【完】待ち焦がれてラブ・バージン 職なしパテシエールと訳あり御曹司の甘くおかしなプライマリー

国府知里

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# 翻弄されて

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「ばかげてる、どうかしてるよ!」

 深夜の執務室でベンは声をあげた。

「いいや、計画を中止させることができないなら、あの家を残すことを考えるしかない。戸川グループで、必ずあの案件をとる。それで、家を残すための都市計画を考えるんだ!」

 ベンは資料をあさるジェイダンの腕を引いた。

「兄さん、ばかなことはやめてください! そんなことできるわけないでしょう?」

 ジェイダンは素早く弟を見返すと、悲痛な面持ちを浮かべた。

「アンナが死んでしまうかもしれないんだぞ……!」

 ベンは首を振る。

「勘弁してください……! なにが一体どうなってるのか……。僕には兄さんがわかりません……。気を確かに持ってください」
「僕の気は確かだ!」
「アンナがなにをいって兄さんをたぶらかしたのか知りませんが、僕はアンナにそれほど信用を置いていません。長野から帰ってきたとたん、兄さんのこんな姿を見せられては、僕は彼女を信用することなど到底できませんよ……! お願いですから、落ち着いてください。今カウンセラーを呼びます。話せば少しは頭の整理がつくでしょう」
「もういい!」

 ジェイダンは一通りの書類をわきに抱えると、乱暴に部屋を出ていった。それと入れ替わるようにマリヤが入ってきた。

「ベン、いったいなにがあったのよ……」

 ベンは頭を抱えた。

「兄さんはおかしくなってしまった! アンナのせいだよ……!」
「一体なんだというの?」

 ベンはジェイダンが戻るや否や、取り乱しながら早口に話した内容をマリヤに聞かせた。

「なにそれ……。それってつまり、あの家がないと、アンナとエリナちゃんが死ぬかもしれないってことを、ジェイダンが本気で信じているってこと……?」



 マリヤはもう一度頭を巡らせてみたが、どうにも腑に落ちる内容ではなかった。

「ベン、とにかく、わたし明日アンナに会いに行ってくるわ。ジェイダンのことを頼むわね」
「ああ……、だけど自信がないよ……」

 ベンはがっくりと椅子に座り込んだ。

「いつだって兄さんはトラブルのもとだ。父さんの兄さんへの扱いは決していいとは言わない。だけど、父さんの立場も理解できるし、ロビン兄さんが病気になったのはだれのせいでもない。ジェイダン兄さんはロビン兄さんを支えるどころか、ひとりでイギリスに逃げた。それなのに、ロビン兄さんはジェイダン兄さんのことを信頼しているといっていつも甘い顔をしている。兄さんが恐怖症にだということは確かに同情するし、力になりたい。だけど、僕には兄さんがわからない……。僕の手に負えないよ……」

 マリヤはすぐにベンの前にしゃがみ、ベンの横顔に手を添えた。

「ねえ、ベン、独りで抱え込まないで。わたしがいるじゃない」

 ベンはマリヤの優しいまなざしを見つけると、心が救われるような気持になった。

「マリヤ、君には悪いけど、もうアンナと付き合うのはやめたほうがいい。彼女に会って、兄さんはますますひどくなってる」
「でも、ジェイダンの恐怖症のことはアンナが知らせてくれたのよ。わたしたちに力になってやってくれと」
「それも彼女の手の内さ。きっと彼女がなにかたくらんでいるんだよ」
「アンナはそんな子じゃないわ。ねえ、どうしてあなたはそんなにアンナを悪く言うの?」
「……」

