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# 卑わいな夢(2)
しおりを挟むアンナは皮肉たっぷりにいった。
「あなたとわたしの間に仲直りさせるような関係なんてはじめからなかったと思うけど」
「それなら今から始めよう。まずは友人としてお互いを知り合おうじゃないか。幸いにもここにはうってつけのお茶とお菓子がある」
自信な満ちたジェイダンの物言いに、アンナに苛立ちこそ感じはすれど、少しも気に入るところはなかった。
「悪いけど、あなたと友達になるつもりはないわ。わたしはあなたのことが嫌いだし、あなたの謝罪なんてどうでもいい。あなたのことなんてマリヤの従兄ということ意外知りたくもないし、はっきりいって迷惑だわ。帰ってください。そして、もう来ないでください」
アンナのきっぱりとした拒否反応にジェイダンは少なからず動揺した。確かに出会いは最悪だったとはいえ、これほどまで女性に退けられるのはジェイダンにとっては初めてだった。
「待って、それなら君のお菓子を注文したい。お菓子ができる間ここで待たせてくれないか」
「残念だけど、うちは予約制なの」
アンナはたった今そういうことにした。
「それじゃあ予約を取りたい。いつなら君を予約できる?」
ジェイダンの口からこぼれた台詞に、アンナは余計に苛立った。こんな軽口を利けるのも、きっと自分の魅力に自信があるという現われなのだろう。おそらく、歯の浮くような甘い台詞で女性の心を掴むのは朝飯前なのだ。ジェイダンの洗練されたハンサムなプレイボーイっぷりを認めはしよう。でもアンナには、少しの好感が持てそうになかった。
「わたしは忙しいの。あなたの暇つぶしに付き合う暇はないのよ」
アンナのいっていることは正しかった。仕事をしないと決めているジェイダンは、することがなく暇をもてあましている。国内を旅行をしたり、ゴルフをするにしてもひとりでは楽しみがない。かといってパーティのときのように、いつでも手に入るような女を連れて行くつもりはなかった。彼女たちとはあれが初めてで、あれ以来一度も連絡をとっていない。あの時はトラブルを起こすことが目的だったために、あとくされないような女たちを使ったのだ。ジェイダンはそのことがここで尾を引くとは思っていなかった。どうやらアンナはジェイダンのことをプレイボーイと勘違いしている。
たしかにそう見えるように仕向けた。その目的は、役員の娘たちを敬遠させたかったからだ。叔父の直利ではなくても、自分の娘を総裁の息子と結婚させてより、強い絆を結びたいと思うのは当然だからだ。彼女にそうでないとわからせるには、どうしたらいいのだろう。ジェイダンは素直にアンナに魅力を感じていることを伝えたかったが、すぐにはその術が思い当たらなかった。
「わたしは、こんな田舎まで連日訳もなく出かけて来られるような、あなたとはちがうの」
「訳はあるさ。僕は君に許して欲しいんだ。そして友達として君のことが知りたいんだ」
「さっきもいったけれど、わたしはマリヤに免じて水に流すと決めたわ。だから、もうあなたが謝罪をする必要ないし、わたしがあなたの謝罪を受け入れる必要もないわ。わたしたちはもう関係ない。新たに関係を築く必要もないの。少なくともわたしは築きたくないわ」
「まだ僕に腹を立てているんだね」
「ええそうよ。あなたが来るたびにわたしの時間が無駄になるの。わかったら帰ってくれる?」
「それなら君にお菓子を注文するよ。予約する。それならいいだろう?」
「わたしのお菓子はものすごく高いの」
「いくらでも払うよ」
「高すぎて絶対払えないわ」
アンナはかなり雑にジェイダンをあしらった。
「いくらだい」
「あなたに払えないは値段よ」
極めつけにアンナは時計と軽トラを見ていかにもいらいらとしていった。
「さあ、もういいかげん帰って。あなたが車をどかしてくれないと、ホームセンターに借りた軽トラの超過料金を払わなきゃいけなくなるの」
実際のところ、返却時間にはまだ間があったが、アンナは布川夫人が帰ったら行こうと思っていた。それに、帰ったらまた庭の整備をしなければならない。ほんとうに、金持ちのボンボンの暇つぶしになんかにかまっている暇はないのだ。
