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#61、 母を思う*

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 景朴の離宮の食堂で、母と娘が向き合って朝食をとっている。

「ナナエ、今日はどんな予定?」
「午前はツイファー教授からいただいた宿題をして、午後はそれについてセレンディアスとともに研究してみよう思っていますわ」
「では、午後の予定はそのままにして、午前はダンスの練習をしましょう」
「えっ」
「昨日いったでしょう? 次からはあなたも社交界でダンスの誘いを少しずつ受けていかなければ」
(あ、ああ~……そういえば)
「わかりましたわ……」
「あれだけの音楽を作れるあなただもの、きっとすぐにステップを覚えられるわ」
(ど、どうかなあ……。スポーツにはそんなに苦手意識を持ってはいないつもりだけど、ダンス経験は運動会のときにやった集団ダンスとキャンプファイヤーのときだけかも)

 食事の後、開いている一室の家具を端に寄せて急場の練習場が作られた。

「あら、セレンディアスがいるならダンスのお相手にちょうどいいと思っていたのに」

 基本的に景朴の離宮に男性の使用人はいない。
 セレンディアスには今用事を言い渡しているので、呼び出すことはできなかった。

(グレナンデスの様子を見に行ってもらっているのよね。それに、シュトラスにも報告して相談してきてもらうように)
「わたくしが男性役をいたしますわ。従妹同士でかわるがわる練習しておりましたから」

 ラリッサが手を上げてくれたので、早速練習が始まった。

「まずは簡単なワルツからですわ。ワンツスリー、ワンツスリーと体を揺らすところから始めましょう」

 メローナが手と声とで拍子を取る。
 ラリッサがにこにこと笑いながら楽しそうに揺れ始めた。
 奈々江もつられてリズムに合わせて体を揺らす。

「そう、もうリズムをつかみましたね。ワンツスリー、ワンツスリー」
「ふふっ、これだけならわたしにもできるわ」
「いいですね。では今度はわたくしのまねをしてみてください。ワンツスリー、ワンツスリー」
「こう?」

 ラリッサが足を前に後ろにと、リズムに合わせてステップを踏む。
 これも真似するだけなら簡単だ。

「そう、ワンツスリー、ワンツスリー、そうです、続けて」
「ワンツースリー、ワンツースリー……」

 ラリッサがにこにこと微笑みながら、楽し気にステップを踏む。
 慣れてきたところで、ラリッサが奈々江の手と手を取った。

「今度は一緒に動いてみましょう。行きますよ、ワンツスリー、ワンツスリー」

 不思議とラリッサの誘導にのってさっと足が出た。

「ワンツスリー、ワンツスリー。そう、お上手です!」
「ワンツスリー、ワンツスリー、あはっ、わたし、踊れてる!」

 クレアが感心したようにうなづいた。

「これなら音楽があってもよさそうね」

 クレアの侍女が用意していたバイオリンを構えた。
 流れてきたのは、軽やかでシンプルな三拍子の音楽だった。
 聞いたことのない曲だったが、音楽に乗って体を動かすのは思った以上に楽しい。
 単調な動きの繰り返しというのは、心地いいものだ。
 難しいことを考える間もなく曲が終わり、心地いいままにダンスが終わった。
 ラリッサが礼をするのを真似て、奈々江もスカートをつまんで首を垂れた。
 クレアの拍手を皮切りに、全員が拍手を送ってくれた。

「感心したわ。ラリッサ、あなた教えるのが上手ね。ナナエも一度もつまずかなかったわね」
「ええ、本当に。ラリッサのいう通りにしていたら、体が勝手に動いて、気がついたら踊れていましたわ」
「恐れ入ります。わたくしは風の属性のなかでも、こういうのが得意なようなんです。おかげで従妹たちはみんなダンスが得意ですわ」
「ナナエ姫様もラリッサもすごいですわ! わたくしにもラリッサのような従姉がいれば、お父様の足の小指を折らずに済んだのに」

