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7.キス
しおりを挟む「ただいま」
家に帰るとどうしても言ってしまうただいまの挨拶。この下宿に来てからもうそろそろ二年。一人暮らし自体はそれより前から経験があるし、家に帰っても誰も待っていないことはわかりきっている。だけど何故か、どんな生活をしていてもただいまの挨拶は欠かしたことが無い。言わないとなんだか落ち着かないのだ。変えられぬ習慣かルーティンワークか。
『帰りを待ってルのは何も同居人だけじゃないだろうサ。家具、家財、カベ、家という空間そのものにアンタはただいましてルのヨ』
アイツはそう言っていたっけ。それもいいかもしれない。
(違う。今の私にはサクラコが居るんだった)
靴を脱ぎ、上着を掛け、そっと部屋を伺う。
「あれ?」
見るとサクラコはいつものように机の前に座っていた。けれどいつもと違いその目は閉じている。耳を澄ますと微かにスースーという音が聞こえる。
(座ったまま寝てる?)
今まで私が目覚めている時はサクラコの目は常に開いていた。絶えず瞳孔がん開きで私を観察しているのでよく分かっている。彼女の目が閉じられているところなど見たことがない。それどころかスヤスヤと眠っているなんて。そういえば、夜、私が寝ている時サクラコがどうしているのか考えたことがなかったが、こんなふうに私の隣で安らかに寝息をたてていたのだろうか。
私は彼女を起こさないようにそうっと近づいた。決して起こさないように、そうっとカバンを置き、そうっと屈み、そうっと顔をのぞき込む。切れ長の目は滑らかな線となり、きらきらとした睫毛を垂らしている。潤いを湛えた唇はしっとりと閉じられている。私は彼女の柳眉にそっと触れてみた。彼女の肌はあまり綺麗ではない。頬にもちらほらとそばかすが見えるほどだ。触れた指先からは確かなヒトの温もりと儚い生命の危うさを感じた。
(サクラコはやっぱりサクラコだ。アレとかソレとか、そんなんじゃない。そんなテキトーな何かじゃない)
最初は少し触れるだけのつもりだったのに、いつの間にか私は執拗に彼女の肌を撫でていた。前髪に触れ、少しかき揚げてみる。いつも以上にされるがままのサクラコはなんだかあどけなくて可愛らしかった。すると突然サクラコの頭が動いた。
(おわっ!?)
座ったまま寝返りをうった感じだろうか。体勢を崩した彼女は私の方に倒れ込んだ。咄嗟に彼女の身体を支える。頭がもたげられ、つややかな首筋があらわとなった。サクラコの首筋。眺めていると、ふと、私の心臓の鼓動が早くなる。どくん、どくん、どくん。私はさっきよりもより慎重に、そっと首筋に触れた。サクラコの首筋は男性のように筋張っているが、触れると女性のように柔らかだった。ドク、ドク、ドク、ドク。サクラコの肩を抱き、顔を寄せる。
そしてそっと、首筋に淡いキスをした。
顔を戻す。サクラコの顔を見る。目が合った。
「…………はっ!?」
私は慌てて手を離した。急に支えを失ったサクラコは当然倒れた。机の縁に勢いよく頭をぶつける。
(なにしてるんだわたしなにしてるんだわたし何してるんだ私っ!!)
頬が熱くなり、両手の指先で抑える。
「あっ!サクラコ大丈夫!?」
机の角にダイレクトアタックしたように見えたサクラコだったが、すぐさまスっと起き上がった。けろっとした顔。頑丈なようだ。
「ご、ごめんねサクラコ。あ、あの、その、ちょっと調子に乗っちゃって」
見られた?知られた?感じられた?なんだろう。とりあえずサクラコに何か醜いものをを晒してしまった。とにかく私は謝るしかなかった。何を謝っているのかはわからないが。必死に有り合わせの謝罪文句を並べる私をサクラコは不思議そうな顔で眺めていた。
◇ ◆ ◇
「———帰りに夜道で出会った?」
「うん」
ユッキーは険しい顔で私の話を吟味する。あのサエキ?とかいう味噌汁うどん野郎が去った後、私は小一時間この後輩に問い詰められることとなった。いや、正確には午後の授業が終わった後いつもの第六集会室に呼び出されたのだった。
「つまりミハル先輩はその見知らぬ高身長の女性を自室に連れ込み、サクラコと名付けて共に生活をしていると。そういう訳ですか」
「その言い方だと私が変質者みたいね……。でもおおかたそれで合ってるよ」
「おおかた?」
「へ?」
「どうして『おおかた』なんですか。どこか違う点でもあるんです?」
ユッキーは私を問い詰める。彼は別に人相が悪いわけではないのだが、こうやって眉間にしわ寄せて問いただされるとどこか恐い印象を受ける。
「怒ってるの?」
「別に怒ってないですよ。質問をしてるだけです」
彼は決まってこう答える。アッキーが彼のことを陰で尋問官と呼んでいたことがある。おそらく尋問をするのは警察官や検察官であって、尋問官なんて役職はないのだろう。けど、この呼び名ほど彼を象徴するものはない。第六集会室の尋問官、名取幸織。
「で、どうなんです?」
「いや、大した意味はないよ。おおかた合ってるってのは言葉のあやというか、婉曲表現というか、そんな感じでさ」
