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竹尾練路

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第一章 剣帝再臨

第11話 ヤタガラスの魔道士

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 さて、俺達は『ためしの儀』なるマレビト認定の儀式のために、一路レディコルカの隣国、エメンタールへと向かっている訳だが、如何なる理由でエメンタールまで出向かねばならないのか、そもそも『ためしの儀』とは一体何なのか、俺には全く知らされていなかった。エメンタール、義太郎さんの手記を読む限り、エメンタールという記述は存在しなかったのだが。
 
「エメンタール共和国は、83年前に革命によって解体された旧ブンツ王国領で発足した新興国家です」

 キヌはいつも通りに流暢に解説してくれた。83年前の建国でも新興国家なのか……。

「エメンタールは、大陸2位の広大な領土を誇っていますが、国土の大半は険しい山岳地帯に覆われ、人間が住むに適する土地はまばらに隔たっています。旧ブンツ王国の首都ステッペンからでは、各地を統治しきれなかった事が革命の発端でした。
 現在はエメンタールの都市部は各自治領に統治を任せる共和制を行っています。また、経済や物流に於いても、ブンツ王国時代のような無理な直轄統治は行わず、各商工労働者のギルドに委託を行い、政権はそれらのギルドで不正が行われていないかの監査と折衝を行うに留めております。
 エメンタールが、大陸一の自由国家を標榜する由縁ですね」

 何だか、公共事業の民営化のような話である。
 政治形態は、自由主義の方向を目指しているのなら、こんな異世界でも概ね似通った形に収束していくのだろうか。

「エメンタールの民は、正義さまのような黒目黒髪の容貌の者が大多数を占めますが、スティルトンのような差別思想は薄く、基本的にどんな人種であっても移民は受け入れる、としています。
 山岳地帯の開墾や探索など、ギルドから委託される仕事が非常に多いので、我が国からも出稼ぎに赴く国民は少なくありません。
 そして、エメンタールの最も大きな特徴は、未開拓の山岳地帯に非常に多く魔物が存在することです。神話で語られるような強大な魔物から、田畑を荒らす害獣レベルのものまで、多種多様の魔物が生息し、冒険者ギルドからは駆除討伐依頼が途切れません。
 我が国でも、武者修行の一環として魔物の討伐に参加する剣士も数多くいます。スティルトンの魔道士が魔道の実験に討伐に参加することもあると聞きますね。
 故に、エメンタールはこう呼ばれるのです――『冒険者の国』、と」
「冒険者の、国――」
【儂も若い頃は、冒険者ギルドで仲間を募り、幾度も魔物の討伐に参加したものでしたわい】

 マルゴーは懐かしげに髯を撫でた。
 馴染みの妖精は、マルゴーが口を開くと俺の肩に飛び移った。この地の言葉が殆ど解らない俺と、日本語が全く解らないマルゴー。誰かが口を開く度に、アゲハは言葉の解らない聞き手の肩に飛び移って通訳となる。忙しいことである。
 このピクシー、アゲハのことは懐いた小鳥程度にしか思っていなかったが、キヌの言葉には素直に従う辺り、かなり高度な知能を持った存在なのかもしれない。
 ちなみに、直接脳に語り掛けるようなアゲハの翻訳、通称『妖精ピクシーの囁き』は、こいつを肩に乗せさえすれば、誰でも受け取ることができた。尤も、こいつは人見知りが激しいので、俺とキヌ以外の肩に留まることは滅多に無いのだが。

【魔道士共と組むのは癪では御座いましたが、パーティーの皆で大きな魔物を追い詰めるのは爽快でしたわい。戦の終わった太平の世では、度胸を鍛えるのは魔物狩りに限りまするな】

 彼らの言葉や、義太郎さんの手記に繰り返し表れる言葉。
 ――魔道士、魔物。
 俺達の世界には存在しない、未知の力や生物が、この世界には存在するらしい。
 だが、俺は箒に跨って飛ぶ三角帽子の魔女も、火を吐く龍も一度たりとて目にしたことはない。
 牧歌的なレディコルカの街道沿いの農村を見渡す。この世界は、俺の知る世界とは違う世界というだけであって、魔法だの何だのといった超常の存在が入り込む余地はまるで無いようにさえ見える。
 ……否。
 俺は、肩に泊まって足を揺らす妖精ピクシーすがめに見つめる。この揚羽アゲハと、永久の寿命を持つという、エルフのキヌ。この両名は、俺が出会った超常の存在だ。
 それでも、尋ねずにはいられなかった。

