恋を失くした日

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恋を失くした日

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 暖かい日差しが差し込む穏やかな金曜日の放課後、私はあっけなく失恋した。
 友人にも話していない秘めやかな想いは、人気のなくなった2年A組の教室を覗いたせいで見事に砕かれた。教室の窓際で二人、あんな距離で、あんな眼差しでお互いを見つめることができる関係性は、ひとつしかない。
 私の好きな人には、恋人がいた。その事実を知った途端、廊下で一人立ち尽くしている自分が、途轍もなくちっぽけな存在に思えて、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の練習音に溶け込んで消えてしまいそうだった。

 月曜日、適当な理由をつけて学校を休んでしまおうかとも思ったけれど、嘘をつく気力も湧かず慣性に任せて家を出て、電車に乗り、学校へ向かう。いつもと同じ風景。いつもと同じ喧騒。教室へ入れば、待ってましたとばかりに友人である夕紀子が駆け寄ってきて「世奈、お願い!」と顔の前で両手を合わせる。

「今日の数学の宿題、見せて! すっかり忘れてて慌ててやってるんだけど、もうさっぱり分からなくてさ」
「……いいけど、軽く教えながら見せてあげる。そっちのほうが理解しやすいでしょ」
「ひゃー助かる! てか、なんか元気なくない? スマホとか財布落とした?」
「まぁ、そんな感じ」

 自分の机に鞄を置き、数学のノートを取り出して夕紀子の席へと行く。彼女が分からないと言った問題の答えと解き方を教えながら、私はそっと視線を廊下側の前から三番目の席へと動かした。
 紫藤くんはいつも通り、そこに座っていた。明るめの茶髪、シルバーピアス、緩く結ばれたネクタイ。スマホをいじりながら隣の男子とお喋りをしているその姿を見ると、金曜日のあの光景は噓だったんじゃないかと思ってしまう。
 あの隣の男子は、紫藤くんに恋人がいることを知っているのだろうか。彼らのことを知っている人物は、私以外にいるのだろうか。

「ねぇ、問五の数式ってさ、なんでこの組み合わせになるわけ?」

 夕紀子の声ではっと我に返る。何も知らない彼女に金曜日の出来事を伝えるつもりなど微塵もなかった。しかし、心の底に押し込められた黒い靄のような気持ちは、逃げ道もなくこの前から質量を増すばかりだ。夕紀子にこれ以上悟られないよう、ノートに書かれている数字を指差し淡々と問題の解説をする。
 何かもう、全部馬鹿らしい。
 ホームルーム前の教室内のざわめきの中、酷く冷めた頭でそう思った。

***

 昼休み、昼食を食べ終えて三年生の教室へ行くと、吹山先輩が調子のいい顔をして「屋上からの風景写真、撮ってきて」と開口一番に言う。脈絡のない突然の命令に思わず「は?」と声をあげてしまった。先輩に向かって失礼な態度かもしれないけれど、吹山先輩に対してはどうしても敬意を払えない。

「それ言うために私を呼び出したんですか。というか、なんで写真?」
「冬森高校創立百周年の記念新聞、生徒会で発行するだろ? それに使いたいなーって思って。現在の景色と百年前の景色並べたら、なんかいい感じになるでしょ」
「だからってどうして私に……。私よりも写真撮影が上手な人、いると思いますけど」
「皆部活やら塾やらで忙しいみたいなんだよね。俺もホラ、一応生徒会長でもあるし、弓道部の部長もやってるし、なかなか時間が作れないのよ」

 言い訳を聞けば聞くほどイライラ値が上昇してしまう気がしたので、言葉を被せる勢いで「そうですか分かりました」と返事をすれば、先輩はニコニコしながらお礼を言ってくる。まともに顔を見れば、手が出てしまいそうだ。

「先生には言ってあるから、放課後に職員室から屋上の鍵持っていって。なるべくいい感じの写真を沢山よろしく」

 いい感じの写真って、どういう写真だよ。心の中で思い切り悪態をつきながら階段を下りて自分の教室へ戻る。席に座って動画を見ながら爪を磨いていた夕紀子が私に気づくと、化け物を見たかのような形相で「ひえっ」と小さく叫んだ 。

