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#79、 グレナンデスの影*

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 奈々江が目覚めたのは、素朴なベッドの上だった。
 木綿でできた粗末なカーテンの向こうには、海が見えた。

(えっ、なに、ここ……)

 部屋は農民なのか漁民なのか、ともかくさほど収入のない平民の小さな家のようだった。
 ベッドは固く、掛けられていた布も清潔そうではあったものの、ごわごわとした手触りだった。

(わたし、あのとき誰かにさらわれた……。
 ここ、どこなの……?
 と、とにかく、助けを呼ばなきゃ)

 奈々江はエアリアルポケットを開いた。
 中には一本だけスモークグラムが入っている。
 スモークグラムはなにか急に連絡をしなければならないときのために入れていたのだ。
 これを魔法陣で火をつければと考え、そこで奈々江は気がついた。
 紙はあるけれど、ペンとインクがない。
 いつもこれだけは入れておくと決めていたはずの三点セット。

(そ、そうだ! あの部屋に……置いてきちゃったんだ)

 すぐさま、部屋の中で火の気を探した。
 だが、暖炉もマッチのようなものも見当たらない。

(どうしよう、これじゃあ……)

 そのとき、部屋のドアが開いた。
 そこには、十代後半くらいだろうか、平民姿の女性が一人立っていた。

「お、お目覚めに……なられたんですね」

 少し色の抜けた褐色の髪を後ろに束ね、頬にはそばかす、目はブルーグレー。
 見るからに害意のなさそうな女性だった。

「あ、あの、ここは……?
 あなたは、どなたですか?」
「わたしは……ゾーイといいます。
 ここは、海辺の小屋と呼んでいます」
「ゾーイさん……。あの、わたしはどうしてこの海辺の小屋に……。
 いえ、その前に火を貸していただけませんか?」
「それはできません。スモークグラムを使わせることはできないんです。すみません……」
「え……?」

 奈々江か思わず立ち上がると、ゾーイが素早く下がった。

「お、お腹はすいていらっしゃいませんか? 今食事をお持ちしますね」
「い、いいえ……。お腹はすいていません。わたし、帰らなくては……」
「いいえ、すぐお持ちしますね!」

 ゾーイはすばやくドアを閉ざすと、ガチャンと鍵をかけた音がした。

「ゾ、ゾーイさん! 待って!」

 階段を駆け足で降りて行く音がした。

(一体、どうなっているの? ここはどこなの?
 わたし、どうしたら……。そ、そうだ、セレンディアス!)

 ぱっと手首を取ったとき、奈々江はまたも固まった。
 セレンディアスから贈られたブレスレットがない。

(うそ……)

 魔法陣もかけない、スモークグラムも焚けない、セレンディアスの魔力とつながったブレスレットもない。
 このままでは、どうしようもない。

(どうしよう、わたし完全に無防備状態……)

 そのときになってようやく奈々江はエアリアルポケットの中に太陽のエレスチャルを思い出した。

(だ、大丈夫! まだこれがある)

 奈々江は太陽のエレスチャルを取り出して、首に掛けた。
 このバグった太陽のエレスチャルは、男女、主要モブ問わず、誰にでも効果を発揮する。
 装備した状態でお願いすれば、ゾーイはきっと火を貸してくれるはずだ。

 しばらくすると、再び足音が近づいてきた。
 太陽のエレスチャルを握りしめて、それを待つ。
 ギイと軋んだ音を立てて、ドアが開いた。
 そこに立っていたのは、黒髪の無精髭を生やした男だった。
 ぎくりとして、奈々江は後ろに下がった。

(あ、あのときの……)

 今は修道服ではなく、平民が着るようなシャツを身に着けていた。
 男は前髪が顔にかかるのも気にも止めず、無造作に伸びた髪を適当になでつけている。
 目はくすんだ茶色の目。
 全く見覚えのない男だった。
 奈々江は震えそうになる体と声に力を込めた。

「あ、あなたは、誰なの? 目的はなに?」

 その瞬間、男が膝をつき、こうべを垂れた。

「手荒な真似をして申し訳ありません!
 でも、どうしても、こうしてあなたにお会いしたかったのです……!」
「……あ、あなたに悪いと思うけれど、あなたのことを知らないわ……」
「そう思うのも無理もありません。これは仮の姿」

 男がパッと顔を上げ、なにか呪文を唱えた。
 そのとたん、黒い髪は金色に変わり、茶色の目は明るい緑色に変わった。
 髭も黒から金に変わった。

(え、誰……?)

 奈々江は姿の変わった男を見つめたが、それでもピンとこなかった。
 王宮か、修道院がどこかですれ違ったのだろうが、奈々江のほうにはまったく覚えがない。

「私です、ナナエ姫」
「……」
「まさか、私がお分かりになりませんか?」
「……わ、わからないわ。ごめんなさい……」

 男がはっと息を吸い、瞳を揺らした。

「そ、そうですね……。このような不作法な姿では……。
 私です、グレナンデスです」
「……え?」

 耳を疑った。
 だが今、確かに、男は言った。
 自分のことを、グレナンデスと。

「……」
「このような姿をしているのは、さる事情がありまして……。
 でも、まぎれもなくグレナンデスです。
 シュトラスからすべて聞いております。
 私の思いに応えてくださる気になったと……」
「……え、ちょっと、待って……」

 奈々江は恐る恐る、男の顔をよくよく観察した。
 言われてみれば、確かに目元はいつか見たグレナンデス皇太子に見えてた。
 だが、平民服にぼさぼさの髪、伸び放題の髭面。
 かつてグランディア王国でみたキラキラしいあの姿はみじんも感じられない。

(こ、これが、グレナンデス? う、うそでしょ……!?)

