【完】叔父様ノ覚エ書【大正ロマン】

国府知里

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【シリーズ1】叔父様ノ覚エ書

【一、 無念櫻】

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 昭和Z年初夏のことだ。

 僕は榎夲先生に暫くのお暇を頂戴して先生のご友人をお訪ねした。

 物書きを続けてゐけるのか如何かを惱んでゐた僕を心配して下すつて、田舎で羽根を伸ばすのが良いと取り計らつて下さつたのだ。



 僕はN縣O市にゐた。

 彼の名高い財閥I家の住まうN市に程近い此の町も例に漏れづ生糸産業が盛んだつた。

 N市程ではないけれど、僕が想像してゐたより遥かに發展した處だつた。


 僕が着いた其の日、信州の夏はまだ遠く滿開の櫻が咲いてゐた。


 町の處々には其れは見亊な並木があつて、東京で見納めたと思つてゐた僕は何だか得をしたやうな嬉しい氣分になつた。



 榎夲先生にご紹介頂いた山岡昭二氏は、五十になると言ふのに全く明朗で衰へを知らない方だつた。

 僕が挨拶すると、山岡さんは日夲猿のやうに血色の良い顏をにこにことさせて見せて、



「やあやあ、待つてゐたよ。

 榎夲先生から書生の中で一等將來有望な青年が來ると聞いて樂しみにしてゐたのだ。

 さあ、上がつて呉れ」




 恥づかしさで僕は耳迄熱くなつた。

 榎夲先生は一體如何して其那大袈裟なことを仰つたのだらう。



 山岡邸は數寄屋造りの立派なお屋敷だつた。

 廣い邸内にはおタネさんと言ふ年配のお給仕さんが一人雇はれてゐるだけで、後には誰もゐなかつた。

 庭の見へる坐敷に通されると、此處にも今が滿開と言はんばかりに小振り乍らも見亊な櫻が咲き誇つてゐた。

 思はづ見とれてゐた僕に山岡さんが仰つた。



「お好きかな、櫻が」


「ええ。花散る様子が何とも可憐で」

「其れなら少し山を登つた處に枝垂れ櫻が群生してゐる處があるのだよ。今が正に見頃だ。如何だね、明日當り行つてみるかね」

「其れは是非お願いします」



 僕は夏から時間を遡つて春に戻つて了つたやうな、不思議な錯覺に包まれた氣がした。

 其那話の後、おタネさんがお茶を持つてやつて來た。

 見亊な上物の練り切り迄出て來たので僕は餘りの歡迎振りに氣後れする以上に委縮して了つた。



「あの……如何かお構いなく……」

「いやあ、此れは私の好物でね。人が來る時には必づ用意して貰つてゐるのだよ。さあだうぞ、美味いんだよ」



 さう言ふと山岡さんは大きな口を開けてぽくんとお菓子を放り込まれたのだつた。

 山岡さんは大變な資産家らしかつた。

 廊下や坐敷の至る處には品の良い調度品と素人目にも價値の在りさうな有田や古伊萬里や掛け軸が體良く飾られてゐた。

 洋畫もかなりの數が在り、大きい物から小さい物迄此れもまた其の爲に設へたと言ふ質の良い額に入れて飾つてあつた。



「大變な収集ですね」



 僕はあちこちを見渡した。

 お菓子を頬張つておタネさんの淹れた茶を美味しさうに啜り乍ら、山岡さんはお笑ひになつた。



「如何しても止められない私の趣味でねえ」



 是れは如何言ふ物ですかと尋ねると、其れはもう樂しげに滾々と説明をして下さつた。

 山岡さんはご自身でも繪を畫かれる程の大變な愛好家で相手に暇が有ると見ると、是れは此處が素晴らしい、是が良いのだと延々とお話し続けるのだつた。

 夲當に目の肥へた人で、若手の畫家を自宅に招ゐては部屋をアトリエとして間借りさせてゐたこともあるさうだ。

 其の畫家の繪が此れだと見せて頂いたのは、今や畫廊や百貨店で何十と言ふ値が附けられてゐる新進氣鋭の山田劉吾だつた。

 何時話が終はるのか判らぬ儘、僕は結局日が暮れる迄山岡さんの美術論評の講義を受けさせて頂いたのだつた。

 翌日、僕は山岡さんと枝垂れ櫻を見に山へ登つた。

 山岡さんの足腰は嘘ではないかと疑ふ程に強靭で、萬年貧弱な僕は後をついて行くのが精一杯だつた。

 櫻を見乍ら食べやうと言つて買つた彼の練り切りでさへ、僕には繊細かつ重過ぎる荷物だつた。



 小一時間山道を歩き続けて、漸く目的の地に辿り着いた。

 少し汗ばんだ身體に山間の風が吹き渡つて行く。

 櫻吹雪が山肌を撫ぜるやうに降りて行く姿は、さつき迄の疲れを一氣に洗い流して行くやうな清々しい心地がした。

 凍て附く季節を乘り越へて、漸く息吹いた其の可憐な花弁は何と比較をしても清らかで、其の癖何の躊躇ひもなく散つて行く潔い様はいぢらしくさへ見へた。



「如何かね、渡邊君」

「大變素晴らしいです……」



 其の時の餘りに飾り氣のない僕の言葉に、僕は物書きの端塊として有るまぢきことだつたと氣附き、また山岡さんも櫻に對する優美な表現を期待してゐたのではないかと思ひ附き、後々から恥づかしく思つたことを覺へてゐる。



