氷の華を溶かしたら

こむぎダック

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105話

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「そういう事です。皇帝陛下からは、盗賊の被害に対する謝罪と、討伐に対する助力を約した書状を頂いておりましてな。皇女殿下が兵を率いていらした時は、盗賊の撲滅にご助力いただけるのか、と喜んでいたのですが、到着早々の挑発からの戦闘とは、皇帝陛下も随分と姑息な真似をなさるものだ」

 ここ数年、ラーソン伯が盗賊に悩まされていることは事実だ。ラーソンと父上から、皇帝へ上訴した事も事実。

 しかし、その返事を貰えたのは、ほんの数週間前。
 これも、キャニスがその人脈を動かした結果の一つなのだ。

「貴様!!我が父を。皇帝陛下を愚弄する気か?!」

「そう熱り立たれましても、皇女の行動が全てですからなぁ。それとも、皇女は皇帝陛下の御意思を無視したという事で、宜しいですかな?」

 それは問題だ。とわざとらしく腕を組むラーソンへ、皇女は怒りに燃えた視線を向けている。

「皇女。一応貴方は、ルセ家のナリウスの、負債の取り立てに来たのだよな?」

「そうだ!!ナリウスがサインした契約書には、期日までに利息を含めた借財を返済できなければ、ルセ王家の宝を渡すとある。ルセ王家にとっての宝とは、キャニス・ヴォロス・カラロウカ以外あるか?」

「そもそも、そこが間違っている。キャニスはナリウスから婚約を破棄された。それがルセ家の宝への仕打ちか?キャニスを宝だと言うのなら、何故ナリウスはキャニスを手放した?」

「ナリウスが、馬鹿だからだろう?」

 嘲るように鼻で笑う皇女に、シェルビーは頷いた。

「キャニスのような優れた人を手放すとは、確かにナリウスは大馬鹿者だ。だが、そのお陰で、私はあの様に優れた人を手に入れる事が出来た」

「はんっ?!残念だったな。あの男は今や私の物だ」

 皇女の傲慢な態度と物言いに、シェルビーの頭痛が益々酷くなって行った。

「だから、何故そうも話が飛躍するのか、が理解できない。ナリウスが手放した事で、キャニスはルセ家の宝ではなくなった。今のキャニスは、カラロウカ家の宝で有り、私の伴侶となる、オセニアの宝だ」

「それこそが詭弁だというのだ。契約の締結時。ルセ家の宝はキャニスだったであろうが」

「しかし、契約書には期日までに負債を返済できなければ。とある。返済期日は、キャニスが婚約破棄を言い渡された後だ」

「チッ。うつけが」

 小さく舌打ちをした皇女の呟きは、ナリウスと皇女の間に、密約があった事を伺わせるには充分だった。

 ここで皇女が折れて、キャニスを諦めると言えば、まだ可愛げがあったが、皇女は片眉を吊り上げた不敵な顔を、シェルビーへ向けて来た。

「言い渡されたのが期日の前だとしても、婚約破棄の手続きが完了したのは、期日の後であろう」

 戦に大敗し、捕虜となった身でありながら、不遜な態度を崩さず、傲慢な態度を取り続けるのは、皇女としての矜持だろうか。

 自分が廃嫡されるとは、微塵も疑って居ないのだろうな。

 普通は戦に負ければ、その責任を問われ、立場が危うくなることを恐れるあまり、卑屈な態度を取るものだが、傲慢な態度を崩さないのは、むしろ天晴と言えるのかも知れない。
 
 それも世間一般の常識で考えるならだ。

 この皇女の場合、性格が悪いだけだと思う。

 生来の物か、後の教育の所為かは知らんが、男のような口調と立居振る舞い。三十路近くになっても尚、結婚もせず、子供だけは幾人か産んだという噂はあるが、婚約者さえ一度も持ったことが無い。

 加えて、他人を虐げる事に喜びを感じる、嗜好の持ち主だ、気が強いのは当然と言えば当然か。

「貴方がやって居る事は、ただの言い掛かりだ、という自覚は無いのか?」

「言い掛かりだと?」

「そもそも、帝国の貴族から金を借りたのはナリウスだ。契約書に玉璽が押されているという話だが、ナリウスは玉璽を扱える立場にはなかった。ならばその玉璽は偽物か、ナリウスが勝手に玉璽を使ったという事になる。当然偽物ならば、契約自体は無効だし、ナリウスが勝手に玉璽を使用したというのであっても、文書を偽造した事に変わりはない」

