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#78、 還俗と戦慄
しおりを挟むトラバットの忠告に心を乱されながらも時は過ぎ、エレンデュラ王国では、謎の音楽家エックスの正体がライスだということが公表された。
このニュースは貴族界を大いににぎわせた。
奈々江はこの日のために、謎の音楽家エックス用の曲を何曲も提供し、フェリペとライスはその記譜に注力した。
貴族界に受け入れられやすいとわかった曲調を選んだおかげで、ライスの評判は塗り替わり、ライスを還俗させるという話も大きな混乱はなく円滑に進められた。
ライスは王都からさほど離れていない王家直轄の地に立つ別荘屋敷に住まうことになり、その世話役としてフェリペを帯同させることになった。
ロカマディオール修道院を発つその日、ブランシュとともに奈々江もその場に立ち会うことになった。
フェリペに預けた楽譜はかなりの量となっており、厳重に梱包されている。
その荷物ひとつひとつにフェリペ自身にが番号を張り付け、順番どおりに丁重に積み込むようにと気を配っていた。
ライスの荷物はほとんどなく、手にはバイオリンのケースを持っているだけだった。
「ライスの荷物はそれだけ?」
「はい。あとはナナエ殿下から頂いた魔法陣がここに」
ライスが胸に手をやった。
「その魔法陣ももう用済みね。今日まで何事もなくてよかったわ」
「いえ、引き続き私は魔法を使う事は禁じられていますから、このままこれの所持をお許しいただきたいと存じます」
「あ、そうなの……? そう、まだ全部が許されたわけじゃないのね」
「はい。ブランシュ殿下からはいずれは王籍に復活させてくださるとは聞いておりますが、そこまでにはまだ程遠いのです。
これから一つずつ信頼を取り戻していきたいと考えます」
「ライスならきっと大丈夫だよ」
ライスもこくりとうなづいた。
奈々江はそっと身を寄せると、ライスに耳打ちした。
「それはそうと、ブランシュお兄様にフェリペさんのことは話せた?」
「そ、それがまだ……」
「でも、多分ブランシュお兄様も気づいているっぽいわよ?」
「そうなのです……。でも、ブランシュ殿下からはまだなにも……」
「どうやって話を切り出したらいいかわからないのね、お互いに……」
「……はい」
ライスが困ったようにため息をついた。
ブランシュを見ると、ちらちらと必要以上にライスとフェリペに目配せしているのがわかる。
口にしたいのにできないのは明らかだ。
「でも、これからいくらでも時間はあるし、屋敷なら人の目も気にしなくて済むし、いくらでも話す機会はあるわよ」
「で、ですが、フェリペがブランシュ殿下のお眼鏡にかなわなかったら……」
「そんなの関係ないじゃない。だって、二人は想い合っているんでしょ?」
「そうですが、でもどっちかというと、私が七で、フェリペが三といいますか……」
「えっ? ……それってつまり、好きの度合いがってこと?」
「はい。フェリペはまだ私をそこまでは……、フェリペにとって一番は音楽なので……」
「……う、うーん……」
ライスのいう割合では、ブランシュを納得させるのは難しいかもしれない。
なにせ、ブランシュは自分よりも劣った男に大切な弟を譲る気はないのである。
なにをどう計って自分より劣っていないことを証明するのかは不明だが、七対三ではどうにも気持ちの部分ですでに負けているような気がする。
「そ、それはなんとなく、難しいかもしれないわね……」
「ですので、私もどうしたらいいか悩んでいるのです……」
「フェリペにいっても……難しそうよね……」
「はい……」
奈々江はしばらく考えを巡らせた。
(人の思いまではどうしようもないし……。
かといって、この状態でブランシュに打ち明けたとして、ブランシュが許さなかったら、ひよっとして二人は離れ離れにさせられちゃうかも……。
この期に及んで、それはないよ……。
でも、どうしたら……。あっ……!)
小さなひらめきをもう一度奈々江は言葉にしながら思い描いてみた。
「ねえ、ライス。もしかしてなんだけど、あなたが持っている魔法陣につけたしたらどうかしら?」
「なにをですか?」
「例えば、そうね……、あなたの打ち明け話には誰もが共感する、とか」
「えっ!?」
「もしそんなふうに魔法陣を書けたら、ブランシュお兄様もスムーズに理解してくれるんじゃない?」
「ナナエ殿下、そんな魔法陣が書けるのですか?」
「書いたことはないけど、書けないこともないと思う。
上手くいくかどうかはわからないけど、ないよりはいいかも……」
少しの間を挟んで、ライスが胸元から魔法陣を取り出した。
「お、お願いします」
「やってみるわね」
魔法陣を受け取っていると、なぜか向こうからブランシュがやってきた。
「ふたりでなにをこそこそやっているんだ?」
「なっ、なんでもありません」
「別にこそこそとなんてしていませんわ。わたし、ちょっとあちらに用がありますの」
「ナナエ、どこへ行く」
奈々江はライスに目配せした。
(ライス、ブランシュを足止めして!)
察したライスがブランシュの腕をぐっとつかんだ。
「じ、実は、ブランシュ殿下に折り入ってお話が……」
「む、なんだ?」
(ナイス、ライス!)
奈々江はすばやく礼拝堂の奥の部屋に滑り込んだ。
部屋の前にはラリッサとメローナを立たせた。
「ブランシュお兄様が入ってこないように見張っていてね!」
「えっ、ナナエ姫様をおひとりにするわけには……」
「大丈夫、すぐ済むから!」
二人を残してパタンとドアを閉めた。
入ったことのない部屋だったが、どうやら部屋はいくつか続いていて、一番奥の部屋に行くと、執務用の机があった。
そこへ掛けると、ナナエはすばやくエアリアルポケットからペンとインクを取り出した。
「えっと、ライスの話す内容に、聞き手は共感して、理解してくれるんだから……。
書き出しはこうよね……」
魔法陣に追加して線を書き込んでいく。
現実世界ではプログラミングを構築し、この世界ではEボックスやEドミノのために何百と何千と魔法陣を構成し書いてきた奈々江には、例え精神的な効果をもたらす魔法陣でも、物理的な効果をもたらすものとさほど違いはない。
Eドミノを作る段階で人の聴覚だけでなく、精神に働きかける魔法陣の書き方についてをかなり勉強したからだ。
「ライスが、話す、言語、内容、感情……。これが、聞き手、聞く、言語、内容……」
「ナナエ姫」
「感情、共感、理解……。あとは、思いやり、納得、配慮、優しさ……」
「ナナエ姫」
「えっ?」
はっとして奈々江は顔を上げた。
目の前に、修道依とそのローブを目深にかぶった、修道士が立っていた。
「あっ、あの、勝手にはいってごめんなさい。すぐ済むわ」
再び視線を魔法陣に下したとき、いきなりペンを持つ手首をぐっとつかまれた。
「えっ」
「待っていました、あなた様がおひとりになる瞬間を」
暗いフードの奥から射すくめられ、奈々江は一瞬で固まった。
(この視線だ)
奈々江にははっきりとわかった。
これまで、修道院に来るたびに感じていた視線。
あれは、この男のものだ。
捕まれた手から伝わる温度、湿度、重さに、奈々江は戦慄した。
「だ、誰かっ……! むぐっ!」
次の瞬間、奈々江は口を押えられ、羽交い絞めにされていた。
何が起こったのかを理解する間もなく、男が転移の呪文を唱えたのがわかった。
奈々江が一人になったほんのわずかな間の事だった。
ラリッサとメローナがドアを開けたとき、そこには書きかけの魔法陣と、奈々江のペンとインクだけが残されているだけだった。
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