「俺はこの国に来てから、魔法?も魔物も一度も目にしたことが無いんだが、レディコルカの中では魔物が見れるような場所は無いのですか?」
【有り得ませぬ】

 マルゴーはきっぱりと断言した。

【我がレディコルカには、魔物は小鬼ゴブリンの一匹たりとて迷い込む間隙は無く、薄汚い魔術の焔が燈ることも有り得ませぬ。その証が、こちらにましま要石かなめいしに御座りまする】

 エメンタールとの国境沿いの街道脇に、直径10mはあろうかという大岩が腰を下ろしていた。
 ご丁寧に、紙垂の下がった注連縄まで巻かれ、榊のような小枝と神酒まで供えてある。
 日本の古神道にも、巨石信仰は幾つも残っている。奈良の天乃石立神社や、磐船神社――何の皮肉だろうか、俺達の世界での天孫降臨の伝承の地だ――などでも、巨岩が信仰の対象となっていた筈だ。
 しかし、それがレディコルカの街道沿いにごろりと転がっている様子は、ミスマッチとしか言い様が無い。スプリンツの城で千本鳥居を見たときと同じ、出来損ないのパロディの日本文化というような印象を受けた。
 それでも、巨岩を傍を通り抜ける者は、誰しもが恭しく一礼をしてからその脇を潜る。この地でも、立派な信仰の対象であるらしい。

要石かなめいしは、剣帝陛下が遺された、その御霊験の証に御座りまする。剣帝陛下は、無限斬によって崩落したクータンセの岩を切り出し、悠久無限の抗魔の加護を注がれて、国境沿いの各所に配置なさいました。
 この要石を敬い奉り続ける限り、このレディコルカに魔なる力の及ぶ事なしとお誓い下さった日の事は、史書にもはっきりと記されて御座りまする】
「義太郎さまが私達にお約束下さったことは全て真実にございました。事実、それ以来このレディコルカより全ての魔物は消え去り、魔道士の杖が光を燈すことは無かったのでございますから。
 何もかも、偉大なる義太郎さまのお力の賜物でございます」

 キヌの台詞には、うっとりとした陶酔の響きがあった。
 俺は、驚愕を越えた、何か空恐ろしい思いが胸中に芽生えつつあることを感じていた。
 剣帝・切畠義太郎はこの国を打ち立てた武人だと聞いていた。徳川家康のような――あるいは、アレキサンダー大王のような武人であると。
 賞賛されて当然だろう。語り継がれて当然だろう。しかし、彼らは義太郎さんを武人というより、宗教の教祖のように崇め奉っている。義太郎さんの伝説も、武人というよりモーゼのような聖人か、或いは卑弥呼のようなシャーマンかと思わせるような、いかがわしげなものばかり。
 キヌは義太郎さんの養娘だったが、戦場でその活躍を直接見たことは一度たりとて無い筈だ。
 ならば――これらの話は、矢張り300年という長い時間の中で、義太郎さんの逸話に尾鰭が付き、神格化された結果だろう。俺は無理矢理に、過去の常識の埒内で理解出来ない事物を解釈し、無理矢理に自分を納得させようとしていた。
 だが、そんな試みは脆くも崩れ去った。
 
 要石を抜け、国境線を越えてエメンタール領内に入り馬車で進むこと数分。
 化鳥の如き奇怪な鳴き声と共に、耳にしたことの無いような巨大な羽音が聞こえた。
 馬車の窓から顔を出すと、鋸歯を剥き出しにした醜い女性の顔がそこにはあった。
 顔と上半身は人間のもの、されどその両手は大鷲の翼であり、下半身は鳥類のそれあった。
 有り得ない異形を目にして俺が硬直している間にも、衛士達はその怪物に果敢に矢を放つ。

【ああ、ハーピーですな。普段は腐肉漁りをする程度の下等な魔物でするよ。見慣れない人間の群れを見たので、様子を伺いに来たので御座いましょう】

 マルゴーの口調は、まるで道端で野兎でも見かけたかのように気軽い。
 怪物――ハーピーは、決して人間の声では有り得ない奇声を高らかに上げると、悔しげに顔を歪めて何処かへ飛び去って行った。
 ――間違い無い、この世界には、俺が今まで全く見知らぬ、何かが存在するのだ。
 