 其れからと言ふもの、僕は山岡さんに附いて色んな處へ行つた。

 釣りに狩りに、川下りや電車に乘つて遠出をしたり、兎に角僕はほぼ毎日のやうに一日中山岡さんに附き合つた。  



 山岡さんは殆どのことを自分一人で何でもお出來になつた。

 鳥渡壞れた箪笥や天井の雨漏り何か、自分でさつと直して了ふ。

 料理の腕も確かで、時々釣つた魚や何かを振舞つて下さることもあつた。

 人から言はせると矢張り變はつた人だつた。

 ご近所附き合ひも良く氣さくで温かな人だつたが、嫁を取らづ資産を継がせる子孫もゐない。

 餘り有る財を趣味の美術品集めと其の交友關係に注ぎ込む様子は、世間の人から見れば異質な人として屡々好奇に映つてゐるやうだつた。

 其のことについておタネさんに其れと無く聞いてみると、おタネさんも些細を知らない過去が有るらしい。

 氣にならないと言へば嘘になるけれども、人に詮索されたくない想ひ出の一つや二つ誰でもあつて當然だらうと思ふ。

 兎に角僕は其のことを深く追及しやうとは思はなかつた。

 其那山岡さんは、榎夲先生の過分な評價のお陰か大變良くして下さつたのだつた。

 程近いS湖に釣りに出掛けた或る日のことだつた。

 櫻が遂に終はりを迎へた。

 早朝から始めた釣りを昼には切り上げて、すつかり?葉の萌へる並木を山岡さんと歩いた。



「夏模様になつて來たね」

「さうですね。お庭の櫻ももう終はる頃でせうか」

「彼れは遅咲きの櫻だからね。今年も長く樂しませて貰つたが……」



 山岡さんは少し俯くやうにして歯切れの惡い言ひ方をなさつた。



 屋敷に戻つて、借りてゐる部屋の蒸れた空氣を入れ替へる爲に窓を開け放つた。

 其の部屋の位置から見へる庭は西側にあつて、庭の櫻も窓の枠の中に繪のやうに納まつて見へるのだ。

 もう殆ど葉櫻と言ふ其の木の向かうには盛夏を迎へる準備を整へた山々が聯なつてゐる。

 胸を晴々とさせるとても眺めの良い部屋だ。



 しかして移りゆく季節が此那にも切なく惜しまれるのは何故だらう。

 夏は厭いではないし、季節が廻るのは當然のことなのだけれど、其れでも櫻の花弁が一つまた一つと散つて行く様子に、僕は寂しさを感ぢない訳にはゐられなかつた。

 其那想ひが溢れて、思はづぽつんと呟いてゐた。



「散つて了ふのかな……」



 其の時窓から急に強い風が吹き込み、僕は思はづ目を閉ぢた。

 風はほんの數秒で治まつたけれど、息が詰まる程の激しい風だつた。

 暫くしてそつと目を開けると、窓の前に備へ附けられた文机の上に、一枚の櫻の花弁が舞い落ちてゐた。

 まるで櫻も僕との別れを惜しんでゐるやうに思はれた、何とも詩的な瞬間だつた。



 其の翌日、庭の櫻は遂に散つて了つた。

 僕は其れが如何にも心惜しく思はれて、昨日舞い込んで來た櫻の花弁を大切に手帳の間に挟み込んでおいたものを眺めてみたりした。

 其那何時までもはつきりとしない名殘惜しい想ひの僕が其の櫻に出會つたのは何の所以だつたのだらう。



 其れは確かに無念櫻だつた。

 實は山岡さんのお屋敷には、もう一夲の櫻が在つた。

 屋敷の玄關を入つて直ぐの正面に、百号位有りさうな立派な櫻の木の繪が在つたのだ。

 其れは雪景色の中、黒々とした幹に血を滲ませたかのやうな淡い色で、櫻の花が浮き上がるかのやうに描かれた秀逸なものだつた。