 奈々江の頭にバグが発生したのだろうか。
 でも、どう考えても、あの時のグレナンデスとここにいる男が同一人物だと脳が判別しない。
 考えてみれば、グレナンデスと別れてから、かなりの時間が経過している。
 その間には、シュトラスも子どもから大人に成長している。
 そのとき、奈々江は気がついた。
 奈々江の中で、グレナンデスの記憶は、現在のシュトラスの姿と結びついていた。
 シュトラスが成長したように、グレナンデスも成長ないし変化を遂げていてもおかしくはない。
 だが、ナナエの中のグレナンデスは成長せず、むしろ、あの時のままを体現するシュトラスの姿に塗り替わっていた。
 この髭面の男に、もはや奈々江はときめきのとの字すらみじんも感じなかった。

(うそ、なんで……。グレナンデス、なんでこんなふうになっちゃったの……?)

 あまりの衝撃に、奈々江は言葉も出なかった。

「ナナエ姫……」
「こっ、来ないで!」

 思わず口を飛び出たのは拒絶だった。
 頭では理解しようと試みたものの、もはや気持ちがついていかない。
 触れられたくない、はっきりとそう体が感じていた。
 驚いたようにグレナンデスが目を見開く。

「た、確かに今はこのような有様ですが、王宮に戻れば……」
「戻ったほうが賢明ですわ……。あなたが本当にグレナンデス殿下なのであれば」
「グレナンデスです……! しかし、その前にどうしても、ナナエ姫にご了承いただきたいことがございまして……」

 グレナンデスが開かれたドアの方を振り返った。
 ゾーイが静かに入ってきた。

「ここにいる娘は、ゾーイと言います。
 エレンデュラ王国の城下で靴職人をする男の孫で、私はしばらくの間その店に逗留していました。
 ご存知でしたでしょうか? 私はあなたになんとかお会いできないかと、城下で身を潜めていたのです」
「……」
「そこで暮らす間、私はナナエ姫に近づけないかとあらゆる手を使って城への侵入を試みましたが、ことごとくだめでした。
 時にはもう二度とナナエ姫にお会いできないのではないかと失意に落ち込む日もあり……それで……」

 グレナンデスが再び振り返り、ゾーイを見た。
 正確には、ゾーイの腹部を見た。

(え……?)

 ゾーイがそっと自分の腹部をなでた。

「今この娘の中には、私の子が……」
(え、えーっ……!?)

 まるで頭を殴られたような衝撃だった。
 ゾーイが申し訳なさそうにこちらを見ていた。
 なんだか、めまいがしてくる。
 思わず奈々江はベッドにもたれかかった。
 グレナンデスが続ける。

「ゾーイは平民なれど、子は王家の血を継ぐことには変わりありません。
 もちろん生まれた子が男子であろうと、この子が王位を継ぐことはないとお約束します。
 ですから、どうかこの子をゾーイが生むことを許していただけませんか?」
(……な、なにいってるの……。グレナンデスって、こんな人だったの……?)
「できることなら、ゾーイをナナエ姫の侍女かなにかとしておそばに置いていただければと思いますが、もしもお許しになれないのであれば無理にとは言いません。
 ただ、子どもだけは私の子として王宮で育てたいと考えています」
(えっ、じゃあゾーイはどうなるの? 母親から子どもを奪って、あとは放ったらかすってこと?
 ていうか、わたしって……グレナンデスにとって一体何なの……?
 わたしへの思いって……そんなだったの……?)

 トラバットの忠告の意味が分かった。
 トラバットだとて一夫多妻制だが、こんな後出しじゃんけんみたいなことはしないはずだ。
 こんなの自己都合と解釈が良すぎる。
 グレナンデスは今、他の女性に子どもを宿らせておいて、別の女性と結婚しようと言っているのだ。
 相手が平民だから、権力に任せてどうにでもなるとわかっていて。
 後は、奈々江がすべて納得すれば問題がないというわけなのだろうか。
 奈々江に対してもゾーイに対しても、誠実さのかけらも感じない。
 複数の妃をめとることはこの世界のセオリーだということはわかっている。
 だが、乙女ゲームとして、これはどうなのだ。
 この状況で、グレナンデスにときめけ、そして両想いになれというのは。
 さすがに無理難題すぎる。

(だ、だめだわ。わたしにはグレナンデスがわからない……)

 完全に詰んだ。
 こんな気持ちでグレナンデスルートを攻略できるはずがない。
 あのときのときめきは、あの日あの時にしか存在しえなかったのだ。

(あのとき、はいって言っておけば……!
 でも、だとしても結局グレナンデスがクズ男だということには変わりないわけで……。
 だけど、キャラクター変わり過ぎじゃない!?
 元々シナリオにこんなのなかったよね?
 ああ、だけど、グレナンデスルートがだめになった今、どうしたら……?
 この状況どうしたらいいの?
 もう一秒だってこの人と一緒にいたくないんだけど……)
「ナナエ姫、お許しいただけますか?」
「……。今はなにもいいたくありません。とにかく今はわたしをエレンデュラ王国の城に還してください。そして、あなたはすぐにでも国に帰るべきです」
「ナナエ姫」
「それ以上近寄らないで。これ以上あなたと話す気になれない」
「ナナエ姫、それはできません」
「えっ?」

