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#1、 会社もコーヒーもブラック
しおりを挟む深夜、都内オフィスビル。
ファストクリエイトエージェンシー社のフロアはまだ煌々と明るい。
「山里、次、このシステムのバグやってくれ」
「ぁ~いィ~……」
「んだぁ、その態度はぁ!」
「……サーセぇん……」
「遅ぇぞ、小松原!
いつまでちんたらやってんだ!
お前待ちだそ!」
「悪い、今送った!」
「おい、さっきのと変わってないぞ!」
「あっ、あ!? か、確認する!」
「頼むよオイ!」
「みなさ~ん、倒れる前に夜食つまんでくださ~い。
栄養ドリンクも追加しましたから~」
「サンキュー、中ちゃん!」
「て、天使……」
「社長……っ! もう、先方に納期を伸ばしてもらえるようお願いしましょうよ……!」
「なに弱気になってるんだ木原、みんなでここまで頑張って来たんだ。あと少しだぞ!」
「鬼!」
「ブラック! 」
「今度こそ辞めてやる!」
「労災だ。労災」
「俺が死んだら、田舎のおふくろを頼んます……」
エンジニアたちの毒と悲痛な叫びを食らいながら、よれよれのシャツを着た無精ひげの男、斎藤拓真がキーボードから作業の手を止めて立ち上がった。
「みんなが辛いのは重々承知だけど、この仕事は我が社がはじめて大手に任された大事な仕事だ。
この乙女ゲームが、今後俺達の会社の看板になることは間違いない。
あともう少しだけ、みんなの力を貸して欲しい!」
「ざっけんな! 無茶な仕事は入れんなって、前回約束しただろうが! 俺はこれが終わったら絶対辞めるからな!」
「今辞めたい……、今寝たい……」
「わたしももう帰らないと……。家で猫がさみしがってる。…てゆーか、わたしが無理……」
斎藤拓真が、まあまあという手ぶりを見せた。
「みんな、須山くんを見てみろ」
斎藤拓真が視線で差した先には、須山奈々江、この物語の主人公がいる。
パソコン画面をにらみつけ、一心不乱キーボードを叩いていた。
まるで、一切の音が聞こえていないかのような集中力。
目で追えないくらい素早い指の乱舞。
眼鏡の奥の血走った目とその眼球運動の異様さ。
「すぅ~……、ふぅ~……」
奈々江の呼吸はもはやヨガ熟練者のような深呼吸だった。
極めて高い集中状態にいる証だ。
隣の席の中林喜美が、慌てて栄養ドリンクにストローを差して奈々江の口元に持って行った。
「奈々江さんだめですよ~!
一旦ゾーンに入っちゃうと、倒れるまで止まらないんだから!
はい、口開けて~!」
ちゅ~という吸引音が奈々江から聞こえてきたところで、社員たちの顔にそれぞれ諦めが浮かんだ。
「ったく、須山と比べられたら、こっちの身が持たねえわ!」
「は~あ~……」
「うう……」
「さあ、がんばろう、みんな!」
斎藤拓真の張りのない激が飛び、淀んだフロアの各所にため息が漏れた。
***
奈々江の深い集中モードが終わったのは、それから三日後のことだった。
今度は激しい疲労感がどっぷりと沼のように奈々江を沈めんとしている。
倒れないまでも、今までになく限界の状態だ。
だが、それは奈々江ひとりだけのことではない。
「みんな、おつかれ……!
納品に間に合った、奇跡だよ……」
社長のねぎらいの言葉も、遥か遠くアルゼンチン辺りから聞こえてくる気がする。
ボロボロになった戦友たちが挨拶もそこそこに、オフィスを散り散りに去っていく。
誰も彼もが顔色が悪く、言葉少なで、足元がおぼつかない。
みんな無事に帰宅できるのだろうか……。
そのまま机で眠りこけてしまう者もいる。
そうできたらいっそどれだけ楽かと思うけれど、女性の恥じらいがぎりぎりのところでそれを許さない。
「奈々江さん、一緒に帰りましょう~」
「中ちゃん、帰ろう……。バスで寝てたら起こして」
「え~、奈々江さんに起こしてもらおうと思っていたのに~」
中林喜美と並んで会社を出ようとしたその時だ。
ふたりは斎藤拓真に呼び止められた。
「須山くん、中林さん。これ、忘れないでね」
「え……?」
ピロン、と奈々江と中林喜美のスマホが鳴った。
ふたりが画面を見ると、それぞれに斎藤拓真からURLが送られていた。
中林喜美がスマホから顔を上げた。
「なんですか、これ?」
「ここから"恋プレ"の開発者プレイ用のアプリがダウンロードできるから。
プレイしてみて、万が一バグを見つけたら報告してね」
「えっ! まだ仕事するんですか?」
「いやいや!
先方からユーザーの忌憚のない意見が欲しいっていわれているからさ。
うちの会社には須山くんと中林さんしか女性がいないだろ?