 ベンはためらいを浮かべてそっぽを向いた。

「ベン……?」

 ベンは手を組み、うつむき加減にぼそっと言う。

「……だって、君たちは三カ月も一緒に旅行に行ってたじゃないか……」
「アンナとスイーツを食べ歩いた旅行のこと?」
「君は僕と婚約したばかりなのに、三カ月も……」

 顔をあげたベンの表情には、まるで主人を見あげる犬のように従順さとせつなさが浮かんでいた。

「僕がどれだけ傷ついたかわかるかい?……」

 マリヤは驚いたようにベンを見つめた。まさか、そんなことのためにアンナを毛嫌いしていたとは……。

「あなたって、ほんとうにかわいい人ね……!」
 そういうと、マリヤはベンの唇を素早くふさいだ。

「だったら、新婚旅行は三カ月、ううん半年間あなたとスイーツをめぐってもいいわ」
「そんなこと……できないよ……」

 マリヤの口づけに翻弄されながら、ベンはおろおろと言った。

「どうして……? いやなの?」
「だって、僕は太りやすいんだ……三カ月もスイーツ巡りなんかしたら……」

 マリヤはその口元に笑みを浮かべて見つめた。

「消費すればいいでしょ……。毎晩……ベッドの上で……」

 マリヤのセリフにベンは身震いしながら、熱い口づけに翻弄される我が身を許した。

 ***

 翌日、ジェイダンとマリヤが連れ立って和泉の家に行くと、門扉は固く閉ざされていた。終わりを迎えた秋咲きのバラの花たちは、木枯らし色にくすみ、その身のほとんどを散らしていた。本宅を訪ねると、マリヤを驚かせたのはアンナの痩せた頬と顎だった。

「どうしたの、アンナ……! 具合でも悪いの?」

 聞かずにはいられないほどだった。

「ちょっと食欲がないの。パリの水あたったのかしら」

 マリヤはジェイダンの話ににわかな現実味を感じてしまった。ジェイダンはお茶を入れるアンナの一挙手一投足を見逃さんと見つめている。この日、アンナはアンナで落ち着きがなかった。

「アンナ、僕は今、戸川グループが市に提出する計画案をつくっている。君の家を残せるプランを考えているんだよ」
「そんなことができるの……?」
「建築や都市について僕は素人だけど、いろいろ調べているところだ。大学時代の友人で建築をやっている奴もいるし、情報を集めているところだよ」

 そんな話をしていると、アンナの父基之が久美子とともに部屋に入ってきた。

「やあ、どうも。娘たちがお世話になっているようで」

 久美子からいろいろ聞いていたのだろう。基之はジェイダンとマリヤに親しみを込めた笑みを浮かべている。

「和泉地区の開発の話だね。わたしも残念に思っているんだが、時代の流れだから仕方ないね」

 ジェイダンはなにをのんきな、と思った。その時代の流れがこの田舎町に押し寄せた時、自分のふたりの娘はもうこの世にいないかもしれないのだとは思いもしないからだろう。

「ところで、戸川君はどうしてあの家を残そうとしているんだい? 使われている木曽檜の柱と梁以外は、資産価値などない家だよ」

 ジェイダンはちらりとアンナを見た。

「あの家の庭は僕も手伝わせてもらいましたから、愛着ができてしまって」
「ああ、確かに庭はちょっとしたものだったね。今も大分君がきれいにしてくれたようだけど、まだ父と母とで一緒に暮らしていたころは、それは見事な庭だったんだよ。和泉という土地は、その名の通り、昔は泉が湧いていたところらしくてね。地下水脈が豊富なんだよ。植物にはいい環境なんだろうね」
「そうなんですか」
「わたしも海外で井戸を掘ったり治水や配水の仕事をしているが、日本のように水に恵まれた国ばかりではないんだ。ふるさとに戻ると、いつも日本の自然にありがたさを感じるよ。リニア駅開発と和泉地区の開発がこの土地の自然と暮らしに根差したいいものになるといいと思うけどね」
「確かに、そうですね……」

 基之はジェイダンが良い話し相手になりそうだとみるや、会話を進めた。マリヤはこの隙にアンナから直接話を聞こうと思い、アンナを連れ出した。ジェイダンの視線はアンナを追ったが、基之をむげにはできず、そのまま腰をすえた。

「そうだ久美子、あれを出してくれないか」
「あれって何です?」
「父さんの」
「ああ……」

 久美子はリビングのガラス戸棚から箱を四十センチ四方程の箱を取り出した。その箱を広げると中にはノートや写真、なにかのメモが入っていた。そのなかから基之は一枚の写真を取り出した。