 そのあとも、いくつかの曲を練習したが、すべてワルツだった。

「一度にいろんなステップを覚えると混乱しますわ。
 まずは体が形を覚えるまでは同じステップを練習するのがお勧めですわ」
「思ったよりも楽しいわ、ダンスって」

 ダンスがうまくいったおかげで、練習から思いのほか早く解放された。
 部屋に戻ってからも、頭の中でまだワルツが流れている。

「なんだか、久しぶりに体を動かしたらいい気分」
「セレンディアス様がお相手だったら、きっとこううまくはいきませんでしたね」

 メローナがそういうのを、奈々江もラリッサもなんとなくうなずけた。

(そういえば、ショパンの猫のワルツをピアノ教室でわたしの前の順番のお姉さんが練習してたな。
 そのときわたしはまだバイエル40番くらいだった。
 あのときはわたしもああいうふうになれると思っていたけど)

 早々にリタイアしてしまった奈々江だが、音楽やピアノが嫌だったわけではない。
 音階やリズムがあるべきところにピタッと来るのは、数学やパズルにも似た快感があって、奈々江には面白かった。
 だが、次第にレベルが上がるにつれて、音楽の時代背景や解釈の違い、感情の乗せ方や技術の見せ方など、複雑なものが合わさってきて、奈々江が心地よかった音楽の世界が少しずつ変わっていった。

 (芸術的な感性と理論や技術のつながりをあのときのわたしには理解できなかったような気がする。ただ、ピアノの音を鳴らすのが楽しかっただけなんだよね)

 ふと考えてみたら、どうしてピアノを習い始めたのだろうと不思議に思った。

 (お母さんだ。お母さんが子どものころはよく歌ってくれてた。わたしは隣で子ども用のピアノを弾いてて、そうだ、それでお母さんがピアノを習うことを勧めてくれたんだ)

 きっかけは、母の歌と買い与えられたおもちゃのピアノ。
 今まであまり思い出すこともなかったのに、何故か急にはっきりと思い出せた。

「♪ 菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 ……」

 母が良く口にしていた朧月夜、まるで今あのころの母と一緒にいるかのように口から滑り出した。
 はっとして口をつぐむ。
 見ると、ラリッサとメローナがびっくりしたようにこちらを見ていた。
 思わず照れ隠しに笑ってしまった。

「あ、あはは……」
「今の、新しい曲ですか!?」
「しかも、歌詞が! ナナエ姫様、続きは?」
「い、いや、なんでもない。口が滑っただけ」
「聴かせてくださいませ! ナナエ姫様の新しい曲!」
「い、いや、違うよ……」
「いえ、確かに聞きました! なの花畑に、入り日薄れ……しかもワルツでしたわ!」
 (えっ! そ、そうだっけ?)

 そういわれれば朧月夜はゆったりとした三拍子だ。
 まさかワルツを踊ったせいで思い出したのだろうか。

「聴かせてくださいませ! わたくし、苦手ですけど、記譜いたしますわ!」
「じゃあ、わたしくしは歌詞を記録します!」
「や、いい、いい! 記録しないで!」
「どうしてでございますか!? いずれ資金を作るときには楽譜が必要ですわ」
「生まれたときに記録しておかなければ、きっと忘れてしまいますよ!」
(い、いや、忘れはしないと思うけど……)

「わかりました、記録しませんから歌ってくださいませ!」
「わたくしたちを一番初めの聴き手にしてくださいませ!」
「もはや初めのフレーズが頭を離れませんわ!」
「続きを聞くまで、仕事が手につきません!」
(それはいいすぎでしょ!)

 あまりにふたりが迫ってくるので、奈々江は根負けして笑ってしまった。

「わかったわ……。でも本当に記録はしないでね。
 よそで歌うのも禁止。あんまり人に聞かれたくないの」
「まあっ、ドキドキしますわ! 恋の歌ですか?」
「それは聴けばわかりますわよ、ラリッサ!」

 ふたりが揃って行儀のいい聴衆と化した。

(そんなかしこまられると、恥ずかしいな。別に歌が上手いわけでもないし)

 奈々江は、はあとため息をついて、続いてコホンと咳をした。
 人に聞かせるために歌うなんて、こども時代の音楽会の合唱と、大学時代のカラオケぐらいなものだ。

「ふたりほど歌が上手じゃないから、期待しないでね」
「大丈夫ですわ、ナナエ姫様の歌なら素晴らしいはずですもの」
「そのとおりですわ」
(うっ、勝手にハードル上げないで!)