「ど、どうしたの。会長に呼ばれたって言ってなかった? パワハラでもされた?」
「仕事押し付けられた。放課後」
「えっ、じゃあもしかして、Ruiくんの写真集のリリイベ一緒に行けない?」
「多分。そんなに時間かからないとは思うけど、授業終わってすぐに学校出なきゃ間に合わないんでしょ?」
「そうなんだよね……えー、残念。まぁ世奈は完全にあたしの付き添いではあるけどさ」
「恨むなら生徒会長サマを恨んで」
「いやぁ、あの完璧なお方を恨むことは出来ないかなぁ」

 吹山先輩は頭もよく運動もできる上に、外面がいい。(おまけに顔もいい。)しかし私は初対面の時から何となく笑顔の裏に胡散臭さを感じて、あまり好きになれなかった。
それを先輩はすぐに見抜いたのか、私に対しては割と大雑把な態度で接してくる。私に取り繕っても意味がないと思っているのだろうか。
今回の雑用だって、私がよほど大切な用事がない限り、生徒会の活動を優先するだろうということを見越してお願いをしてきたような気がする。先輩の視線は時々、私の中身を読むような無遠慮な気配を含んでいた。

「……ごめんね。一応、生徒会長の手下みたいなものだから、命令には従わないと」
「そんなに気にしないでいいよ。 あたしは大丈夫だから、お仕事頑張ってね」

 夕紀子は軽く首を振って笑顔を浮かべる。推しのモデルに会える日だからだろう、今日の彼女の髪、メイク、爪、制服は全て整えられていて、きらきらと輝いていた。こんなに可愛い夕紀子の隣に、私がいないのは正解なのかもしれない。

 放課後になりクラスメイトたちが部活や繫華街に向かう中、私はまず生徒会室へ行って備品のデジカメを持ち出し、指示通り職員室で屋上の鍵を借りて階段を上る。屋上へと続くこの階段は、何故か他の階段とは異なり手すりが木製で床のタイルも古めかしく、時代に取り残されたような淋しい空気が漂っていた。
 階段を上るほどに放課後のざわめきは鳴りを潜め、屋上の出入口ドアの前に立った時には辺りはしんと静まり返っていた。回りにくくなっている鍵を何とか回してドアを開けると、すぐに初夏の風が顔にぶつかってくる。心なしか、教室の窓辺で受ける風よりも新鮮な匂いがする。普段は立ち入ることができない屋上。レアな体験ではあるけど、今はそんなに心は弾まない。

「……さっさと終わらせよ」

 ぼそりと呟きながらカバンをドア近くに置き、デジカメの起動ボタンを押した。デジカメはすぐさま小さな起動音を鳴らし、レンズカバーが開く。液晶画面いっぱいに屋上の風景が映った。
 いい写真と言っても被写体は生き物でもないのだから、とりあえずピンボケしていない全方位の風景写真をたくさん撮っておけばいいだろう。数十枚もあれば、会長の気に入る写真も出てくるはずだ。
 数歩移動して撮影、また数歩移動して角度を変えて撮影。それを繰り返していると、一周まわった時にはかなりの枚数の写真が撮れていた。この地域で目立っている電波塔も、遠くに見える富士山も、都会のビル群もしっかりと撮れているし、もう十分だろう。これで文句を言われたら自分で満足のいく写真を撮ってもらうしかない。
 ふう、と一息ついて柵にもたれる。空は徐々に淡いオレンジへと染まっていき、風も冷たくなってきた。遠くからカラスの鳴き声が聞こえてくる。
ここなら誰も来ないだろうし、一本くらい、いいか。
そう思い、カバンから隠し持っていた煙草を取り出し、口に咥えた。別に普段から吸っているわけじゃない。でもどうしても自分の中に溜まっている何かに耐えきれなくなった時、煙とともにソレを吐き出すために吸うことがある。苦みと煙たさと安堵感。私はただのクソ真面目でつまらない人間ではない。悪いことだって出来る人間だ。大丈夫、私はまだ壊れない、まだやっていける。そう言い聞かせながら。
ここ最近の薄暗い気持ちを晴らすようにライターの火をつけようとした時、急にドアが開いた。しまった、鍵を閉め忘れていた。やってはいけないミスに思わず顔を顰める。幸いドアの側面方向にいたのですぐに侵入者に気づかれることはなかった。急いで隠れようと足音を立てずに背面に行こうとしたが、聞こえてきた声に思わず立ち止まってしまう。

