氷の華を溶かしたら

こむぎダック

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42話

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「お帰りなさいませ」

恭しく頭を下げたベラは、大事な坊っちゃんの様子がおかしい事に、直ぐに気が付いた。

いつもなら、出迎えた使用人に労いの言葉をかけてくれる坊っちゃんが、足音も荒くベラの前を素通りし、慌てて後を追うベラに、これまで聞いた事のない強い口調で、着いて来るな。命じられてしまった。

 こんな坊っちゃんは初めて見る。
 一体坊っちゃんの身に何が有ったの?
 今日は王宮に御呼ばれだったのに・・・。
 まさか・・・。
 まさか、あのへっぽこ王子。
 坊ちゃんに、良からぬ事をしたんじゃないでしょうね?
 
キャニスから着いて来るな、と言われてしまったベラは、キャニスが部屋に入ったのを物陰からこっそり確認すると、キャニスの部屋の前へ、忍び足で近づき、中の様子に聞き耳を立てた。

カラロウカ公爵家の使用にとして、恥ずべき行為だが、常にない主の様子に、ベラは居ても経っても居られなかったのだ。

しかしベラの小さな耳朶を、ドアに張り付かせる必要は無かった。

扉の向こうから、ガラスの割る音や、乱暴に何かを投げつける音が聞こえて来るたのだ。

「ぼ・・・ぼっちゃん?」

貴族とな名ばかりの、貧乏子爵家の次女として生まれたベラは、貴族らしいマナーや教養の教師がついた事も無く、只々元気な事と、縫い物が得意な事だけが取り柄の娘だった。

器量良しだった姉は、それほど裕福ではないが、真面目で穏やかな性格をしている幼馴染の伯爵家の次男と結婚した。
2人は恋愛結婚だったが、家格の差もあり、両親は嫁ぎ先で姉が肩身の狭い思いをしないようにと、かなり無理をして持参金を用意していた。

姉が嫁いだ後、両親はベラに向かい、申し訳ないと頭を下げた。
姉の為に全てをつぎ込んでしまった両親は、ベラの為の持参金を用意する事が出来ないと、涙ながらに謝ってくれたのだ。

何処かの年寄の後妻に、売りつける事も出来ただろうに。優しく正直者の両親の為にベラは一念発起し、二度と家には帰らないと決意を固め、王都へ職探しに向かった。

家族の事も、領地やそこで暮らす気さくな領民たちの事も、ベラは大好きだった。
しかし子爵家は、末の弟が継ぐことになる。
自分の様な行儀作法も分からない小姑が、何時までも家に居たら、弟の縁談にも障りがあるだろう、と考えたからだ。

