氷の華を溶かしたら

こむぎダック

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98話

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「睨み合いになってもう5日。砦の籠城戦ではないのです。皇女、騎士達はもう限界です」

「限界だからなんだというのだ。兵の治療の時間をくれと、言って来たのは其方であろう?」

「その通りです。ですがそれは撤退を前提にした話で」

「撤退だとっ!!」

 皇女が投げつけたグラスが、地面に当たって砕けた。砕けた破片で大将の頬が切れ、頬に赤い筋が描かれたが、皇女を睨む大将は、眉一つ動かさなかった。

 皇女の足元の人影が肩を震わせ、更に小さく縮こまる姿に、大将は憐みの籠った目を向けた。

「私がいつ、撤退するなどと言った?!世迷言を抜かすな!!」

「皇女!!冷静にお考え下さい。わが軍は既に、ジェルビー王太子率いるオセニア軍に、大敗を喫しているのです。全滅を免れているのは、皇女との話し合いを希望している、王太子の恩情のお陰だと、何故ご理解いただけないのか?!」

「私は負けてなど居らん!!」

「そう御考えなのは、皇女殿下のみに御座います」

「なにを言うか!」

「良いですか殿下。この戦で、投射隊はまともに仕事を熟す前に、敵の攻撃でほぼ全滅状態に陥りました。命がある者も、まともに弓を引けるものなど、残って居りません」

「アーチャーがおらずとも、騎兵も魔法騎士もは残って居るだろう」

「頭数だけ揃えれば良いと、言う物ではない事くらい、殿下もお判りでしょう。都を出立したとき5万だった兵を二手に分け、殿下に従いオセニアに進軍したものは3万でした。ですが今戦えるものは、1万ほどでしかない」

「だから何だ」

「戦の基本とは数で御座います。数の優位性が失われた今、戦線を張り続ける意味などございません」

「意味がないとは、どういう事だ?!」

「殿下!分からない振りをするのは、もうお止めください!勝ち続ける事が、優れた将の証ではない。本当に優れた将は、引き際を弁えている者の事を言うのですぞ!」

「お前は、私に逃げ帰れというのか?!」

「イングリット様!!逃げ帰るとはどういう事ですか?宜しいですか?そもそも殿下は、このオセニアとラリスへ、ラリス王国王太子だったナリウスの、負債について、話し合いに来たのでは無いのですか?」

「それがどうした?そんな面倒な事などせずとも、力ずくで制圧してしまえば、良いではないか!」

「それに失敗したからの、今でしょう!殿下は騎士達を、無駄死にさせる御積りか?!」

「無駄死にとはなんだ?!」

 皇女は手にしていた乗馬用の鞭で、大将の肩をビシリと打った。

「グゥ・・・私に・・このような真似をしても無駄です。私はあなたの私兵ではない」

「生意気な・・・」

「宜しいか?この戦で散った命が、無駄死に以外の何だというのです。そもそもこの遠征は、オセニア、ラリス双方との交渉が目的で、戦端を開く必要など無かったのです。引き連れた軍勢は、交渉を有利に運ぶ圧力でしかなかった筈だ。それを、あなたは功を焦り、皇帝陛下の許しも無く、戦端を開いた挙句大敗を喫した。これでまともな交渉もせず、無謀な戦いを仕掛け、兵を損なった時、皇帝陛下へどう釈明する御積りか?!」

「勝てばよかろう!」

「殿下は、現実が見えて居られない。どうやって勝つ御積りです?」

「なにを・・・」

「先の戦いで大敗を喫し、自軍の兵力は半分以下に激減いたしております。また戦える者達の士気は低い。糧食は足りず、騎士達は皆飢えているのです。翻ってオセニア軍はほぼ無傷。糧食も潤沢で、飢えた様子など微塵も感じられない。そんな状態で戦って、勝てる訳がないでしょう?」