 もう一度咳をしてから、息を吸った。

「♪ 菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し

  里わの火影も 森の色も 田中の小路を たどる人も
  蛙のなくねも かねの音も さながら霞める 朧月夜 ♪」

 歌い終わると、ふたりの侍女が銅像のように固まっていた。
 しばらくすると、融解するようにゆっくりと顔を上げ、まるで、歌の景色をそこに見ているようにうっとりとする。
 ラリッサとメローナがそろって互いの顔を見合わせた。

「見えましたわ……」
「わたくしも……」

 ふたりが互いの手をぎゅっと握りあった。

「ナナエ姫様、わたくしたちも見えましたわ、景色が、おぼろ月が……!」
「これぞ、名曲ですわ……! 今すぐ楽譜を売り出しましょう!」
「ちょっ、売らない! 売らないし、楽譜にしない! そういう約束よ!」
「でも、素晴らしい歌ですわ!」
(素晴らしいに決まってるよ! 未来にまで歌い継がれる日本の名曲だよ……!)
「こんなに美しい歌を広めないなんて、もったいないですわ! 人類の損失です!」
「それでも、今はしないの! この話はおしまい!」
(これからは下手に歌を口ずさまないように気を付けなきゃ……!
 下手に騒がれてユーディリアを刺激するようなことにはなりたくない)

 強引に終わらせてぷいっと背中を向けた。
 昨日受け取った立体魔法陣を取り出して、慌てて話しかけるなオーラをまき散らしておく。
 ラリッサとメローナが揃って残念そうなため息を吐くのが聞こえた。

(とはいえ、偽名を使って楽譜を売るっていう話も考えなきゃ……。
 組曲の売れ行きはいいみたいだけど、この後のことも考えなておかなきゃ。
 セレンディアスへのお給料の支払いが滞るなんてことになったらまずいよね。
 ええと、クラッシックは受け入れられるとわかったから、偽名でもクラッシックを……。
 いや、でも、今のラリッサとメローナの反応からしたら、日本の歌も歓迎される……?
 それに、わたしの知識と経験じゃ、クラッシックのオーケストラをきちんと再現するのは無理だし、そもそもそんなにたくさんの曲を知っているわけじゃないし……。
 あれ、これって、意外と慎重にやらないと、わたし知っている曲が枯渇しちゃうかも……。
 えっと、じゃあ、ポップスは? ロックは? ダンスミュージックは? アニメソングは? この世界に受け入れられる?
 もう一回、ラリッサとメローナに聞いてみようか……。
 でも、ふたりだとなんでも素晴らしいとかいいそうな気もするし。
 ううーん……、やっぱりザ・マスターピースみたいなものだけのほうが安全?
 ヒット曲はあり? なし? やばい、わけわかんなくなってきたかも……)


 訳がわからなくなったついでに、珍しくパズルのピースのはめ方を間違えていた。

(……わたしひとりで考えていてもらちが明かない。
 イルマラな相談してみようかな……)

 そのとき、来客を告げるメイドがやってきた。

「ブランシュ殿下がお見えです」

 ほぼ同時にブランシュが急いたように入ってきた。

「お兄様、そんなに急いでどうかされたのですか」
「すまん、ナナエ。すぐにライスに会いに行きたいのだ!」
「えっ、こんな急にですか」
「どうしてもライスに意見を聞きたいことがある!」
「それは構いませんが……」
(あ、ライスに相談するのもいいよね。祝賀会の報告もしたいし、録音した演奏を持って行ってあげよう)

 さっそくいつものスモークグラムを焚いて、訪問を知らせる。
 神官長からの返事が来たので、すかさずブロンズファルコンの羽根で飛んだ。
 修道院の前に着くと、いつものようにブルームーンラビットのケープをはおり、すでに入り口の前で待っているフェリペに挨拶をした。

「ごきげんよう、フェリペさん」
「お待ち申し上げておりました。聖礼拝堂へご案内いたします」

 ブランシュが軽く手を挙げた。

「ナナエだけ案内してくれ。
 俺はライスとふたりだけで話したい。
 機密事項もあるので、密談に適した場所を用意してほしい」
「は、承知いたしました」
(密談するほどの機密事項って、そんなに大事なことを話しに来たんだ。
 ブランシュがライスのこと重用しているってことだよね。これっていい感じ。
 ……あれ、でもブランシュがライスに用ができるたびにわたしは緊急でも面倒でも何回でもついてこなきゃいけないってこと? それって結構大変かも……)