「めずらし。屋上が開いてるの」

 紫藤くんの声だった。彼の言葉に対し、その隣にいる人物が返答をする。

「点検か何かに来た先生が締め忘れたんじゃないか? 戻って職員室に報告しにいこう」

 久住くんだ。その声を聞いて、私の身体は完全に固まってしまう。やだ、もう二度とこの二人が一緒にいるところは見たくなかったのに。
 久住貴嗣。定期テストでいつも学年五位以内には入っていて、いくら私が頑張っても絶対に追い抜けない人物。そして、高校入試を主席でパスした人物。
 この学校では、入学式の新入生代表挨拶は入試主席の者が行うことになっている。しかし、私たちが入学した代の代表挨拶は、二番目の私がやった。後から聞いた理由は「久住くんが人前に立つことを嫌がったから」らしい。その噂はどこからともなく学年に浸透してしまい、お陰で私は「二番目の人」として印象付けられてしまった。
 おまけに生徒会への参加を立候補する者が誰もいなかった際、またしても久住くんは先生からの生徒会参加の打診を断ったらしく、その話が二番目の私に回ってきた。内申点が上がりそうだからという打算もあって私は生徒会へ入ることにしたが、結局私はまた久住くんの代わりとなった。
 彼とは一緒のクラスになることはなく、話したこともなかったし、話したいとも思わなかった。目の前に彼が立っていれば、私はこの人の代わりなのだということを実感せずにはいられないから。そんな惨めな思いをわざわざしようとは思わない。
 それなのに。

「いーじゃん。少しここにいようぜ。気持ちいいし」
「あまり悪いことはしたくないんだけど」
「こんなの、悪いことに入らないって、ほら」

 紫藤くんが久住くんの手を引き、ドア付近で立ち止まっていた久住くんを引っ張り出す。紫藤くんの声はいつもより少し明るかった。この時間を心から楽しんでいるんだろうなぁという雰囲気が伝わってくる。やっぱり本当に、久住くんが好きなんだ。金曜日の放課後、生徒会の事務作業を終えた帰りに見てしまった教室の光景を思い出し、心臓の辺りが苦しくなる。

「……なぁ、ここなら誰もいないし、少しくらいいいだろ?」

 紫藤くんがぎゅっと久住くんのことを抱きしめた。駄目だ、やめろと久住くんは騒ぐが、紫藤くんは変わらず久住くんを抱きしめる。

「今日、あまり話せなかったから、その充電」
「だからって、ここじゃなくても」
「ここだからいいんだよ。外でこんな風に思い切り抱きつけるなんて、あまりないじゃん」
「まぁ、そうだけど……」

 久住くんは大人しくなり、少しの間無言の時間が続いた。「キスしてもいい?」と紫藤くんが言ったところで私はもう耐えきれず、二人の前に姿を見せた。

「ここに人、いるんだけど」

 瞬間、二人はすぐさま身体を離しこちらへと顔を向けた。おそらく、めちゃくちゃ不機嫌な顔をしているだろう私を見て、最悪な結末を予想したのか彼らの顔は瞬時に強張る。
 しかし、紫藤くんの視線が私の指先へと移動すると、冷たい声で問いかけてきた。

「御影もここで結構悪いコトしてるみたいじゃん?」

 衝動的に二人の前に飛び出してしまったので、指先に煙草を挟んだままだった。ヤバイと思い咄嗟に隠したけれど、もう遅すぎる。これが先生にばれたら多分人生終了だ。お互い、最悪な状況になってしまった。
 ドアの鍵を閉め忘れた自分を殴りたい気持ちをぐっと抑え、二人に取引を持ち掛ける。

「ここで見たこと、お互い内緒にしない? 紫藤くんたちだって、その、周りに知られるの困るんじゃない?」
「……俺は別に困らないけど」
「いや、俺は出来たらやめてほしい」

 久住くんが慌てて取り繕う。初めてこの人をこんなに近くで見た。紫藤くんより背は小さい。でも私よりは十センチほど高い。眼鏡をかけているけれど、野暮ったさは感じられない。思っていたよりも普通の人。この人の代わりが、私か……。
 制服のポケットに入れていた屋上の鍵を取り出し、久住くんに押し付ける。