  ◆

【第一魔道士と第二魔道士が捉まらないぃ?】

 バルベーラは頓狂な声を上げた。
 不安げに周囲を見回すその表情には、隠しきれない困惑と憤りが滲み出ていた。

【まさか、こんな事態になっているとはな……】

 ボジョレは、処置無しと言った様子で面を掌で覆った。いつも冷静な彼には珍しく落胆を顕わにしている

「えーっと、つまり、どういうことなんだ?」
 
 話に全く付いて行けない門外漢が一人。
 みっともなくも、身を縮めて隣のキヌの肩をつついた。
 最近、何か解らないことがあれば、何もかもをキヌに頼ってしまっている感があり、申し訳なさが先に立つ。キヌは俺に頼られることを喜んでくれているようだが、俺としては、自分の胸ほどしかない小さな少女に何もかもを恃んでいては立つ瀬が無い。
 いつもは俺が尋ねれば立て板に水の講釈をくれるキヌだが、彼女の返事も歯切れが悪い。

「わざわざ正義さまにエメンタールまでご同行頂いたのは、ためしの儀に必要な魔道の起動がレディコルカ国内では不可能のためです。
 此度の儀は、ためしの儀とは名ばかりのマレビト騙りの処刑とは訳が違います。切畠のご皇統の正義さまを、真にマレビトであると世に知らしめる為の大切な儀であります。
 その儀を行う為の、魔道士に欠員が出ているのです」
「魔道士、ってスティルトンにいるような?」
「ええ。魔道はハーフエルフの特権ではございませんから。エメンタールの民にも優れた魔道士は幾人か存在致しております。義太郎様が天降られる前には、少ないながらも、レディコルカの民にも魔道士がいたと伝え聞きますね」

 それでも、魔道の面では、魔道師匠国スティルトンの圧倒的優位は揺るがない。キヌはそんな話を取りとめも無く俺に語った。

「……それで、どうしてエメンタールの魔道士はいなくなったんだ?」
【それが、とんでも無い話なのです!】

 憤懣やる方無し、といった表情で、バルベーラは拳を握って力説した。

【エメンタールの第一魔道士は、国家魔道士隊に突如辞表を提出し、冒険者に転身したらしいのです!
 一度国家に忠誠を誓った身でありながら、易々とそれを反故にするなんて――!
 その上、あの女が国家魔道士を辞めた理由は、フリーの冒険者をやっていた方が儲かるから、と聞くではありませんか! 魔道士などという連中は、皆、義理も忠心も持たず、金に目が眩んだ欲深い連中ばかりなのです!】

 バルベーラの言葉には、レディコルカの魔道士嫌い――というよりも、その第一魔道士個人に対する怨恨が籠っているようにも感じられた。

「……なあ、ボジョレ、こいつ、その第一魔道士とやらに怨みでもあるのか?」
【ああ、エメンタールの協力で、対魔道士の模擬戦を行った時に、散々その第一に遊ばれましてね。今でも根に持ってるようなのです】
【べ、別に私はあの時のことを怨んで言っているわけじゃありません!】

 羞恥に頬を染めて兄に言い返したが、まるで説得力が無い。ボジョレはやれやれと首を振ると、仕入れて来たばかりだという、エメンタールの内情を語った。

【ま、それにしても放置しては置けぬでしょうな。第一が国家魔道士を辞めて始めた冒険者パーティ『ヤタガラス』は、最近活動が派手になり過ぎています。
 ギルドからの依頼には、難易度によってランクが設けられているのですが、ヤタガラスが受ける依頼はSランク以上――平たく言えば、依頼だけは出ているものの、事実上達成困難なので長年放置されている討伐案件ばかりです。
 昔話にしか出てこないような魔物の首を持ち帰ってくるのは良いのですが、ヤタガラスが迂闊に手を出して敗れでもしたら、怒り狂った魔物が人里を襲うようなことにもなりかねないと、関係者は冷や汗をかいているそうです】
「要するに、寝た子を起こすな、と」
【ええ。その上、Sランク以上の討伐依頼については、達成報酬が著しく値上がりしているものもありまして。毎週のようにケルベロスの首のようなものを持ち帰られても、報酬が支払いきれないと、当の冒険者ギルドの方も困惑しているようです。
 もう十二分な働きはしてもらったので、是非ともヤタガラスの第一、第二魔道士は国家魔道士業に復帰して欲しい、と……】
「出すぎた杭は鼻摘み者って、ことか。身も蓋も無い話だな。
 ――それにしても、その第一魔道士は随分と凄い奴なんだな。そんな危険な依頼を易々とこなしていくなんて」