 顔を向けると、グレナンデスはじっとこちらをみていた。

「ご納得いただくまであなたはここから出ることはできません。ここはグランディア王国の限られたものしか使えない亜空間で、その他のどんなものであろうとも手出しはできません。
 セレンディアスのブレスレットも処分させていただきました。すっかり痕跡を消しましたから、どんなに鼻が利くセレンディアスであっても、ここを探し出すことはできないでしょう」
「な、なにをいっているの……」
「私はあなたを愛しているんです。初めて会ったあの日から、あなたしかいないと思って今日まで生きてきました」
(それならどうしてゾーイと関係を持ったりするの? なんなの、これ、わたしのほうがおかしいの?)
「ロカマディオール修道院を訪ねるあなたを遠くから見つめながら、わたしはずっと機会をうかがっていました。
 シュトラスからあなたの様子は逐一聞いていました。あなたが私との結婚を考えていると聞いたときには本当にうれしかった。
 ようやく私たちはお互いをもっとよく知り、愛を語らうときが来たのです」
(いや、おかしいのは絶対、グレナンデス。わたしが折れたところで、両思いになれなきゃ、きっとこのゲー厶はクリアはできない。
 わたしはわたしの気持ちに嘘はつけないんだから)
「わたしをすぐに帰して。ここから出して」
「いけません、ナナエ姫。あなたは私の伴侶となるお方。でも、もう少し時間が必要なのですね。
 大丈夫ですよ。いずれきっとその気になるでしょう。決してあなたを逃がしはしません。
 私の愛からは逃げることなどできませんよ」
「……」

 そういうとグレナンデスとゾーイが部屋を出て行った。
 再び鍵がかけられた。

(……もう、どうかしてるよ……!
 この世界に来たばかりのとき、モブキャラが壊れた人形みたいになったけど、グレナンデスもまるでそう。
 もはや話が通じる感じじゃないよ。
 とにかく、なんとかしてここから出なきゃ……!)

 ドアノブを回すとやはり、鍵がかかっていて出られない。
 窓を確認すると、なにやら膠のようなもので目張りされていてあかない。
 ガラスを割ろうにも、投げつけられそうな道具が何もない。
 あるのはベッドと布、カーテン。
 床や壁の木材を壊すにも、やはりこれにも道具がない。

(確かさっき、王族にしか使えない亜空間っていっていたわね。だとすると、シュトラスの魔法の可能性もある。わたしがいなくなったことはきっとセレンディアスがシュトラスに伝えてくれるはず。そうしたらきっと、シュトラスがなにか気が付いてくれるかも)

                                                                                                           一縷の望みに掛けながら奈々江は監禁生活に甘んじた。
 亜空間の中ではどうやら日が昇ったり落ちたりということがないらしく、時間の経過がわからない。
 食事だけが、唯一の時間経過を測る物差しだった。
 状況が変わらないまま、すでに七回の食事を運ばれた。
 単純に計算すれば、ここへきて三日経ったことになる。

「ナナエ皇女殿下……、ど、どうか一口だけでも召しあがってください……」
「ゾーイ、お願いだから、わたしに火をちょうだい」
「そ、それはできないんです……。私にはどうしても……」

 太陽のエレスチャル効果を持ってしても、ゾーイはなかなかうんと言ってくれない。
 グレナンデスになにかしらの強制的な意志、あるいは魔法を与えられているのかもしれない。

「あの、どうかスープだけでも……」
「……」

 奈々江は食事に口をつけなかった。
 魔法薬がある以上、口からなにかを摂取するのは恐らくまずい。
 料理はゾーイが作っているらしく、パンとスープ、それから簡単な卵料理や肉料理が出た。
 正直空腹は辛かったが、まだ我慢できる。
 最低限の水だけは摂取しているが、この水ですら何か入れられたら終わりだ。

(このままではらちが明かないわ。
 ゲージを確認すれば、太陽のエレスチャルがゾーイに効いているのは明らかなのに、ゾーイは私のお願いを聞けない状態にいる。
 でも一体どうすればいいの?)

 緊張と焦りと疲労の中で、奈々江はつかの間の眠りについた。
 しばらくたったころ、額になにかを感じてはっと目が覚めた。
 目の前に、グレナンデスが立っていた。

「いやあっ!」

 思わず叫んでいた。
 グレナンデスは髭を剃り落とし、それなりの格好をしていたが、以前の王子然とした姿とは程遠かった。
 触られたところに嫌悪を感じ、ぞっとした。

「熱でもあるかのと……」

 毛布をかき寄せてグレナンデスから離れるように身を固くする奈々江。
 グレナンデスは差し出した手を所在なさげに引き下げた。
 後にはゾーイが心配そうに立っていた。

「熱はありません。平気よ。……わたしに構わないで」
「でも、なにも食べていないではありませんか、ナナエ姫」
「こんな状況でまともな神経をしていたら食べられるわけありません。早くわたしをここから出してください」
「ゾーイの子を認めて下さったらすぐにでも出して差し上げます」
「……ゾーイさんとその子どものことはおふたりで決めたらいいと思います。わたしには関係のないことです」
「では、ゾーイとともに我がグランディア王家にお輿入れくださるということですね?」
「わたしはあなたと結婚しません」
「えっ、どうしてですか?」