 ブランシュが修道院の中に入っていき、奈々江はいつものように聖礼拝堂に案内された。
 いつもの静けさと温もりに満ちた礼拝堂の空間は心地はいいが、今後もこの待ちぼうけの時間がたびたびあるのだろうと思うと、いささか退屈が過ぎる。
 フェリペがお茶を出してくれた。

「ありがとう、フェリペさん。ライスの様子はどうかしら?」
「バイオリンを演奏するために頑張っています。
 最近は時折明るい表情も見受けられます」
「そうですか、よかった」

 話が途切れ、沈黙が続く。
 祝賀会での演奏を聞かせるのはライスが来てからが筋だろうから、これ以上フェリペと話すことは特にない。
 ラリッサとメローナとおしゃべりに興じるのもいいが、それはなにもここでなくていい。
 頭に浮かぶのはセレンディアスに頼んだ用件のことだ。

(セレンディアスのほうはどうかしら。グレナンデスとうまく接触で来ていたらいいけど)
「あの、ナナエ殿下……」

 珍しくフェリペのほうから話しかけてきた。

「先日は水上の音楽の楽譜を拝謁させていただくお許しを下さりありがとうございました」
「ああ、はい。そのうちライスの演奏も聞いてみたいものですわ」
「実は、ライスと共にオーケストラ用の楽譜を製作しております」
「え、ライスも一緒に?」
「はい。私が譜面を書き、ライスがパートごとに奏でて確認し合いながら作成を進めました。
 ライスが協力してくれたおかげで、編曲作業が早く進みまして、全ての編曲が完成いたしました」
「もう……!? さすがは元音楽家ですわね。それにしても、こんなに短い時間で完成なさるなんて、あなたにはすごい能力がおありなんですね」
「私など、殿下に比べれば凡夫でございます。
 して、完成した譜面にお目を通していただけないかと、ここに用意しております」

 フェリペがいったん後ろに下がり、どこからか譜面の束を取り出してきた。
 五線譜に手書きで書きこまれた音符がきれいに並んでいる。

「わ……、本当に出来ているんですね。すごい」

 アラ・ホーンパイプの楽器の編成を見て、奈々江は頭の中の音楽と比べてみる。

(イルマラが依頼した編曲家より、こっちのほうがわたしの記憶に近い感じかも……)

 ピアノ初級でリタイアしてしまった奈々江にはオーケストラの楽譜を丹念に読み解くことはできない。
 それでも、チェンバロを使っていないことや、奈々江の歌った鼻歌だけの楽譜から音楽の本質を忠実に再現しようとしたであろうと思わせられる音符の並び、さらには几帳面な書き込み方には、なんとなく再現への期待感が高まる。
 奈々江はフェリペに顔を向けた。

「これを聞いてみたいですわ」
「では、ぜひお持ち帰りください」
「え、いいのですか?」
「はい。ここにはバイオリンを除いてこれを演奏できる者はおりません」
「では……、ええと、編曲の報酬を。おいくら用意したらいいいいのかしら?」
「報酬は不要です。私はこの水上の音楽に触れられたことだけで幸せを感じております。
 この喜びをこうしてナナエ殿下にその成果をお返しできただけで、私は満足です」
「でも、まったくの無報酬というわけには……。あなたの成果にはそれだけの技術と労力が費やされているというのに」
「金や名誉が欲しいのなら、修道院へは来ていません。
 私はとうの昔に音楽に身を捧げているのです。
 神がナナエ殿下とお引き合わせくださったことを心から感謝しているのです」
「……そ、そういわれると……」

 前回の熱の入れようから想像はしていたが、フェリペは思っていた以上の音楽信奉者のようだ。
 確かに、ここまで音楽に熱心なフェリペが俗世を捨て修道院にいるというのは、お金には興味がなく、またそれによって得られるステータスにも興味がないということなのだろう。
 音楽が貴族の嗜みであり、祝賀会の時のようにあれほど熱狂的に歓迎されるものであれば、音楽は権力になる。
 いろいろと問題を抱えたアキュラスでさえ、音楽という特技があればこそ、ああして人前に出ることを許されるのだ。
 そう考えてみると、音楽を取り巻く特権階級のしがらみは、本当に純粋に音楽を求めている人にとっては煩わしいのかもしれない。

