氷の華を溶かしたら

こむぎダック

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32話

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「私は大丈夫です。シエルこそ私に触れては、衣装が汚れてしまいます」

「そんな事はいい。早く着替えないと」

「本当に問題ありません」

頬に置かれたシエルの手を、そっと退かしたキャニスは、床に落ちたグラスを拾い上げた。

「キャス?」

不思議そうに見つめるシエルに一つ頷き、ワインでずぶぬれになったサイラスの軍服に当てた、キャニスの手が淡く光った。

すると軍服に染み込んだ、ワインがキャニスの手の中に吸い出され、その揺らめく赤い球を、キャニスは手にしたグラスの中に注ぎ入れた。

呆気に取られるシェルビーを他所に、キャニスは自身にも同じように魔法を掛け、服と髪を乾かしてしまった。

「キャス。今のは?」

「水の魔法の応用です。ただ染みと臭いが消せないのが、難点ですね」

キャニスが言う通り、クラバットの赤い染みと、アルコールの臭いはそのままだ。

色の薄くなったワインが入ったグラスを、キャニスは手すりの上に置いた。

「キャニス。とにかく部屋に戻ろう」

「はい」

シェルビーに手を取られ、テラスを出ようとした二人の前に、顔面蒼白のモンテ侯爵が立っていた。

「でっ殿下!!我が娘が!大変!大変申し訳ございませんでした!!」

「モンテ候。謝る相手を間違えている。其方は私の婚約者となる人を、軽く見ているのか」

「そんな!滅相もございません!!キャニス様!この度は娘が!ジューンが仕出かした御無礼をお詫び申し上げます!!」

膝に顔がつく勢いで頭を下げたモンテ候に、向けられるキャニスの視線は何処までも冷静で、その冷静さが氷の如き冷たさを感じさせた。

「モンテ侯爵。私は止めようとしましたが、御令嬢の発言で、今回の事は私だけの問題ではなくなってしまいました。私とカラロウカから正式な抗議文を送らせて頂きます。侯爵の誠意あるご対応を期待して宜しいですね?」

「もっ勿論でございます。ですのでカラロウカ公爵様には、なにとぞ穏便にと、お執り成しをお願いいたします」

「父の判断に私は口出しできません。カラロウカ家への謝罪と交渉は、父と直接行ってください」

「はっはい!!仰せの通りに!」

「侯爵。あなたはこれまで、御令嬢とどうやって接してきたのですか?」

「どうとは?・・・それは普通に」

「普通の定義がどんなものか、私には分かりません。ですが甘やかすばかりで、人として大切な事を教えないのは、虐待と同じではないでしょうか」

「虐・・・待・・?」

「モンテ候。ジューン嬢のこれまでの行き過ぎた行動も、幼さ故と見逃して来た。しかしデビュタントも済めば、大人と同じ責任を持つ。今回のジューンの行いは、王家の決定に背いた事になる。正式な沙汰が出るまで、その事を娘に良く言い聞かせる事だ」

「仰せのままに」

モンテ侯爵は、ぎりぎりと奥歯を噛んだ鬼の形相を、深く頭を下げる事でシェルビーの眼から隠した。

シェルビーのエスコートを受け、目の前を通り過ぎるキャニスの靴を見ながら、絶望とそれを上回る憎しみと怒り、その全てがキャニス一人へと向かっていた。

長年の苦労が、先祖代々積み上げて来たものの全てが、愚かな娘の行いで全てが崩れ去ろうとしている。

 この男が現れさえしなければ。
 
しかし、憤死寸前の侯爵の頭に、キャニスの静かな声が、浮かび上がった。

 ”甘やかすばかりで、人として大切な事を教えないのは、虐待と同じではないか”

 自分は、娘へ侯爵家の令嬢として必要な、知識と教養は詰め込んだ。
 それ以外に、自分は娘に何をしただろう?
 家族としての愛情をかけただろうか?
 娘と共に過ごす時間を持った事も無い。
 好きなだけ着飾らせ、全ての我儘に応え。
 ただ只管、王太子妃になれ。
 必ず王太子妃にしてやる。としか言ってこなかった。
 
 私は一度でも娘に愛している、と伝えた事が有ったか?

