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#56、 酒場の夜
しおりを挟むセレンディアスは夜が更けるのを見計らって、城下にある酒場のひとつエポルカポルカにいた。
ランプの火に照らされた店内には、ほどよい陽気さと活気が溢れにぎわっている。
平民が運営するごく普通の酒場だが、酒も肴もなかなかの評判の店だ。
立地の特色上王宮に仕える兵士などが頻繁に出入りをしていることもあり、宮勤めの魔導士姿があってもさほど違和感はない。
万が一、トラバットがなにか仕掛けてきたとしても、非番の彼らがすぐに味方になってくれるはずだ。
さらに念には念を入れ、セレンディアスは昼間からいくつかの監視魔法を町と店のあちこちに張り巡らせていた。
(どんな変装をしていたとしても、かならずわかる)
セレンディアスには自負がある。
まがりなりにも、一族からして魔導士を名乗る以上セレンディアスは魔術のプロだ。
しかしそのプロが前回はいともたやすく盗賊ごときに土をつけられてしまった。
そのせいで奈々江を目の前で奪われ、危険にさらすことになったのだ。
(あんな失態は二度としない)
そのために、エレンデュラ王国で過ごす時間のほとんどを魔法を学び技を磨くことに費やしてきた。
奈々江はトラバットのことをお気楽にも友達などといっていたが、セレンディアスはそう思わない。
盗賊相手にそんな甘いことがあるわけがないのだ。
必要な情報を持っていそうな相手だとはいえ、こちらが利用することだけが目的であり、決して向こうから利用されるようなことはあってはならない。
目的を果たすまでは決して油断はしない。
譲歩もしない。
(必ず、役に立つ情報をナナエ様に持って帰る)
セレンディアスの警戒と決意は固かった。
しかし、その意識を悠々と超えたトラバットの登場に、セレンディアスはぎょっとした。
「お前が使者か? まあいいだろう。案内しろ。
それとも一杯やっていくか? 俺は金を出さんぞ」
いつの間にかトラバットが現れ、セレンディアスの席の向かいにこともなげな座ったのだ。
しかも、変装さえもしておらず、ランプ灯りの下では猫のような目がキラリキラリと光っている。
「ト、トラバ……!」
「おっと、さすがにここでその名はまずいな。
ブロンゾとでも呼んでくれ。俺の母方の祖父の名前だ」
「……」
思わず言葉を忘れたセレンディアスがまじまじと手配書の出回っているはずの盗賊頭を見つめた。
「ど、どうして来れたんだ……? ブロンゾ」
「どうして? ナナエに呼ばれたから来たのだ。他になんの理由がある。
ナナエは俺の初めてできた女友達だからな。いずれは俺の第五夫人となる予定だ」
「なにをばかな……っ!」
ついかっとなって言い返してしまうところだったが、セレンディアスは言葉を飲み込んだ。
ここで熱くなっていては、目的を果たすことなどできない。
それに、敵地に乗りこんできたにも関わらず、少しも焦りがないトラバットの余裕さは癪に障るし不気味でもある。
だが、セレンディアスもいつまでも世間知らずなどといわせておくつもりはない。
「……お前に聞きたいことがある」
「ああ、なんでも答えよう。ナナエはどこだ?」
「会わせる前に、お前が本当に有益な情報を持っているかどうか確かめる必要がある」
そう、トラバットにはナナエに会わせるつもりだと思わせておかねばならない。
そのつもりがないとわかれば、きっとトラバットは姿をくらましてしまうだろう。
「それをいうのなら、お前が本当にナナエの使者なのかを確かめるほうが先というものだ。
ナナエの言葉が本物だったとしても、案内された場所で兵士や魔導士たちが待ち構えているとも限らない」
これも想定内だ。
セレンディアスはトラバットの不思議な目を見つめて続けた。
「ナナエ様から言伝を預かっている。
お前の言葉のお陰でひとつ思い出を上書きできた、とのことだ」
トラバットの目がくっと開かれた。
続けて、口角だけがくいっと上がり、さながら猫のような捉えどころのない笑みを浮かべた。
「そうか……。それで俺にまたなにかアドバイスを求めているんだな」
「まず、第一に場所を確保したい」
「場所? どんな?」
「エレンデュラ王国の警備網から逃れられる場所だ。
今、ナナエ様がどれだけ強固な監視下に置かれているか、お前にも想像がつくだろう」
「まあな。つまり、俺とあいびきできる場所が必要というわけか。ふふ、さながら愛の巣というわけだな」
セレンディアスが一瞬むっとする。
「お前とナナエ様は友人同士のはずだ」
「ああ、そうだ。だが友情が愛に変わるというのは巷ではよくあるそうだ。俺にとってはナナエが初めてだがな」