しぶしぶながらジェイダンが車をどかすと、アンナはさっさと運転席に乗り、クラッチとアクセルを踏み込むと、振り返りもせずに走り去っていった。ジェイダンはぽつんとひとり軽トラックを見送った。呆然としながらも、その一方で面白がっているジェイダンがいた。小柄でパテシエールという女性らしい仕事をしているにも関らず、さっそうとトラックを運転して去っていく姿はかなり意外だ。彼女は軽トラを使ってなにを運んだのだろう。それに、この家にはアンナの家族の姿が見当たらない。この古い家でひとり暮らしているのだろうか。ジェイダンの興味はますます惹かれていた。
その翌日も、ジェイダンはアンナの家を訪ねた。その手に戸川グループの小切手を持って現れた。
「君の言い値で予約をしたいと思ってね」
今日も庭を片付けていたアンナはうんざりした顔をする。
「わたしが怒らないうちに帰って。わたしは忙しいのよ」
「でも、今日君は二時間も前から庭仕事をしているよ」
「あなた、二時間も前から来てたの?」
アンナの顔は驚いたようにゆがんだ。
「僕も二時間前からなにも口にしていないから、喉が渇いてるんだ。そろそろ休憩にしよう」
押しつけがましいジェイダンの態度にアンナは嫌気が差す。
「あなたって、どこまでも図々しい人ね」
アンナはぷいっと顔をそむけると、それ以上ジェイダンのほうを見ずにさっさと家に入ってしまった。
その次の日も、ジェイダンはアンナの家に現れた。庭仕事をするために玄関を出た瞬間アンナはいった。
「いいかげんにして、あなたおかしいんじゃないの」
ジェイダンは懲りもせずに、今度は不動産情報をもってきていた。さらには、融資についてまとめた書類まで準備していた。さすがは弁護士とも思われたが、アンナの琴線にはまったく響かなかった。
「君に必要な額を用意できるよ」
「あなた、わたしが女のひとり暮らしだからって馬鹿にしてるのね」
「そんなつもりはないよ。ただ……」
ジェイダンはあちこちが壊れて廃れている家や庭を見て、言葉を捜した。そんなジェイダンを相手にもせず、アンナは自分の仕事に取り掛かりはじめた。
「君はこの数日、お茶をしたり庭仕事をしたりするばかりで、店舗の準備はなにもしてないように見えるよ」
「わたしはちゃんとわたしの仕事をしてるわ」
「それじゃあ、例えば店の物件は?」
「余計なお世話ね」
アンナはふんと鼻を鳴らして背を向けた。
見ると、アンナは七・五メートル巻きのコンベックスで、庭のあちこちの寸法を測っている。しかし、おそらくDIYは慣れていないのだろう。道具の使い方すらなっていない。メジャーの先の引っかかり部分を使わずに長い距離を測ろうとしているかと思えば、うっかり巻き取りボタンを押してしまい、びっくりしながらコンベックスを取り落として測りなおしたりしている。ジェイダンはやきもきした。放っておいたら今にも怪我をしそうだ。アンナがなにをしたいのかわからなかったが、少なくともコンベックスの正しい使い方を教えられる自信はあった。よっぽどいおうかと思ったが、また馬鹿にするの、といわれそうで口には出さなかった。
「僕はなんでもいいから君の役に立ちたいんだ」
「本当に?」
庭先に腰をかけていたアンナが、ようやくジェイダンの顔を仰ぎ見た。ようやくアンナと目が合った。アンナが自分に注意を向けてくれるだけでジェイダンは心躍った。
「ああ、本当だよ。僕にできることならなんでもするよ」
「それなら、あなたにお願いしたいことがあるわ」
アンナがすっくと立ち上がり、ジェイダンは期待した。これから自分がやろうとしていることを、今にもアンナが自分に話してくれるのだろうと思った。ジェイダンはそれに応える自信がある。それこそ、待ってましたとばかりに、ジェイダンは身を乗り出した。
「あなたにしかできないことよ」
「なんだい、なんでもいってくれ」
アンナはまっすぐに腕を伸ばして庭の先を示した。
「今すぐこの敷地から出て行って!」
「……」
ジェイダンが口を開きかけるとアンナは
「さあ!」
といってその先をいわせなかった。
ジェイダンは仕方なく撤退した。門扉を閉じて振り向くと、アンナはもうこっちを見てもいなかった。
(僕としたことが……。こんな典型的な言葉遊びに負けるなんて)