「お金はいらないというのなら、わたしはあなたになにを支払えばいいのかしら?」
「私はすでに音楽という報酬をいただいております」
(そうだわ……)

 奈々江はエアリアルポケットからツイファー教授の立体パズルを取り出した。

「それは……」
「あなたが音楽でしか報酬を受け取らないというのなら、報酬としてこれを聞かせるわ」

 いったんパズルを分解し、また組み立て直す。
 完成と同時に、チェンバロの花歌が鳴り出した。

「こ、これは!」
「ツイファー教授が録音しておいてくださったのよ。あなたの編曲とは違うでしょ?」

 フェリペの瞳が急に大きく見開かれ、音に吸い寄せられるように前のめりになった。
 自分の頭の中にある音楽との違いを確かめ、音楽そのものを理解しようとするように、一瞬ですざまじいほどの集中で音に入り込んでいる。

(う、うわ……、この人、本当に音楽に真剣なんだ……。怖いくらいだよ)

 曲が終わると、まるでなにかに操られているかのように、譜面を手に取る。
 問題の個所を探し当てると、ぶつぶつとつぶやきだした。

「ここの解釈が違う、ここはこうじゃない、タターン、タータン……」

 異様なまでの雰囲気に圧倒され、奈々江はだまってそれを見ているしかできなかった。
 しばらくすると、くるっと振り向き、フェリペが早口に告げた。

「ナナエ殿下! 教えてください!
 ここは、私とこの編曲者とどちらの解釈が正しいのですか?
 それから、ここと、ここと!まずここはクラリネットがタターン、タラーンと来て……」

 フェリペに圧倒され、奈々江は思わずか後ろに下がった。
 気付いたフェリペがはっとして、すかさずひれ伏した。

「も、申し訳ありません! 音楽のこととなるとつい……、失礼をいたしました!」

 フェリペが落ち着いてくれたので、奈々江もようやく息がつけた。

(ひえぇ……、この人、マジな人だ……。
 教えてと言われても、わたしには記憶のイメージと違うとしか言いようがない。音楽的になこと応えられないし、説明もできないんだけど……)
「あなたが熱心なのはよくわかりました……」
「申し訳ございませんでした。せっかくナナエ殿下が報酬にとお聞かせくださった音楽にケチをつけるような物言いをしてしまいました」
「いえ……、それはいいのです。実はわたしも編曲家には会ったことはありませんし、オーケストラについてはすべて任せきりだったので、祝賀会で初めて聞いたとき、思っていたのと違うなあと感じたのは確かです」
「やはり……! 差支えなければどこがどう違ったのか教えてはいただけないでしょうか?」
「え、ええと……。すみません。わたし自身音楽の経験や素養があまりなくて、どこがどうといわれても、はっきりとうまくいえないんです。頭の中で流れているものとは違うとしか……」
「そ、そうですか……」
「ご期待に沿えず申し訳ありませんわ……」
「い、いえ、そんな……」

 フェリペが実に残念そうに下を向いた。
 ラリッサとメローナが顔を見あわせ、もどかしそうに囁いた。

「いっそ、ナナエ姫様の頭の中のものをそっくりそのままフェリペさんにお聞かせできればいいのに……」
「ほんとよね……。そういう魔法はないのかしら?
 フェリペさんなら、さっきのあの歌も正しく譜面にしてもらえるに違いありませんわ」