「これ、昔撮った写真。あの和泉の家の前でみんなそろってね」

 そこには見事な春咲きのバラと風景式庭園があり、こどものアンナが家族と一緒に丸いほほを染めて笑っている。

「本当に素晴らしい庭です。……よく手入れされているし、みごとなバラの大輪です。ご家族の皆さんも幸せそうですね」
「最近整理していたら、父の部屋からこの箱が出てきてね。父は大事にしていたものをこの箱の中に入れていたようなんだ。それがこの写真と、あとは父の趣味の郷土研究の記録だ」

 久美子がお茶のお代わりを入れながら会話に入ってきた。

「お父さんの唯一の趣味でしたね」
「そう、親父は地元の地歴を調べるのが趣味でね。とにかく歩き回っていろんな遺跡や地形やらを調べて回るのが好きで。それでとうとう車を持たなかった」
「暗くなって帰れなくなったお父さんを、わたしが何度迎えに行ったことか」
「そうだったかい?」
「そうよ! 隣町の郷土館やら資料館やらにいるから迎えに来てくれって呼び出されたわ。三野原高原や三竹山のふもとまで迎えに行ったこともあったのよ」
「ええ、そうだったのか?」
「もう、ほんとにあなたは何にも知らないんだから。まあ、今となってはいい思い出だけどね。お母さんと違って、無口なお父さんが、わたしにいろいろ話してくれるのは、その帰りの車の間だけだったから」
「そうだったのかぁ……」

 基之は感慨深そうに言った後、妻を見た。

「いや、わたしのいない間、父に本当によくしてくれて、ありがとう」
「まあやだ、なに急に……」

 久美子は驚いたように目を見開いた。基之はジェイダンにも断わったように前置きすると、
「部下たちに仕事を任せられるようになったから、わたしもようやく内勤に戻れることになってね。今は海外から研修生を受け入れているから、その教育担当に配属されることになったんだよ。これで少しは久美子も気が楽になるだろうし、今後は夫婦でゆっくり旅行なんていうのもいいと思ってね」

「あらあ……。それは困ったわね」
 久美子は頬に手を添えてため息をついてみせ、
「これからは毎日あなたが帰ってくると思うと変な感じよ。だって、亭主元気で外がいいんだから」
 と言って笑った。

 基之は返しに困って笑ってごまかし、ジェイダンはほほ笑んだ。

「仲がいいんですね、ほんとうに」

 そういうと、基之と久美子は成熟した夫婦らしく、
「いうほどでもないよ」

「まあまあよね」
 とそれぞれほほ笑みを浮かべた。

 アンナを連れ出したマリヤは、家を出て近くの道を並んで歩いた。

「いつ来ても思うけど、いいところね」
「ありがとう。でも、ここに新しい街ができるなんて想像もつかないわ」

 風がアンナの髪をさらって、顎下の線が影の濃くなっているのが見えた。

「ねえ、アンナ……。ジェイダンから聞いた話は本当なの? わたし、正直まだ信じられなくて……」

 アンナが足を止めてマリヤを見つめた。

「ねぇ、マリヤ。わたしマリヤに会えて本当に良かったと思ってるの。あなたに会っていなかったら、こんなに楽しい人生を過ごしてなかったわ。きっとこの一年がわたしの人生のハイライトね。あなたって本当に最高の友達よ。ほんとうに、わたしの一番の親友」
「なにを言ってるのよ、アンナ。そんなのわたしだっておんなじだわ。ガレットづくりだって、わたしの愚痴をきいてくれるのだって、アンナがいるおかげだわ」
「そういえば、前に好きだった人への想いは、もうふっきれたの?」
「ええ……! 今は、ベンとわたし心から愛し合ってるの。ほんとうよ」
「それならよかったわ。ベンジャミンさんとはいつ結婚するの? わたしにお祝いのケーキを作らせてね。……でもできるだけ早く知らせてほしいわ。あんまり先だと……、うまくできないかもしれないから……」

 アンナのはかなげな笑みに、マリヤは不安になった。

(アンナったら、まるで本当に死ぬみたいな言い方じゃないの……)