「じゃあ取引成立。ちょっと用事があって職員室から鍵借りてたの。十分楽しんだらちゃんと施錠して、職員室に返して。よろしくね」
「あっ、ちょっと待って……!」

 引き留めようとする久住くんの声に、校内へ戻ろうとしていた足が止まる。もう一度彼を見つめる。何かを言おうとして、でもどんな言葉を言えばいいか分からないという表情。気づけば私は冷たい視線を投げて「こんな人だと思わなかった」と言ってしまった。その後ろから「御影!」と紫藤くんが声を荒げていたが、無視して乱暴にドアを閉め、階段を下りる。
やってしまった。今までの鬱憤がついこぼれてしまった。これでもう私の印象は最悪だろう。こんな風になりたかったわけじゃないのに、どこで間違ってしまったのだろう。
 
 紫藤くんを好きになったきっかけはほんの些細なことだ。お弁当を忘れたとある日、購買での食糧獲得戦に負けた私は饅頭一つを手にして教室に戻ろうとしていた。そこに紫藤くんが「これあげる」と声をかけてくれたのだ。差し出されたのは野菜ミックスサンドだった。

「サンドイッチ? いいの?」
「うん。弁当だけじゃ足りなさそうだから買ったけど、トマト入ってるの気づかなくてさ。トマトあまり好きじゃないんだよねー」
「あ、ありがとう。いくらだった?」

 お金はいらないと紫藤くんは言った。でもそれじゃ申し訳ないとなかなか引き下がらない私に、彼は少し悩んだ後にサンドイッチの包装についていたキャンペーンシールを剝がす。

「じゃあこれでいいよ。うちの母親がこのシール集めてるから」
「そんなんじゃ全然代わりにならないよ」
「十分十分。もう少し集めれば『春の花舞う可憐なお皿セット』と交換できるらしいし」

 いたずらっぽく笑い「じゃあね」と紫藤くんは階段を駆けていった。たったこれだけ。これだけの会話から私は彼のことが気になり出し、気づけば目で追っていて、気づけば彼の視線がこちらを向けばいいのに、と願うようになった。
 そんな気持ちをずっと抱えたまま、教室での二人の密会を見てしまったら、それはまぁそれなりのダメージは受けてしまう。
 でも同時に、私は紫藤くんに対して何の行動も起こしていなかったことも理解していた。私がただ願っているだけの間、彼と距離が近づき想い合うことになる誰かがいたって、何もおかしいことはないのだ。
 結局、私はただの負け犬。それは分かっているけど、でも、残酷な事実を受け止めるのは思いの外辛いものだった。
 だからといって久住くんに八つ当たりしてしまったのは悪手だった。最後は紫藤くんも怒っていたようだし、もう、完全に終わった。

 この世の終わりのような絶望を抱えて、とりあえず撮った写真は会長に一度確認してもらおうと弓道場へ向かう。引戸を少しだけ開けて中を覗き見ると、吹山先輩は丁度弓をひいている最中だったので、音を立てないようにして道場の隅に移動する。先輩が的の正面に立っている間は、場の雰囲気がそれとなく張り詰めているのが分かる。多分、先輩が実力者であり、そんな先輩の一挙一動に部員たちが皆静かに注視しているからなのだろう。
 全ての矢を射た後、長く息を吐いてから先輩が的から離れた。部員たちの邪魔にならないようにして、先輩にこっそりと声をかける。

「吹山先輩、ほんの少しだけお時間いいですか」
「あれ、御影ちゃんだ。どうしたの」
「どうしたのって……先輩から命令を受けた写真、一応確認してもらいたいんですけど」
「ああ、ほんとにやってくれたんだ。ありがとう」

「ほんとにやってくれたんだ」って、じゃあやらなくてもよかったんですか!? と言いたくなりつつも、ぐっと我慢してデジカメを渡す。先輩は額に浮かんだ汗をタオルで拭いながら、デジカメの液晶画面に表示された写真を一枚一枚確認していった。

「……これだけの枚数があれば大丈夫だね。昔の写真は学校で保管しているらしいから、それは俺の方で準備しておく」
「分かりました、お願いします。カメラは私が生徒会室に戻しておきます」
「せっかくここまで来たんだし、御影ちゃんも弓、やっていく?」

 ラーメン屋寄る? みたいなノリで誘う吹山先輩に、私は素っ気なく「遠慮しておきます」と返事した。一度も弓を触ったことがないのにこの場で何が出来ると言うのだろうか。

「経験なくても大丈夫だよ。俺が教えてあげるし」
「大会が近いんじゃないですか。時間を無駄にするのは止めたほうがいいと思うんですけど」
「でも、弓を持って的の前に立つと自然と心が落ち着くよ。今の御影ちゃんにオススメ」