だから仕事ではなく、あくまでもユーザーとして楽しんでもらって、その意見を聞きたいってことなんだ」
薄紅色の縁の眼鏡の奥で、くまのできた目を奈々江が糸のように細めた。
「でも、わたしたちストーリーもなにもかも大体全部知ってるんですけど……」
「それはそうなんだけどさ。
あっ、でも、開発者プレイ用だから課金が無限に無料でできるよ。
アイテムもスチルも買いたい放題。
恋愛無双が楽しめるだろ~? わははは」
「アイテムもスチルも、キャラの攻略法もエンディングもほぼ全部知ってますけど……」
「はは……。まあ、そうなんだけどね」
斎藤拓真が頭を掻くと、肩に白いふけが落ちた。
女性社員がそろってあからさまに顔をしかめる。
中林喜美は、ややあってスマホをバッグにしまった。
「仕事じゃないってことは、別に強制じゃないんですよね?
乙女ゲームやらないから、わたし多分やらないです。
それにしばらくは"恋プレ"は見たくないっていうか、多分もう一生分見たかなっていう」
「中林さんはゾンビ系が好きなんだよね」
「です。なんで、次はゾンビゲームの仕事取ってきてくださいよ~。
そしたら、わたし意見バンバンいいますんで」
「ってことは、須山くん頼みになるんだけど……」
わたしもしばらく"恋プレ"は見たくないんだけど……、という思いつつも、奈々江は了承した。
奈々江も普段、乙女ゲームはやらない。
というより、恋愛に興味がないのだ。
パズルや落ちゲーのような単純な操作を繰り返す淡々としたゲームのほうが、なにも考えず集中できる。
奈々江にとってのゲームとは、そういうものだ。
「わたしの意見じゃ参考にならないと思いますけど、とりあえずやってみます」
「期限はだいたい二週間くらいを目安にしてもらえるとありがたいかな」
「とりあえず、寝て、回復したら」
「だね。本当、須山くんにはいつも助けられているよ。ありがとう」
下がり眉の汚い無精面がにこっと笑った。
小綺麗にさえしていれば、社長はイケメンに見える……というよりは、雰囲気イケメンに見える。
人使いは荒いが、気さくで人当たりはいいし、よれたシャツを着ていても、すらっとした背格好が見栄えがいい。
奈々江は思った。
新卒採用面接のとき、この人なら信用できそう、と思ったのが運のつきだ。
斎藤拓真がこんな突貫作業のような仕事を今後も取り続けるなら、転職を考えた方がいいかもしれない。
ファストクリエイトエージェンシーから逃げ出すなら、ファスト(速い)ほうがいい。
そういって辞めていった先輩たちの顔が浮かんだ。
「……須山くん? まさか、君まで辞めようとか考えるないよね?」
返事をしないでいると、斎藤拓真はおろおろとし始めた。
その様子を見ると、奈々江はいつも昔小学校のクラスで飼っていた、仲間外れのめだかを思い出す。
そのめだかは珍しい種類だったのだが、生まれつき片目がなかった。
だからなのか、いつも一匹でさ迷うようにうろうろしていた。
「とりあえず、寝て、回復したら」
眼鏡を押し上げて、眠たい目を擦った。
***
コンビニでブラックコーヒーを買った。
バスが来るまでに飲み干す。
社会人になるまで、缶コーヒーなんておじさんの飲み物だと思っていた。
ということは、わたしはおじさんになったんだろうか……、と頭をよぎる。
バスが来たので、中林喜美が飲みかけのペットボトルをバッグにしまった。
彼女のようにラテにでもしておけば、可愛げがあったのだろうか。
ドアが開くと同時に、出勤のための一団が降りて来る。
おじさんという風体のおじさんも、濃色のスーツで武装した男性も、オフィスカジュアルを着こなした女性もみんな、これから職場という戦地に赴く戦士たち。
ご苦労様です、と心の浅いところでつぶやく。
奈々江は同僚の後に続いて、路線バスに乗り込んだ。
「やばいです~。わたし座ったら即落ちの可能性大です~」
「わたしも。立っていようかな」
「あっ、こんな時こそ」
中林喜美がスマホを取り出した。
画面にいつもプレイしているゾンビアクションゲームの画面が立ち上がった。
「こういう時こそ、なにかに集中していたほうがいいんですよね~」
「あ、確かに……」
奈々江もバッグからスマホを取り出した。
すぐ集中できるテトリスがいい。
何も考えずに、ただ落ちてくるブロックを積んでは消す、積んでは消す。
てっとりばやく意識が一点に保てる。
奈々江と中林喜美は並んでスマホの画面に向かった。
「じゃあ、わたし行きますね。お疲れ様です」
気がつくと、いつの間にか中林喜美が立ち上がって、奈々江の肩を叩いていた。
「あ、お疲れさま」
「奈々江さん、今度は集中しすぎて乗り過ごしちゃうかもですよ」
その通りかもしれない。
中林喜美の降車バス停までの十五分。
奈々江は完全に外界のすべてをシャットアウトしていた。
手を振る中林喜美を見送って、奈々江はアプリを終了した。
代わりに、斎藤拓真から送られてきたURLにアクセスする。
どうせやらなくてはならないのだから、このくらいの片手間にやっておいてしまった方がいいだろう。
"恋プレ"ならテトリスほど集中しすぎず、それなりに眠気も覚ましてくれるかもしれない。
降りるバス停までは二十分。
ストーリーを知っている自分なら、三ステージくらいまでは行けるだろう。
アプリのダウンロードができると、早速プレイボタンをタップした。
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