 バルベーラは眉根を寄せた。

【いえ……それが、話がおかしいのです。Sランク以上の討伐依頼案件で実質的に放置されているものは、過去のスティルトンのSランク以上の精鋭魔道士が挑んでも生きて帰らなかったようなものばかりです。
 『ヤタガラス』は、Sランクの第一とⅢAランクの第二、それから数人の補佐しかいない小さなパーティだと聞きます。その人員で、スティルトンの七師匠級の魔道士でも難しい討伐任務を、連続して達成できる筈もありません。
 ギルドには、ヤタガラスが偽造した証拠物を持ち込み、討伐の完遂と偽っているのではないかと疑問視する声もあります】

 私も、個人的にはその意見に賛成です、とバルベーラはつけ加え、ボジョレに拳骨を落とされた。

【第一魔道士の行方が判明しました!】

 丁度良く、続報が舞い込んだ。
 だが、その報告を聞いた一同は、呆れかえったように口を開けた。
 矢張り、話に付いていけない門外漢が一人。

【よりにもよって、マンティコアの討伐に出かけた、だと!?】
【ほう、御伽噺の怪物では無かったのかね?】
【いえ……目撃例はあるようですね。最後が35年前ですが】

 話に入れない俺は、情けなくもキヌの肩を引いた。

「えーっと、盛り上がってる所悪いが、マンティコアって一体何だ?」
「マンティコアはエメンタールの山奥に棲むとされる神話級の魔物です。獅子の体に蝙蝠の羽、人の顔と蠍の尾を持つとされています。
 伝説によれば人肉を好み、一度ひとたび目覚めれば一つの町が滅びるまでその空腹が治まることが無いとありますが、その真偽は定かではありません」
「ほう……」

 恐ろしい話だ、と漫然と感じはしたが、先のハーピーを目にしても尚、キヌの語るマンティコアという怪物に対する薀蓄は、丸きりお伽噺ような絵空事としか思えなかった。
 俺が今まで山で注意してきた動物といえば、猪やまむしが精々。近年の日本では熊を見かけるも無くなって久しい。海外の虎やワニによる被害でさえ他人事である世界で育った俺に、どうしてマンティコアなる奇妙な化物に脅える気持ちが涵養されていよう。
 この異世界は、俺には遠すぎる世界だった。
 しかし、少々の好奇心はあった。

【しかし、マンティコアの討伐依頼はⅡSランク、もしヤタガラスが失敗したら人里に神話の怪物が姿を現すことになりかねません。あの女が魔物に喰われるのは勝手ですが、近隣住民を危機に晒すなど、国家魔道士として国を守っていた者とは思えない無責任な発想です】
【距離は?】 
【ここからそう遠く無いようです。マンティコアが棲むという洞窟は割合山際に近く、深山に分け入る必要は無いそうです。近隣の平野には大きな人里はありませんが、近寄るのは容易です。
 ――尤も、ここ数十年、マンティコアを恐れて誰一人近づいたことは無いという話ですが。第一は、手頃な場所に棲む標的としてマンティコアを狙ったのでしょうが、どう考えてもヤタガラスの手に負える魔物ではありませんよ】

 バルベーラの報告を聞き、ボジョレは顎を押えて何かを熟考しているようだった。

「マンティコアか……。恐ろしい話だが、そんな怪物なら一度見てみたくもあるな」

 軽口を叩くと、ボジョレは何かを思いついたかのように重く頷いた。

【正義様、第一が見つかるまで時間も掛かりそうですので、マンティコアの巣穴の近くを見物にでも行かれますか?】
【何を言っているのですか、兄さん!? 正気ですか!? そんな、正義様を危険を晒すようなことを口にするなど――】

 血相を変えて食ってかかるバルベーラを、ボジョレは真剣な顔で制した。

【バルベーラ、お前は信じているか? この正義様が、本当に、皇統の血筋のマレビトだと】
【当然です! 正義様は、正真正銘、本物のマレビトにあらせられる尊い切畠のお血筋のお方です。私は――正義様を、信じています】

 泣き出しそうなバルベーラの瞳が、俺を射抜いた。彼女の信頼は、身の回りの世話をして貰ったこの数週間で痛いほどに実感している。
 だが、ボジョレはどうして今、そんな話を?
 マルゴーまでが、ボジョレの言葉に心底同意したかのように首肯した。

【ならば、何の問題も無いだろう、バルベーラ。
 正義様は真のマレビトにあらせられる。然れば、例え100頭のマンティコアが襲い掛かろうとも、この御方のはだに毛の先程の傷さえつけることは叶わぬだろう】

