朝日を浴びた夜想曲

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3.侵食

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 久しぶりに母が家に帰って来た。今回はドイツとオーストリアでツアーコンサートをした後、そのままイタリアへ旅行したとかで二ヶ月半ほど家を離れていた。ずっと昔からこういう生活をしているせいでもあるだろうけど、衰えることのないその体力は一体どこから生まれてくるのだろう。
 二学期が始まったものの、あまり調子が出ない日々が続いていた。体調不良ではなくて、何となく気持ちが低飛行というような。そんな中、自室で適当に宿題を片付けていると、玄関のほうから母の声が聞こえてきたのだった。階段を下りて玄関へ向かうと、デカい羽根がついた帽子を被っている母が大きなスーツケースを持って立っている。傍では芳子さんがいくつもの荷物を分別していた。
母は俺に気づくと「久しぶり。元気だった?」とまるで友人に話しかけるかのように聞いてきた。この人は昔からそうだ。確かに「母」ではあるけれど、親よりも遠いような、でもより近いような距離感で接してくる人だった。

「まぁまぁ。今年の夏、暑くって」
「ほんと日本の夏って嫌よねぇ。来年は春臣も誘って海外にでも行かない?」
「俺、来年は受験だし、春くんだって暇じゃないよ、きっと」
「少しくらい別にいいじゃない」

 職業柄、というのもあるのだろうか。母はごくごく一般的な人間の都合というものをあまり分かっていない節がある。いちいち説明をしていたらキリがないので、こういう時は「分かった」と適当に受け流すのが一番よかった。
お土産といって渡されたイタリア製のサンダルは、上品なデザインで一目でいいものだと分かったけど、サイズが合わなかった。これもまた部屋のクローゼットで眠ることになるだろう。

「あー疲れた。芳子さん、悪いけど今から軽めの食事作ってもらえる?」
「分かりました。荷物は一度お部屋に運びましょうか」
「それは私がやっておくから大丈夫」

 俺も少しだけ荷物運びを手伝って、それから部屋に戻り残っていた宿題を終わらせる。お風呂に入り、リビングでぼんやりテレビを見ていると、ご飯を食べ終えたらしい母が来て「久しぶりにピアノ聞かせて頂戴」と言ってきた。嫌だと言い続けていると最終的には怒られるので、あまり気は乗らないけど大人しく母に従って二人で防音室に向かった。防音室の中だけは、昔から何一つ変わっていない。ピアノも、本棚の上の写真もカーテンも。

「何を弾けばいい?」
「そうね……今回ドビュッシーのアラベスクを弾いたから、それで」
「分かった」

 本棚から楽譜を取り出し、譜面台に置く。長いこと弾いていない曲だから、絶対にガタガタな演奏になることは決まっている。母に隠れてこっそりとため息をついてから、譜面にしがみつくようにしてピアノを弾いた。途中、やはり指が廻らずに所々不協和音が鳴り響く。鍵盤から手を離したくなるものの、母の視線を背中に感じ、無心になるよう努めて指を動かす。
 何とか一通り弾き終えてゆっくり振り返ると、母は壁にもたれて訝しげにこちらを見つめていた。

「なーんか、いつもと違うわね」
「いつもと違うって……単に下手になっただけでしょ。この曲、久しぶりに弾いたし」
「そうじゃなくて、音がいまいちスッキリしないというか……何か悩んでるんじゃない?」

 普通、ピアノの音を聞いただけで奏者の心理状態なんて分かるはずがない。変なこと言わないでよと言い返したいところだけれど、実際、今の俺は胸にもやもやとしたものが渦巻いていた。

「……別に、何もない」
「何かあったのなら話してみなさいよ。莉央のためなら出来る限り力になるし」
「だから……話せるようなことなら、こんなに悩んでない」

 胸の中にあるものを母に伝えても、おそらく解決はしないし、何となく言いたくない。もしかしてこれが反抗期というやつなのだろうか。恐る恐る母を見ると、しばらくこちらをじっと見つめてから、「ま、それもそうね」とさっぱり言って防音室を出て行こうとする。
 少しは詰め寄られると思ったので思わず力が抜けてしまうが、まぁ母らしいと言えば母らしいのかもしれない。