 マリヤはわざと明るい調子で言った。

「なに言ってるの、アンナ……? あなたってば、へんよ? わたしたちはこれから十年も二十年も、ずっとずっと友達なのよ。また旅行に行きましょうよ。来年はエックスアルプスを見に行くのよ、アンナも一緒にどう? それから、お式の相談にも乗ってよね。あなたにはブライズメイドをやってもらうわ。きっとジェイダンがあなたのことを自慢しまくるわね。今からでも目に浮かぶわ!
 それから、子どもを産んだらお互いに家を行き来するのよ。うちの子に料理の作り方を教えてよ。わたしじゃきっとうまく教えられないもの。それで、歳をとったら絶対カナダに行きましょ? 死ぬ前に一度オーロラと犬ぞりを見たいと思ってるのよ。付きあうでしょ、アンナ?」

 アンナは小さく、くすくすと笑った。

「エックスアルプスって何? ……よくわからないけど、マリヤ、あなたって本当に楽しい人ね。できることなら、わたしもずっとあなたと一緒にいたいけど……」
「できるわよ、ねぇ!」

 マリヤはアンナに明るく呼びかけた。しかし、アンナの口元は欲しい言葉を返そうとはしない。

「できるでしょ? ……できるって言ってよ、アンナ……」

 そんなとき、アンナの携帯電話がなった。久美子からの着信だった。

「アンナ、すぐ戻ってちょうだい! エリナが、階段から落ちたの……!」

 アンナの顔が蒼白になるのを、マリヤは目の前で見た。

 ***

 幸いにも、エリナは軽い脳震盪と擦り傷で済んだが、大事をとって入院することになった。家族一同や本人にとっても少々不可解な事故だった。普段なら目をつぶっていても行き来できるほど、慣れたはずの自宅の階段で段を踏み外すとは。しかし、続けざまのエリナの事故に、蒼白のアンナはおびえたように、ぷっつりと口を閉ざしてしまった。重なる事故、急激に痩せたアンナ、そして、追い詰められたようなアンナの態度に、ジェイダンとマリヤもただならぬものを感じずにはいられなかった。

 夕方、本社ビルに戻ったジェイダンとマリヤは、会議室を押さえると、そこに資料や本を並べ、パソコンで調べ物を始めた。

「ジェイダン、こういうのがあるわ! この福祉施設のビオトープの庭や屋上緑化のデザイン。アンナの家の雰囲気にマッチすると思わない? こういうコンセプチュアルな町を売りにするっていうのはどうかしら」
「……それなら、この雑誌のこの写真の建物もいいと思う。建築家はミハエル・ホワイト。イングランド出身だ。彼なら、アンナの家のようなイギリスの田園風景のイメージをコンセプトシティとしてうまく表現してくれるかもしれない」
「ねえ、住宅のほかにはどんな都市機能が必要かしら……。でも、このアンナの家のイメージを崩さないものじゃなきゃダメだわ。家を残す必然性が必要だもの。きっと科学館とか博物館とかあんまり未来的なものはだめよね。雰囲気が全然合わないから……。美術館や保育園とか良さそうだと思うけど」
「それだけでは弱いな……。地方都市モデルには、ほかにどんな機能があるんだろう……」
「ねえ、ジェイダン、これはどう?」

 マリヤが戸川グループの施工例やら近代建築の書籍の間を縫って取り出したのは、ニュージーランドにある映画ロケ地の写真だった。

「映画撮影所を誘致するのはどうかしら? ここまでの規模とはいかなくても、街全体の雰囲気がイングランドの田舎風の家並みなら、そのまま街を撮影につかえるわ。ロンドンみたいに電線も地中化するの」
「なるほどな……、よし。ひとまず、今出た案も含めて、もう少しいろいろな資料を集めてみよう。それを精査してから、一度ベンに見てもらおう」

 マリヤの積極的な働きが、アイデアに急速なふくらみを持たせ始めた。ふたりは遅くまで情報収集と、その取捨選択を繰り返し、ある程度一つの方向性を固めたところでベンに電話をいれた。ベンは自宅で正敏、ロビンとともに打ち合わせ中だった。ジェイダンはやや渋りながらも、マリヤとともに自宅へ向かった。
 例によってベンの自室に集まった三人は、ジェイダンとマリヤが集めた資料を前に顔を寄せ合った。