 王太子妃の座は、愛する娘を幸せにしたいからなのだと、伝えた事が一度でもあったか?

侯爵は、キャニスの言う通りだと思った。
 
 全て私が間違っていたのだ。
 誰かを手に入れろ、と強要するべきではなかった。
 娘が心から愛し、愛される相手を見つけられるよう、見守るべきだった。

この時侯爵は、歴史ある侯爵家の未来が、閉ざされる音が聞こえた気がした。
  

******


「キャス。本当にすまなかった。俺が目を離したばかりに、君に嫌な思いをさせてしまった」

「殿下。謝罪はもう結構です。これ以上はお気になさらず」

「しかし」

「殿下。すでに両陛下からも謝罪の言葉を頂いております。後は、私とカラロウカ、モンテ侯爵家の問題です」

舞踏会から一夜明け、シェルビーはキャニスが宿泊している貴賓室に、謝罪の為に訪れていた。

帰宅の準備をするベラから邪魔だと言われ、シェルビーとキャニスは、部屋の隅のティーテーブルで、お茶の最中だ。

ティーカップ片手に、シェルビーの心からの謝罪を、淡々と受け流すキャニスに、シェルビーはへにょりと眉を下げ、頭を抱え込んでしまった。

「うう。まさかジューンがあんな行動に出るとは」

「そうですね・・・ワインがなみなみと入ったグラスを見た時は、もしやとは思いました。ですが、あんな嫌がらせは、物語の中だけだと思っていたので、本当にワインをかけられるとは思いませんでした」

「キャニス・・・」

「殿下が仰った通り、オセニアの社交界は戦場ですね」

納得したと頷くキャニスに、シェルビーは慌ててキャニスの手を取った。

「キャニス誤解しないでくれ。あれはそういう意味で言ったんじゃない。普段はもっと穏やかだし、滅多に揉め事もおこらんのだ」

「そうなのですか?次からは自動反撃機能の付いた、魔道具を身に着けて行こうかと思っていました」

「自動反撃機能?そんな便利な魔道具があるのか?」

「はい。とある伯爵家の御令嬢から、護身用にと注文が入りまして、今は試作の段階です」

「なんでそんな物騒なものを。伯爵家の令嬢に必要なのか?」

男爵や子爵家なら、市井へ出る機会も多く、無頼漢に絡まれる事も有るだろうが、伯爵家以上なら、護衛や侍女を常に帯同し、危険な目に合う事もほとんどない筈だ。

「彼女は慈善事業に力を入れているのです。その為、治安の良くない場所に出向く事も多いそうで、護衛を連れていたにも関わらず、一度危険な目に合われたそうなんです。ですが、護衛の数を増やすと、支援している養護員の子供達を怖がらせてしまうから。という事でした」

「なるほど。それでその反撃はどの程度の威力なんだ?」

「注文では、受けた攻撃と同等の魔法での反撃と、相手の拘束。なのですが・・・」

「どうした?」

「この調整がなかなか難しくて、まだご希望に添えていないのです」

「ふ~ん。いつもはどうやって試している?」

「私が身に着けて、騎士に攻撃して貰っています」

「はぁ?キャニス自ら実験台になって居るのか?」

「ええ。まあ。その方が調整個所を確認しやすいので」

「理由は理解できるが、それで怪我をしたらどうするつもりなんだ?」

「念の為、防護魔法をかけて居りますので、私が怪我をする心配は無いと思います」

この話にシェルビーは、顎を摘まんで考え込んだ。

「殿下?」

「・・・なあ。それって、防護魔法を掛けているから、調整がうまく行かないのじゃないか?」

「何故そう思うのですか?」

「いやな。その御令嬢は防護魔法を自分でも掛けられないし、周りにそういう人間が居ないから、キャニスに注文してきたんだろう?だったら魔法無しで、確認する必要があると思うのだが」

「なるほど」

「俺もその道具に興味が湧いて来た。今度一緒に実験してみよう」

「それは構いませんが」

「じゃあ決まりだな」

キャニスとの次の約束を取り付け、たちまちご機嫌になる、シェルビー殿下なのでした。
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