マレビトの肩書きを背負って立つというだけの存在だ。
 どんな肩書きを負わされようと、どうせお前はただの女子高生だ。だから、気負わずに、胸を張って、堂々と歩いていけ」

 呆れたような苦笑が帰ってきた。

「……相変わらず、度胸あるんだか、鈍感なんだか。
 いいよ。いつも通り、マサ兄についていくから」

 決してマレビトと視線を交えるような不敬を行わないよう、己の爪先を覗き込むかのように、みじろぎ一つせずに跪く国民達。

 重々しい沈黙を睥睨しながら、刀を抜き、空に掲げて、即位の宣詞を高らかに述べ上げた。


 ما  سجی افراد وفاداری وو  دستمزد به علاوه  صنعت  بر این اساس و ته وو این دیدگاه امپریالیستی که در آن باید
 شش قدرت نمایش داده شده به نمایش داده شده  قلب 
 جنوب شرقی دو بار باید  وو  یانگژو مشاهده سجی افراد ما هر یک پوشش بدن 

 朕ハ爾臣民ノ忠誠其ノ分ヲ守リ勵精其ノ業ニ從ヒ以テ皇運ヲ扶翼スルコトヲ知ル
 庶幾クハ心ヲ同シクシ力ヲ戮セ倍々國光ヲ顯揚セムコトヲ
 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ――


 内容は、極めて古めかしいレディコルカ文語調による、紋切調の宣詞である。
 予め一言一句違える事無く暗記しているそれを、青空の下、国民と、己と、お天道様に誓う。

【面を上げよ】

 マルゴーの言葉が響き渡り、やがて幾千幾万の視線が俺達を射抜いた。
 キヌの導きに従って玉座に腰を下ろす。
 装飾過剰の玉座は思ったよりも固く、尻の据わりが落ち着かない。

 やがて、森厳しんげんな表情のマルゴーが、三方に王冠を載せて歩み出た。
 俺の知る中世西洋の作法ならば、君主への戴冠は教皇や司祭によって行われる。
 そして、このレディコルカに於いて宗教的求心力を持つのは、キヌ=レディコルカをおいて他に無い。
 ハーフ・アーチを宝石で飾った王冠を、キヌは細腕で恭しく持ち上げ、玉座に坐した俺の頭にそっと載せた。桜色の唇から、嘆息の息が漏れる。眼前で、みどりの瞳が濡れたように輝いていた。
 どこか、陶然としたようなアルカイックスマイル。少しだけ名残惜しげに瞳を細め、キヌは俺の頭上の王冠から細い指を離した。
 続いて、次席の友枝の頭に、王族の証の小冠ティアラが戴せられる。

 マルゴーが何か仰々しげな宣詞を叫ぶのを、どこか上の空で聞いていた。
 
「در اینجا، از آغاز سلطنت او عدالت حضرت شاهزاده است!」
 
 言葉は明瞭に届いた筈だが、その意は風のように俺の脳裏を素通りした。
 体だけが、事前に何度も打ち合わせをした通りの礼式の所作に従って動いた。 

 腰間の刀を友枝と共に抜き合わせ、天空高く切先を交える。
 どこか、『三銃士』を想起させるような、異国情緒溢れる誓いの所作。
 この国の礼法は、おそらくレディコルカ伝統のものと、義太郎さんが持ち込んだ戦前戦中の日本のものが、中途半端に交じり合っている。
 腹の底から揺り動かすような、大歓声が王城を揺るがした。
 「万歳」と。
 この地の言葉ではない。俺達の親しんだ、日本語での「バンザイ」だった。
 数えきれない国民達が、「切畠正義陛下万歳」と繰り返している。
 やや青褪めた顔の友枝が、不安げに俺の顔色を伺う。
 その懼れは、当然だろう。現在の日本でも、ちょっとした慶事にこの言葉を使うことは多いが、眼下から響く空を割らんばかりの「万歳」の大合唱からは、どうしても先の大戦での日本の狂奔を連想せずにはいられない。
 当然だろう。この国を建てた義太郎さんは、「天皇陛下万歳」のシュプレヒコールが本物の大義と共にあった時代の人間なのだから。
 それは良しでもなく、悪しでもなく、今はただ受け入れるべきものだ。
 安心させるように笑みを返し、再び刀で天を指す。
 「万歳」という大歓声は、いつ果てるとも続いた。


  ◆


「やっぱり、怖くなっちゃった」

 即位の儀は滞りなく終わり、長ったらしく形式ばった全ての儀礼を俺達は、疲れ果てた気分で儀礼用の王冠を下した。
 
「私、お姫様だなんて言われても、何にも出来ないのに。
 ねえ、マサ兄、私達、どうしてこんな所に来たの? どうして私達にだけ抗魔力があるの?」
「……分からないよ、そんなこと。
 でもまあ、カベルネの言う通りだな。
 大事なのは、どうして俺達にこの力があるのかを考えることじゃなくて、当面はこの力をどう使うかを考えることだな」
「今の所は、魔物退治ぐらいにしか使い途ないけどね。
 でもさ、レディコルカには魔物いないんでしょ? 役に立たないじゃん、抗魔力」

 友枝の言う通りである。要石による義太郎さんの加護に守られたこのレディコルカでは、魔なる力の一切が発動しない。魔道士と呼ばれる異能の持ち主も居らず、人々の暮らしを脅かすあやかしのものも存在しないこの国では、俺達マレビトの破邪の加護は、全くの無価値だ。