「ちょ、ちょっと待って」
「何、やっぱり話したいことでもあるの」
「あのさ……」

 一つだけ、聞いておきたいことはあった。

「母さんはさ、本当は春くんにピアノを続けて欲しいって思ってるでしょ?」

 俺よりもずっとずっとピアノに愛されている春くん。ピアニストである母は、そんな春くんが自分の息子として表舞台に立つことを願っていたのではないか。
 昔から思っていたことをとうとう吐き出してしまった。緊張しながら母の答えを待っていると、呆れたように「そんなことないわよ」と軽く返される。

「う、嘘だ。だって母さんも春くんのピアノの腕は知ってるよね!?」
「確かにあのまま腕を磨いたら国際コンクールでも入賞出来る可能性はあったけど、止めるって言ったんだから私は何も言わないわよ。あんたにも私は何も言わなかったでしょう」
「だって俺は、国内コンクールだって入賞出来るか分からないような腕だったし……」

 母はため息をつき、俺に近づいて乱暴に頭を撫でてきた。

「あのね、私は別にあんた達に私の後を追って欲しいとは思っていないの。それでもピアノをやりたいって言うなら全力で支援するし、別のことをやりたいのならそれを応援する。やりたいことやりなさい」
「……うん」
「ピアノは好き?」
「ピアノ自体は……好きだよ」
「それなら、私はそれで充分」

 俺のことを軽く抱きしめ、「おやすみ」と母は防音室を出て行った。残された俺はしばらくの間、ピアノの傍に立ったままぼうっとしていた。
 春くんはどうしてピアノを止めてしまったのだろう。そう考えるのは、もう何度目か分からない。答えを聞いたことはない。でも何となく分かってしまう。多分、母と実際に血のつながりがある俺に気を遣ったから。
 ぎゅっと拳を握る。どこか遠くから、ずっと昔の俺と春くんの笑い声と、ピアノの音が聞こえた気がした。

***

 次の日の放課後、何の予定もなかった俺は三河と結城と教室に残ったまま雑談をしていた。部活のことや英語の小テストのこと、最近見ているドラマのこと。結局結城の彼女の浮気疑惑は杞憂に終わったようで、よかったな、なんて言い合って自販機でジュースを奢ってあげた。
 二人の話を聞きながら適当にスマホをいじっていると、SNSのとあるアカウントに目が止まる。春くんのバンドグループのアカウントだ。来週の金曜日、大学近くのライブハウスのイベントに出るという告知をしている。
 夏休みに春くんがうちに帰って来て以降、何となくいいタイミングがなくて春くんの家に行けていなかった。来週こそは行けたらいいと思っていたけれど、夜にライブイベントがあるのなら帰宅するのは何時か分からない。家で待ち続けることになるならば、いっそのことライブハウスで春くんの姿を見たほうがいい、かもしれない。

「ねぇ、ライブって興味ある?」
「ライブ? 誰の?」
「有名なグループの大きなライブじゃなくて、軽音部とかアマチュアのバンドグループとかがやる小さなライブ」
「いやー、ぜんっぜん興味ないな。別世界の人たちのイベントって感じ」

 野球に打ち込んできた三河からすればそう思うのも最もだ。結城のほうも同じような反応だった。「また兄貴絡みか?」と俺が買ってあげたジュースを飲みながら聞いてくる。

「そう。今度ライブハウスでイベントやるんだって」
「檮山が行くなら、ついてってもいいけど」
「いいよ。多分、ほんとに興味ない人からしたら面白くはないと思うし」
「まー、そういうライブってどんな感じか全く想像はつかないな」

 テレビに出ているようなバンドがいる訳でもないし、正直俺だって春くんたちのバンド以外知っているグループはいない。こういうのはほぼ身内のような人たちで楽しむためのイベントだろう。そこにこの二人を連れて行くのは憚られた。
 学校を出て二人と別れた後、スマホの電話帳から春くんの連絡先を探し、電話をかける。数コール鳴った後に『はい』と春くんが出た。後ろからドラムやギターの音も聞こえてくる。多分バンドの練習中なのだろう。