 それをフェリペは耳ざとく聞いていて、ぱっと顔を上げた。

「さっきのあの歌とおっしゃるのは?」

 しまったというようにふたりの侍女が口に手をやったが、遅かった。
 ぎらっと目が見開き、フェリペが奈々江を見据えた。

(こっ、こわいよっ……、顔が!)
「ナナエ殿下、新しい曲をおつくりになったのですね?」
「あ、いやー……」

 奈々江が濁そうと口を開きかけたが、それよりも早くフェリペが奈々江の足元にひれ伏していた。

「どうか、どうか! 私にも新しいその曲をお聞かせください!」
「いや、その……」
「ナナエ殿下がこれだ、これぞ頭の中のイメージと寸分狂いがないとご納得頂けるまで、私が必ず再現してご覧に入れます!」
「そ、そういうことじゃないんです……」
「私のような凡才ではご不満でしょうが、私は生涯をとしてでも、ナナエ殿下の音楽を確かなものにするとお約束いたします!」
「だ、だから、そうじゃないんですよ、フェリペさん」
(ここまでフェリペさんがめんどくさい人だとは……。これ、下手に断ってもだめなパターンだ……。いっそ正直に話した方がいいよね……)

 一息ついてから、奈々江は口を開いた。

「実は……。
 わたしのお母様は第三王妃ですが、もとは陛下の亡き弟君であるスルタン殿下の妻です。お母様はわたしのために陛下のもとに嫁ぐことを決めましたが、亡き夫への思いは変わらず、王宮では権力や財力を持たず政治にも参加しないと公言しております」
「それは私も存じ上げております」
「これまでもなにかと物入りでしたが、お母様に割り当てられた予算ではなかなかそれが叶いません。そんなとき、ライスがわたしのハミングから譜面を起こしてくれました。楽譜を売ればお金になるというを知り、わたしはどうしても必要な資金を得るために、水上の音楽の楽譜を販売することにしたのです。おかげて、取り急ぎ資金を用立てることができそうなのですが、今後も継続的な収入が必要で、これからときどき楽譜を売ってお金を作りたいと、考えてはいるのです」
「でしたら、楽譜を起こすその役割はぜひわたくしにお任せください!」
「……ただ、楽譜を売ってお金を作るということは、わたしを介してお母様の影響力が強まるということでもあり、第二王妃のユーディリア様から強く警戒されているのです。
 お金は必要なのですが、次々に楽譜を販売してユーディリア様とお母様との関係をむやみに緊張させたくないのです。お母様がそれを望んでいないので……」
「そのような御事情が……。申し訳ありません、なにも知らずに、ただ音楽のことばかりに先走ってしまいました……」
「本当ならこのような話はおいそれとしていい話ではないと思うので、フェリペさんもどうか口外なさらないようにお願いします」
「はい、決して口には致しません」

 フェリペが落ち着きを取り戻し、いつもの礼儀正しい様子に戻った。

「しかし、御事情は理解いたしましたが、そのような理由でナナエ殿下のおつくりになった素晴らしい音楽が世に出ないというのは音楽への冒涜でございます。
 それに、いずれは次の楽譜を出さなければ、資金は潰えてしまうのでは」
「それについては、いろいろと思案しているのですが……」
「私にできることがあるならば、どんなことでもいいのです。どうか手伝わせてください」
(どうにかしてフェリペは音楽を聞きたい、きっとその一心なんだよね……。
 うーん、譜面を起こすのや編曲を手伝ってもらえそうなのはいいけど、ここまで音楽に厳しい態度で臨んでいる人に偽名で楽譜を売ろうと思っていますって言ったら、軽蔑されそうな気がする……)
                                                                                                                                                          奈々江が黙り込むのを見て、フェリペが再び膝を折った。

「お願いでございます。なんでもいたします。
 ナナエ殿下のおつくりなった音楽のためなら、どんなこともいといません」
「……フェリペさん、お気持ちだけ頂いておきますわ。今はまだわたしも思案中ですので」
「そ、そうでございますか……」

 見るからにフェリペがっくりとし、床に手をしている。
 かける言葉が見つからないでいると、聖礼拝堂のドアが開いた。
 ライスとブランシュがにこやかに入ってくるところだった。
 ライスが床に伏したフェリペを見るや、驚いたように駆け寄ってきた。

「どうかされたのですか、ナナエ殿下? ブラザー・フェリペ、一体……?」
「ライス……」
「なんでもありません。ライス。ブランシュ殿下とのお話はもう済んだのですか?」
「はい……。でもどうなさったのです、ブラザー・フェリペ。顔色が優れませんが」
「なんでもありません」