敗北を喫しながらもジェイダンはそれを楽しんでいた。庭仕事は苦手なようだが、彼女はなかなか頭がいいみたいだ。それでいて、今日の彼女はかなりキュートだ。アンナはジェイダンのことをうっとうしい毛虫かなにかのように思っているのだろう。そうでなければ細身のぴったりしたデニムで庭にはいつくばったり、お尻を突き出したりしないだろう。形のいいヒップラインと、バストからウエストにかけてのカーブラインは実際かなり刺激的だ。彼女がそれに気づいていない、無防備なところがまたいい。ジェイダンはそれだけでも東京からアンナに会いに来る意味があるように思えた。
その翌日ともなると、アンナもいよいよ学習をしてくる。アンナが近所の人に頼まれたお菓子を焼いていると、窓からジェイダンの車が止まっているのが見えた。アンナはすぐに庭へ出た。見るとジェイダンは運転席で考えごとをしている風だった。アンナは車に近寄って窓ガラスをコツコツと叩く。ジェイダンは少し驚いたような顔をして運転席のパワーウィンドウを下げた。その瞬間にアンナから焼き菓子の香りが漂ってきた。
ジェイダンが、やあというが早いか、
「警察を呼ばれたい? それとも今すぐ自分で立ち去る?」
「他の選択肢はないのかな」
「ないわ。それに今日はお客さんが来るから車が止まってると迷惑なの」
「お客さん?」
「そうよ、あと五分以内に車が消えていなければ警察に通報するわ」
それだけいい残すと、アンナはさっと踵を返し、庭の奥へ戻って行った。わずかな甘い残り香はあっという間に消えてしまった。
(やはり彼女は侮れないな)
ジェイダンは自分の失策にため息をついた。
しかし、その日のジェイダンは全くの収穫なしというわけではなかった。実は、アンナがジェイダンの車に気が付くもう少し前から、ジェイダンは家に来ていたのだった。アンナの家から少し離れたところに車を止め、そっと庭の倉庫に忍び込んで、中を確認していたのだ。倉庫の中は、農工具から花の種まできれいに分類され整えられていた。花の種の入った小瓶にはそれぞれ花の名前が記されており、アンナの几帳面なところも伺えた。
そして、倉庫の大半を占めていたのは、どうやら柵に使うらしい木材だった。木工用の工具類も一通り揃っていた。いくら彼女がひとり暮らしだとはいえ、こんなことまで女手一つでやるなんて普通じゃない。それに、どう見ても彼女の趣味が日曜大工だとは思えない。なにか訳があるに違いない。ジェイダンは考えをめぐらせた。今日までにわかったことを踏まえると、ジェイダンはようやくアンナがこの家を店に改装しようとしているのではということに、と思い至ったのだ。
(アンナはさっきお客さんが来るといったけれど、それは店の客という意味なのでは?)
おそらく、そうに違いない。しかし、見当違いなことをしたらまたアンナのひんしゅくを買うだけだろう。
(それとなく確かめる方法は?……)
翌日、アンナの家に寄せ植えの鉢が届いた。素朴な風合いの鉢にコニファーと五種類の秋の草花が植えられた、なかなか立派なものだった。アンナはすぐに携帯電話を手に取った。
「お父さん、もしかして寄せ植えを送ってくれた?」
「わたしじゃないぞ。なんだ、寄せ植えが欲しいのか?」
「ううん……、じゃあいいの」
鉢植えをプレゼントしてくれそうな人など、アンナは父親意外に思い当たらなかった。波江かとも思ったが、波江からはこの前苗を貰ったばかりだし、第一、発送先が波江の実家の名称とは違っている。アンナが住所の間違いではないかと送り状を確認していると、アンナの携帯電話が鳴った。画面を見て、出るのをやめようかと思ったが、もしかしたら、という思いがよぎった。
「もしもし」
「よかった、出てくれて。寄せ植えは届いたかな?」
「……やっぱりあなただったのね。どうしてこれを?」
「花束よりこっちのほうが君に喜んでもらえるかと思ってね」
「え?」
「君を見ていて思ったんだ。君はあの家で店を開こうとしてるんじゃないかなって」
「そう」
(ようやく気が付いたの。まあ湯水のようにお金を使える人種には考えられなかったんでしょうけど)
アンナはひとりで納得した。
「だとしたら、僕は君に見当違いな申し出ばかりしてきた。君が怒るのも無理はない。鉢植えは受け取ってくれるだろうか」