 あまりに間の抜けた返事に奈々江は顔をゆがめた。

「あなたへの気持ちが冷めたんです。あなたへの思いは私の中にもう少しもありません」
「そんな、ナナエ姫……」

 グレナンデスがじりっと距離を詰めてくる。
 奈々江はこれ以上下がれないというところまで後ろに下がった。
 もはや、精神的にも生理的にも無理だとはっきりわかった。

「私はこんなにもあなたのことを想っているのに……。
 ふたりで過ごしたあの時間をお忘れですか?
 あのとき、私たちの間には確かな思いの結晶があったはずです」
(今さら言っても仕方ないけど……)

 奈々江の中の思いがつい口に出る。

「だったら、どうしてゾーイさんと? 確かな思いだというのなら、どうしてですか?
 わたしには理解できません」

 グレナンデスの瞳が揺れた。

「そ、そんな……。あなたに見離されたら、私は……。どうしたら許していただけるのでしょう?
 ゾーイとのことはいっときの気の迷いです。私が心から本当に愛しているのは、あなただけなのです!」
「それならそうと堂々と申し開きなさればいいのでは? 両国と公の目がそれを判断してくれるはずです。
 わたしを閉じ込めて、あなたはどうしようというのですか?」
「そ、それは……。私にも立場があります。
 古くからの友好国から姫を押し頂くにあたっては保つべき礼節というものがあります。
 ですから第一妃となるナナエ姫にゾーイと子を認めてさえいただければ、なにごとも問題なく収まると思うのです」
(それって結局、保身のためってことよね……。なんで、この人こんな浅はかなの?
 ゲームではこんなキャラじゃなかったはずだけど……。
 ていうか、シナリオといろんなことが変わりすぎて、もはやシナリオ通りのキャラクターを求めること自体無理ってこと?
 今更もうグレナンデスとどうにかなろうなんて思えないよ。
 本当に、口にするだけ無駄だった……)

 呆れて黙っていると、グレナンデスがまた距離を詰めてきた。
 ぎくっとして身を固くすると、グレナンデスが訴えるような目を向けてくる。

「あなたがお許しになってくださればそれで丸く収まるのです」
「こんなことまでして、丸く収まると本気で思っているんですか? これは外交問題です」
「でも、あなたが私の味方になってくれたらすべては丸く収まる」
「そんなわけないでしょ……!」

 思わず首を左右に振った。
 そのとき、グレナンデスがさらに距離を詰めてきた。
 しかも手を伸ばし、今にも触れんとばかりに。

「こっ、来ないで、触らないで!」
「あなたの嫌がることはしません。
 でも、あなたが私にそれを望むのであれば、それは違いますよね」

 グレナンデスが奈々江の首から下がっているチェーンを見た。

(え、まさか……)

 グレナンデスが静かに、でも明らかに、にやと笑った。

「無理矢理それを奪ってもいいのですが、私もできるだけ穏便に行きたいのです」
(まさか、シュトラスから太陽のエレスチャルのことを……?)
「もうしばらく考える時間を差し上げます。
 心配はいりません。私たちはきっとうまくいきますよ」

 グレナンデスが部屋を出ていき、その後をゾーイがためらいながら出て行った。

(太陽のエレスチャルのことがばれてる……。
 これを盗られたら、どうなるの?
 今度はわたしがグレナンデスに一目惚れしてしまうってこと?
 ……そんなの絶対にやだ!)

 考えるだけでぞっとする。
 精神的にも体力的にも厳しいというのに、太陽のエレスチャルを奪われたら完全に奈々江は詰む。
 いや、両想いになるという目的だけなら、ある意味達成できるのかもしれないが、こんな不本意な達成の仕方があるだろうか。
 奈々江が知る限り、最低最悪の乙女ゲームだ。

(なんとか、なんとか外に連絡しないと。時間がないわ……!
 だけど、どうしたらいいの? 紙はあるけど書くものがない。スモークグラムに火をつけるにも火の魔法陣がいる……。
 ああ、どうしてわたしには魔法陣しか書けないの……!)

 さらわれたとき、ペンとインクを使っていたことが運が悪すぎる。
 今あるものは、紙、スモークグラム、太陽のエレスチャル。
 奈々江は置いてある食事の入ったトレーを見た。
 インクでなくても、せめて色がはっきりとしたものがあれば。
 水やスープでは色が薄すぎる。
 せめて果実のジュースやお茶だったら、なんとか魔法陣が書けるかもしれない。

(そうよ、せめてお茶を出してもらえないか、ゾーイに頼んでみよう……)

 次の食事が運ばれてきたとき、奈々江はそれとなく話をしてみる。

「また何もお召し上がりにならなかったのですね……」
「わたし、実は水があまり好きじゃないの。お茶はないの?」
「す、すみません……。下には用意がなくて……」
「果実のジュースも?」
「は、はい、すみません……。グレナンデス殿下にお願いしてみましょうか……?」
(それだと、なんとなく感づかれそうな気がする……。どうしよう……)
「いえ、だったらいいの……」

