物憂げなドール

浅葱ポン酢

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8.潮騒の影

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「ごめんくださーい!」


海岸沿い、生臭い磯の香りが漂う辺境の地。そこには木造のあばら家が一軒ぽつりと建っていた。庭のように見える場所は一切手入れされておらず、名前もわからない雑草たちが無作法に茂っていた。

「ごめんくださぁーい!サエキですぅー!」

返事がない。木屑を寄せ集めたようなこの建造物には古いインターホンが付いている。が、押しても呼び鈴の音は出ないことを佐伯は知っていた。壊れているのだ。壊れたまま放置されている。だから彼は面倒にもこうやって玄関の引き戸の向こうから大声で呼びかけるしかなかった。しかしいくら声を張れどもその声は穏やかな潮騒とともに虚空に響くばかりであった。

(やれやれ)

佐伯は引き戸に手をかけた。すりガラスががたがた揺れる。水分を吸った扉は佐伯の手の力に少しばかりの抵抗をみせたが、彼が思い切り力を込めると呆気なくガラリと開いた。鍵はかかっていなかったようだ。不用心にも程がある。それとも家主は最初から人が訪ねて来ることを考慮していないのかもしれない。

「勝手に入っちゃいますよぉー!」

彼は玄関に入った。まず最初に目に飛び込んできたのは溢れるほど並んだゴミ袋たちであった。薄く湿り気を纏ったゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。彼らのおしくらまんじゅうを尻目に、ギシギシと悲鳴をあげる木の廊下を歩く。あばら家は木造だが、ガラスやタイルといった西洋かぶれの建材も所々見えた。キッチン、風呂、便所、あとはホコリや苔を蓄えた恐らく長く使われていないだろう部屋が幾つか。しかしそのどこを覗いても家主の姿はなかった。それどころか人の気配など全く無く、ひどく静まり返っている。佐伯の右目尻がピクリと動く。廊下の突き当たり左、窓から海が見える部屋に木でできた簡素なテーブルと椅子があった。キッチンの隣にあるその部屋はどうやらダイニングルームのようだ。ボロボロのテーブルの上には花瓶がひとつ。濁った水には、元は綺麗な花だったかもしれない枯れ果てた草きれが刺さっていた。佐伯は椅子のホコリをサッと手で払い、腰掛けた。部屋を眺める。何も無いように見えて、壁や床には朽ちた壁紙やカーペットの面影が残っていた。壁に打ち付けられた錆びた釘やそれを抜いた跡もあった。何かが掛けられていたのかもしれない。佐伯はテーブルに両肘をつき、重ねた手の甲の上に顎をのせ深くため息をついた。窓からぼんやりと陽光が差す。部屋はむせ返るように磯臭かったが、潮騒の音は絶えず穏やかに響いている。

ふと、床の上を何か白い影が通り過ぎた。動いた先を目で追うとそこには一匹の白いネズミがいた。赤い目をしたそのネズミは首をもたげ、腰掛ける佐伯を訝しげに見上げている。

(実験用のモルモットか)

佐伯が立ち上がると、モルモットは目で追えぬ素早さで部屋の外に走っていってしまった。佐伯はモルモットが立っていた辺りの床を調べる。近くで観察するとカーペットの残骸に加え、床には何か重いものが擦れたような跡がいくつもいくつもあった。不意に、佐伯が革靴で踏みつけた足元からカツンという金属音が聞こえた。それを聞くと、佐伯は床にしゃがみこみ、白衣のポケットから手袋を取り出し手にはめた。そして先ほど椅子のホコリを払ったよりも入念に床のホコリを手で払った。すると何やら鉄の扉と取手のようなものが見えた。ガチャり、ギギギと音を立てて開けてみると、地下に続く真っ暗な階段が見えた。佐伯はポケットから小さなライトを取り出し、照らしながら慎重に降りていく。
階段はそう長くはなかった。しかしだからこそ扉を開けた時から奥の部屋から感じたそれは急な坂を転げ落ちるように強さを増した。異臭である。不快感を催す臭い。しかしそれは不快感に留まらず、根本的に人間とは相容れないような、相容れてはいけないようなものだった。佐伯はマスクを取り出し、素早くはめた。奥の部屋。広さは四畳半程だった。しかし見えているスペースが四畳半というだけであって本当の部屋面積はもっと広いのだろう。佐伯はライトを器用に使い、四方の壁を順に照らしていく。部屋の四方には大小様々な機械たちが置かれていた。鉄の機械、様々な計器、ガラスのフラスコ、試験管。中には一際大きくて太いガラス管もあった。まるでSFの世界に迷い込んで来たようである。だだし、ライトセーバーやスペースコロニーといった華やかなファンタジーの世界ではなく、カビ臭い、サビ臭い、ジメジメとした地の世界であった。あるいは血の世界かもしれない。そこにあるのは輝かしい期待感ではなく、おぞましい執念であった。