 また勝手に人の内面を盗み見た。我慢できずに先輩を睨みつけると、涼しい顔をしてにこりと微笑みかけてくる。苛々する。先輩が言っていることは間違ってはいないから、余計に。
 爪が掌に食い込むほど強く拳を握り、感情的にならないようにと自分に言い聞かせて口を開いた。

「私、そんなに酷い顔してます?」
「酷い顔っていうか、なんか色々悩んでそうだからさ」
「……先輩はそういう時、どうやって弓をひくんですか」

 吹山先輩は少しの間私を見つめ、そしてゆっくり的のほうへと視線を動かす。

「そうだな。まずはそんな気持ちでは絶対に矢は的に当たらない。だから雑多な感情はある程度捨てなきゃならないんだ」

 先ほどまでの先輩とは打って変わって、冷静に淡々と説明をし始める。

「さっきも言ったけど、弓を持って的と向き合うと周囲の音が遠のいて、心が落ち着いてくる。世界にいるのは俺と的だけだ。的に矢を当てるために、俺は自分自身と会話をする。どうしてそんなに落ち込んでいるのか、苛立っているのか。それは自分のエゴではないか。そうして問い続けて、自分に勝たなければならない。自分を打ち負かして雑念を消した時に矢から手を離せば、矢は自然と的を射ている」

 そんな感じ、と笑う。
 伊達に弓道部の部長をやっているわけではないらしい。この人の話に耳を傾けてしまったのは悔しいが、同時に自分の愚かさも痛感してきて、握りしめていた拳から力が抜けていく。

「そういうもの、ですか」
「まぁ、なかなか思い通りにはならないけどね。興味出てきたら、またおいでよ」

 吹山先輩はいつも通りの雰囲気に戻り、私の肩を軽くたたいて部員たちのほうへと戻っていった。自分に勝つなんて、今の私には出来そうにもない。一歩間違えれば自分自身に今にも崖の上から落とされてしまいそうだ。
 とにかく、生徒会室にカメラを戻しに行こう。道場から外に出ると、いつの間にか空は厚い雲に覆われていて雨の匂いが漂い始めていた。

***

 それから数日経った放課後、夕紀子が隣町の百貨店で買い物をしたいと言ってきたので、特に予定もなかった私は夕紀子と共に学校を出ようと帰り支度をする。今日も天気はあまり良くなく、一日中曇り空だった。サッカー部のクラスメイトが「雨降らないで欲しいな」とぼやきながら教室から出ていく。
「昨日、古文の吉野先生がキャバ嬢っぽい女の人と二人で歩いてるの見ちゃってさ」などという夕紀子のくだらない話を適当に聞きながら廊下を歩いていると、背後から「おい」という男の声が聞こえた。振り向けば、金髪の大柄な男子生徒がこちらを見ている。上履きの差し色からすると三年生のようだ。私の知り合いにこんな人はいない。夕紀子にも心当たりはなさそうだった。

「何か用ですか?」
「お前、生徒会の人間だよな?」
「はい、一応」
「お前に予算申請書を渡したはずなんだけどよ、バスケ部に割り当てられた予算が希望より低い額でさぁ。これ、どうなってんだよ」

 それを聞いてこの男が誰なのか思い出す。バスケ部副部長の冨田だ。少し前、私にバスケ部の予算申請書を渡してきた。提出期限はとっくに過ぎているので、他の部から優先的に予算を割り当てることになると確かに念を押し、こいつも了承したはずだ。目つきや態度、制服の着こなしからして行儀のいい男じゃないなと思ったけれど、まさか直接文句を言ってくるとは。
 面倒だと思いながら、申し訳なさそうな素振りを見せて説明をする。

「申請書を受け取った時にもいいましたけど、提出期限を過ぎていたので、どうしても他の部から優先的に予算を配分することになるんですよ。そのため、希望額を下回ってしまう場合もあると思います」
「だからってあれは少なすぎるだろ!? 今年は県大会にも出場できそうなのにあんな端金でやりくりしろって言うのかよ!」
「すみません。でもそういう規則になっているので……」
「はぁ? 規則だからで終わらせるつもりかよ!」

 ああやばい。こいつ、顔真っ赤にして今にも殴りかかってきそうだ。夕紀子は離れていたほうがいいと思いそれとなく視線を送ると、彼女はほんの僅かに目が合った後すぐに走って階段を下りていった。多分、夕紀子の性格からして逃げていったというより、職員室に先生を呼びにいった可能性のほうが高い。

