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ヴァラクという悪魔

裏切ったのは

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 崩れ落ちたヴァラクの体から解放された瘴気が、地下水脈に抜ける竪穴に吸い込まれていった。

 肉体を捨て、瘴気に紛れた・・・のか?

「うそだろ。言うだけ言って逃げやがった」

 暗器を片手に、ロロシュは苛立ち紛れに髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜている。

「此処まで追い詰めて、また振り出しとか、冗談じゃねぇぞ」

 全く以ってロロシュの言う通りだ。
 
 散々苦労した挙句にこの様とは。
 
 逃げたと言うには、違和感があるが、実体を失ったものを、どう追跡すればいいのか。

 母と兄の狂気に動揺した。
 ヴァラクの弱りきった姿に油断した。
 まさかこんな形で逃げられるとは思わなかった。

 言い訳ならいくらでも湧いてくるが、全ては俺の不手際だ。

 自責の念はあれど、目の前で俺に剣を向ける人物に、それ以上の怒りが湧いてくる。

「自分が何をしたか、分かってるのか?あいつを逃したら、また無辜の民が犠牲になるんだぞ!」

「罪ならある!! マイオールを蹂躙し、マシューを奪った国の奴らなど、どうなろうと知ったことか!」

「今更愛国心をひけらかすなよ。そのマイオールも犠牲になってるぞ」

「マシューを帝国に売り渡した奴らだ!どうなろうと構わん!!」

 炯々と光る目の底に見えるのは、俺に対する憎悪だ。

「ねぇアレク。お願いだ。退位もする。罪を贖えと言うなら、一生この牢獄に閉じ込めたって構わない。でもオルフィーだけは奪わないで!」

「駄目だ」

「どうして?!」

「お前達が抱えているモノは、マシュー様でもオルフェウスでもない。害をなす瘴気が詰まった、ただの傀儡だからだ」

 2人とも狂ってる。
 愛だと唱えれば、全てが正当化される訳でもあるまい。
 
 だが・・・俺もレンを失ったら、同じ様に狂うのか?

 いや。それはない。
 レンはそんなことを望まない。
 俺が後を追うことも許さないだろう。
 
 番が望まぬことを、俺は絶対にしない。

「もうやめて!!」

 涙に濡れた番の声が、耳を打った。

「その2人は本当に、マシュー様でもオルフェウスさんでもないんです」

「レンちゃん、嘘つかないで!」

「嘘じゃない! だって・・・だって儀式の時、2人の魂は使われなかった!」

 クレイオスの腕に縋り、涙で頬を濡らすレンの叫びに、ウィリアム達はギクリと体を強張らせた。

「・・・魂?」

「2人も見たでしょ?ヴァラクは私の中に、義孝様の魂を埋め込んだ。でも、マシュー様達の魂なんて、どこにも無かった!ヴァラクは2人を騙したんです!!」

「そんなの嘘だ・・・だって僕の名を呼んだのに・・・」

 ウィリアムの剣先が下がり、手から離れた剣が、音を立て床に転がった。

 力無く床に座り込み、腕に抱くモノの頬を愛し気に撫でるウィリアム手は、どこまでも優しい。

 レンの言葉を信じきれないのか。母の目は、俺とマシューの間をウロウロと行き来している。

「瘴気は浄化してあげなければ、ずっと苦しみ続ける、可哀想な存在なんです。だから、お願いです。もうやめて下さい」

 深く頭を下げたレンが溢した涙が、ポタポタと床を濡らした。

「私は・・・私は信じない」

 マシューの体を抱え直し、俺に剣と憎悪を向ける母上の瞳は、暗い闇に沈んで見えた。

 その時、虚空をぼんやりと見上げていた、マシューの体がビクビクと痙攣し、瘴気が満ちた眼孔が、ひたりと母に向けられた。

「リ・・・リリー」

「マシュー? 嗚呼!私が分かるのか?」

 歓喜に顔を輝かせた母は、瘴気の詰まった青白い頬に、口付けを落とした。

 その間も、マシューは記憶の中とは違う、嗄れた声で、ぎこちなく母の名を呼び続けた。

「見ろ!! これでもマシューではないと言うのか?!」

 勝ち誇る母の首に、マシューの腕が絡み、首筋に擦り寄る様に、青白い顔が寄せられ・・・・。

「グッ?! ガアァーーー!!」

 母に擦り寄ったマシューが、母の首に白い歯を立てていた。

「マッマシュー?!やめろ!やめてくれ!!」

 マシューの頭を掴んで引き剥がそうとするが、首筋に絡まった腕はびくともせず、喰らい付いた唇から、ジュウ と血を吸い上げる音がきこえた。

「母上っ!!」

「オルフィー!! あ”ぁっ!!」

 母を助けようと、踏み出した瞬間、ウィリアムの苦鳴が響いた。

「陛下!?」

「ウィリアムさん!!」

 レンとマークがウィリアムの元に駆け寄るのを目の端で捉え、俺はマシューの首を掴んで、母から引き剥がした。

「母上! 無事か?!」

 ガクリと片膝をつき、首筋を抑えた指の隙間から、鮮血が溢れ出ている。

「何故だ? マシュー・・・また私を裏切るのか?」

 首を掴んで吊り上げたマシューは、低く唸りながら、空を蹴って踠いている。

 急にどうしたんだ?
 