「なにを温い事を!」

「殿下!騎士も人間です。昨今のからくり人形でさえ、魔力を与えなければ動かないのですぞ?人である騎士達が、糧食も無くどうやって存分に働けと?飢えに耐え切れず、脱走する者が相次いでいることを、殿下は御存じないのか?」

「だ・・・脱走?」

 騎士の脱走の話しは、皇女は初耳だった。
 皇女の逆鱗に触れる事を恐れ、誰も報告していなかったからだ。

「本当にご存じなかったか。殿下。脱走者が出ても尚、戦線が維持できるとお考えですか?」

「だ・・・だが私は・・・」

 人生で初めて感じる屈辱に、皇女の手はわなわなと震え、両手で握り締めた乗馬鞭が、今にも折れてしまいそうだ。

「シェルビー王太子は、話し合いを希望されております。今からでも、遅くは在りません。どうか交渉の席に着いて下さい」

「しかし、私はラリスとオセニアを手に入れねばならん。そしてキャニス・ヴォロス・カラロウカが欲しい!」

「殿下・・・」

 この後の及んでまだ諦めないのかと、と大将は疲れの滲んだ、深い溜息を吐いた。

「殿下こうなっては、どれも諦めるほか御座いません」

「諦める?ふざけるな!!私はドルグ帝国の皇女だ!その私に、お前はこんな小国に膝を屈し、なんの戦果も無く、黙って国に帰れというのか?!」

「その通りで御座います!この二国を手に入れたければ、これまで同様、最初から大軍を用い、侵略しなければならなかった」

「だが父上は」

「その通り!陛下はこの二国の侵略を、お許しになられなかった。その理由を皇女は御存じか?」

「い・・・いや・・・」

「理由はたった一つ。カラロウカで御座います」

「カ・・カラロウカ?たかが小国の公爵家が、何だというのだ?」

「皇女・・・貴方も武力だけが力ではないと、ご存じでしょうに」

 残念を通り越し痛ましげな視線を、大将は皇女へ向けたのだった。

「私は皇女の教師では御座いません。これ以上はご自分の眼でお確かめください。しかし本日中に、オセニアとの交渉を受諾されないのであれば、私と部下は帝国へ戻らせて頂く」

「貴様!!私の命に逆らうというのか?!軍務違反だぞ!!」

「お忘れですか?私と部下は、あなたの私兵ではなく、皇帝陛下の剣なのですよ。よって、あなたに私を裁く権限は無い」

「クッ!うう・・」

「老婆心ながら、最後にご忠告申し上げる。全て諦め、王太子の出す条件をお吞みなさい。そしてキャニス・ヴォロス・カラロウカの事は忘れるのです」

「嫌だと言ったら?」

「別に構いませんよ。私は都へ帰るだけですから」

「貴様・・・」

「皇女。あなたは触れてはならない物に手を出した。それをお忘れ召さるな」

 踵を返し皇女の天幕から出た大将は、背後から聞こえる鞭の打擲音と、苦鳴に眉を顰めた。

「誰か。皇女の気が済んだら、中の者を運び出し、生きていたら治療してやれ」

「宜しいのですか?」

「この状態の方が、おかしいのだ」

 苦々し気に吐き捨てる大将に、護衛の騎士も溜息を吐いて見せた。

「・・・・承りました」

 皇帝陛下の決断は正しい。
 だが遅すぎだ。

 もっと早く御決断下さって居たら、救えた命も多かっただろうに。

 皇帝といえども、自身の娘は可愛いものなのか?こんな狂った皇女に、愛情を掛けてなんになる。

 それとも陛下は、皇女を利用していただけなのだろうか。

 だとすれば、似た者親子。

 悪魔の子は悪魔でしかない、という事になるな。

 もううんざりだ。
 都へ帰ったら辞表を出し、領地に引っ込むことにしよう。この後やって来る嵐に付き合えるほど、私も若くは無いからな。
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