「急にごめん。今大丈夫?」
『大丈夫だよ。どうしたの』
「来週、ライブハウスでイベントやるんでしょ。久しぶりに春くんがベース弾いているところ、見てみたいなって」

 そう言うと、スマホの向こうで春くんはしばらく黙ってしまった。変なことを言ってしまったかと焦って、危うく前から走って来た自転車とぶつかりそうになってしまう。

「は、春くん?」
『……莉央、高校の文化祭ライブの時に人酔いしてなかった? ライブハウスだと音ももっと大きいし人も密集するし、また体調悪くなるかもよ』
「昔の話だし、今は大丈夫だよ、きっと。体調悪くなったらすぐに出るし」

 遠回しに来ないほうがいいと言われているようだった。拒否される理由が分からず、素直に首を縦に振ることが出来ない。

「外部の人は参加出来ないライブなの?」
『そういう訳じゃないけど、ちょっと心配になったから』
「だから大丈夫だって。春くんたちのステージが終わったら早めに帰るよ」

 尚も食い下がって、春くんは渋々ライブハウスに行くことを了承してくれた。どうして俺に来て欲しくないような素振りを見せるのか、結局理由は分からない。思えば、春くんが大学生になってからはライブを見に行ったことはない。何となく俺とは別の世界にあるような、透明な壁で遮られているような、そんな感覚があって積極的に行こうとすることはなかった。
 もしかすると、春くん自身がその壁を作っていたりするのだろうか。
 そう考えてしまうと、胸の奥がひんやりと冷たくなる。

「あっ、檮山くーん! こっちこっち」

 ライブイベント当日の金曜日、ライブハウスの最寄り駅で安積さんと落ち合う。イベントには一人で行くつもりだったけれど、部活中に安積さんについ話をしてしまったところ、「そういうの行ったことないから行きたい!」とせがまれて断れなかった。一人より二人のほうがいいけれど、学校以外の場所で安積さんと会うことはなかったので少し落ち着かない。安積さんはそんなこと全く気にしていない様子だ。

「お待たせ。ごめん、電車が遅れちゃって」
「全然ヘーキ。てか、私服の檮山くんって何だかより一層爽やか感あって笑っちゃう」
「どうしてそれで笑うんだよ」
「新鮮ってこと。早くライブハウス行こ! こっちの道だっけ」
「多分その道で合ってる。俺も初めてだから地図見ないと」
「はぁ~、かっこいい男の人いるかなぁ」

 どうやら安積さんの真の目的は好みの男性探しらしい。本当に俺と正反対の性格をしているのに、どうして馬が合うのだろう。謎が深まる中、スマホのマップアプリで目的地を確認しつつ繫華街を進んで行く。
 ライブハウスは大通りから少し離れた雑居ビルの地下にあった。地下へと続く階段には見たことがないバンドグループのチラシが貼られていたり、スプレーアートが施されている。照明は壁にランプが設置されているだけで薄暗い。いかにもライブハウスです、といった様相に俺はちょっと躊躇ってしまう。対して安積さんは「ソレっぽい感じでいいねー!」とはしゃいでいる。
 階段を下りて、今日のイベントチラシが貼られている分厚いドアを開けると、ふいにドラムやギターの音が奥のほうから聞こえてきた。すでに参加予定のバンドが楽器をいじっているらしい。ドアの横には小ぶりのカウンターがあって、パイプ椅子に女の人が座っていた。耳にピアスが沢山ついている。

「チケットありますかー?」
「あ、持ってない、です」
「じゃあチケ代とドリンク代で2800円でーす」

 言われるままに俺と安積さんはお金を払い、廊下を進みホールの中に入った。すでに人が結構集まっていて、楽器の音も交じりかなり騒々しい。ホールの隅のほうに設置されているバーカウンターでドリンクをもらい、ちびちびと飲みながら周囲の様子をうかがった。