違う。本当は意味はあった。私はただ道端で拾った見知らぬホームレスを養っているのではない。私はあの時、彼女に魅了されたのだ。どうして魅了されたのかはまだ分かっていないけれど、私の心を結びつける楔のようなものがサクラコにはあるのだ。だけど、ユッキーにその感覚を言葉で伝えるのはあまりに難しい。それに彼に余計なことを言うと、事態があまり良くない方向に混乱する気がした。
「そうですか」
ユッキーの返事は意外にもあっさりとしていた。どうやらこれ以上掘り下げる気はないらしい。私はほっと胸を撫で下ろす。
「それで、そのサクラコさんは今は何処に居るんです?」
「家でお留守番だよ。あの子大人しいから私が居ない時もずっと机の前に体操座りじゃないかな」
「それは……不摂生じゃないですか?」
「フセッセイ?」
彼の眉間にまたシワがよる。しまった。何か余計なことを言ったか。
「先輩がいない間はずっと体操座りのまんまなんですよね。全く外出させないなんてそれではサクラコさんも健康を害してしまうのでは?しっかりお散歩させないと」
「そんな徘徊老人じゃないんだから……」
「どちらかといえばペットですね」
「ペット!?ちょっとユッキー、サクラコを何だと思ってるの?」
「でも先輩の話を聞いていると、サクラコさんはまるでペットみたいです。何も言わないで主人の外出中はおすわりして待ってるだなんて飼い犬と何が違うんです?」
「……そこまで言わなくても」
そんなに言われてしまっては私だって拗ねる。でも確かにユッキーの言ってることは最もだった。私はサクラコを大事にするあまり、サクラコ自身の生活とか生き方とかは全く考慮していなかった。傍から見たら愛玩動物を愛でているのと何が違うのかわからない。
「すみません……ちょっとアクセルがかかりすぎました」
拗ねる私を見てユッキーは狼狽した。きっと彼にも悪気はない。
「いやボクが言いたいのはつまり、サクラコさんを一度ここに連れてきてみてはどうかってことなんです」
「え?第六集に?」
「ええ。サクラコさんは今のところ外出どころか、先輩としか接触してないみたいですし、もしかしたらボクやアッキー先輩と会ったら何か変わるかもしれません。もしかしたら会話も出来るかもしれない」
本当はこれも間違い。サクラコは私だけじゃなくてミカママ、あの母性溢れる中年男子とも会っている。だけどミカママの事まではユッキーには話していない。ミカママとの関係は私の胸に秘めておきたい部分だ。少なくともまだ六集のメンバーには話したことがない。でもそれを差し引いても、この六集にサクラコを連れてくるなんて考えてもみなかった。
「そっかぁ……そうなのかなぁ……」
「とりあえず検討だけでもしておいてください。先輩」
「やけに積極的だね」
「ボクはいつも積極的です」
「まぁそうだけど世話焼きだなぁって。政治家みたい。それともお母さんかな」
「政治には興味がないですね」
「じゃあお母さんだ!名取ママだ!」
「……ボクをからかって遊ぶのはいいですけど、サクラコさんのためにも今日は早く帰ってあげてください」
ユッキーはやけに丁寧にそう言った。けれどその声色は穏やかで優しかった。
「そばにいるというのは大事なことです。……ええ。とても、大事なことです」
そう言う彼の顔はなぜだか、どこか悲しそうだった。
◇ ◆ ◇
「ねぇサクラコ」
サクラコの耳がピクリと動く。
「あなた、ちょっと外出してみない? うちの大学へ、といっても第六集会室っていうへんぴなところなんだけど」
私は中腰になって座っているサクラコに問いかけた。サクラコは無言で私を見つめ返す。これは了承だろうか拒否だろうか、肯定だろうか否定だろうか。どうだろう。
『——キミが彼女を変える———』
(サクラコがどう思ってるかはわからない。けど私がついてきてほしいと望めばサクラコはついてくるんだろうな。きっと)
それが無理強いであろうと、頼み事であろうと、願い事であろうと関係がないのかもしれない。
私は右手を顎に添えてじっと考える。そんな風に考え込む私でさえもサクラコは黙ってみていたが、不意にサクラコが立ち上がろうとした。何をするのだろうと思うと、彼女は突然、私の肩に手をかけた。
「えっ!ちょっと!」
引っ張られる。サクラコの膝が私の腿に触れる。右手は顎から外れ、私の両手は行き場を失った。サクラコの顔が近づく。なびくような睫毛、エロティックな三白眼。そして薄橙に色づく唇。
(ちょっと待って心の準備がっ……って、キャっ!)
あたふたした両腕のせいか、私は手を滑らしバランスを崩した。私はのけぞり、サクラコともども倒れこむ。
———サクラコの唇が私の右頬に触れた。
(いたたた……)
背中が痛い。前を見るとサクラコが両手を私の頭の両側につき、片膝を私の両足の間につき、仰向けの私に覆いかぶさっていた。眩暈がするような状況だ。そして彼女はしっかり安定した状態で今度は私の左頬にキスをした。
(ひえええぇぇ)
くらくらする。彼女は真顔で見つめる。
「……もしかして、私にキスされたの、ホントはちょっと気にしてた?」
私は不安そうに視線を返す。彼女は少し首を傾げた。もう一度キスしようとする。
「ちょ、ちょっとっ!ごめんって、わかった!わかったから!もうしないから!だから勘弁してぇえっ!」
秋の夜長に私の黄色い悲鳴が響いていった。
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