 可憐な印象や生き生きとした感ぢはなく、ぢつとりと物々しいけれども何處か儚さを感ぢさせる繪だつた。

 繪に趣深い山岡さんが如何して夏になつても此の雪櫻の繪を飾つてゐるのか不思議で仕方なかつた。



「遂に玄關正面の櫻だけになつて了いましたね」



 其の日、朝食を食べ乍ら山岡さんに言つた。

 彼の繪について色々と話して下さるのを期待してゐただけに、山岡さんが小さく溜息を吐かれたのには驚ゐた。



「如何かされたんですか?」

「いや……、如何と言ふ訳ではないのがね……」



 明らかに山岡さんの様子が何時もと違つてゐらした。僕は何となく其れ以上聞けない儘、默つて食亊を濟ませた。

 其の日僕は、新しい小説の構想を練らうと思ひ、部屋に寝轉がつて庭を見てゐた。

 目に鮮やかな額縁は此の儘切り取つて持つて歸りたい位に美しい。

 其の瞬間僕は、はつとした。

 此の構圖は何處かで見たことが有る。僕は慌てて部屋を出た。

 記憶の中の構圖を重ね合はせ乍ら、玄關正面の彼の繪を見やうと廊下を行くと、繪の前には山岡さんがぢつと佇んでゐらした。



「あの、山岡さん……」



 山岡さんは振り返ると、少し躊躇つたやうな笑みを浮かべられた。



「如何かしたかい?」

「あの……此の繪なんですけれど……、僕が今お借りしてゐる彼の部屋からの構圖とそつくりだと思つたんですが……」



 すると山岡さんは何も仰らづ、少し笑つて頷かれた。



「是はね、畠野明義と言ふ畫家の繪でね。

 君の言つた通り、彼の部屋から眺めた景色を描いた繪なのだよ」

「矢張り……。とすると、此れは櫻が咲いた後に雪が降つた日の景色を繪にしたんですね」



 此の發見に僕は興奮氣味だつたが、山岡さんは複雑な表情をなさつた。

「いや、さうではないのだよ……。

 畠野君はね、若い畫家の中ではまあ何と言ふか、其那に注目されてはゐなかつた。

 ただ私にはね、何か光る物が有るやうに思へてね。

 其の時家には何人かの若手の畫家や作家が下宿してゐて部屋がなかつた。

 だから彼は屋敷に程近い處に部屋を借りて私は其の保証人になつた。

 其れからと言ふもの彼は新しい作品が畫けると其れを見せに來ては私の意見を熱心に聞いたり、繪が賣れると彼の練り切りを買つて寄こしたりと……。

 彼の繪が賣れない時には其の繪を買つて、繪の具の足しになるやう少し多めに渡してやつたものだ」

 山岡さんは一つ一つ思ひ出すやうにぢつくりと仰つた。

「或る冬のことだがね、彼が暫く顏を見せない時が続いたのだ。

 さうしたら大家が家を訪ねて來た。畠野君が病氣だと言ふのだよ。

 慌てて彼の部屋へ行つたら、畫材や塵や何やらで出來た山の中で彼は寝込んでゐた。

 蒲團の上にさへキャンバスやら筆やらが折り重なつてゐたよ。

 其の頃君が今使つてゐる彼の部屋が空いてゐたからね、私は彼を彼の部屋へ移したのだ。

 醫者に來て診て貰つたら、彼は風邪を拗ぢらせただけだつた。

 彼は私に申し訳ないと謝り乍ら、彼の部屋から見へる景色を如何しても描きたいと言つた。

 私は體が治つてからで良いぢやないかと何度も言つたが、彼は決して聞かうとしなかつた。

 外ぢやあ雪か降り積もつてるのに窓を開けつ放しでゐるのだからね、體に良い筈がない。

 でも私も繪を描く者の一人として、描かねばならないと言ふ其の氣持ちが解からないではなかつた。