「私は規則を破ることができる立場にいないので、そう言うことしかできません。意見がある場合は生徒会長に相談してもらえませんか」
「テメェが書類受け取ったんだから、テメェで何とかするのが筋だろ!?」
「いえ、私じゃどうにかできません。ただ私から生徒会長へ貴方の意見をお伝えすることはできますので、少しお待ちいただけますか」
「ごたごた言ってねぇで、さっさと何とかしろよ!」

 とうとう胸ぐらを掴まれてしまった。こんなチンピラもどきに殴られる日が来ようとは。つくづくツイていない人生だなぁと思いつつも、一発殴られた事実があったほうがこの後のコイツの処罰が重くなってラッキーじゃないかと考える自分もいた。最悪退学になってしまえ。
 冨田の右腕が振り上げられる。口の中が切れませんようにとグッと歯を嚙みしめ、目を強く瞑って衝撃を待ち構えたが、一向に殴られる気配がない。不思議に思ってゆっくりと目を開けると、冨田の拳は別の男の手で受け止められていた。いつの間にか久住くんがすぐ傍に立っている。

「く、久住くん……?」
「今、あなたが後輩を殴ろうとしたこと、しっかりと生活指導の先生に報告しますので」
「なっ、テメェいきなり何だよ!?」

 久住くんが決然とそう言った直後に、階段のほうからばたばたと足音が聞こえてきて、丁度良く生活指導の先生が姿を見せる。その後ろから夕紀子と紫藤くんも駆けてくる。クソッ、と冨田が久住くんの手を払いのけた。

「冨田! お前はまた問題を起こしたのか!」

 険しい顔をしている先生に私と久住くんが状況を伝え、冨田は先生に腕を掴まれ職員室へ連れられていった。最後に思いっきり睨まれたが、軽く躱してざまぁみろと内心で思い切り罵ってやる。
 一段落してほっと溜息をつくと、夕紀子が泣きそうな顔をして身体のあちこちを触り、怪我がないか確認してきた。

「世奈! 大丈夫だった!? 何かヤバそうだったから先生呼びに行ったんだけど、途中で紫藤くんも来てくれてさ」

 久住くんと紫藤くんは二人でいたところ、偶然この現場を目撃したらしい。屋上の件があったので戸惑いながら二人を見ると、紫藤くんが困ったようにしてため息をつく。

「俺はとりあえず先生に言いにいけばいいって言ったんだけどさ、貴嗣は御影が危ないから残るって言い張って」

 え、と思わず声を漏らすと、久住くんは申し訳なさそうに小さく微笑む。何故酷いことを言った相手を助けようとしたのか、全く理解できない。人間性の違いを見せつけたかった? 冨田に個人的恨みでもあった? 彼のことが、全然分からない。
 危うく暴力沙汰の被害者になりそうだったこともあり、買い物に行く気分ではなくなってしまったので、夕紀子に一緒に百貨店へ行けそうにないことを伝えて謝った。夕紀子は「全然大丈夫! 謝らないで!」と首を振る。

「あんな思いしたんだもん、今日はゆっくり休んで!」
「うん……ごめん」
「謝らないでってば! というか、駅まで一緒に行こうか?」

 夕紀子は普段、通学では私と違う駅を使っている。百貨店へ行くのも夕紀子が使う駅のほうが近いので、随分と遠回りさせてしまうことになる。気持ちは嬉しいけど、断ったほうがいいだろう。
 一人で大丈夫、と言おうとした時、背後から「俺達が送るよ」という声が入り込んできた。久住くんだった。

「俺達も御影さんと同じ駅で、方向は一緒だから」
「それじゃ、そうしてもらえる? 世奈、こう見えても結構参ってるだろうし」

 別に送ってもらわなくても大丈夫なのに。「何を勝手に決めてるんだ」と非難の視線を夕紀子に送るものの、彼女は分かってますとでも言うように生暖かい笑顔を浮かべ、私の頭をぐりぐりと撫でて去ってしまう。
 結局、私と紫藤くんと久住くんという、何とも気まずい面子で帰り道を共にすることになってしまった。どうしてまたこの二人が一緒にいるところを見なきゃいけないのだろう。何かしらの罰でも受けているのか。
 やはり未だに心の整理はできていない。気持ちが落ち着くまで、二人とは距離をとっていたいのに。
 先ほどよりも空は晴れていて、夕陽になりかけの太陽が雲の隙間から顔を見せていた。保育園帰りらしい親子が私たちを通り過ぎていく。あどけない幼児の笑い声が通学路に響き渡っていた。一見すれば、のんびりとした何でもない平日の放課後。