 ゾーイが気つかわし気にトレーを交換する。

(どうしたらいいのか……。お茶がだめなら、ゾーイと仲良くなってなにか書くものをもらえるようになんとか話してみなきゃ)
「……ねえ、ゾーイ。どうしてあなたはそこまでグレナンデスのいうことを聞くの?
 こんなこと普通許されるはずがないって、あなたにもわかるでしょう?」
「それは……」
「確かにわたしは以前グレナンデス殿下ともっと親しくなりたいと思ったことがあったわ。
 でも今はそんな気持ちはまったくないの。
 わたしはあなたやあなたの子どものことをとやかく言う気はないし、あなたを罪に問うつもりもないわ」
「……」
「あなたはグレナンデス殿下を愛しているの?」

 ゾーイはなにも口にせず、わずかに下を向く。

「それとも、なにか理由があるの?」

 ゾーイがはっとしたように瞳を揺らした。

「ナナエ皇女殿下……、皇女様……。私……、私の祖父と弟が……」

 ゾーイは唇を震わせた。
 絞り出した小声で、ゾーイは黙っていうことを聞かないと、家族とは二度と会えないと脅されていると口にした。

「本当は、なにも言うなといわれているんです……。
 でも、皇女様を見たとき、どうしてか、私どうにか皇女様を助けなきゃと思って……。
 だけど、私どうしたらいいのかわからないんです……。
 ここは魔法で作られた空間で、わたしにはどうやって出るのかもわからないし……」
「そうだったの……。よく話してくれたわ、ゾーイ」

 それが本当なら、グレナンデスは最低なクズ男だ。
 ぽろぽろと涙をこぼすゾーイの背中を撫でながら、奈々江は眉間にしわを寄せた。

「皇女様、私どうしたら……」
「心配しないで、ゾーイ。こんなこときっと長くは続かない。きっと助けが来るはずよ……」
「何か方法があるんですか?」
「それは……」
「私、祖父と弟のためなら、火を持ってきます」
「本当に……!?」

 乱暴に涙を拭いて、ゾーイが立ち上がった。

「今取ってきますね」
「ありがとうゾーイ、これでスモークグラムが焚けるわ」

 ゾーイがパタパタと駆け足で下へ降りていく。
 そしてすぐに部屋に戻ってきた。

「皇女様、お待たせしました!」

 振り向いたとき、奈々江の顔は引きつった。
 燃え差しを手にしたゾーイのすぐ後ろに、グレナンデスが立っていたからだった。

「ゾーイ、なにをしている」
「ひっ!」

 グレナンデスが素早く燃えさしを叩き落とし、足で踏みつけた。
 ゾーイの表情が一瞬で凍り付いた。

「お、……お許しを……」
「残念だよ、ゾーイ。約束は約束だ」
「ま、待ってください!」
「ま、待って、グレナンデス!」

 思わず奈々江も声を上げていた。
 グレナンデスがにこりと笑った。

「どうかなさいましたか、ナナエ姫」
「やめて、ゾーイの家族に手を出さないで」
「ナナエ姫のお願いなら聞いてあげたいところですが、無条件には出来かねますね」

 奈々江の顔が引きつった。

(太陽のエレスチャルを寄こせってこと……?)
「スモークグラムを回収させていただきます」
(はあ……、そっち……)

 今にも泣き出しそうなゾーイを横目に、奈々江はエアリアルポケットからスモークグラムを取り出して渡した。

「スモークグラムはこれだけですか?」
「……ええ」
「他に何をお持ちなんですか?」
「……」
「まあいいでしょう。いざとなれば、エアリアルとの契約を強制的に破棄させることもできますからね」
(そ、そうなの……? いつでもとどめをさせるっていいたいわけね……)

 スモークグラムを受け取ったグレナンデスが、それを鼻に寄せた。

「すう……はあ……、これがナナエ姫の香りなのですね。素晴らしくよい香りです」
(き、きも……っ! もう、無理! 絶対無理!)

 寒気がして思わず腕をさすった。
 もはや一秒だってここにいたくない。
 グレナンデスが、ゾーイの腕を掴んだ。

「ナナエ姫はどうぞゆっくりとなさってください。
 私はこれから少しばかりしつけをしなくてはいけませんので」

 青い顔のゾーイが手を引かれて部屋を出て行った。

(し、しつけ……!? ゾーイに何をするつもりなの!?)

 思わずドアに駆け寄ったが、閉ざされたドアからは再び施錠の音が響いた。

(どうしよう、このままじゃゾーイもゾーイの家族も……!
 でも、どうしたら……)

 思わず奈々江は残った燃えさしを握りしめていた。

「これで魔法陣が書ければ……」

 エアリアルポケットから取り出した紙に燃えさしをこすりつけてみたが、陣をかけるほどに木炭はなかった。
 奈々江はもう一度辺りを見わたした。
 トレーの中には新しいスープとパン、卵料理がある。

「そうだ……! なにか尖ったものがあれば、血で書けるのに……」

 もはや自分でもぞっとしないでもないが、自分の血を使えば魔法陣を書くことができる。
 ナイフかフォークがあればよかったが、カトラリーはスプーンだけ。
 奈々江はだめもとで指に嚙みついてみたが、恐怖と痛みで嚙み切れない。
 やはり、なにか刃物でないと無理だと悟る。

(そうだ、このお皿、陶器でできてる……!)