 私は彼の病状が惡化しないやう氣を配り乍ら、創作を見守つた。

 そして遂に彼は此の繪を完成させた。

 しかし其れと同時に彼の具合は惡化してね、改めて診て貰つたら風邪ぢやなく勞咳だつた」



 山岡さんは其處で言葉を止めて、櫻の繪を眺められた。



「直ぐ側の峠に勞咳の隔離病院が在るのだが、彼を其處に入院させた。

 彼の親族に聯絡を取ると、彼の姉と言ふ人が訪ねて來た。

 彼は姉に聯れられて故郷に歸つて行つた。

 其の後、人傳に彼が死んだらしいと言ふのを聞いたよ……」



 當りはしんとしてゐた。

 おタネさんが食器を洗う音さへ、遥か遥か遠くに聞こへた。



「報せを聞いた其の年の春、此の櫻が突然咲いたのだよ……」



 山岡さんはぢつと其の櫻を見詰められてゐた。



「其れ以來、毎年此の櫻は春になると、かうして血が浮き出るかのやうに花が咲くのだよ。

 だから私は此の時期に毎年此の繪を此處に飾ることにしてゐる。

 畠野君が見られなかつた櫻を見に來てゐるやうな氣がしてね」



 僕の身體を靜が通り過ぎて行つた。

 俄(にわ)かには信ぢられない話だつた。

 けれど山岡さんが嘘をついて被居るとも思へなかつた。

 山岡さんが初めてお見せになつた何とも寂しげな様子は、演技で出來るものではないやうに思はれた。

 無言で其の繪を見詰めた。

 其れは火よりも明らかにただの油繪にしか見へない。

 毎年此の時期だけ花が咲くと言はれても、僕には到底信ぢやうがなかつた。

 僕は此のかた其那不思議なものにお目に掛つたことがない。



「でも今年は如何したのだらうか……。

 庭の櫻が散る頃には何時も此の繪の花も消へて了ふのだが……」



 山岡さんは微笑まれると、其處から離れて行つて了はれた。

 其那ことが現實に在るものだらうか。

 信ぢ難い想ひに捉はれ乍らも、僕は畠野明義さんと言ふ畫家の魂が其處に在るやうに思へてならなかつた。

 暫く其の雪景色に咲く櫻を見詰め乍ら、亡き畫家のことを思つた。



 數日後、山岡さんの家を離れることにした。

 纏めて了ふと元々荷物は少なかつたけれど、部屋はがらんと寂しく見へた。



 ふと畠野さんのことを思ふ。

 此の時、此の町に來なければきつと畠野さんの話を耳にすることも、彼の繪を目にすることもなかつただらう。

 恐らく一生畠野さんを知ることはなかつたらう。

 是は確かに僕と畠野さんとの出會いだつた。

 がらんとして部屋の中で一人感ぢてみる。

 繪に浮かび上がつたと言ふ櫻は、まだ消へてゐない。

 と言ふことは畠野さんはまだ此處にゐるんぢやないだらうか。

 何となく其那氣がした。



「畠野さん……今年の櫻も素敵でしたね」




 ひとりごとが出た。

 言ふ迄もなく、部屋の眞ん中にゐる僕には靜だけが返つて來る。

 遠くで蝉が啼いてゐた。

 部屋を出て、そつと襖を閉めた。

 それから山岡さんにお別れの挨拶に行つた。



「良い骨休みになつたかい」

「はい、とても」



 山岡さんは、またおいでと仰つて僕を玄關迄見送つて下さつた。


 履物を履いて振り返ると、山岡さんの向かうに彼の繪が見へた。

 そして僕は唖然とした。

 繪の中の櫻は、跡形もなくすつかり消へてゐたのだ。



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