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 シェフはフランス人らしいやさしいキスをアンナの頬にくれた。同じ仏語でも使う人間が違うだけでどうしてこうも響きが違うのだろう。アンナも軽くシェフの頬にさよならの口づけをして厨房を出た。もう一度暗い駐車場に戻ると、まるで夢が覚めたみたいな気分だった。古びた白の軽自動車。後部座席に積み込まれた道具や器具。助手席の鞄には脱いだまま丸めて詰め込まれたドレスが、ファスナーからはみ出ている。

 すっかりメイクを落としてきたすっぴんの顔を、アンナはため息と一緒に地面へ向けた。後悔はしていない。けれど状況はまったくよくなってはいない。百名分の料理を作ったことは確かにいい経験にはなったが、今はプラマイゼロというよりもややマイナスの気分だった。帰りのハイウェイで音楽を大音量にして歌いながら帰れたらいいのに、と思った。出費を渋った中古の軽はステレオが壊れている。アンナはそれを今さら無性に後悔した。

 「アンナ、よかった、まだいたのね!」 

 振り向くとマリヤが息を切らして駆けてきた。アンナは顔を上げ、考えを整理するようにしばらく目をつむって見せた。

「もう帰っちゃったかと思ったわ。よかった、あなたに会えて」
「マリヤ、ごめんね。わたし……」
「いいのよ!」
 
 マリヤははっきりといった。
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