 奈々江は皿の料理をトレーに移すと、壁に投げつけようと構えた。

(待って、音が……。そうだ、このシーツでくるんで……)

 シーツで皿を包み、壁に叩きつけた。
 それなりに音はしたが、破片が飛び散ることもなく、皿はくだけた。
 その中の手ごろなサイズのものを拾い上げ、奈々江は人差し指に押し付けた。

(痛っつ……!)

 痛みと同時に、指先に赤い筋が浮かぶ。
 すかさず、用意しておいた紙に魔法陣をかいた。
 予想してはいたがペンで書くようにはうまく書けず、また細かく書くこともできない。
 思ったよりも集中力がいり、書き上げるだけでかなり疲労した。
 まずは、ブランシュあてに映像と音声を伝える魔法陣。
 奈々江は小さくライトオンを唱えた。

「ブランシュお兄様、わたしです。奈々江です。
 今、グレナンデス殿下に海辺の小屋という亜空間に監禁されています。
 ゾーイという女性が一緒です。
 グレナンデス殿下の話では、ここは王家の限られた人しか使えないということでした。
 助けてください、お兄様……」

 ずきずきと痛む指を止血しながら訴えた。
 グレナンデスの不実、シュトラスからグレナンデスにあらゆる情報が流れていること、太陽のエレスチャルさえも奪おうとしていることを詳細に送った。
 ゾーイの家族に保護が必要なことも伝えた。
 セレンディアスは奈々江に対し忠誠を誓ってくれているが、こうなった以上呪いの仲間だとはいえ、もはやシュトラスはどっちにつくかわからない。
 セレンディアスにはそれも踏まえて、ブランシュとともに行動してくれるように通信魔法を送った。

(もはや隠し立てしていたことを全てすっかり告白してしまったわね……。
 帰ったらブランシュに怒られるのは必至ね……。
 密かにシュトラスと通じていたことや、太陽のエレスチャルを取り出せていたことを黙っていたこと。
 とくに、シュトラスの亜空間魔法で国境を超えられることを黙っていたこと。それにグレナンデスとのことをあきらめていなかったこと。
 今から考えただけでも気が重いわ……。
 だけど、このままグレナンデスに監禁されるよりむどまし。なにより、ゾーイたちの身が危ないわ)

 亜空間から無事に通信魔法が届いていればいいが、もし届いてなければ、別の魔法陣で何度か試してみることになるだろう。

(それまで何回指を切らなきゃいけないんだろう。
 ……あ、血が止まらないうちに、治癒の魔法陣も書いておかなきゃ)

 奈々江はもう一枚の紙に魔法陣をかいた。

(あっ、そうか、小さな傷を作る攻撃の魔法陣も書いたほうがいいわね。
 割れたお皿を回収されたら終わりだもの)

 次の紙には風の攻撃の魔法陣をかいた。
 魔法陣をたった数枚書いただけなのに、奈々江はやけに疲労感を感じた。

(食事もとっていないし、あまり眠れていないせいかしら……。
 あといくつか違う魔法陣も書きたいけど、力が湧いてこないわ……。
 っていうか、攻撃魔法であのドアを破壊して逃げるっていう手もあるよね……。
 ……いやでも、わたしの魔力量じゃそれほどの威力は望めないし、グレナンデスと戦って勝てるだけの経験も戦闘技術もわたしにあると思えない……。
 となると、やっぱりなんとか助けを呼ぶしかない。それだって、魔力の使い過ぎには気を付けなきゃ。
 魔力感度が低いから、突然また魔力切れを起こしてしまうかもしれないわ……。
 そうなったら本当に今度こそ無抵抗になってしまうわ。
 だけど、助けが来るまでに、ゾーイやゾーイの家族は無事でいられるかどうか……)

 不安な心地のまま、奈々江は待った。
 時がたち、足音が響いてきた。
 鍵が開き、ドアが開いたとき、そこには青い顔をしたゾーイが新しい食事を持って立っていた。

「ゾーイ、大丈夫だった? なにかされたの?」
「い、いえ……。ど、どうか、お食事を……」

 トレーを交換するゾーイの腕に、強く握られたようなあとがあった。

「ゾーイ、その腕……」

 ゾーイが怯えたように首を横に振った。
 口を真一文字に結んでいる。
 グレナンデスから何もしゃべるなと改めて強く強要されているのだろう。
 奈々江の体の奥から、怒りが湧いてきた。

(なんてやつなの……。人を抵抗できない状況に陥れて、心も体も傷つけるなんて……!)

