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魚になる

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 僕の人生に光が差し込んだことはなかった。
「大学のひとつも通えないだなんて」
 母の声を背に僕は部屋に入り、ベッドの上にそのまま寝転んだ。大学で受けた暴行の跡が体の至る所から異常を訴えかけてくる。母はそんな僕を心配する様子も見せず、ひたすら言葉で僕を責め立てた。
「何のために生きているのかしら。人生それでいいと思ってるのかな」
 ただ母の言葉を心に感じることはない。響かないのだ。なぜか。
 幼い頃から僕は四肢のちぎれる様な痛みに苛まされてきた。その不自由さが心無い言葉による責め苦を楽にしてくれたのかもしれない。ただその痛みは同時に僕を責めるまたとない機会も生み出すのだが。学校では奇形と蔑まれ、家に帰れば母は僕のことを思いながらクラシック音楽に浸るのを見せられる日々だった。すべては父のせいと母はいう。「私はあの人に脅されて結婚したの」と言っていた。断ることも必要なのよ、と母はいうがそれは僕ではない虚空へ向かって呟かれた様に感じた。
「私は魚が好きなの。安心するの見てると。だから魚になりたい」
 母は遠い昔を懐かしむ様にいった。
 母は父を愛していた。父はそんな母を大切にしていたが、母の精神が不安定になると時々正気に戻すために叩いているのを見かけた。その顔は辛そうに歪んでいるのだが、僕が見ていることに気づくとなぜか僕も同席するように促された。
「いいか、愛情っていうのはただ優しいだけじゃ成り立たないんだ。こうして厳しく律してこそ本物の愛情だ」
 叩かれる母を見て僕は微笑む。母は自分の精神を管理するのに苦労しており、父はそれを手伝っている。僕は母が健常であることを絶えず願っていた。
「苦しい、本当に……」
 僕は母の肩を抱いた。
「大丈夫。すぐに僕が母さんを助けるよ」
 母の体は温かった。子を抱くための肌はシルクのように柔らかく、抱きしめれば母の持つ愛情が僕を満たしてくれるのを感じた。
 その日の夜、父が全裸の母を労っているのを見た。大きく唆り立った父の分身を愛おしそうにする母に、僕の陰茎もまた膨らんだ。歓喜の声と共に果てる肢体に僕は目を奪われ、自室でその昂りを終局へと導いた。絶え間ない安堵感が胸に広がり、そのまま部屋で気を失った。
 次に目が覚めると僕は魚になっていた。いきなりの出来事に気が動転するが、肢体は短いヒレや尾になっており、体は左右にしか動かせなかった。身を屈めることはできず、薄くなった唇がパクパクと音をたてるのを聞いた。
 自室の扉があく気配がした。
 声にならない悲鳴。およそ二メートル近い魚が床に横たわっているのだ。母はおそるおそる問いかけた。
「あなたなの?」
 僕は頷いた。
「なんで、そんな姿に……」
「この世界が憎いから」
 そんな、と母が驚いてみせる。
「母さんは魚が好きだから。魚になりたいって言ったから。母さんが苦しむ理由が僕だから。だから僕は魚に」
「だって、それじゃあ生きていけないよ」
「心配ない、海にいけばいい」
「だってあなた、人間なのに」
「人間じゃない。僕の世界はずっと海の底だった。光の一切あたらない、深い深い海の底。冷たくて、静かで、そして誰も行くことのできない」
「足はどうしたの」
「尾鰭に」
「腕はどうしたの」
「胸鰭と背鰭に」
「魚になってどうするの」
「海に行くために魚だよ。だから海に行くよ」
「海なんて……海なんて、いいことないわよ」
「陸も同じさ。だから大丈夫、きっと良くなるよ」
 そうして僕は海にかえった。
 深く深く、冷たい水の奥深く。ありとしあらゆるものが沈む海。
 その中に、一際光り輝くものがあった。
「あったあった」
 僕はそれを目指し、泳ぎゆく。
 水の噂によれば、母と父は離婚したそうだ。
 目論見通り──彼はそう言った。
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