「……とにかく、エレンデュラ王国の見張りや妨害魔法、検知魔法、それらをかいくぐれる安全な場所を見つけて欲しい。これが大前提だ」
「わかった、俺にはたやすいことだ」
「それから」
「なんだ」
「城下町にグレナンデス皇太子が潜伏している」
「ふん、その話か……」
「万が一にも、その場所をグレナンデス皇太子に悟られるようなことがあってはならない。
皇太子にも見つからないような安全な場所でなければならないと同時に、皇太子の動きを把握しておく必要がある。
潜伏している場所や、活動範囲、活動時間、どんな魔法やアイテムを使い、どんな味方や仲間がいるのか。
間違っても、町でばったり鉢合わせなどということはあってはならないのだ」
「ふむ、一理はある」
「どうだ、できるか」
「ああ、少し時間はかかるが検討はついている」
(よし、これでいい。ナナエ様が通信魔法で送ってくださったイルマラ殿下の情報が役に立った)
セレンディアスが立ち上がる。
ローブから折りたたんだ紙を取り出しテーブルに置いた。
折りたたんだ紙の中には、さらに小さな紙片が入っており、これにはセレンディアスのスモークグラムの香りが焚き染められている。
「では場所の確保と情報が集まり次第、スモークグラムで知らせろ」
「あんな足のつきやすいもの、俺は使わない」
「ならどうする」
「盗賊には盗賊のやり方がある。それより」
トラバットがぐいとセレンディアスの腕を取った。
すかさず払おうとするが、トラバットは相当な力で掴んでいた。
「離せ」
「そう急ぐな。まだ一杯も飲んでいない」
「ではお前ひとりで飲んでいけ。支払いはしておいてやる」
「待てよ、まだ大切なことを聞いていないぞ」
「なんだ?」
セレンディアスが答える姿勢をしめしたところで、ようやくトラバットは手を離した。
「お前は自由に城に出入りできるみたいだが、ナナエも同じなのか?
ナナエがエレンデュラ王国に戻ってきてからこれまで、城の警備は厳しくなる一方だ。
町に降りてくればまだ抜け穴もあるが、今のガチガチの城の警備から気づかれずにナナエを出すことが本当にできるのか?」
トラバットの憂慮はもっともだ。
城下町にいながら、これまで城の中にいるナナエに手出しできなかったことがその証だろう。
セレンディアスは即答した。
「できる。盗賊にしかできない方法があるように、魔導士にしかできない方法があるのだ」
「ほう」
トラバットの目がまるで獲物を見つけたときの獣のように光った。
セレンディアスが目を細め、やにわに警戒を示した。
「その方法を教えろ。場所と情報はそれと交換だ」
「ばかをいうな。いえばお前を城に招いているも同じことだ」
「おいおい、こっちだってガキの使いではないんだぞ。確信が得られないなら取引はしない」
「取引だと? ナナエ様とは友人なんだろう? お前は友人と取引をするのか」
「ナナエと取引はしない。お前と取引しているのだ。
俺はお前を信用しないし、お前も俺を信用していない。
信用していない者同士が協力し合うには、それなりの誠意や手の内を明かす必要がある。
それとも、これはナナエの意志ではなく、お前単独の策略なのか?」
(くっ……、やはり抜け目ないな)
押し黙ったセレンディアスに、トラバットがいよいよ目を光らせた。
「そうではない。だがナナエ様の安全を確保するためにはこの一線は超えることはできない」
「だったらこの話はなしだ。帰ってナナエにそう伝えろ。
今度はお前が直接俺に会いに来いとな」
「ナナエ様にそんな危険を冒させるわけにいかない」
「ふん! やはりか! お前、はなから俺にナナエを会わせる気がないな!」
「……!」
「ふ……、世間知らずの甘ちゃんだと思っていたが少しは気が回るようになったじゃないか。だがまだまだだな、詰めが甘いぞ」
「……強気に出てみても、思い通りに行くとは限らないぞ。ここがどこか思い出してみるといい、トラバット!」
セレンディアスの声に、周りの客が一斉にトラバットを見た。
その中にはエレンデュラ王国の国旗を身に携えたままの兵士もいる。
彼らが手を柄におろして立ち上がったのがわかった。
彼らを筆頭に、各テーブルに警戒の色が一気に広まっていく。
「お前が役に立たないのなら、無事に返す必要はない」
トラバットが左右に目を配り、そしてにわかに手を広げた。
「俺はナナエの友達だぞ。忘れたか?」
「ナナエ様には店に来ていた兵士にばれ乱闘となり、トラバットは目の前で死んだと伝えるだけだ」
「ははは……! お前なかなかの玉だな、悪くないぞ」
「いつまでもそんな余裕をかましていていいのか? 見ろ、逃げ場はないぞ」