 奈々江はすかさずエアリアルポケットから回復の魔法陣を取り出し、ゾーイに触れさせてライトオンを唱えた。
 ゾーイの腕にあったあざが見る間に消えていく。
 ゾーイがその効果と、血で書かれた魔法陣、そして奈々江を見比べて驚きを浮かべた。

「ナ、ナナエ皇女様……」
「ゾーイ、辛いと思うけれど、あきらめないで。
 わたし、なんと助けに来てもらえるよう頑張ってみるわ。
 あなたの家族のことも保護してもらえるように。
 わたしは魔力が弱くて、これくらいのことしかできないけれど、きっとわたしたちは助かるから」
「皇女様、私……」
「なにも言わなくていいの。あなたはなにも言っていない。
 わたしは大丈夫よ。だから、あなたも心を強く持って」
「は、はい……」

 ゾーイが目に涙を浮かべてうなづき、部屋を出て行った。

(身重の体なのに、こんな状態ではゾーイと赤ちゃんにもいいはずないわ……。
 もう一度、ブランシュとセレンディアスに通信魔法を……)

 そのとき、ふと頭に浮かんだのはシュトラスだった。

(シュトラスならきっと、この亜空間魔法を解く方法を知っている気がする……。
 だけど、呪いの仲間と血を分けた兄弟だったら、どっちが大事かしら……。
 これはもはや国交が破綻するくらいの大問題。
 シュトラスの気持ちはどうあれ、グレナンデス側に立つしかないかもしれない。
 セレンディアスはシュトラスから亜空間魔法を使うことを許されているけれど、国と国とが対立したとすれば、セレンディアスではもう亜空間魔法を使うことはできないかもしれない。
 となると、やっぱりブランシュとセレンディアスがここへ来ることは難しい……?
 やっぱり自力で抜け出す方法も考えないと。
 やったことないけれど、わたしに亜空間転移の魔法陣が書けるかしら……)

 奈々江はこれまで学び、目にしてきた魔法陣を思い出すように目を閉じた。

(ファルコンの羽根で使う転移魔法を基礎として、不特定の亜空間から、エレンデュラ王国の王宮へ。
 この海辺の小屋を出発点Aとして、景朴の離宮を目的地Bとする……。
 複数の空間を経由して目的地Bへ行くと考えたときに、魔法として考えられる方法は……。
 そうよ、まずは、亜空間から亜空間に移動。
 それも、わたしが行ったことのある場所に。いつもシュトラスと会うあの大海の小船。
 あの小船に行ければ、旧イェクレール聖堂に出ることができる。
 少なくとも、そのルートがあることはすでにわかっているんだから……!)

 奈々江は頭の中で、出発点A、中継点C、目的地Bとして、その間のルートを魔法陣でどう描くかを考えた。
 しかも、海辺の小屋がシュトラスの作ったものだとしたら、AとCのつながりは確実性の高いものになる。

(そうよ、考えるのよ……。いままでこの世界で学んできたことを総動員して)

 その日から、奈々江は亜空間転移の魔法陣について寝るとき以外はひたすら考えた。
 ゾーイが定期的に運んでくる食事にはやはり手を付けなかったが、思ってみれば夢の中なのだから、食べなくても平気なのだ。
 それに気づいたら、空腹も喉の渇きもなくなったような気がする。
 度々グレナンデスが部屋を訪ねてきたが、思ったよりも奈々江がくじけていないので、驚いたくらいだった。
 運ばれてきた食事が通算三十回を超えたころ、奈々江はようやく一枚の魔法陣を書きあげた。
 書き上げたといっても、かなり複雑な魔法陣を血で書くには一枚の紙では足らず、六枚の紙をつなぎ合わせて書き上げた。
 残った紙はたったの二枚。
 これが失敗したら、もはや助けを待つしか方法はない。

(ようやくできたわ……。血で書くせいか、それなりに体力を奪われたわね……。
 回復魔法でもだるさが抜けないわ……。
 でも、これが間違いなく成功すれば、わたしは景朴の離宮にいるはずよ……)

 そのとき、足音がしてドアの鍵が開く音がした。
 奈々江は慌ててエアリアルポケットに魔法陣を隠した。
 グレナンデスと新しい食事を手にしたゾーイだった。

「ナナエ姫、ご機嫌はいかがですか? いいかげん、私と一緒になる決意が固まったでしょうか?」

 奈々江は答えもせず、そっぽを向いた。

「あなたはまだ助けが来ることを期待しているようですが、助けなど来ませんよ。
 ここへ来れるはずがありません。
 あなたもご存じかと思いますが、我が弟シュトラスは亜空間魔法が大変得意でして、ここは今だかつてどんな魔導師も足を踏み入れたことはありません。
 作った本人ですら、今は手出しができなのですから」
(やっぱり、シュトラスが作った空間だったのね……。本人ですら手出しができないって、どういう意味なの? 王家の権限がそうさせているっていうことかしら。それとも、そういう制約でもあるの?
 もう少し詳しく聞きたい……。でも、もう魔法陣はできているし、紙にも余裕がない……。
 だめもとでも一度やってみるしかないわ……)

 考えに耽っている間に、グレナンデスがすぐ後ろに来ていた。
 驚いて身を引くと同時に、グレナンデスがずいっと顔を寄せてきた。

「正直、あなたにここまでの胆力があったとは驚きです。
 初めてお会いした時のあなたは、神経が細く雛鳥のように頼りなくて、私がこの手で守って差し上げねばとさえ思っていましたが、意外と強情なのですね。
 しかし、時が経てばたつほど消耗して不利になるのはあなただけですよ。
 なぜだかわかりますか?」
(……な、なんなの……?)
「この亜空間には時間が流れていないのですから」
「えっ?」