 まるでグールじゃないか。

 だが母は、とっくに冷静な判断が出来る状態ではなくなっていた。

「答えろマシュー!!」

「やめろ!!」

 鮮血に塗れ、狂気に支配された母は、手にした剣で、下からマシューの体を切り裂いた。

 とうの昔に死んでいるマシューの体からは、鮮血の代わりに瘴気が噴き出した。

 俺が手を離すと、マシューの体は床に頽れたが、直ぐにズルズルと母の元へ這い寄り始めた。

「貴方は何度、私を裏切るのだ」

 出血で白くなった唇を噛み、瞳孔が開き、表情を失った母は、何の躊躇いもなく、床を這うマシューの背中に剣を突き立てた。

「何をする?!」

 幾ら傀儡でも、こんなのは間違っている。

「ウィリアムを孕った時と同じだ。・・・ハリーと枕を共にし、子まで宿した。番である私を裏切ったのだ、仕置きが必要だ」

「しっかりしろ。あんたの番は上皇だ」

 肩を掴んだ手を、乱暴に振り払われた。

「私の番は、マシューだけだ」

 ビクビクと痙攣する体に、母はもう一度剣を突き立てた。

「やめろよ!」

 腕を背中に捻り上げ、剣を取り上げた。
 
 本当に頭がおかしくなったのか?
 毎晩の様に寝所に侍り、仕事を放って親父殿にベッタリだったのは、あんたじゃないか?

「ああ、私は・・マシュー!マシュー!!」

 自ら剣を突き立てた相手に、縋ろうと腕を伸ばす母を床に抑え込んだ。

「死にたくなければ、じっとしてろ」

 そこへ顔色を失くしたロロシュが、駆けて寄ってくる。  
 
「ロロシュ、治癒を頼む」

「・・・・分かった」
 
 鮮血に塗れた母の姿に息を呑んだロロシュは治癒を始めたが、悲壮感を浮かべる横顔が、手遅れだと告げている。

 塞がっていく傷より、流れ出す命の方が遥かに多い。
 
 譫言の様に、マシューを呼び続ける母を、このまま逝かせてやりたいのか、反対に助かって欲しいのか、俺には分からない。
 
「ウィリアムは?」

 見つめる横顔がヒクリと強張り、ただ首を振った。

「・・・・そうか」

 目を向けた先に、浄化の光が辺りを明るく照らしながら、虚空へ登って行くのが見えた。
  
「母上、言い残すことは?」

 光を失っていく瞳がウロウロと彷徨い、俺を見付ける事なく、微かな声で呟いた。

 残された言葉に、ロロシュの方が辛そうに奥歯を噛んだ。

 最後まで身勝手な人だ。

 喘鳴が細くなり、やがてゴロゴロと鳴っていた喉が動きを止めた。

 床に膝をつき、光の消えた瞼を閉じてやる。
 ただ1人の母を亡くした筈なのに、涙は出てこなかった。

 知らない者が見たら、横で両膝の上で拳を握り、涙を流すロロシュの方が、息子だと思っただろう。

 それほど、俺の心は少しも動かなかった。

「ロロシュ、泣くな」

「だってよぅ。親なのに酷ぇじゃねぇか。あんた悔しくねぇのかよ」

 グズグズと鼻を鳴らすロロシュを引っ張り、ウィリアムの元へ向かう。

 生まれてから今日まで、同じ時を歩んでいると信じていた兄は、生涯唯一を胸に抱き、旅立っていた。

 帝国の皇帝が、こんな牢獄の底で惨めに死に征くなどと、誰が考えただろうか。

 しかしその死に顔は、唇に薄らと笑みを浮かべ、満足そうに、幸せそうに見えた。

「アレク・・・ごめ・・・ごめんなさい。私間に合わなくて・・」

 嗚咽を漏らす番を抱きしめた。
 
「いいんだ。ウィリアムが望んだことだ」

 体を重ね横わる2人は、オルフェウスの背中からウィリアムの胸へと、剣が貫き通っていた。

 最愛と一つとなる為に、ウィリアムが望んだ姿だった。

 子供の様に泣きじゃくるレンを抱き上げ、その温もりに、ささくれ立った心が癒されていく。

 男泣きに暮れるロロシュを、マークが抱きしめ、シッチンも皇帝の最期に悲嘆に暮れたように跪いていた。

 静かに佇むクレイオスの横で、ヨシタカの傀儡が俯いている。

 嗚咽と慰めの声だけが重く垂れ込める中、ヨシタカの傀儡がハッと顔を上げ、クレイオスの袖を引いた。

「ねえ。 なにかおかしい にげて」

 それと同時に足元が揺れ、地響きが重く響き渡った。
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