「はっきりいいましょう」

 ベンはそう前置きして、首をふった。

「充分な都市機能を果たしていない上に、これでは採算に見合いません。採算に合わないということは誰も資金を出さないということです。そして、こんな表面だけのコンセプトでは、アート不動産とタジミ建設に大量の塩を送るようなものですよ」

 ジェイダンとマリヤは互いにがっかりしたように顔を見合わせた。

「じゃあどうすればいいの、ベン? あなたならどうする?」
「そんなことより、マリヤ。どうして君までこんな無駄なことに手を貸しているんだい? なんども言っているけど、アンナの家を残すということは到底無理だし、無意味だよ」

 ジェイダンが言い返そうとしたとき、マリヤが背筋を伸ばした。

「ねえ、ベン、わたしも正直いうと、はっきり信じてるわけじゃないの。今日アンナに会っても、アンナのいっていることが本当かどうかはわからなかった」
「それならなぜ」
「そうね。だけど、もしそれが本当で気がついたときには、アンナがいなくなっていたなんてことになったら、わたし後悔しきれないの。今日のことを振り返って、あのときアンナを信じていれば、アンナを失わずに済んだかもしれないのにって思うのは、嫌なのよ」

 ジェイダンはマリヤを見つめ、ベンはマリヤの言葉に真剣な思いを感じ取った。

「ベン、もしこれがあなただったとしても、わたしは同じことをするわ。あなたを失いたくないから、無駄でも無理でも無意味でもそうするの」

 大きなため息とともに、ベンがついに首を縦に振った。

「わかったよ、やってみよう……。ひとまずはもう一度、過去の施工例を洗いなおして、今、二課で検討されている案を含めて考え直してみましょう。でも、やろうとしていることは相当難しいですよ……」

 三人はようやく同じ方向を向き、再び資料に目を落とした。
 戸川家の食堂では、白いクロスの敷かれたテーブルに、正敏とロビンが席を連ねていた。ロビンの妻千佳が夕食の膳を下げ、義父に緑茶を差し出している。

「ジェイダンが来ているのか」
「最近よく三人で集まって何かしているようですよ」

 父親の問いにロビンが答えた。正敏は千佳の入れた緑茶をすすり、しばらくするとロビンを見やった。

「なにをしているんだ、ジェイダンは。いつまでたっても企画の一本も持ってこない。それなのに、ベンやマリヤまで……」
「なにかベンの仕事に関わることのようですよ」

 正敏はなにか考えるように顎に触った。

「ロビン。ジェイダンがまたなにかしでかさないように、それとなく様子を見てくれるか?」
「わかりました。でも、ベンとマリヤもついていますから、きっと大丈夫ですよ」
「お前はいつもそう楽観するが、それが正しかったためしがない」
「そうでしょうか……」


 ロビンは千佳に聞かれ、僕も緑茶をと答えた。

「とにかく、様子をみてみます」
「なにかあればすぐに報告しろ……」
「わかりました」

 ロビンが答えると、正敏は無言でうなづき、茶を飲みほした後、自室に戻っていった。ロビンはそれを見送った後、茶を飲みながら二言、三言ほど妻になにかを告げた。そして、ゆっくりと茶を飲み干すとようやく、三人のいるベンの部屋を訪ねた。

「僕だ、入っていいかな」
「どうぞ」

 ベンの返答を待って部屋に入ると、テーブルや床には、めいっぱいに資料や本、雑誌、フォルダやファイルからはみ出たコピー紙が散らばっていた。そして、三人それぞれがパソコン画面や資料とにらめっこしたり、なにかのメモをとったりとしていた。

「すごい騒ぎだな……」
「ロビン兄さん、すみません。うるさかったかな……」
「いや……。ベン、これは開発二課の案件だね。ジェイダンの彼女の土地が、開発で立ち退かなくてはならないとは聞いていたけど」

 マリヤがこたえた。

「そうなの、ロビン。なんとか彼女の家を残したいの。移築という方法ではだめなの。でも、アンナの家だけを残すとなると、それだけの理由が必要だし……。わたしたち、行き詰ってしまって……」
「へえ……」