「派手な人もいるけどさー、結構普通の人たちが多いね」
「そりゃ、V系バンドのライブでもないし。ステージに出る人たちの友達とかが多いんじゃないかな」
「ふーん。あ、待って。あそこにいる人、友達の友達かもしれない」

 安積さんはステージに近い場所で数人で集まって会話をしている同年代の男子を見てそう言った。「ちょっと話してきていい?」と目を輝かせて聞いてくるので、俺は頷くしかなかった。すぐさま軽い足取りで男子の集団に話しかけに行く安積さんの行動力には感心してしまう。俺には絶対に出来そうにない。
 結局、俺は「陰」側の人間なんだな、と一人虚しくなりながら片隅のハイテーブルでドリンクを飲んでいると、一際大きなギターの音が響き渡り、一組目のバンドの演奏が始まった。有名バンドの曲を歌ったり、そのバンドの人たちで作ったらしいオリジナル曲を歌ったり……ステージに立っている人たちは思い思いに演奏していて、皆楽しそうだ。案の定音が大きくて耳が痛くなってくるが、キーボードはもちろん、エレキギターやベースの音色を聞くのは嫌いじゃなかった。
 いよいよ春くんたちのバンドの番になった。ひとつ前のグループが袖に消え、春くんがベースを持ってステージに出てきた途端、周りの空気が変わったのを感じた。女の子たちの視線が春くんに集まっているのが分かる。明るいオレンジブラウンの髪色が目立つのに加えて、モデルと言われても遜色ない綺麗な顔立ちをしているのだから、思わず姿を追ってしまうのも無理はない。
 無理はないのだけれど、あまり面白くはない。春くんの友達らしい人たちは、ステージに向かって春くんの名前を叫び、手を振っている。

「ちょっと、もしかしてあれが檮山くんのお兄ちゃん!?」

 安積さんが驚いた顔をしながらこちらへと戻ってきた。そう、と頷けば、愕然として春くんをまじまじと見つめる。

「うわー、何か、想像を超えてた……。そりゃ家にも通い詰めちゃうわ」
「別に通い詰めてはないって」
「雰囲気ある人だね。檮山くんとはあまり似てないかも」

 血は繋がっていないのだから、似ているはずがない。でもそれを安積さんに言ってしまえば、驚愕の声を上げた後に根掘り葉掘り事情を聞かれる気がしたので、そっと口を閉じた。
 ピアノではなくても、やはり春くんの手から生まれる音は皆を魅了した。サブボーカルとして歌ったり、ベースのソロパートを弾いたりする度に女性客の歓声が上がる。安積さんは俺の兄が春くんであることによっぽど驚いたのか、何故か「ひええ」と変な声を上げながら傍観している。
 ステージ上の春くんはもちろんかっこいい。見惚れてしまう、という表現がぴったりだ。ただ、そこにいるのは俺の隣にいる春くんではなかった。俺がほとんど見ることの出来ない、大学生の春くんがステージで注目を集めている。それを眺めていると、また独りでいるような感覚に包まれていく。お前がくる場所じゃないと突き放されたような。
 淋しい。女の人たちの楽しそうな声が恨めしい。じわじわと暗い感情に侵食されそうになった時、メインボーカルの人の「ありがとうございましたー!」という出番の終わりを告げる声で正気に戻される。何故かあっという間の出来事のように感じた。力の入らない手で春くんたちに拍手を贈る。

「すごかったー。檮山くんのお兄ちゃんはもちろんだけど、バンドとしてもレベル高くない!?」

 安積さんは嬉々として俺に話しかけてくるが、頭がうまく回らずにいい返事をすることが出来ない。

「そう、だったかも」
「かも? どうしたの、何かぼーっとしてる。お酒飲んだ?」
「お酒は飲んでない。……ずっと大きな音聴いてたから、ちょっと疲れただけ」
「え、大丈夫? 一度廊下に出よっか」

 心配した安積さんが俺を廊下に連れ出してくれた。本当に疲れた訳ではないけれど、いざ廊下に出てみるとその静けさにホッと一息つく。ドアを隔てて聞こえてくる程度の音量が丁度いい。