ジェイダンが初めてアンナの心に近づいた瞬間だった。アンナは自動的に降りるはずだった心のシャッターを、ほんの少し降ろさずにとどめた。
「その通りよ。ここが予定地なの」
「そうか、君は若いのにしっかりしているね。自立精神が旺盛なんだね」
「そんなことないわ。本当にしっかりしてたら……」
アンナはこれまでの自分を振り返った。本当にしっかりしていたら、内定をかけてまでマリヤの強引な頼みを聞いたりしなかっただろう。アンナが本当にしっかりしているなら、ジェイダンにつっけんどんな態度はせずに今回の状況をうまく使って賢く立ち回り、有利な契約で融資を受けるべきなのだろう。
「……これまでのあなたの申し出を断るはずないでしょ。それくらい馬鹿でもわかるわ」
「でも、君は僕が見る限り愚かではないよ」
「わたしは手におえないことはやらない主義なの」
「それは僕のことかい?」
「自覚があるようで安心したわ」
「言葉を返すようだけど、君は店の改装から開店に至るまでひとりでやろうとしているの? それこそ君の手に余る仕事じゃない?」
「あなた、やっぱりうちの倉庫に入ったの?」
「えっ……」
突然のアンナの指摘にジェイダンは思わず息を詰まらせた。
「道理で、整理していた道具の順番が違うと思ったわ」
「あ、その……」
(几帳面だとは思ったが、そこまで管理していたとは……)
ジェイダンはいいよどみながら、内心うなった。
「不法侵入よ。やっぱりあなたを警察に通報すべきだったわ」
ジェイダンは下手に言い訳するのをやめた。彼女は想像以上に察しがいい。これ以上はなにかいっては、ないところからでさえ、ぼろを出しそうだ。
「ごめん……。でもなにも壊したりはしてないよ」
「そういう問題じゃないわ。わたしは自分の手の届く所にあるものはできるだけ、きちんとしておきたいの。神は細部に宿るというでしょ。とにかく、わたしの周りを勝手にかぎまわるのはやめて」
「わかった。ごめん……」
「本当に手におえない人ね。本当にそれでも弁護士なの?」
「……でも、君のやろうとしていることは本当に大変だよ」
ジェイダンはアンナの攻撃をかわす目的で話を振り戻した。しかし、アンナはばっさりと切った。
「あなたには関係ないでしょ。今いったことをまた繰り返させる気なの?」
「ああ、ごめん、わかった。もういわないよ」
「今度うちに来たら警告なしに警察を呼ぶわ。いいわね」
アンナのはっきりとした強い口調には、ジェイダンも引き下がるしかなかった。実際、今は承知する意外にアンナの気持ちを和らげる手立ては少しも思いつかない。
「ああ……わかったよ」
「その言葉を忘れないで」
ジェイダンは電話を持たない方の手を額にやった。身から出た錆だ。アンナの口から、警察や不法侵入という言葉も出ている。不用意なジェイダンの行動が、アンナの警戒心をさらに強めてしまったのだ。自分に対するアンナの評価を挽回したいジェイダンだったが、それはこれまでよりもさらに困難になってしまった。弁護士のくせに、今は、現状を回復させるような言葉はひとつも見つからない。
ジェイダンは肩を落とした。ここ最近のジェイダンには、これほど熱心になるれるようなことはなく、しかもそれが女性に対しての情熱となれば、ほんとうに久しぶりといってよかった。ジェイダンにはニューヨーク時代に付き合っていた女性がいた。彼女はアンナとは全くタイプの異なり、どちらかというとマリヤのような雰囲気に近い。背が高くスタイルのいい、赤毛のファショナブルな女性だった。同じ弁護士事務所の先輩で、ジェイダンより二つ年上だったが、彼女はジェイダンが弁護士事務所を辞めると同時に、他の男に乗り換えていった。土地柄ドライな人間が多いことはわかっていたが、正直なところジェイダンはかなり傷ついた。辛いときこそ慰めて欲しかったのに、彼女がそうした思いに応えることはなかったのだ。
その時の記憶は、今もジェイダンの中に残っている。アンナがジェイダンにとっての癒しとなるかどうかは今はまだ定かではない。だがすくなくとも、好意という感情は、他の誰にでも感じるものと同じではない。今のジェイダンにその気持ちを感じさせるのはアンナのほかにいない。いつしか、なにをしていてもアンナのことが頭に浮かび、寝る前には、夢でもう一度アンナに会えないかと願っている。たしかに、アンナに関わったきっかけは、純粋な動機によるものではない。出会い頭のキスからして、ジェイダンの中には打算があった。アンナをパーティをぶち壊すためのいけにえにしたことは間違いない。