「……どうして助けてくれたの」

 気づけば声がこぼれていた。無愛想な問いかけに、久住くんはやや緊張した面持ちで真剣に答えてくれた。

「その、俺、ずっと御影さんに謝りたいと思ってて」

 予想外の回答に思わず「は?」と間抜けな声を上げてしまった。

「え、えっと……どうして?」
「入学式の挨拶、俺の代わりにやってくれたでしょ。それに生徒会も俺が参加しなかったから御影さんに話がいったって聞いて、負担かけちゃったなってずっと思ってたんだ」

 久住くんの代わりが私だということ、知ってたんだ。どこか他人事のようにそう思う。

「実は俺、人前に立つのが苦手で、下手すると過呼吸で倒れそうになっちゃうこともあるんだ。だからどうしても代表挨拶や生徒会活動とかは避けたくて……。でもそのせいで御影さんにやる必要のないものを押し付けることになってしまって、本当にごめん」

 久住くんは頭を下げて私に謝ってきた。想像もしていなかった彼の事情に、私は口を噤んでしまう。謝られたって、もう入学式には戻れないし生徒会だって抜けられない。成績もよくなるわけじゃないし、それに、紫藤くんも私を選ぶわけじゃない。そんなことをされても、余計に虚しさを感じるだけ。
 でも、それでも久住くんは真摯に私と向き合っている。

「……謝る必要ない。むしろ謝るべきなのは私のほうだし」
「御影さんが俺に?」
「屋上で酷いこと言っちゃったでしょ。あの日、ちょっとむしゃくしゃしてて、我慢できずに久住くんに当たっちゃった。ごめんね……その、紫藤くんも」
「え、俺も?」
「あの時、紫藤くんも怒ってたから。好きな人が誰かに悪意をぶつけられたら、いい気分じゃないでしょ」

「好きな人」という言葉に動揺したのか、紫藤くんは顔を逸らし、少しだけ顔を赤くさせて「貴嗣がいいならそれでいい」と言う。久住くんはそんな彼を見てくすりと笑い、そして遠慮がちに私へ問いかける。

「その……御影さんは俺達と普通に話してくれるけど、気持ち悪いとか思わないの?」
「それって、同性同士だからってこと?」
「うん」
「私自身はあまりそういうのにこだわらないタイプだから。人を好きになることに性別も年齢も次元も関係ないと思ってる。まぁ、世間はどうか知らないけど」

 私の答えを一言ずつ噛み締めるように聞いて、久住くんは「そっか」と呟いた。その声はとても柔らかい。彼の横から紫藤くんが顔を出して私に言う。

「そう言ってくれるのはありがたいけど、煙草は止めろよ。身体にわりーから未成年喫煙は禁止されてんだからさ」
「正論をどうもありがとうございます」

 紫藤くんはあの時と同じようにいたずらっぽく笑う。紫藤くんにそう言われたら、やめるしかないかぁ。まだ数本残っているけれど、帰りにどこかのゴミ箱へ捨ててしまおうか、などと考えている内に私たちは駅へ到着した。
 二人が乗る電車は私とは反対方面のようで、丁度その方面の電車がホームについたところだった。電車に乗った彼らに、改まってお礼を言う。

「今日はありがとう。正直、久住くんに助けてもらってホッとした。あのまま殴られるの覚悟してたから」
「役に立てたならよかった。また何かあったら声をかけて。俺にできることだったら何でも手伝うよ」
「それだったら俺も手伝うから、俺にも声かけろよ」

 冗談交じりに紫藤くんが久住くんの肩に手を回すと、久住くんは恥ずかしそうにやめろと小声で騒ぐ。
 私は笑いながら二人に手を振る。発車のベルが鳴り、扉が閉じられた。電車はゆっくりと速度を上げて、駅から遠ざかっていく。小さくなっていく電車を見つめていると、気づけば目元が熱くなり涙が溢れていて、それは頬を流れ、床に点々としみを作っていた。
 私は完璧に失恋をした。
 そう自覚すると、どんどん涙が出てきて止まりそうにない。拭うことも泣きわめくこともできず、私は静かに涙を流しながら、ひたすら二人が消えて行った方向を眺めていた。
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