……先程この部屋に入った時から、佐伯が目の端には捉えつつも、あまり直視していないものがあった。部屋の奥。角の隅。そこにはデスクがあった。金属製のデスクとキャスターの着いた椅子。椅子の背もたれのクッションは茶色く変色し、ところどころモルモットに齧られ、中身の綿が噴出していた。

佐伯はガラスや鉄くずが散乱する足元に気をつけながら、慎重にデスクに近づいた。デスクの上も汚く散乱していた。平積みされた何かの学術書。試験管立てには空の試験管数本。天井から垂れた雨水が溜まっているものもある。デスクの上に転がり、無様に中身をぶちまけているものもある。

その中、一際大きな試験管。……ではなく、これは瓶だろうか。ラベルの着いた薬瓶。中身は空っぽで、蓋は試験管の隅に叩きつけられていた。ただし薬瓶はただ無造作に転がる試験管とは違う点がひとつあった。
佐伯はライトでデスクの中央を照らす。先程からしていた酷い臭いはここに来て強さを一層増していた。

デスクには、白衣姿の男性が突っ伏していた。佐伯が近づいても全く動かず。ライトで照らしても全く動かず。その手には薬瓶がしっかりと握られ、身体からは吐き気を催す死臭を放っていた。

佐伯は手袋をした手で男性の手首に触れた。ほんのり硬く、そして冷たい。佐伯の眉間には深くシワが寄っていた。彼はそっと死体の肩を起こした。死体の顔を見て、佐伯の右目尻がまたピクリと動く。死体を椅子の背もたれにもたれさせる。手元のライトを使って、閉じられた両目を片方ずつ指で開きライトで照らした。開く、照らす、閉じる。開く、照らす、閉じる。それら動作は至極淡々と行われた。

佐伯は死体から手を離した。大きく肩を上げ、下げると同時にとても大きく溜息をついた。

「薬品の過剰摂取による自殺……。なるほど。通りで何も聞こえないわけだ」

佐伯はため息混じりにそう吐き捨てた。

「…………美空先生」

聞こえるか聞こえないかの小さい声で彼は呟いた。彼は両手を合わせようとした。が、途中、思い立ったようにやめた。両目を閉じ、慣れない手つきで十字を切った。そして目を閉じたままもう一度深く溜息をついた。

佐伯はもう一度部屋の周りを見て回った。部屋の一角に大きな棚があり、そこには大きなガラス瓶のようなものが複数並べられ、電極で大きめの機械や計器と繋がっていた。その多くは白ずんだり割れたりしているが、棚の上の方にはいくつか比較的真新しいものもあった。

「Smith Beetle、Robert Ostrich、Emily Horse、Johnny Spider…………」

ガラス瓶にはそれぞれマジックペンで奇妙な英字が刻まれていた。名前のつもりなのだろうか。丁寧な字で書かれたものから、走り書きされたようなもの、中にはアルファベットそれぞれが全く違う大きさで書かれたものもあった。

ひとつ、棚の列に不自然な空きがあった。佐伯は近づいて照らそうとした時、カツン、と何か革靴で蹴飛ばしてしまった。足元を照らすとガラス瓶がひとつ、床に落ちて割れていた。佐伯はゆっくりとしゃがみライトで割れた瓶を照らす。その瓶にも他の瓶と同じように名前が刻まれていた。それを見た時、彼は舌打ちした。

(なるほど。ヤツらもここに立ち入ったってわけか。やれやれ、訃報のひとつくらい寄越してくれれば良いものを……。痕跡はきっちり消してるくせに、後処理についてはボクに任せきりか)

瓶には黒文字でこう書かれていた。





Thomas Woodpecker
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