いつの間にか、店の客までもが各々椅子や手近な木ぎれを手にしている。
出口にはテーブルでバリケードができ、男たちがトラバットとセレンディアスの周りに集まってきていた。
セレンディアスもすっとローブから手を掲げて、攻撃魔法の所作を始めた。
しかし、トラバットは奇妙なまでにゆったりと構え、動揺のかけらさえ見せない。
「やれるものならやってみろ、きっと面白いことが起こるぞ」
「その余裕面、体中がボロ雑巾のようになっても続けられるか見ものだな。風の……」
セレンディアスが呪文を発しようとしたその時、突如セレンディアスの背後から三人の男が体当たりしてきた。
「ぐっ!」
素早く腕を取られ動きを封じられたと同時に、居合わせた客たちが一斉にセレンディアスめがけて突進してきたのだ。
「なっ……! うわ!」
瞬く間にセレンディアスは団子にされ、床に押し付けられた。
下から見上げるトラバットは腕を組んだ姿でそれを見下ろしている。
「な、なぜ……! トラバットは奴のほうだ! 僕ではない!」
「はっはっはっ! まだわからないのか? だから詰めが甘いというのだ」
「な……どういうことだ?」
「こいつらはみな俺の手下だよ。お前は俺を罠の中へ招き入れたと思っていたみたいだが、罠に入っていたのはお前のほうだ」
セレンディアスは大きく顔をゆがめ、押しつぶされた胸で苦しそうに息をする。
「お前は今日になって町や店のあちらこちらにいろいろな策を張り巡らせたようだが、所詮お前の手は付け焼刃にすぎないんだよ。
俺はこの店が指定されたその時、真っ先にこの店を貸し切り予約をし、お前の考えそうな手の先を呼んだというわけだ。
残念だったなあ、思いもしなかったろうが、今日は客から店主まで全員が俺の仲間だ。
だが、以前に比べてお前なりにいろいろと成長したようだ。多少は褒めてやってもいい」
「き、貴様……!」
「……さて、問題はお前をどうするかだ。
唯一の女友達であるナナエが送ってきたという使者という話だが、お前は信用には足らぬ相手どころか、この俺を始末してもいいとまで考えている。
俺もお前にたいしてまったくの同意見だ。
ナナエには、待っていたがお前は店に来なかったというほかあるまいな」
「ぐうっ……!」
もはや呻きながらねめつけることしかできないセレンディアスに、トラバットがその前に大きな動作でしゃがんでみせる。
「それとも、城からナナエを出す方法を話すか? そうしたらお前の命は助かるかもしれんぞ」
「誰がいうか……っ! 殺したくば殺せ!」
セレンディアスは押さえつけられながら頭を巡らせている。
これだけの人数に押さえつけられていては、魔法を発動することなど敵わない。
だが、強大な魔力を保持するセレンディアスだからこそできる危機脱却の手が残されている。
セレンディアスはそれに賭けるべく、機を計る、それしかなかった。
トラバットは余裕たっぷりに思案して見せる。
「そうだな……。ナナエに直接聞いてみるか。
お前のこの姿を見たら、ナナエ自ら教えてくれそうだ」
「なっ! や、やめろ!」
「ナナエは随分と古風な通信魔法を使っていたな。あんな化石みたいな魔法をよく掘り出してきたものだ。
しかし、あんなふうにイメージだけでなく声まで聞こえたのは初めてだったぞ。あれもお前の魔術なのか?」
「……」
「答える気はないか。そうだろうな、ナナエにその無様な姿を見られたくないだろう。
あの通信魔法が使えないなら、今こそスモークグラムを焚くところだが、いかんせん、俺の用意したスモークグラムやその他の手段では城の警戒網をちっとも通らない。
だが、お前のスモークグラムなら届くのだろう? おい」
トラバットが指示すると、男たちがセレンディアスの半身を起こし、ローブの中から金のシガレットケースを探し出した。
「くっ!」
「一応確認するが、ナナエのスモークグラムの香りは今ここにないのか?」
「ないっ!」
「そうか、離れていてもナナエの香りだけでも感じられたらと思ったが……。まあいい」
トラバットはシガレットケースから一本の筒を取り出すと横を向いて手下に火をつけさせた。
ふうっと息を吐くと、トラバットが煙に向かってつぶやく。
「ナナエ、トラバットだ。
セレンディアスとの取引は決裂したぞ。こいつを返してほしければ、俺に友情を示せ。
まったく、ひどいと思わないのか。お前に会いに来たのに、待っていたのは犬コロだ。がっかりしたぞ。
お前に会いたい、今すぐに。
犬コロがいうには、城の警戒網に触れずに出入りできる方法があるらしいな。
今すぐ来い。さもなくば、犬コロがどうなっても知らん」
煙がすーっと窓から外へ出て行く。
(ナナエ様、来てはだめです……!