 バルベーラは、震えながらも、ゆっくりと、頷きを返した。
 今の会話に如何なる意味があるのかを図りかねていた俺の腕を、キヌが小さな両手で、ぎゅっと掴んだ。翠玉の瞳を幽かな不安に揺らしながらも、彼女は俺を安心させるかのように、ぎこちない笑顔をその端整な顔に浮かべて見せた。

  ◆

 鳴り響く砲火の音は、遠雷のようだった。
 件の怪物の巣穴まで近づくまでも無かった。遠目から、黒々とした針葉樹の山の各所で、炎が立ち上がっているのが見えた。
 一抱えは有りそうな大樹が音を立てて倒れ、散発的に巨大な渦巻く炎の柱が立ち上がっては、蜃気楼のように忽然と掻き消える。炎の柱に焦がされた大樹が、ぶすぶすと熾火を燈しながら黒煙を吐き上げていた。
 山火事とも、火山の噴火とも違う、戦いの炎。鼓を打つかのような重低音が、山々の間に木霊しながら消えている。大砲でも使っているのだろうか?
 そして――この世のものとは到底思えない、奇怪で不快な咆哮。

「ァァァఒకటేァ!!!ഐഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుష!!!!!」

 金切り声とも断末魔ともつかないような雄叫びは、鼓膜のみではなく肚の底まで搖さぶられるようだ。
 本能が警鐘を鳴らす。危険だ。何か、途轍もなく危険なものが、この先には、いる。
 キヌが、震えながら俺の右腕にしがみついた。当然だろう。郊外に出たことすら無い彼女にとっては、マンティコアの咆哮は全く未知の恐怖であるに違いない。
 望遠鏡で戦場を監視していたバルベーラが悲鳴じみた声を上げた。

【矢張り、ヤタガラスが圧倒的に劣勢です! ⅡAランク以上の魔術を連発しながらも、マンティコアは殆ど無傷、第一と第二はマンティコアを牽制しながら撤退中です!】
【ヤタガラスが投入した兵力は?】
【現在交戦中なのは二人のみです! 最初から二人だったのか、若しくは――】
【少数精鋭で挑んだんだろう。あの女も、むざむざ仲間を魔物の餌にするような真似はしまい】

 マルゴーは、厳しい顔で戦場を睨んでいた。眉間に皺を寄せて戦況を思案するその貌からは、過去の数多の戦歴の苦労が滲んでいた。

【総員に、戦闘の準備を。ヤタガラスの尻拭いをすれば、エメンタールへの貸しにもなるだろうて。尤も――】

 ――あの小娘ども、尻尾を巻いて逃げ出したのではのうて、何か策があるように見えますがな。
 マルゴーは、そういってニカッと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。矢張りボジョレの師匠である。
 俺達は、黒煙の匂いが漂う程の山際で、馬車を降りた。

「ァァకటేイィィィィఒకటేకటేకటేァ!! ഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుషァァァ!!!」

 ――獅子の体に蝙蝠の羽、人の顔と蠍の尾。
 マンティコアは、キヌが語った通りの怪物だった。だが、その異形異様の奇怪さは、彼女の語った短い言葉では到底表しようもない。
 赤い毛並みで覆われた巨大な獅子、されど、その体躯はインドゾウ程もある。常識では歩行さえ儘ならない巨獣が、猫科動物の敏捷性で険しい山道を駆けるのだ。全く常軌を逸脱している。
 その顔は確かに人間に酷似していたが、醜悪な老婆の如き貌にはヒトにある知性の光はなく、四方に向けて怨嗟の如き咆哮を放ち続けていた。
 巨大な蠍の尾は毒液混じりの針を次々と飛ばし、その一薙ぎは一抱えもありそうな樹木を容易に倒壊させる。背中には蝙蝠の羽を生やしていたが、どう考えてもあの質量をあんな小さな羽で浮かせるのは不可能だろう。その存在意義は疑わしい。

 賞賛に値すべきは、こんな常識の埒外の怪物を相手にして、冷静に撤退戦を続けている二人の女性だった。木々を盾にして器用にマンティコアの攻撃を避けつつ、一定の距離を保って炎や雷光で牽制して近寄せない。
 彼女達の戦い方は、逃走、というよりマンティコアを何処かに誘導しているかのようだった。
 マンティコアが二人を追って拓けた場所に姿を現した瞬間、地面に巨大な魔方陣のようなものが輝き、火山の噴火のように巨大な焔が立ち上がる。先ほどから見えた炎の柱はこれか。
 しかし、人間一人を容易に炭する程の焔に全身を包まれながらもマンティコアは健在だった。
 餓虎の執念で、全身を焦がす残火を振り払って、二人に向かって尚も猪突猛進を続ける。