 ロビンは手近な資料を手に取って見つめた。ジェイダンがロビンに向かって顔を曇らせた。

「兄さん、悪いけど、出てってくれないか。どうせ、父さんになにか言われてきたんだろ?」
「察しがいいね」
「どうしてもこれだけは譲れないんだ。今度だけは、父さんに邪魔されたくない」
「そうだろう。だから僕が来たんだよ」
「え?」

 三人が一斉にロビンを見た。

「僕を仲間にいれてくれ」

 ロビンは柔らかな表情でジェイダンとベン、マリヤを見わたした。

「僕に何ができるかわからないけど、少なくとも、父さんの目をそらすことはできるよ」
「兄さん……」

 ジェイダンが驚いていると、ドアをノックする音が響いた。ドアが開くと、千佳が夜食を持ってそこに立っていた。

「それに、この家では千佳を味方につけた方が有利だよ」

 三人は夫婦の協力に甘えることにして、さっそく夜食に手を付けた。三人が食事している間、ロビンは案件の概要をひたすら読み込んでいた。そのあと、ロビンはゆっくりとした動作で斜め上を見上げた。

「マリヤ、アート不動産とタジミ建設の提案は、本当にこんなにたくさんのことが書かれていたのかい?」

 ロビンはテーブルにおいてあったマリヤの覚書を取った。あの日、ディックが持っていた資料はそのままディックが持ち帰ってしまったので、マリヤは覚えている限りのことを紙に書き出していた。

「ええ、そうよ。全部は思い出せないけど、とにかく、住みやすく経済に強い地方都市。そんな感じだったわ」
「本当にこの土地でこんなにいろんなことをできるのかな……」

 ベンはコーヒーでサンドイッチを押し流してロビンを見上げた。

「僕もそう思います。すくなくとも、今の時点でモデルタウンとしての予算だなんて……。ちょっと考えにくいと思います」
「それもそうなんだけどね……」

 ロビンは概要の資料から市全体の地図を広げた。

「この山の地形と住宅地の具合、何か変だと思わないかい?」
「変?」

 三人それぞれが地図に視線を走らせた。

「どうでしょう……。いたって普通に見えますが、僕には……」
「わたしも……」
「なにが変なんだい? 兄さん」
「ジェイダン、ここがアンナの家だろう? そして住宅、道路、山、田畑……。これに近い地図を見たことがあるよ。山が崩れた土地が、こういう地図になることがある。多分、以前はこう……アンナの家のあたりはもっと開けていたんじゃないかな。川の位置もちょっと不自然だと思うな」
「え……、つまりどういうことですか?」

 ベンがロビンを見ると、ロビンはパソコンで何かを調べ始めた。

「うん……、ちょっとこれを見てくれ」

 それは市のハザードマップだった。

「このマップによれば、和泉地区は以前に大雨が地震かなにかで、少なくとも一度は山が崩れていると思うよ。この計画地の敷地図では、このハザードマップの危険地帯に重なるところがいくつかあるようだから、それを考慮して計画をしないと、せっかく街をつくっても災害で埋もれてしまう、なんてことにもなりかねない。当然山留め工事をするだろうけど、それでも、敷地目いっぱいに建物、特に住宅を建てるのはいい考えではないだろう。
 それに、多分この川は以前はこう……、アンナの家から南に向かって流れていたんじゃないかな……。そうだとすれば、以前はもっと治水に優れたもっといい土地だったと思うんだ。本格的な地盤調査はまだ実施されていないようだね。昔、湖や川だった場所は地盤がゆるかったりするから、程度は今のところ何とも言えないけど、地盤改良費や杭工事費は大目に見ておくべきだよ。
 そうだな……。僕ならこの町の中に井戸や川をつくって、この土地が地下に抱えている水うまくを利用できるように考えるよ。それを生活用水にできれば住人にとっては大きなメリットになるし、自然と調和した地方都市というイメージを持ってもらえる」

 ジェイダンは基之の言葉を思い出していた。

「そういえば……。和泉地区には以前、泉があったと聞いているよ……」

 マリヤが驚いたようにいった。

「ロビン、すごいわ……! 地図を見ただけでどうしてわかったの?」
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