「それこそ、言い掛かりであろう!」

 声を荒げる皇女へ向けたシェルビーの瞳は、苛立ちで炯々と光っている。

「仮にナリウスの借金をイグラシオン陛下が容認していたとしよう。ならばそれは、ラリス王国との契約で有り、責を負うべきはルセ王家の人間だ。臣下の、しかも令息に責を負わせる道理はない」

「キャニスはルセ王家の!」

「オセニア王国、レ王家。王太子である私の伴侶となる人だ!!ラリスのルセ家とは!!」

 その時激しい風が幕舎を揺らし、シェルビーも言葉を遮った。

 びゅうびゅうと吹く冷たい風が、入り口の垂れ布を巻き上げ、幕舎の中の暖気を根こそぎ奪ってしまった。

 先程までは晴天だったが、突然吹雪いて来たのだろうか?
 気温迄が急激に下がり、幕舎の中だというのに、吐き出す呼気が白く凍って見えている。

 バサバサと揺れる垂れ布を、二つの手が抑えると、吹き荒れる風の中、白を基調とした、魔導士の戦闘服に身を包んだキャニスが立っていた。

 アントワーヌとジーンが、捧げ持つ垂れ幕を潜り抜けたキャニスは、真っ直ぐにシェルビーへと歩み寄って行く。

 白金の髪から、雪片を零しながら歩く姿は、氷華の貴公子という呼び名に相応しく、氷の精霊と見紛う美しさに、全員が陶然と溜息を零した。

 姿絵でしかキャニスの姿を知らなかった皇女は、人の手では再現できない美しさを誇るキャニスを、情欲の滲んだ目で食い入るように見つめていた。

 しかしキャニスは、そんな皇女を一顧だにせず、シェルビーの横に立つと、屈みこんでその頬に手を添えた。

 ひんやりとした指先が、熱を持った頬に気持ちがいい。

「まだ、熱がありますね」

「このくらい、大したことじゃない」

「無理をしてはいけません。あとは私が片付けておきますから、殿下はお休みになって下さい」

「片付ける?あの女は、話しが全く通じない。戦に負けても帝国の後ろ盾を笠に、自分の要求を押し通すつもりだぞ?」

 ヒソヒソと囁き合う会話は、自然と二人の距離を近くした。

 額を寄せ合う親しげな様子に、皇女は見当違いな嫉妬でギリギリと歯噛みをし、サイラスとラーソン達は、ニヤニヤと面白がっている。

「皇女は害獣と同じです。あれを人として罠に嵌めようとした、私が間違っていました」

「何があった?」

 今朝方の自分の失態を、キャニスが怒っていない様子な事に、シェルビーは心の底から安堵した。

 しかし自分に向けられると思って居た怒りとは別に、普段と変わらぬ淡々としたキャニスの表情の中に、苛立ちと同程度の悲しみがある事を、シェルビーは見抜いていた。

「シグルド殿下が、お亡くなりになりました」

 耳元から聞こえた声は、囁きよりも小さく密やかなものだったが、その掠れた声には、キャニスの悲しみの全てが、込められている様だった。

「・・・・残念だ」

「何時までコソコソとしている積りだ?田舎者は、目上の人間に対する礼儀も知らんのか!」

 良くも悪くも、人々の話題の中心だったイングリットは、無視され、居ない者の様に扱われる事に慣れていない。

 例えそれが恋人同士の睦言であったとしても、皇女の視界に入る範囲の者は、関心と賛美の全てを、皇女に捧げなくてはならなかったのだ。

 しかしここは帝国の宮廷ではなく、廃嫡間近のイングリットは、今後皇女と名乗る事すら難しくなるだろう。

「貴方はご自分の立場を、もっとよく理解した方が良い。私が田舎者なら、貴方は犯罪者だ」

「この身の程知らずが!お前は借金の形だろう!お前が大人しく私に下って居れば、このような事には成らなかった!全てお前が招いた事だ!!」

「ずっとこの調子でな、話しにならない。後はキャニスの好きにして良いぞ」

 口角泡を飛ばすイングリットに、シェルビーはうんざりと顔の前で手をひらひらさせ、キャニスはそれに一礼をもって応えた。

 そしてイングリットへ向き直ったキャニスは、アントワーヌが差し出した羊皮紙をその鼻先に突き付けた。

「イングリット・ハン・ドルグ。これは帝国から送られて来た、お前に対する逮捕および送還の要請だ。容疑は皇族の殺害。さらに皇帝の命に対する、不服従での反逆罪」

「なっ?!何を馬鹿なッ!そんなものは偽物だっ!!」

「文句なら、皇帝陛下に直接することだ。陛下が目通りを許せば、の話しですが」

 キャニスが向ける氷点下の眼差しに、イングリットは言葉を失くし、冷たく凍った菫色の瞳を、愕然と見つめ返す事しか出来なかった。

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