「ごめん、安積さんは戻って大丈夫だから」
「あたしも耳がちょっと変になってるからしばらくここにいるよ。普段ライブなんて行かないからなぁ」
「実際に来てみてどうだった?」
「思ったより普通だった。ギター折らないし」
「……安積さんが想像してたライブって、結構特殊なやつだと思う」

 ぽつぽつと会話しながら一休みしていると、廊下の奥のほうからこちらに向かって歩いてくる人たちに気づく。よく見ると、春くんたちのグループだ。

「春くん」

 思わず声をかけると、ボーカルの人と話をしていた春くんの視線がこちらを向いた。莉央、といつものように俺の名前を呼んで静かに笑いかけてくれる。

「本当に来たんだね」
「だって、行くって言ったし」
「でもやっぱり気分悪くなってる。早く帰ったほうがいいよ。……お友達も」

 春くんはそっと安積さんのほうを見た。いつもより冷たさを感じる、探りを入れるような眼差し。そう言えば安積さんについて話をしたことがなかった、と慌てて彼女を紹介した。

「あ、この人は同じ料理部の安積さん。今日のことを話したら行ってみたいって言うから、一緒に来たんだ」
「初めまして。ベースすっごく上手ですね! 思わず見入っちゃいました」
「ありがとう。莉央、料理部ではどんな感じなの?」
「そうですね……多分、部員の中で一番正確に分量計ってます!」
「安積さん、そういうのいいから……」

 変なところを春くんに知られるのが恥ずかしくて、これ以上何も言わないでくれと安積さんを止める。すると、春くんの後ろからボーカルの人とドラムの人がひょっこりと顔を見せた。

「へー、これが例の春臣の弟くんね」
「確かに可愛い顔してるじゃん。お兄ちゃんも心配になるわけだ」

 この人たちは俺のことを知っているらしい。春くんが話したことがあるのだろうか。俺について何を話したのか気になりつつ、二人に向かって軽く頭を下げた。

「新田と山野井はちょっと黙ってて。というかさっさと中に入れば」

 春くんは強引に二人をホール内へと押し込んでしまう。それからこちらへ顔を向けて、にこりと綺麗な笑顔を浮かべた。

「今日は来てくれてありがとう。でも遅くなるといけないから、もう帰りな」
「うん……あのさ、春くん」
「何?」
「来週、家に行ってもいい?」
「来週かぁ。まだ予定が分からないから、分かったら連絡するよ」

 じゃあまたね、と俺の頭に軽く手を乗せてから、春くんもホールへと入ってしまう。一瞬だけ廊下に室内の爆音が漏れ、ドアが閉じられると後はくぐもった音しか聞こえない。ぽつんと二人で取り残されてしまったみたいだ。顔を見合わせ、「帰ろうか」と言えば安積さんも素直に頷いたので、二人でライブハウスを出た。
 電車の中で、安積さんは流れていく夜の景色を眺めながら「檮山くんのお兄ちゃん、ちょっと怖い人だね」と独り言のように言った。確かに今日の春くんはいつもより素っ気ない態度ではあったかもしれない。

「俺が強引にライブを見に来たから内心怒ってたのかも。あまり来て欲しくなさそうだったから」
「いや、そういう意味じゃなくて。……まぁ、檮山くんが怖いと思っていないならいいや」

 安積さんにしては珍しく歯切れの悪いことを言う。春くんを見た印象として「怖い」と思う人はいないと思うけれど、彼女は春くんの何を見てそう感じたのだろう。もう少し深く聞きたかったが、安積さんはいつもの調子に戻って「そう言えば、次の部活で作りたいやつがあって」と話題を変えてしまった。
 二人で話しながら電車に揺られていると、スマホが震えてメッセージの受信を告げる。画面を見ると春くんの名前が表示されていた。『心配だから、家についたら返信して』。やっぱり怖いなんてことはないけどな、なんて思いながら、了解マークのスタンプを送った。
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