壮途

至北 巧

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第八話 非日常

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 世間では年末休暇が始まる時期、匠はアパートの自分のベッドで『彼女』を抱いていた。
 昨日、休日のはずの野木崎から連絡がなかった。
普段、部屋が片付かないとか銀行が混んでいたなどと言って遅れることがあったが、必ず連絡があった。なのに、今回は待ち合わせる時間を告げる電話すらなかった。
 会うはずの相手に会わなかったことが落ち着かない夜。

 スキンシップで誘われて、それなりに持ち合わせる性欲を解消するために彼女を抱いている。ただ、彼女に対する情は変わらず芽生えていない。

 以前は情事の際、自律神経の失調が行為の邪魔をしていたが、最近はそれほどでもない。
 二、三日に一度の『デート』、匠に彼女を喜ばせる意思がないため外出が減り、アパートで食事をして休むことが増えた。
 野木崎と会う日も食事と休息がついになる。はからずも週の半分以上『普通』の生活を送るようになり、副産物で自律神経が整ってきている。

 食事は彼女の手作りだ。匠が翌日も食べられるようにと気づかって多めに作っていく。
 気持ちにこたえられない人間にここまでさせるのは心苦しかった。兄とは縁が切れないが、彼女とは切ろうとすれば切れる。今までは感情のやり取りになることが面倒でやらなかったこと。今は、話したほうが楽になる。

 情事の物音をかき消すためにつけていたテレビを眺める彼女に、兄が忘れていった煙草に火をつけながら、匠はどうにか絞り出す。
「俺といても、なにもないよ」
 好意がないことはすでに言ってある。振り向くまで待つと彼女は返したが、匠がそうなる確率はほとんどないように思う。
「俺のどこがいいの?」
「優しいトコって言ったでしょ。男だからって偉ぶらないし、変に気取ったり調子に乗ったりしないし」
 それは、優しさから来るものではない。自分に中身がないから、何もしていないだけ。
 兄の煙草は普段吸っているものより軽すぎて、さほど吸わずにもみ消した。
藤花とうかにこんなに良くしてもらう価値ないよ、俺。もう俺に構わないほうがいいと思う」
 初めて名前で呼んだ気がする。それほど、彼女自身に興味がない。だが世話になった彼女のために、自分から遠ざけたいという気持ちはある。
 藤花は掛布団越しに膝を抱えて、やや考え込んでから、口を開く。
「齋明くん、スレンダーだしカッコいいし、実はねぇ、友だちみんな、あたしのことうらやましがってるんだよ」
 スレンダーはただの栄養不足、髪を伸ばしてベージュに染めているのが少し目立つだけの話。
「あたしと寝るの、イヤじゃあない?」
 縁を切る話にならないことに焦ったが、答える。
「体の相性は合ってたと思う」
 藤花は、ねだるような瞳で、笑った。
「身体だけの関係でいいから、もう少し付き合って」
 彼女は自分のステータスのために匠を身近に置きたいのだろう。罪悪感は減少したが、それで彼女の望むようにするべきなのか、セックスフレンドに成り下がることを止めるべきなのか。自分には何もないからすぐに離れていくと思ったのに、そうならないことに戸惑う。
 そこで急に、藤花が声をひそめて背後を指した。
「ねぇ、通り魔だって」
 振り向くと番組の合間、ローカルニュースがテレビに映し出されている。
「話中断してごめんね、知ってるとこ映ってたから」
 いつも野木崎と待ち合わせるターミナル駅の裏口。その連絡通路で今日の夕方に傷害事件があり、止めに入った男性が手や腕を切りつけられ暴行を受けたとアナウンサーが告げる。
 ニュースが終わると同時に、聞き慣れた着信音が鳴る。スマートフォンに父親の名前が表示されている。
 母親からは度々たびたびかかってくるが、父親からは恐らく一度もかかってきていない。年末だから帰って来いと言われるのが目に見えていたが、藤花に対して付き合うか否か答えることを先送りしたくて、思わず電話を取る。

 父親は、夕方からニュースを見なかったか、基が怪我をした、と言った。

 母親と共に酷く動揺したため、匠の情緒を懸念して連絡することを迷っていたと言う。
 処置は終わっている、意識もあって通り魔から連想するほど悲惨な事態ではないと言う。家族なら顔を見ることができると言う。
 病院の場所を聞く。ターミナル駅から普段乗らない路線で二駅ほど先。
「今すぐ行くから」
 言って、電話を切る。
 幸い、まだギリギリ電車が通っている時間。
 急いで着替え、藤花に鍵を渡してアパートを出る。送る時間の余裕はない、だが通り魔事件があって一人で帰すわけにもいかない。

 電車に乗り込む。
 終電間際の上り電車はほとんど人がいなかった。
 座席に身体を沈める。
 電話を取ってから初めて身体が止まったように思う。

 全身から血の気が引いて、呼吸をすることすら忘れそうなほど頭が働かない。
 匠は両手で顔をおおって、目的地までの道のり、寒心を耐えた。
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