そもそも、まだお伝えもしていない方法でナナエ様が城を抜け出すのは不可能。
無茶なことをなさらないでください……!)
セレンディアスが苦々しく奥歯を噛んだ。
煙が行くのを見届けて、トラバットはふとセレンディアスを振り返る。
「そういえば、ナナエさらったときに不思議に思ったが、ナナエはスモークグラムを携帯していないのか?
姫ともなると、スモークグラムでさえも侍女に持たせるものなのか?」
「……」
セレンディアス答えずにそっぽを向いた。
実際のところ、ナナエはまだ自分のスモークグラムも水晶玉も持っていない。
水晶玉は汎用品なので、セレンディアスの予備のものをナナエの手元に準備した。
きっと今頃、セレンディアスの香りをまとったスモークグラムが、セレンディアスの危機を伝えているところだろう。
それから間もなく、セレンディアスの脳裏に奈々江の姿と声が届いた。
ラリッサとメローナを脇にして、心配そうな奈々江が両の手をきつく結んでいる。
「セレンディアス、セレンディアス……!
大丈夫? けがはない?
自分ではスモークグラムが焚けない状況なのね?
わたし、これからトラバットと話してみるわ。
心配しないで。必ずまた会える、絶対よ」
通信が途切れた。
セレンディアスが口びるを噛む。
(ナナエ様……! トラバットにしてやられただけでなく、ナナエ様にご心配をおかけすることになるとは……!)
うつむいていると、トラバットが目元に手をやった。
「来たぞ、ナナエからの通信だ」
しばらくすると、トラバットがセレンディアスを見た。
「今から城を抜け出してみるそうだ。
でも、お前のいっていた方法をナナエは知らないようだったぞ」
「……その通りだ。ナナエ様にもまだお伝えしていない」
「では、結局ナナエはここまで来られないということか?」
「そうだ。うまく立ち回ったとしても、ナナエ様では城壁を超えることはできないだろう。
ナナエ様に無茶なことはしないようにと伝えてくれ……!」
セレンディアスが不自由な体勢ながらも頭を下げる。
見つめながら、トラバットはしばし思案している。
それから間もなく、トラバットの脳裏に再び奈々江のイメージと音声が流れてきた。
その景色は先ほどの室内とは違って、屋敷の外だった。
月明かりが奈々江と侍女二人を照らしている。
「トラバット、今離宮を抜け出したわ。
今巡回している見張りが向こうに行ったら、もう少し進んでみるわ。
必ず行くから、セレンディアスをお願い。
もしも怪我をしていたり苦しんでいるなら助けてあげて。
セレンディアスはわたしにとって欠かせない従者なの」
その後も何度かトラバットの脳裏には奈々江からのメッセージが届く。
「今半分くらいのところまで来たわ。
真夜中なのに、こんなに見張りがいるなんて知らなかったわ……。
門を出たら、どっちの方向に行けばいいの?
お店の場所をスモークグラムで教えてちょうだい。
あと、セレンディアスの様子もよ」
いわれたとおりに、トラバットはエポルカポルカへの道順を伝える。
しかし、次の通信では、奈々江のいる場所は景朴の離宮に戻っていた。
「ごめんなさい、トラバット。
見張りに見つかってしまったわ。
ラリッサとメローナが、眠れなくて散歩をしていたといってなんとかやりすごしたくれたわ。
少し様子を見て落ち着いたら、もう一度挑戦するわ。
時間がかかるかもしれないけれど、必ず行くから、そこで待っていてね」
トラバットは思わず頭を掻いてしまう。
「まったく……。これでは朝が来てもここへはたどり着けそうにないな」
セレンディアスが請うような瞳で見上げる。
「無茶をしないようにいってくれ! ナナエ様がお怪我をされたらどうするんだ!」
「多少の無茶はしてもらうさ。俺に会いたいといってきたのはナナエのほうなんだからな」
「……っ……」
「とはいうものの」
トラバットはもう一度腕組みをしてみせる。
「今の様子ではナナエの自力でここへ来ることは難しそうだ。
ナナエはお前のことをよっぽど買っているらしい。
どうかすると、お前のいう通りちょっとした無謀なこともやりかねんな。
なにせ、城のてっぺんから身を投げるくらいの度胸がある女だ」
「……だから、頼むからここへは来ないようにいってくれ……!」
「セレンディアス、ナナエの無茶はお前の望むところではない。
俺だとて、ナナエに怪我などして欲しくない。だが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかない。
俺はナナエに会いに来たんだ。一目だろうと、会わずには帰れない」
「……ナナエ様は来ない、来てはならない!」
「だから、俺たちのほうから行くのだ、セレンディアス」
「な……」
「お前なら警備に見つからずに俺を城の中に入れられる。そうだろう?」
「そんなことができるか!」
「ならば、ナナエがここへ来るのを待つか?