貴族令嬢らしい、行儀作法を知らなかったベラも、針仕事だけは得意で、自分の腕なら、何処かの針子として、住み込みの仕事を見つけられると信じても居た。

ベラの予想通り、住み込みの仕事は直ぐに見つかった。
仕事も順調、針子仲間もみな気の良い人ばかり、ベラは新しい生活に満足していた。

時折両親や姉から、近況を訪ねる手紙が届く事はあったが、遊びにおいで、とか、偶には帰っておいで、と言う言葉は無いのは、そういう事なんだろう、と一人納得していた。

そしてベラが針子となって2年目の夏。
ベラの故郷は夏特有の大嵐に襲われた。

容赦なく降り続ける雨に、増水した川はあっけなく決壊し、ベラの故郷は荒れ狂う水の流れに沈んでしまった。

知らせを受け、故郷に向かったベラを迎えてくれたのは、土砂に埋もれた屋敷の屋根の風見鶏だけだった。

優しかった両親も、やんちゃで生意気だった弟も、何処にもいない。

姉が嫁いだ伯爵家も、押し寄せた川の水に流され、跡形もなくなっていた。

生き残った領民たちと一緒に、行方の分からない人達を探し回ったが、結局家族の遺体は見つからなかった。

空っぽの柩を前にした葬式は、泣いて良いのかも分からず、只々むなしさだけを噛締めていた。

しかし、ベラは子爵家の最後の生き残りとして、領民の暮らしに責任がある。

領地運営など習ったことが無いベラだったが、生き残った人達の助けを借りながら、領地を復興させようと頑張った。

だが、荒れ果てた領地の復興は、年若く経験の無い娘の手に負えるものでは無く、ベラは救済を求め、王家に何度も嘆願書を送り続けた。

しかし、王家からの支援の知らせは来ることは無く、秋の収穫は絶望的。
このままでは、やがて来る冬を越す事も出来ない。

このままでは、皆の命まで危うくなってしまう。
ベラは領民たちに頭を下げ、どうか他の土地に移り住んで欲しい、と頼むことしかできなかったのだ。

そんな希望も何も無い状態のベラに、救いの手を差し伸べてくれたのが、キャニスだった。

キャニスは、王家へ治める税を肩代わりしてくれただけでなく、王家に見捨てられた土地を買い取り、領民たちを雇って賃金を払い、土地の復興に努めてくれた。
更に食料も、自身が持つ商会の備蓄を無償で分け与え。
多くの領民とベラの命を救ってくれたのだ。

キャニス自身は一度も、子爵領を訪れたことは無かったが、それでも痒いところに手が届く支援に、ベラは神の存在を感じたのだ。

自分は与えられるばかりで、神の様に慈悲深いキャニスに何も返すことは出来ない。
ならばせめてもの感謝の印として、ベラはキャニスへ精一杯の心を込めた感謝の手紙を送ったのだが、ある日神のような存在のキャニスから返信が届いた。

その内容は、自分の侍女として働く気はないか。と言う誘いだった。
一も二も無くベラはこの申し出を受け。以来、神の如きキャニスの為に、貴族としてのマナーや教養、その他諸々を学びながら、誠心誠意、心優しい主に仕えて来た。

それなのに、今自分の命より大事な坊っちゃんが、たった一人で苦しみ、荒れ狂っている。

恩を返すどころか、自分は主の苦しみに、寄り添う事も出来ないのか?

ベラは頬を涙で濡らしながら、キャニスの元へ駆けつけようと、必死でドアを叩き、ドアノブをガチャガチャを揺さぶっていた。

「坊ちゃん!!坊っちゃん!!開けて下さい!!私ですベラです!!」

しかしキャニスの返事は無く、代わりに何かが激しく壁に当たる音だけが返って来た。

「坊ちゃん!!お願いです!!ドアを開けて下さい!!」

子供の様に泣きながら、キャニスの名を呼ぶベラの肩を、誰かが優しく抱き寄せた。

「ベラ?いい子ね。落ち着きなさい」

「お・・・奥様あぁ。坊ちゃんが、坊ちゃんがぁ」

夫人は取り出したハンカチで、ベラの涙を拭い、優しく背中を撫でた。

「わたくしが来ましたからね、もう大丈夫。でも危ないから、ベラは下がって居なさいね」

「でも!!でもぉ~」

「あらあら。まだ泣き足りないの?こんな可愛い侍女を泣かせるなんて。あの子もまだまだね」

ニッコリと微笑んだ夫人が、取り出した扇子を一振りすると、ピタリと閉ざされていたドアが、内側にはじけ飛んで行った。

「おく?奥様?」

「うふふ。わたくしこう見えて魔法は得意ですの。それに癇癪を起した子供を、大人しくさせるのもね」

そう言うと公爵夫人は、何事も無いように気楽にキャニスの部屋へ入って行ったが、中を覗き込んだベラは、その場に足が縫い付けられたように動けなくなった。

ベラが心を込めて整えた部屋は、まるで竜巻か嵐が通り過ぎたように、物が飛び散りめちゃくちゃになって居る。

そして今も、部屋の中に置かれていた、本・椅子・花瓶・作りかけの魔道具。

有りと有らゆる物が、宙に浮かび部屋の中を飛び回っていた。

そしてその中心で、溢れ出す魔力に髪を嬲られ、悄然とキャニスが立っていた。
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