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何某颯太の憂鬱2

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俺は傷だらけになったバジルちゃんを手に取ると一度家に戻る。

すぐに目につくよう、机の真ん中におくと通学鞄を持って玄関に戻った。

そこには凛とした佇まいの少女──瑞穂みずほが待っていた。もう先ほどの四白眼ではないが、不服そうな目をこちらに向けている。

「おまたせ、いこう」

玄関を出ると瑞穂は何も言わず後ろについてきた。

彼女の周りを謝罪と戸惑いの気配が漂っている。この微妙な空気の変化を感じ取る能力に俺は長けている。どうやらやつはもう退散したようだ。彼女は今日もやつの後始末に四苦八苦しているようだった。

バジルちゃんを踏み潰した後「二度とこんなもの持ち歩くな」と吐き捨て、それ以降は比較的落ち着いている。彼女のそんな姿を想像できる人間は皆無だろう。彼女の苗字は矢名川というが、矢名川瑞穂といえばここいらではちょっとした伝説的な聖人君子として知られている。やれ側溝に落ちたおばあちゃんを制服のまま飛び降りて助けただの、自分の誕生日でも見知らぬ人の相談に1日を費やしたただの、部活動が満足にできない予算の部のために生徒会として方々回って色んな人に頭を下げて助けたり、と善行の枚挙にいとまがない。学校に留まらず、地域全体でも彼女に頭が上がらない人は多々いるだろう。

彼女はいつでも忙しく、子供の頃と違い俺は遠くで眺めているだけだった。人間というのは、誰でも大なり小なり自身の欲や願望を持っており、そこから滲み出る醜悪な匂いが俺は苦手だった。ただその匂いが彼女からは一切しないのだ。清廉潔白。ほんとに文字通り良心に従って生きている人は稀有であり、俺の人生では彼女以外に見たことがない。子供の頃から彼女は善徳が敷き詰められた道の上を歩き続けてきた。だからこそ、俺と彼女が交わる道は想像できず、ただ俺は彼女を見るだけとなったのだ。彼女を前にすれば自分がいかに私利私欲で動いているかが自覚でき、ただただ己を恥じてしまう、そうなった人は少なくないだろう。

そんな彼女がある日突然、傍若無人な振る舞いを始めたらどうなるか。人間そういうこともあるとは思うが、俺は彼女に関しては危機感を抱いていた。これまで聖人君子だった人間が突然、人が変わったように癇癪を起こし始めたらどうなるか。それは、これまで行ってきた行為に対する手のひら返しが始まるのだ。どれだけ善徳があろうと、一つの過ちでその人の印象は180度変わってしまう。人は一度見下すと敬うことが難しくなる。良心が為してきた数多の行いも「見栄を張っていた」「偽りの気持ち」などと置き換わってしまう。これらの憶測が本当であることもあろう。ただ俺は彼女が嘘偽りなく良心であったことを知っている。

それがどれほどの価値を有しているか、俺の家ではその類の話を嫌というほど聞いている。世界は騙し取られている

ばかりである。何が正しくて何が間違っているか、その見極めが大事なのだ。

「ねぇ」

通学路の景色が住宅街から主要道路が走る大通りに変わり始めた頃、瑞穂が話しかけてくる。

「あぁいう趣味、やめた方がいいよ。心に毒だよ」

「……」

少し訂正。

良心でも間違うことはあるのだ。

「……模範回答だけが人を救うわけじゃない」

思わぬ角度からのパンチにそう答えるのがやっとだった。
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