けれど、今確実にいえるのは、アンナに対するジェイダンの衝動の中に、ジェイダンにとって予想さえできないほど極めて純粋なものがあるということだった。生命として最も原始的な記憶に結びついた衝動だ。しかし、それは成熟した女性になら誰にでも感じるそれとは違っていた。アンナに対して感じる衝動は、不思議と今までの女性の誰にも感じたことがない。言葉にするのはむつかしい。だが、いうなれば、あの夢のせいではないかと思う。
さらに、ジェイダンが重ねて気を落とせざるを得なかったのは、女性にここまで心を開いてもらえなかったのが初めてのことだったからだ。たしかに、歳は離れているかもしれない。しかし、ジェイダンはこれまでの女性経験を糧に、それなりの自負があったし自信もあった。だが、そんなことにアンナは少しも気にかけてはくれない。単純に男として自信を喪失したこともそうだが、ジェイダンにとっては初めて感じた運命的なものから遠ざかることのほうが辛かった。この気持ちを伝えるい葉を、今のジェイダンは持っていない。
「それじゃあ……」
ジェイダンは初めてアンナとの会話を自分から閉じかけた。するとアンナが最後にいった。
「これまでのあなたの謝罪の気持ちとして、寄せ植えは受け取っておくわ」
「え……」
「ありがとう」
電話が切れた。
(ありがとう? なぜ、ありがとうなんだ?)
ジェイダンは携帯電話を手にしたまま、その場で固まった。彼女から聞く初めての言葉だった。彼女は喜んでくれたのだ。
(なにに? 寄せ植えに?)
ジェイダンの顔に笑みがこぼれた。思わずガッツポーズをとった。失敗ではなかった! 初めてアンナの喜ぶことが、ジェイダンにもわかったのだ。事態は後退していない。むしろ、確実に前に進んでいる。さっきまでの気分が嘘のようだ。
(アンナ、君のことがひとつわかったよ)
ジェイダンはひとりでにやにやと明け暮れた後、晴れ晴れとした気持ちでその日の午後を過ごした。
翌日、アンナ目を覚ましてベッドの中で伸びをした。手と足が同時にベッドの限界域に当たった。できればベッドを替えたい。父と母の寝室だった部屋には大きなベッドがあるのだが、アンナの力では運べない。父が都合のいい日にでも頼んでみよう。アンナは首を左右にまわしながら、カーテンを開けて朝日を入れた。
しかし、部屋の窓から外を見たアンナは、息つく間もなく勢いよく、明けたばかりのカーテンをすばやく閉めた。アンナは頭を左右に振った。夢を見ているのだろうか。もう一度カーテンを少しだけ開けて、そっと階下の庭を見た。それは夢でない。ジェイダンがそこで庭仕事をしていた。
「なんでっ……」
急に頭が痛くなりそうだった。警告どおり警察に通報しようとも思ったが、親友マリヤの従兄をそう簡単に通報できるはずがなかった。連絡をとりたかったがりここ数日マリヤの携帯電話は通じない。スイスの山のどこまで行ったのか知らないが、相当奥深い山小屋で過ごしているらしい。アンナは仕方なく着替えを済ませると下に降りた。
「勝手なことをされては困るわ」
玄関を出るなりそうアンナはいった。警告を知らせるために手には携帯電話を持って出た。ジェイダンが晴れやかな顔で振り向いた。驚くべきことに、彼が着ているのはそっけない白いTシャツとワークパンツ、それに土で汚れたスニーカーだった。手には軍手、首にはスカイブルーのタオル。ジェイダンは乱れた髪をかきあげ、タオルで額の汗を拭いた。昨日までのジェイダンのイメージを覆すに相応しいいでたちだった。
「大丈夫、雑草を抜いたり、枝葉を整えたりしただけだよ」
アンナはいぶかしげにジェイダンが手入れを行なった個所を確認した。確かに雑草の代わりに引き抜かれた植物はないようだったし、選定の仕方などはアンナよりよっぽど手馴れているようだった。加えてアンナの力ではどうにもならなかった太い枝や蔦までもがきれいに処分されている。アンナは驚きを顔に浮かべた。