【このままでは、マンティコアが人里に降りてしまいます! 
 あいつら、本当にたった二人であの化物が何とかなると思って挑んだんですか!】

 バルベーラの悲痛な声に、マルゴーはゆっくりと首を振った。

【伝説に伝え聞く神使の魔物、ヤタガラスの足は――三本だ】

 ヤタガラスの魔道士達は、やがて黒々した森を抜けた。その背中を追って狂相のマンティコアも続く。
 遮蔽物の無い平野では、山中で行っていた木々と罠を利用した逃走は不可能だ。
 得物を目前にしたマンティコアが歓喜の咆哮を上げる。
 だが――その目前に、幽鬼のように黒い人影が立ち上がった。
 ずっとその場で、路傍の石のように座り込んで身を潜めていたのか。
 全身を黒いローブで覆った細身の人影は、やがて、ぬらりと輝く白刃を抜いた。
 天を指すが如き堂々たる上段を構え、微動だにせずその場に腰を据える。
 ヤタガラスの二人が散開した。
 マンティコアの眼前には、黒いローブの人影が唯一人。

「ィィకటヱェェఒకటేకటేకァ!! ഐഐޏ͂ుకਯషޏలనఒకేుਯుషషޏలనఒకేుਯుషޏలనィィ!!」

 醜悪な老婆の如き貌のアギトが開く。その口中には、黄色く汚れた乱杭歯が並んでいた。

「ギィィィェഐޏ͂ుకਯషޏలనアアァッ!」

 マンティコアが跳ぶ。
 誰もが、蟷螂の斧の如き一本の刃で巨獣に歯向かった剣士の、一瞬先の哀れな末路を想像しただろう。
 だが――剣士の一閃が、マンティコアの顎から尾までを稲妻の如く駆け抜けた。
 よくやく生餌にありつかんとしたマンティコアは、突如としてその正中線から縦真っ二つに両断され、くす玉のように分かたれた巨獣の骸が、左右に転がって、間欠泉の如く夥しい血と臓物の破片を吹き上げた。
 奇麗な二枚に下された死骸の狭間には、刀を振り下ろした、細い人影が一人。
 黒いローブは、魔物の血に塗れて爪先から頭の天辺まで濃い真紅に染まっていた。

 戦いの趨勢を見つめていたレディコルカの面々は声も無い。
 ただ、マルゴーとボジョレの二人だけが鋭い視線で、マンティコアを一刀の下に屠り去った剣士を見つめていた。
 俺は見た、確かに見た。あの剣士はマンティコアを斬ったんじゃない。
 剣士が刀を振り下ろした瞬間、その刃が届く刹那の前に、マンティコアが真っ二つに割れた・ ・ ・のだ。
 マルゴーとボジョレは、間違いなく気付いている。衛士達にも、幾人か今の斬撃を訝しんでいるものがいるようだ。
 だが、今の俺にはそんな瑣事に気を取られている余裕は無かった。

「正義さま?」

 腕にしがみついていたキヌの手を優しくほどき、俺はマンティコアの骸へと向かった。
 俺の背後に、無言でバルベーラとボジョレが続いた。
 マンティコアを一刀両断にした剣士は、右手にぶらりと刀を下げたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
 その背後から、その血塗れのローブのフードを掴み、乱暴に引き下す。

「ふえっ!?」

 間の抜けた声と共に振り向いた剣士は、俺の予想通りの顔をしていた。

「よう、随分と腰の据わった上段を構えるようになったじゃないか。見違えたぞ」
「……マサ兄ぃ!?」

 間違えようも無い。頓狂な声を上げて慌てふためくその少女は、この世界に来てからずっと行方不明になっていた俺の又従姉妹、番匠ばんじょう友枝ともえその人だった。
 細身の体に似合わない、重たい黒のローブ姿。
 その右手には、未だ鮮血滴る刀が握られている。

「お前の方も、色々あったみたいだな」

 ひょいと、その刀を取り上げて刃を検める。
 ――伝説の巨獣マンティコアを切り裂いたその刀は、どう見ても、居合の初心者練習用の、刃すらないジュラルミンの模造刀だった。

 


 
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