 思わず声を上げた。
 グレナンデスが柔和な、だが不穏のにじむ笑みを見せた。

「驚きましたか? そうなのです。正確には、この空間の時間と現実の時間は極めて大きな差があるのです。
 あなたはもうここで十日以上監禁されているとお考えでしょうが、現実ではものの数分しかたっていません」
(そ、そんな……?)
「あなたはあと数日したら、あと数か月したら、助けが来るかもしれないと考えているかもしれません。
 残念ですが、現実世界ではまだあなたが消えてたったの数分しかたっていないのです。
 あなたの居場所がわかるまでどれくらいの時間がかかるでしょうね?
 場所がわかったとして、助けに来るまでどれくらいのときが必要でしょうか?
 そして、どうやったらこの場所まで救助に来られるでしょう?
 それまであなたは持ちこたえられますか?
 私は最悪あなたさえ側においておければそれで構いません。
 こうしてときどきあなたの顔を見に来れるだけでも、私は幸せなのです」

 背筋が冷える。
 奈々江は戦慄に唇を震わせた。

(なんなのこいつ、狂ってる……!)
「無駄な抵抗だとわかったら、早く私との結婚を了承してください。
 グランティア王国で盛大な式を挙げましょう」
「……」
「……まあ、急ぐ必要はありません。私のほうはね。ナナエ姫は少し急いだ方がいいかもしれませんが」
「……」
「とにかく、少しはお食事をなさってください。少し顔色が悪いですね、心配ですから」

 グレナンデスが手を差し伸べてきたので、奈々江は強く拒否の態度を取った。
 ふっとグレナンデスが笑い、ゾーイに視線をやった。
 ゾーイがトレーを交換する。
 奈々江はそれを見ながら、低く声を上げた。

「ひとりでは食べられないわ」

 グレナンデスとゾーイが奈々江を見た。

「ひとりじゃ食べる気がしないの。ゾーイ、あなたも食事がまだなら、一緒に食べて……」

 ゾーイが奈々江からグレナンデスに視線を移す。
 グレナンデスがうなづいたので、ゾーイが軽く頭を下げた。

「……わ、わかりました。ただ今」

 ゾーイが下に駆け下りていき、すぐに自分のトレーを持って戻ってきた。

「よい傾向です。しっかりと食事をとってよく休んでください。
 夕食は私と一緒にとりましょう、ナナエ姫。
 ゾーイ、私は下にいるから、食事が終わったら、ドアを三回叩きなさい」
「は、はい……」
「……」

 グレナンデスがそう言い残し、部屋を出ると鍵を閉めた。
 足音が離れていくのを待って、奈々江はゾーイを見た。

「ゾーイ、それを置いて、ここへ来て」
「ナ、ナナエ皇女様……」

 奈々江は素早くエアリアルポケットから紙を取り出し、六枚を並べた。

「皇女様、これは……っ!?」
「亜空間転移の魔法陣よ。うまくできているかわからないけれど、あなたはここに手を置いて。私はここ。離れないように手をつなぎましょう」
「皇女様、そんな、これは……」

 不安な眼差しのゾーイに奈々江は強い瞳を投げる。

「心配しないでといいたいところだけれど、正直わたしもこの魔法陣が成功するかどうかわからないわ。
 だけど、このまま何もしないでいるわけにはいかないわ。
 グレナンデスの話が本当なら、わたしたちが囚われていることすら外の人たちはいまだに知らないでいるかもしれない。
 一緒にいってくれるわね、ゾーイ?」
「で、ですけど、これは血で……、ナナエ皇女様の血で書かれているのでは……?」
「そうよ。それ以外に書くものがなくて。見た目はおどろおどろしいけれど、危ない魔法は入ってないわ」
「そ、そうではありません! 血で魔法陣書くのは禁忌ではありませんか!」
「えっ……?」
「術者の血を使って行う魔法は、威力が強まります。それは、術者の命を削るからです。
 皇女様の命を削るなんて、そんな……!」
(えっ、え……? なにその設定、初耳なんだけど……)

 奈々江が目を丸くしていると、ゾーイが自分の腕をまくった。

「私もさほど魔力はありませんが、私の血を使ってください! 皇女様のお命で、私のような者の命を救うなんて、あってはならないことです!」
(え、ええ……。じゃあ、その設定は本当なの……? でも、もう紙がないし、魔法陣を書くには時間がかかる。
 グレナンデスが下で待っている以上、時間はかけられない)
「ゾーイ、時間がないから、このままいくわ」
「お、皇女様……!」
「ゾーイ、あなたのその気持ちだけもらっておくわ。
 それに、あなたの命よりわたしの命のほうが尊いなんて誰が決めたの?
 あなたのお腹には赤ちゃんがいるんでしょう?」
「……は、はい……」
「だったら、その子のためにも、外であなたの帰りを待つ家族のためにも、帰らなくちゃ。さあ、手を」
「……はっ、はい!」
「ライトオン!」

 呪文と同時に、血で書かれた魔法陣が光を帯びる。
 奈々江は体から強くなにかが引き出されて行くのを感じた。
 まるで、体ごと引き寄せられるかのような引力。
 魔力が魔法陣に吸い込まれているのだ。
 あっという間に強い光が奈々江とゾーイを包んだ。
 奈々江はぎゅっと目を閉じると同時に、ゾーイの手を強く握りしめた。

(お願い、次に目を開けたとき、景朴の離宮でありますように……!)


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