「西側の壁の蔦はあれでよさそうだったから、手はつけてないよ」
蔦についてはジェイダンのいうとおりだった。西の外壁にびっしりとはった蔦を、アンナはそのままにしておこうと思っていた。見栄えがよかったし、それにその分外壁の塗装料が浮くからだ。アンナは改めてジェイダンを見た。どう見てもお金持ちのホワイトカラーがこなれてできるような仕事には思えなかった。
(彼がやったのではないのかしら)
彼なら業者を呼んで作業させることは簡単だ。しかし、ジェイダンのその厚く鍛えられた胸には、シャツが張り付くほどに汗がにじんでいる。アンナは不覚にもその姿に見とれた。ジェイダンの汗の匂いに、ぞくっとさえした。そんな自分にアンナはひどく戸惑った。ジェイダンになにかいってやらねばならないのはわかっていたが、いつものように憎まれ口が出てこない。
「一体……どうして……」
「君は忙しいだろう。だから邪魔しちゃ悪いと思って、今朝早くに来たんだ」
アンナが口を開きかけると、ジェイダンは人差し指を立てて口早にいった。
「もう帰るよ。警察を呼ばれる前にね」
ジェイダンは早足で庭を出て行った。そしてすぐにジェイダンのランボルギーニがそれと相応しいパワーで去っていった。アンナは自分の胸を押さえた。わずかに鼓動が早い。アンナはそれに対して頭を振って見せた。
(馬鹿馬鹿しいわ……。びっくりしただけよ。なんでもないわ、こんなこと)
自分の中に生まれた小さな感情をアンナは即座に無視することにした。
(こんなの、映画に出てくる俳優をかっこいいと思うのと同じだわ。ジェイダンがハンサムなのは前から知ってたことじゃない。ユニフォームが変わったぐらいがなに? 不意打ちを食らって驚くのは当然だわ。朝っぱらから人の庭に侵入して勝手な事をするなんて非常識だわ。やっぱり警察に電話を入れるべきだった。そうよ、そうでなければ……、こんな……ことで……、いちいち……驚いたりせずにすんだのよ)
アンナは言い訳がましい言葉で自分を納得させた。しかし、もし明日もジェイダンが現れたとして、アンナが迷わずに通報できるかどうかは定かではなかった。せめて、マリヤに連絡が通じれば相談できるのに。結局、アンナはつながらないとわかっているマリヤにその日だけでも十回以上電話をかけたのだった。
翌日、目覚めたアンナは、ベッドから降りるとすぐに窓から庭をのぞいた。
「えっ、うそ……」
アンナは思わず口元を押さえた。アンナが孤軍奮闘していた柵がすっかり直っている。しかもきちんと同じ高さで等間隔だ。プロの仕事だとアンナは思った。アンナが着替えて庭に降りると、ジェイダンは工具を片付けている最中だった。昨日と同じような格好で、背中から胸からぐっしょり汗で濡れている。
「おはよう、アンナ」
あえてそれには応えなかった。
「修理代を払うわ。どこの業者に頼んだの?」
「修理代ならかかってない。僕が直したから」
「うそでしょ?」
アンナの顔に戸惑いが広がった。このところ、ジェイダンにはこんな顔をさせられっぱなしだ。
「明日はペンキを塗ろうと思うんだけど、白とグリーンどちらがいい?」
ジェイダンは相変わらず汗をぬぐいながらも、爽やかな笑顔を向けてくる。アンナはそれがまぶしくて、思わず顔をそむけずにはいられなかった。
「それは……ありがたいけれど、でも勝手なことをされては本当に困るの。わたしにはお金がないの。少ないお金で優先順位が高い個所を直さなきゃいけないのよ。白でも緑でも、今ペンキを買うお金はないのよ」
「実は君がどっちを選んでもいいように両方買ってきたんだ。トランクに積んである」
アンナは困ったように腰に手を当てた。
「そこで待ってて」
アンナはいったん家の中に戻ると財布を持ってすぐに戻ってきた。財布からあるだけのお札を全て出すとジェイダンに差し出した。そこには千円冊が五枚しかなかった。
「今はこれしかないの。あとは振込先を知らせてくれれば振り込むわ」
「受け取れないよ、僕が好きでしたことだ」
ジェイダンは受け取る代わりに、にこりと微笑んだ。
「じゃあ、今日はこれで」
「待って! どうしてあなたがこんなことをするの?」
アンナは受け取り手のないお金を手にしたままジェイダンを呼び止めた。ジェイダンはなんのてらいもなく即答する。