「当面は、普通に王様とお姫をやっとけばいいだろう。
 国民が俺達に求めてるのは、偶像としての王家の血筋の人間だ。
 エリザベス女王もローマ法王も、特別な力があるから王族ってわけじゃないだろ?
 そりゃ、多少窮屈な暮らしになるのは間違いないが、せいぜい品のいいお姫らしく立ち振る舞ってくれよ」

 ぐしゃぐしゃとその黒髪を掻き混ぜるが、友枝はむ~と不満げな視線を返した。
 聡明なこいつは、俺の答えが何の解決にもならない無価値な正論であることに気付いている。
 だが、同時に現状ではそれ以外に選択肢が無いことも理解して、葛藤しているようだ。

「正義さま、友枝さま、即位の儀、お疲れさまでした」

 盆の上に湯気立ち上る二つの湯呑を載せて、キヌが柔らかく微笑んだ。
 俺達の気疲れをおもんばかる、些細な気配りが有りがたい。
 このお茶が、地元の手摘みの緑茶ならば文句無いのだが、それは余りに我儘というものだろう。
 友枝と二人、静かに湯呑を傾ける。場外からは、未だ「剣帝陛下万歳」という群衆の声が響き続けている。

「……キヌさん?」

 友枝が、驚いたように湯呑から唇を離した。
 いつもと同じ、たおやかな笑みを浮かべて、俺達が茶を啜るのを見守っていたキヌ。
 その白皙はくせき顔容かんばせに、幾筋も幾筋も、透明に輝く涙が玉のように滴り落ちていた。
 友枝に指摘されて、キヌ自身、初めて己の落涙に気付いたらしい。

「あれ……申しわけございません、私、こんな、はしたない……」

 戸惑うように、拭えど、拭えど、彼女の涙は止め処なく溢れ出る。

「300年、信じて待って、本当に良うございました。
 私のような者に、かくも報われる瞬間があるなんて、想像したことすら――」

 隣で友枝が、息を飲むのが聞こえた。こんなに幸福そうな少女な笑みを、俺は初めて見た。
 友枝がキヌの小さな体を抱きしめて、大丈夫だから、大丈夫だから、と繰り返して頭を撫でる。
 相貌も髪の色も、何もかも異なる二人が、幼子の姉妹のように見えた。

 ――この国の人間のほぼ全ては、俺達をマレビトの偶像としてしか見ていないだろう。
 だが、この娘だけは違う。
 義太郎さんが育てたこの娘、キヌ=レディコルカだけは、本気で、心の底から、俺達を求めている。信仰している。
 ……だからこそ、嘘偽り無く、今ここで口にしなければならないと決意した。

「正義さま、友枝さま。本日の即位の儀にて、お二人は正式にこのレディコルカの国主となられました。
 お二人がご婚姻あそばされれば、このレディコルカは八千代の果てまで、正統なる切畠のお血筋の治むる聖なる国となりましょう」
「ここここここ、婚姻っ!?」

 瑣末な部分で慌てふためく友枝を横目に、俺の心境は冷え切っていた。
 伝えねばならない。絶対に。

「……正義さま?」

 俺の心境の変化を読んだのだろう。
 キヌの表情から、笑みが消えた。

「これだけのことをして貰って申し訳ないが、それは出来そうにない、キヌ。
 義太郎さんは断念したようだが、やっぱり俺は諦めきれない。
 俺はこれから、元の世界に、日本に帰還する方法を探す。
 どんなに困難でも――最後まで、希望は捨てない」

 キヌの顔から血色が失せ、小さく唇を噛んで悲しげに下を向いた。

「マサ兄、どうして、どうして今そんなことを!」

 友枝からの非難の視線が突き刺さる。
 空気を読むのに人一倍長けた友枝は、キヌの歓喜を無下に踏み躙るようなことを言い放った俺を、眇めに睨みつける。 
 ……あるいは、俺独りならば、このレディコルカで皇族の偶像して生きることを素直に選んだかもしれない。
 だが、俺は見つけてしまった。再会してしまった。この手のかかる又従姉妹、番匠友枝と。
 
『かえりたい』

 無礼講の晩、夜空に向かって零れた友枝の本心。ならば、俺はそれを叶えなければ。
 ここは未だ、あの出稽古からの帰り道。そして俺は、この世界で唯一人の友枝の保護者だ。
 最後まで、送り届ける義務がある。
 
 俺の決意を正しく読んでくれたのだろう。
 キヌはおもてを上げて、無理矢理に微笑んで見せた。

「お手伝いします。正義さまの願いは、私の願いですから」

 エルフの少女の、不慣れな作り笑い。その痛々しさに、友枝が顔を背けた。
 キヌの歌った、『どんぐりころころ』の一節が蘇る。

 ――やっぱりお山が 恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた

 我儘な団栗どんぐりで、本当に済まない。
 だが、ただ去るような恥知らずな真似をする気は毛頭無い。
 キヌが居なければ、俺はこの地でマレビト騙りの罪人として処刑されていたかもしれないのだ。
 そして、これまでの王宮での生活。キヌ達には、一宿一飯どころでは無い、返しきれない大きな借りがある。
 たったいま目にした、キヌの涙。あんな美しい涙を、俺は見たことがない。
 これまでの恩義に。そして、あの忝涙かたじけなみだに報いるだけの何かを見つけるまで、決してこのレディコルカを離れはしまい。
 決意を新たに、重たい王冠を再び己の頭に嵌め込んだ。
 
 



 

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