 ライスが差し出した手を取りもせず、自ら立ち上がるとフェリペはすぐさま後ろに下がって、静かな修道士の顔に戻った。

「ナナエ、待たせてすまなかったな。フェリペ、俺たちにもお茶をくれ」
「は」

 一介の修道士ごときを大して気にも止めないブランシュはゆったりと席に着いた。
 続いて、ライスも腰を掛ける。

「ナナエ、ライスに聞かせてやれ。祝賀会がどれほど盛況だったかを」
「あ……、そ、そうですわね」

 片付けるひまもなく手にしたままだった立体魔法陣を思い出したように差し出した。

「ライス、一度分解して組み直してみて」
「え……、こういうのはナナエ殿下のほうがお得意では」
「そうなんだけど、これ、ツイファー教授がEボックスの技術を抜粋して作ってくれたものなの」
「ということは……」
「祝賀会の演奏が入っているわ」

 ぱっと瞳を輝かせてパズルを取ったライスだったが、くるりと回してみて苦笑いを浮かべた。

「申し訳ありません。私がやると小一時間かかりそうです。
 ナナエ殿下にやっていただけませんか?」
「やっぱり、今度は操作が難しすぎるのね」

 その通りです、とライスが笑った。
 分解を始めるとブランシュが興味深そうに見つめる。

「父上とライスから聞いてはいたが、ナナエ、お前本当にすごい魔力だな。
 俺だったら日暮れまでかかっても半分も組めないぞ」

 パチンと最後のピースが組み上がると、チェンバロが鳴り始めた。
 そのすぐあとから、ライスの表情がわずかにゆがむ。

(あ……、やっぱりフェリペと一緒に編曲したのとかなり違うんだ)

 ブランシュは楽し気にフンフンといいながら肩を揺らしている。
 それに反してライスは二度目の花歌が終わるまで身じろぎひとつしなかった。

「どうだ、ライス! ナナエの曲は素晴らしいだろう? 楽譜の注文も山のように来ていて、写譜のために二十人雇ってもまだ追いつかんほどなのだぞ」
「……そうですね……。これはこれで、ひとつの形かとは存じます」

 ライスがちらとフェリペのほうを見たのがわかった。
 続いてテーブルの上の楽譜に目をやる。

「ナナエ殿下、この楽譜をご覧になられましたか?」
「ええ、すべてではないけど」
「どう思われましたか?」
(そこ、聞くよね~……。でも、楽譜を見ただけでオーケストラの演奏を脳内でフル再生できるほどのレベルじゃないんだよ、わたしの譜読みは……)

 ため息をつくと、ライスが言葉をつづけた。

「正直、私にはあの素晴らしい音楽がどうしてこうなったのか理解に苦しみます」
「むっ、なにをいう。ナナエの組曲は素晴らしかったではないか」
「ブランシュ殿下はわかっておられないのです。ひとつひとつの音と丁寧に向き合えば、音楽は自ら雄弁に語り出すのです。
 ナナエ殿下、どうしてこのような編曲になされたのですか?」
「あのね、ライス……。わたしにはつてもなかったし、編曲とオーケストラ選びはイルマラにお願いしたの。
 だから、当日聞くまで、わたしもどんな風になるかは知らなかったわ」
「どうして……!? なぜ、なにも意見なさらなかったのですか?」
「わたしにはEボックスのことがあったからそこまで手に負えなかったのよ。音楽のことはイルマラがすべて引き受けてくれて、だからこそ祝賀会にも間に合ったのよ。
 わたしも初めて聞いたときは、あれって思うところはあったけど……。でもイルマラや編曲家やオーケストラの人たちは十分責任を果たしてくれたと思っているわ」
「そんな……。ナナエ殿下はご自分の音楽をこのように穢されて、黙っておいでなのですか?」
(穢されてって、それは……。言わんとすることはわからないでもないけれども)
「むう、ブランシュ、その言い方はあんまりではないか。
 組曲水上の音楽は間違いなく音楽界に新しい風を呼び、人々の心を楽しませる美しい曲だぞ。
 ナナエの作った曲は、だれに聞かせても素晴らしい名曲だ」
「ナナエ殿下! この楽譜でもう一度楽団に演奏させてください!
 そうすればブランシュ殿下にもわかります!」
(そっか……。ライスもフェリペと同じ位、真剣に音楽に取り組んでいたのね。ライスがこんなに音楽に熱くなるなんて知らなかったよ……)

 

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