「僕は君の役に立ちたいんだ」
「あなたの謝罪は受けたといったでしょ」
「それなら友達として君に協力したい」
「友達じゃないわ」
アンナは首を降った。ジェイダンは傷ついたのか少し視線を伏せて見せたが、すぐに顔を上げて笑顔を作った。
「それじゃあ」
ジェイダンはそれだけいうとアンナの家を後にした。その後、アンナが倉庫の中を改めると、ジェイダンは工具をアンナの並べたときと同じままに戻していた。アンナはジェイダンのことをどうしたらいいのかわからなかった。ただ一ついえることは、ジェイダンがしていることは、アンナやアンナの財産に損害を与えているわけではないので警察に届けるべき被害には該当しないということだった。あとはアンナがジェイダンの行動をどう思うかだったが、アンナはそれを判断しかねていた。ジェイダンを友達として認めていいものだろうか……。
幸いにもその日の夜、マリヤに電話が通じた。SNSに送ってくれた複数の写真には真っ白な山峰をバックにマリヤと数名の友人たちがはしゃいでいる。マリヤはすっかりエンジョイしたようだ。一方、エンジョイとはかけ離れているアンナは、今の状況をすっかりそのままマリヤに伝えるしかなかった。
「まさかジェイダンが?」
「あれから毎日よ。信じられる?」
「わたしが手厳しくしたのが効いたのかしら……。それにしてもちょっと普通じゃないわね」
「その通りよ。わたしどうしたらいいのかわからないわ」
マリヤは少し考えた後に気楽な感じにいった。
「アンナの気の済むようにしたらいいわ。わたしもスイスに来てからはジェイダンともベンともほとんど連絡をとってないからなんともいえないわ」
「そんなことをいわれても困るわ。来るなといっても来るのよ」
「多分あなたと友達になりたいのね。それがわたしへの罪滅ぼしだと思ってるんだわ」
「あなたからはっきりいってくれない。わたしのことはかまわないでって」
「いいじゃない。庭仕事だってなんだって、やってもらえばいいじゃないの。そんなのパテシエールのあなたがやる仕事じゃないわ」
「そうはいっても……」
「アンナ、あなた彼はいないんでしょ。店づくりには男手は便利よ。それを全部ジェイダンに頼んじゃえばいいじゃない」
アンナもそう思うこともある。例えばベッドの入れ替えだとかはその一例だ。
「そんなことできないわ。友達でもないのに」
「友達になればいいのよ。ジェイダンはそうしたがっているんだから簡単よ。そもそもあなたは彼氏を作らないって決めてるから、なんでも自分でやろうとしすぎなのよ。もっと肩の力を抜いて、男性の力に頼ればいいのよ。ボーイフレンドはたくさんいたほうがなにかと便利よ」
「あなたにはできてもわたしには無理よ」
「前にもいったけどジェイダンはいい人よ。多分あなたの話を聞く限りには、ちゃんと心を入れ替えたんだと思うわ」
「そうかもしれないけど」
「ジェイダンをあなたの恋愛体質改善のリハビリに使うのも悪くないと思うわよ」
アンナはため息をついた。マリヤのいうとおり、アンナは彼氏を作らないことを信条としている。マリヤのいうことは、その信条を旨とするアンナにいちいち引っかかることばかりだった。たしかに、アンナが四苦八苦しながらしていた柵の修理を、ジェイダンはいとも簡単に直してしまったし、庭の高枝や太い枝などはアンナの力では到底処分できなかった。自分にはできないことも男性ならできる。アンナは確かに自分の店を構えることに意識を燃やしすぎて、そうした現実的な部分をおざなりにしているところがある。気持ちだけではカバーできないことがどうしてもあるのだ。ジェイダンが現れたことによって、それはアンナの目にも十分あきらかだった。
しかし、アンナにはどうしてもその信条を変えることができない理由があった。
「マリヤ、わたしには恋人を作るのは無理よ……。何度もいったでしょう……」
「……そうね、ごめん」
マリヤは優しい口調になった。
「でもどんな男でもときどき馬鹿をするのが男なのよ。そして、男は女のために働くのが好きなのよ。でなきゃ女は割が合わないわ」
アンナはわかったようなわからないような、妙な気分だった。
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