ひょっとしたら意外と手際よく警備をすり抜けて来るかもしれない。
あるいは、朝までかかってでも疲労困ぱいしたナナエが来るかもしれん。
もしくは、無茶なことをして今頃足首でも骨折して泣いているかもしれん」
見る間にセレンディアスの顔色が悪くなった。
トラバットはすでにセレンディアスの奈々江への忠誠心と愛情を見切っている。
例えその可能性が低いとわかっていても、ゼロではない限り不安は魔物のようにその身を巣くう。
「や、やめろ……っ!」
「いいのか、セレンディアス。ナナエがひとつでも傷を負ったらそれはお前のせいだぞ」
「……い、いうな……っ」
「お前だとて、ナナエに無茶をして欲しくないのだろう? 止められるのは、お前しかいないぞ」
「ぐ、うう……」
決して承諾できないトラバットの要求と、奈々江を案ずる思いがセレンディアスの苛む。
トラバットが新しい通信を感知した。
セレンディアスに聞かせる様に、わざと声を上げた。
「はあ、いっている先から……。ナナエも案外とろいな」
「な、なんだ! ナナエ様になにがあったんだ!」
「大したことはない。少し手に擦り傷を作っただけだ。侍女に治してもらっているようだったから問題ない」
「……っ!」
些細なことではあったが、セレンディアスの心に大きな動揺を招くのに十分だった。
「なにがあったんだ! 教えてくれ、トラバット!」
「俺にいわれてもわからん。俺には断片的なイメージと、奈々江が自分の状況を伝える言葉が短い間だけ聞こえるだけだ。
転んだのか、壁をよじ登ろうとしたのか。はたまた兵士に追いかけまわされたのか、俺にはさっぱり見当もつかん」
「ナナエ様……っ」
セレンディアスが大きく首を振ってうなだけれる。
(だめだ、とても耐えられない……っ!
こんなことなら、お側を離れるんじゃなかった!)
セレンディアスが震えながら口を開いた。
「わかった……! お前を城に連れていく!」
「そうか」
トラバットがにやと笑った。
早速、トラバットは新しいスモークグラムに火をつけた。
「ナナエ、トラバットだ。
これから俺とセレンディアスがお前のもとに行く。
お前は怪我を治して、とっとと部屋に戻れ。
お前が来るのを待っていては、朝が来るどころか、冬が来てしまいそうだからな」
すぐさま奈々江からの通信魔法がセレンディアスの元に届いた。
城壁のそばで身を小さくしている奈々江と、ふたりの侍女の姿だった。
幸い、怪我をした様子はなかったが、ドレスと頬が汚れていた。
「セレンディアス、それがいいわ。
計画とは違ってしまったけれど、あなたが無事に戻ればそれでいいの。
なにがあっても必ず戻ってきて。
わたしもこれから部屋に戻るわ。
待っているから、絶対に見つからないように気を付けてね」
(ああ、ナナエ様……! 申し訳ありません、僕のために……)
時を待たずしてトラバットにも通信が届いた。
「トラバット、お願い、セレンディアスを無事に連れてきて。
でも、お城の中は厳重な警備と見張りでいっぱいなの。
もしもあなたを城に招き入れたと知れたら、わたしもあなたもただでは済まないわ。
どんな方法かはわからないけれど、セレンディアスのいうとおりにして。
決して見つかってはだめよ」
「これでようやくナナエに会いに行けるな」
トラバットの顔に明るい笑みが宿り、すかさず手を払う仕草で、手下たちからセレンディアスから離れさせた。
顔を上げたセレンディアスの表情は静かだったが、はっきりと異様さを醸している。
酒場の夜は、いつもと違う空気に飲まれていた。
「さあ、セレンディアス。行こうじゃないか。お前の魔導士にしかできない方法とやらで」
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